第七場 カウントダウン

 私はステージに立っている。美香とふたりきりのシーンだ。


 地明かりの許、少年の恰好をした美香が目に映るもの全てに感動して声を上げている。キャスケットの中に髪の毛を押し込んでいるから、後れ毛が照明で光っている。オーバーオールの胸当てに両手を突っ込み、大きくターンをしてこちらを見る。満面の笑顔だ。


「ぼくたちも降りて見ようか」


 美香と目が合う。


 心臓がヒヤリとして、いくつもの氷を飲み込んだように息ができない。


 美香の笑顔がスッと冷える。だけど、それは一瞬で、すぐに楽しそうな笑顔に戻り、明らかにアドリブだとわかる台詞をいくつか発する。そして、再び振り返る。


「そうだよね、カムパネルラ」


 笑顔がぎこちない。私の瞳の奥を探るように、私の心に訴えかけるように、強い視線を送ってくる。私が台詞を思い出したかを確認しようとしている。


「……うん。そうだろうね」


 投げかけられた台詞に対応する言葉を必死で選んだ。


 本来、日常の会話とはそういうものだ。言葉のキャッチボールと言われるが、私はジクソーパズルのピースを探し当てる作業に似ていると思っている。


 このピースはうまくはまっただろうか。

 美香の表情に失望の色が浮かんだ。

 ハズレだったんだ。


 日常会話はキャッチボールだったり、ジクソーパズルのピースだったりするけれど、脚本に書かれた台詞はそうではない。初めから組み上がっているものを、いかに今思いついた言葉のように言うかにかかっている。


 台詞どころかこの場から一歩も動けないでいる私を見る美香の目が揺れ始めた。本格的に危機的状況になっていることに気が付いたようだ。


 ステージの上は今ここに立っているキャストだけのものだ。劇を作り上げるのはスタッフや出番待ちのキャストも全ての人たちだけど、動き出した劇はもうステージの上だけのものだ。


 何者にも立ち入れない別空間だ。

 異次元だ。

 この世にある異世界だ。


 私は自分の台詞がわからない。

 役どころもわからない。

 この劇のストーリーさえもわからない。


 なぜ私はここに立っているのだろう。なぜ衣装らしき少年の恰好をしてスポットライトを浴びているのだろう。


 気持ちいいはずのこの時間が、ひどく恐ろしい時間となっている。


 なにかヒントになるものは? 舞台袖に行けばスタッフがいて、脚本を見せてもらえるだろう。瞬時に台詞を覚えるのは無理でも、急いで読めばストーリーはつかめるだろうか。

 けれども、この役は今ハケても不自然ではない場面だろうか? 


 わからない。わからない。なにもわからない。


 なのになぜここにいるのだろう。


 いや、今はそんなことより、この場を乗り切ることだ。私自身の行動や言葉を出してはいけない。役としてアドリブでなんとかヒントを得なければならない。

 でも、肝心の役どころがわからない。見当もつかない。


 私がこの劇を壊してしまう。たったひとりのせいで劇全体が霧散してしまう。


 怖い。怖い。怖い。


 身体中が心臓になったかのようにドックンドックンと大きく脈を打っている。


 冷たい。冷たい。


 身体の芯から氷よりも冷たく凍っていく。このままここで凍ってしまう。

 いっそ凍ってしまえば、しゃべれなくなって、動けなくなればいい。そうしたら言い訳になるだろうか。


 美香が一人で取り繕うとしている。ストーリーすらわかっていない私にも美香の台詞や動きが明らかに場にそぐわないことがわかる。舞台袖がバタバタしている。ようやくスタッフがステージ上で起きている異常事態に気付いたようだ。観客がざわつき始めた。おかしいと気付いたのだろうか。


 壊れる。劇が壊れる。


 私一人のせいで。フォローもできないまま。


 壊れるならまだましなのかもしれない。壊れて崩れた後には瓦礫が残るから。そこには確かになにかがあったという証になるから。

 でも、きっとこのままでは消えてしまう。誰かがろうそくの火をフッと吹いて消してしまうように、跡形もなく消えてしまう。


 今の私のようになにもない無の状態に――。







 ――!


 アラームに目を覚ますと、肌寒いこの季節にパジャマがしっとりするほどの汗をかいていた。


 ……またか。


 発表の前は必ずこういう夢を見る。台詞を飛ばすとかそんなかわいいレベルの夢ではない。取り返しのつかない、一瞬で世界が消えてなくなってしまう夢。


 でも、よかった。この夢は私にとって厄落としだ。これで絶対に失敗はしない。あったとしてもアドリブで収拾がつく程度のトラブルだ。今までもずっとそうだった。


 むくりと起き上がる。ここは現実世界だ。もう大丈夫。

 とりあえず顔を洗おう。

 立ち上がり、両足で床を踏みしめる。深呼吸をする。私は大丈夫。


 胸の動悸だけが夢の世界とまだつながっていた。



     *



全員集合ぜんしゅう!」


 入江が今はステージになっている教壇のあった位置で全員集合をかける。スタッフ、キャストがぎゅうぎゅう詰めになる。教室の前半分は銀河鉄道の車両を縦に切り取った車内、後ろ半分は雛壇になった客席にしてあるから、人の立てる場所は限られている。


「あと一時間で文化祭が始まります。食堂車はオープンしているけど、劇場は十二時の開場だから、それまではここを楽屋として使います。部外者が間違って入ってこないように、駅員はしっかり見張ってください」

「はい」


 駅員の衣装を着た男子が二人、声をそろえる。


「照明と音響は問題ないよな?」

「オーケーでーす!」


 黒のTシャツの集団が手を挙げる。

 照明はスポットライト一台だけだ。この広さではそれが限界だった。もちろん、演劇部の備品。

 音響は擬音担当とBGM担当にグループ分けされている。擬音は主に鉄道の音であるため当然例の彼らだ。BGMは楽器の扱える人たちが演奏したものを録音してある。普通はBGM集とか既存の曲から選んだものを必要な長さにして録音し直すのだが、それなら初めからその長さで作ってしまえばいいということになった。


 当日が山場となるのは、キャスト、照明、音響、舞台監督くらいだ。あとのメンバーは成功を祈ることしかできない。衣装や小道具、チラシやチケット作りもそれぞれが得意分野を生かして重要な役割を既に果たし終えている。


 教室の壁の外側は、鉄道の外観になっている。窓以外の壁全体に模造紙を張って描かれた絵だ。窓はそのまま車窓になるように位置を調整してある。これは美術部の麻利亜をリーダーとする美術さんたちの力作だ。食堂車と劇場で二両編成の鉄道に見えるように描かれている。


 廊下の壁と天井は銀河の絵以外ありえない。絵のところどころに穴を開け、裏側に豆電球を差し込んである。いくつかの星は瞬くようになっているのだ。


「それでは、開場の十二時になる前にもう一度全集かけるので、よろしくお願いします」


 入江が締めると、全員で復唱する。


「よろしくお願いしまーす!」


 カウントダウンが始まった。


 スタッフはそれぞれの仕事のため、教室を出たり入ったりしている。


 キャストは今はもうヨレヨレでクルクルの筒状に丸まった台本を手にブツ切り稽古をしている。必要なところだけ取り出して練習するブツ切り稽古は、本当なら今更やってもどうにもならない。直すところがあったとしても、舞台慣れしていない人が当日になって動きや言い回しを変えられるとは思えない。だからただの復習なんだと思う。それすら意味がない気もするけれど、きっとじっとしていられないのだろう。その気持ちはよくわかる。


 私と美香はそんな彼らの邪魔にならないように客席の隅でじっとしていた。

演劇部の発表前とは明らかに違う雰囲気なのに、このドタバタした空間がひどく落ち着く。演劇を作る空間にいるんだ、と実感する。それだけで目の奥が熱くなる。


 一般客が入場するとのアナウンスが入り、校内がザワザワし始めた。作業や練習をしていたクラスメイトもそわそわし始める。まだ早いが衣装に着替え始める人もいる。誰もかれもが余計な動きが増えて落ち着かない。


 ふと、隣に座る美香が震えているのに気が付いた。


「ちょっと、美香、大丈夫?」


 肩に手をやると、その震えからものすごい恐怖感が伝わってきた。


 ――そうか。すっかり忘れていた。


「美香」


 静かに声をかける。でも、なんて続ければいいのだろう。


「がんばろう」? 「気楽にいこう」? 「きっと大丈夫だよ」? ……どれも違う。だって、私だったらそんな言葉ではこの恐怖からは解放されないから。

 仕方なく私は「衣装に着替えておこうか」と促すに留めた。美香は弱々しい笑顔で頷いて、一緒に準備を始めた。



 会場三十分前に最後の全集があり、最終確認が行われた。十五分前にスタンバイの合図がかかり、私と美香、そして学校の先生の声を音声で流す音響さん二人の四人だけが中庭に向かった。

 中庭に着いてスタンバっていても、美香は真っ青な顔をして震えている。


「開場します」


 廊下の窓から中庭に向かってスタッフが声をかける。私たちは了解の印に片手を挙げる。


 上手くやろうとするから緊張するんだという。だったら、上手くやろうとは思うなというのだろうか。そうじゃない。やるからには上手くやりたいと思うし、それはいくら練習したとしても満足はいかない。


 もっと上手く、もっと感動を、もっと拍手を、もっともっと……。


 高望みなのかもしれない。実力以上のものを望んでいるのかもしれない。だから緊張するのかもしれない。だとしたら、もう仕方がない。だって、少しでも上を望むのは当然のこと。練習がピークとは思いたくない。でも練習でできなかったことが本番でできるものか、とも思う。


 ただ、本番には練習にはないものがある。観客だ。目の前で反応があるというのは大きい。ただ、これがプラスになるかマイナスになるか……。

 これも緊張の原因のひとつなのだろう。緊張してもいいことはなにもない。固くなってミスが起こりやすくなるだけだ。

 でも、本当にそうだろうか。集中力が増してよりよい演技ができることもあるんじゃないだろうか。緊張がよくないとは私は思わない。


 美香は緊張のあまり県大会の主役の座を放り出したことがある。それは無責任だし、絶対に許されないことだ。

 だけど、他校の劇だからというだけでなく、無理もないと思ってしまう。無責任なことだけど、責任の重さを感じすぎたからこそ緊張が大きく膨らんでいったのだと思う。矛盾する言い方になっちゃうけど。


 演劇がどんなに多くの人の思いと努力でできているかを意識すればするほど、その重みに耐えられなくなる。

 失敗したくない、上手くやりたいというのは誰のためなのか。自分のためだけなら、多少のミスは諦めがつく。そりゃ悔しいけど、自分のせいだもん。だけど、みんなで築き上げてきたものを自分のせいで崩してしまったとしたら……? そんなことを考えてしまったら身動きがとれなくなる。

 美香は、自分がステージに立てるのは表に出ない大勢の人たちがいるからで、自分はその代表として表に出ているに過ぎないと自覚しているからこそ緊張するんじゃないだろうか。


「開演五分前!」


 窓から声がかかり、私たちは手を挙げて応える。


 美香が過呼吸を起こしかけのように肩で息をし始めた。まずい。これは本格的にまずいぞ。


「美香」


 声をかけるが反応がない。


「美香ってば」


 今度は軽く肩を揺すってみる。とろんとした視点の定まらない目が私の顔をとらえようと小刻みに揺れる。


「美香、私ね、この緊張が好きなの。もうこのまま呼吸が止まってしまうんじゃないかと思うほどに心臓がドクンドクンして、喉元まで脈打つくらいの緊張が大好きなの」


 これは中学の時に瑞希が私に言った言葉だ。

 美香が驚いて見開いた目でじっと私を見る。もう瞳は揺れていない。


「手足が震えて姿勢を維持できないくらい、気を失いそうなくらいの緊張がたまらないの。恍惚とするくらいの快感だといってもいいかも」


 あの時はわからなかった瑞希の気持ちが、今ならわかる。

 私は最後にニヤリと笑って舌を出す。

 美香が眉間に皺を寄せる。


「……マゾなんじゃないの?」


 なんとでも言え。私も瑞希のことをそう思ったし。


「ま、どうせ緊張するなら快感の方がいいでしょ」


 私はそう言いながら、美香の手を取り、自分の胸にあてる。緊張でドクンドクン力強く鼓動する心臓を感じられるように。


「私もこんなに緊張しているよ。もう吐きそうだし」


 ウップとえづく振りをすると、美香はまたもや嫌そうな顔をした。


「うえっ、やめてよね」


 しゃべれれば大丈夫。きっと。


「……私は、美香と一緒にできるから怖くはない。緊張も快感になるの」

「梢……」

「だから、一緒に楽しもう?」

「……うん」


 開演のベル代わりの銀河鉄道の発車音が鳴り響いた。




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