第八場 どこまでも行ける切符

 中庭で突如始まった劇に校舎の窓から大勢の人たちが首を出す。

 このシーンはジョバンニとカムパネルラに台詞はない。表情と動きだけだ。先生の声は録音なので、生声での台詞は一切ないことになる。今のところ、美香は練習通りにできているように見える。

 チャイムが鳴り、授業が終わる。

 下手舞台鼻にジョバンニが立つ。母親との会話シーン。この母親の声も録音だ。


ジョバンニ「お母さん。いま帰ったよ。工合ぐあい悪くなかったの」


 大丈夫。美香の声は震えていない。滑舌も発音もしっかりしている。私は観客の視線がジョバンニに集中しているのを確認して、教室の前の窓に直行した。何度も練習したから、するりと廊下に入れた。

家のシーンの後、リス先輩の提案通り、ジョバンニは昇降口へ向かう。

 カムパネルラはザネリや取り巻きの仲間たちと一緒に二組の前の廊下でたむろしている。ジョバンニが廊下の向こうからやってくる。


ジョバンニ「ザネリ、烏瓜ながしに行くの」

ザネリ「ジョバンニ、お父さんから、らっこの上着が来るよ」


 馬鹿にしたようにはやし立てる仲間たち。その背後で「ケンタウルス、露をふらせ」と口々に叫ぶ声や星めぐりの口笛が聞こえる。ケンタウルス祭のエキストラを演じているのは食堂車の店員たちだ。


ザネリ「ジョバンニ、らっこの上着が来るよ」

仲間たち「ジョバンニ、らっこの上着が来るよ」


 はやし立てながら舞台袖として使っている劇場の脇に消えていく。その行列の最後尾をカムパネルラがついていき、ジョバンニの方を気の毒そうに見つめる。目が合う二人。

 私は真っ暗な劇場の中に入り、先に銀河鉄道のシートに座る。まだ観客の意識は廊下に向いたままだ。私がいることなんて誰も気づいていない。


「銀河ステーション、銀河ステーション」


 エコーの効いた声がしたと思うと、明転。銀河鉄道の客車にカムパネルラとジョバンニがいる。

 地明かりのため客席が丸見えだ。下手端にリス先輩とキリン先輩がいるのが見えた。なぜ観に来てくれたのかとかは深く考えない。ただ嬉しいなと思う。


カムパネルラ「みんなはねずいぶん走ったけれども遅れてしまったよ。ザネリもね、ずいぶん走ったけれども追いつかなかった」


 カムパネルラは全体を通して暗い感じでいくことにしている。感情をなるべく抑えて、淡々とした雰囲気を出す。それと対比するようにジョバンニは終始楽しそうにする。生者と死者を区別するためだ。


ジョバンニ「ぼくはもう、すっかり天の野原に来た」


 美香のジョバンニは無邪気だ。生き生きとキラキラとしている。練習の時もこんなに生命力に溢れていただろうか。緊張なんてこれっぽっちも見えない。

 学者、鳥捕り、燈台守たちと次々に出会う。


燈台守「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから」


 ほんとうの幸福、幸せ、幸い。ただそこを目指すだけ。一歩一歩進んでいくしかない。ジョバンニやカムパネルラはこの燈台守の言葉をどのように受け止めるのだろう。際立たせる台詞ではないから、受けの演技としての大きな動作や表情はつけていない。けれど、この台詞はいつも私の心の奥まで響いてくる。

 やがて他の乗客たちはサザンクロスで降りてしまう。残されたジョバンニとカムパネルラ。

 地明かりの教室の蛍光灯が消され、スポットライトの明かりがステージを照らす。


ジョバンニ「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸(さいわい)のためならば僕のからだなんか百ぺん灼(や)いてもかまわない」

カムパネルラ「うん。僕だってそうだ」

ジョバンニ「けれどもほんとうのさいわいは一体なんだろう」

カムパネルラ「僕わからない」

ジョバンニ「僕たちしっかりやろうねえ」


 美香はどういうつもりでこのシーンを演じているのだろう。私はどうしてもここだけはカムパネルラとジョバンニではなく、私自身と美香の会話に感じて仕方がない。

 原作の小説では「カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。」とある。それを忠実に表現するつもりなんてなかったけれど、自然と私の目には涙が溢れ、ひとつ瞬きをすればポロリと零れ落ちそうに膨らんでいた。

 スポットライトは徐々に絞りを強くし、ジョバンニだけを浮き上がらせていく。私はそっと明かりの輪の外へ外れ、舞台袖代わりの暗幕の裏へと滑り込む。


ジョバンニ「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ」


 ジョバンニがこう言いながら振り返ると空のシートがあるばかり。ジョバンニは激しく泣く。

スポットライトは極限まで絞り、細い点のようになった明かりはついに消え――暗転。

 暗転の間に客車のセットには全て黒い布をかける。

 明転になった時には真っ黒の背景の中にジョバンニがひとり佇んでいる。河原では溺れた子供がいると大騒ぎになっている。このシーンもジョバンニ以外は声だけだ。


ジョバンニ「何があったんですか」

大人「こどもが落ちたんですよ」

ザネリの仲間「ジョバンニ、カムパネルラが川へはいったよ」

ジョバンニ「どうして、いつ」


 そして、川に落ちたザネリを助けてカムパネルラが流されたことを知る。

原作ではカムパネルラの父親と話した後、胸がいっぱいになって母親の待つ家へ帰るところで終わる。

 そのシーンを私たちはオリジナルに変えた。


ジョバンニ「ほんとうのさいわいは一体なんだろう」


 ジョバンニは客席の上の方を見上げて語りかける。銀河鉄道の中で最後にカムパネルラと交わした会話の再現だ。

 それに応えるカムパネルラの声。


カムパネルラ「僕わからない」


 もちろんこれは暗幕の裏から私が言っている。録音ではない。


ジョバンニ「僕たちしっかりやろうねえ」

カムパネルラ「……」

ジョバンニ「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ」


 私たちは演劇をしっかりやろう。一緒にやろう。「ほんとうのさいわい」がなにか見つけるまで。私たちはどこまでも行ける切符を持っているのだから。


 遠くで「銀河ステーション、銀河ステーション、お乗り遅れのないようご注意ください」と聞こえている。


 そして――暗転。終幕。



     *



 狭い教室に拍手の渦が起こり、空気の振動が肌を刺激する。

 私と美香をセンターにして出演者全員でカーテンコールに応える。なぜかリス先輩とキリン先輩が号泣している。拍手の大きさに何事かと覗きに来た人たちで廊下が騒がしい。


 美香とつないだ手を挙げる。


「ありがとうございましたっ!」


 拍手が更に大きくなる。


 今なら、銀河鉄道でさえ行けないような遠くまで行ける気がした。




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