またこの舞台で会おう――風間瑞希(高校一年)
「撤収!」
「はいっ!」
私はテッカンが降りてくるのを待たずに、舞台奥に吊るされている背景代わりの紗幕の端を手前に引き出していく。
20分後にはブラスバンド部の発表が控えているから、急がなければならない。演劇部のバラシだけではなく、ブラバンのセッティングもあるから、実質10分未満での完パケとなる。
私はテッカンに結ばれた紐を高速で外していく。バラシの時間短縮のための練習も幾度となくこなしてきたから、我ながら気持ちいいくらいにスムーズに作業が進む。
紐を全て外し終えると、照明・音響室のガラス窓を見上げ、両腕で大きな丸を作る。するとたちまちテッカンが天井に上っていく。
舞台上で腑抜けになっている紗幕を腕に巻きつけるようにくるくると畳んでいく。あとできちんと畳み直すからとりあえず持ち運べる大きさにまとまればいい。
反物のようになった紗幕を両腕に抱えてから、紐が数本落ちているのを見つけた。鉄管から外す時に紗幕の鳩目から抜けてしまったらしい。拾うために再び紗幕を床に置こうとしたら、さっと手が伸びて紐を拾い始める姿があった。
「拾っておくから、先に行っちゃっていいよ」
同じ一年生の澤田カリンだ。小道具を詰め込んだ紙袋に拾い上げた紐を放り込んでいく。
「ありがとう。じゃあ先に行ってるね」
私は紗幕を抱え直して出口へと向かう。
本校舎へ向かう渡り廊下を歩いているとき、視界の隅に私服姿の女子高生の姿を捉えた。私服なのに女子高生とわかるのは、それが親友の姿だから。
「梢!」
思わず名前を呼ぶと、懐かしい顔がこちらを向いた。
吸い寄せられるように駆け寄りながら、私たちふたりの間に透明な膜が張っているようなイメージが湧きあがってくる。
親友――果してそう呼んでもいいのだろうか。中学を卒業してから5月末の今日までなんの連絡もしていないのに。
連絡できなかった。なにを離せばいいのかわからなかった。なんて言えばいいのかわからなかった。中学では演劇の話しかしてこなかったから。
演劇の話なら誰よりも語り合った。私たちは親友とは違うのかもしれない。同士。そんな言葉が頭をよぎる。
けれども違う高校に進み、共に演じることができなくなった私たちは何を語ればいいのだろう。思わず駆け寄ったものの、かける言葉ないことにようやく思い至る。
「来るなら連絡してくれればよかったのに」
当たり障りのない言葉を選んだつもりが、突き放すような、責めるような色合いを帯びてしまう。
黙って勝手に来ないでよ。そう言っているみたいじゃん。会いたくなかったわけじゃないのに。会いたいけど会えなかっただけなのに。
「うん、ごめん」
案の定、梢は苦笑いを浮かべて手刀を切る。
「やだ、謝ることじゃないじゃん。――観てくれたの?」
「あー……それが、ちょっと」
梢はなぜか返事に困って言いよどむ。すると、かわいらしい感じの子がすっと梢の横に並んだ。
「すみません。私、始まった途端、気分悪くなっちゃって。ずっと付き添っててもらったんです」
高校の友達だろうか。一緒に劇を観に来たということは演劇部の仲間? ううん。そんなはずはない。だって下郷高校の演劇部は――。
いや、今はそんなことよりもこの人が心配だ。血の気の失せた青白い顔をしている。ちっとも大丈夫そうではないけれど、ほかにかける言葉も見つからないので「大丈夫ですか?」と声をかける。
「はい。もうすっかり。ちょっと貧血気味で」
その人は弱々しい笑顔で答える。
えっと、この人、前にどこかで見たような……?
「あれ? 美香じゃん」
背後から追い付いてきたカリンの声が聞こえ、私たちは一斉にステージ脇の出口を見る。カリンは小道具を入れた紙袋を両手に提げ、のしのしと歩いてくる。
「なになに? 美香ったら、うちの劇を観に来たの?」
美香ちゃんっていうのか。なるほど、カリンと知り合いらしい。ふと気づいて、カリンのことを訝しげに見る梢にそっと耳打ちする。
「ほら、一中の主役」
梢は声に出さずにうんと頷く。
カリンを初めて見たのは、中学校の県大会だった。演劇強豪校といわれる一中の舞台を私と梢は並んで客席から観ていた。
圧倒された。カリンの演技はとても代役とは思えないくらいに他のキャストたちとバランスがとれていた。
カリンはずっと会っている友達みたいに話しかけるけれど、美香ちゃんはうつむいたまま声を発しない。そんなに具合が悪いのだろうか。
「ちょっと、美香ってば。聞いてるの?」
カリンはイラついたような低い声を出す。でも本当は――
「そっか。観れなかったんだ」
カリンは苦笑する。
そこでようやく気付いた。この子、中学の県大会で本番を投げ出した子だ。カリンの代役とは思えない堂々とした立ち姿がまた思い起こされる。
「もしかして美香ったら、無理して観ようとして、具合悪くなったとか?」
「ちょっと、それ、どういう……」
梢が売られた喧嘩は買うぞみたいな剣幕で、食い付いてきた。
ちがう。そうじゃない。梢を止める前に、離れたところから声がかかった。
「ほら、一年。さっさと片付けなさい!」
萌先輩だ。
「ごめん梢、また今度」
私はカリンの腕を取って校舎に入る。
今度……なんてあるんだろうか。私は梢に会わせる顔があるんだろうか。
校舎に入った途端、ドアの陰にカリンが座り込んだ。
「なんで……」
私は隣に座って、カリンの背中をなでた。
「なんで美香は演劇部のない高校に行っちゃったんだろう……」
カリンは体育座りをした膝頭におでこを押し付けて丸まっているから、もごもごとこもった声が聞こえた。
美香ちゃんのことはカリンから聞いたことがある。本番直前の緊張に耐えきれずに逃げ出した子がいるって。でも舞台経験の少ないのに県大会の主役なんて荷が重すぎる。しかも強豪校として知られる一中だ。逃げたくなってもおかしくない。
だからサブキャストだったカリンは完璧に覚えた。美香ちゃんの演技を。あってはならない――あるはずがないもしもの時のために。自分の演技を捨てて。
サブキャストはメインキャストのコピーだ。そうでなければ相手役のリズムが崩れるだけじゃない。劇全体のバランスが崩れる。だからカリンは完璧なサブキャストとしてステージに上がった。
カリンは今でも県大会で主役をやったのは自分ではないと思っている。美香ちゃんだと。自分は影武者だと。
ただ、そのコピーはカリンにとってプラスだったらしい。自分より上手い人を真似ることは学ぶことが多いと。――そう。カリンは美香ちゃんを認めている。また演劇を続けてほしいと思っている。
なのに、彼女が選んだ進学先は、演劇部のない高校だった。そのことを我が事のように惜しむことのできるカリン。
なんて眩しいんだろう。私は、惜しむことができなかった。梢が演劇を続けられないと知って、私は惜しむことができなかったのに。
*
城東学院の合格発表の日、掲示板で自分の番号を見つけ、ウキウキ気分で入学手続き書類を貰うために事務室前に並んでいる時、後ろから肩を叩かれた。同じ北中から城東学院を受験した子は五人いたけれど、みんな名前も知らない子だ。ましてや肩を叩くほど親しいわけがない。けれども反射的に振り向くと、私とは違う制服の子がにっこり笑っていた。
「あなた、北中の演劇部でしょ!」
「え? あ、はい……」
入試の時よりも高速で脳内の記憶のページをめくる。すごくたくさんペラペラとめくった気がするけれど、本当はきっと一瞬のことだったのだと思う。記憶のページは折り目を付けてあるかのようにはっきりと開いた。
「一中の、主役?」
「ご名答」
カリンはニヤリとした後で「代役だけどね」とペロリと舌を出した。まだ肌寒い初春に初夏の風を感じさせるような爽やかさだった。
「また演劇やるんでしょ?」
カリンは決定事項の確認のように訊いてきた。
「もちろん」
私は力強く答える。そのために大会成績のいいこの高校を選んだのだから。
「私も。これからよろしくね」
芝居がかった仕草で右手を差し出すカリンと握手をする。
すごい子と一緒になった。北中での梢とのコンビのように、城東学院でこの子と高め合っていくのだと思うと身体の芯から熱くなる。県大会での梢との対決には、この子と一緒に臨むんだ。そう思うと、身体中を巡る血の温かさまでしっかり感じることができた。
――始まる。私たちのステージが広がっていくのを感じる。
あの幕が開く直前の掌や首筋がむず痒く痺れる心地いい緊張が甦ってくる。早く。早く。あの場所に。事務室の前で私の心はまだ見ぬ舞台へと翔けていく。
「うち、弟もいるからさ、親には県立高校にしてって言われたんだけど、無理言って城東学院を受けさせてもらっちゃったんだ」
そういってエヘヘと笑うカリンに笑顔を返しながら、ひっかかりを覚える。
カリンはなんで無理に私立高校にしたんだろう。城東学院の偏差値は県立下郷高校と変わらない。下郷高校の方が少し低いくらいだ。
うちは少しでも偏差値の高いところへ、という両親の方針で城東学院を選んだけれど、むしろ県立高校にしてと言われたのなら下郷高校にすればいいはず。どちらも演劇部の大会成績はいい。だから梢は下郷高校を受けたんだし。
そんなことを考えていたから、曖昧な返事をしていたのだろう、カリンが「あれ? 知ってるよね?」と真ん丸の目をぱちくりさせた。
ドクンと心臓が大きく跳ねた。
「……なにを?」
「え? なにって……下郷高校に演劇部がないってこと」
*
城東学院演劇部は夏休みになると福祉施設でのボランティア公演がある。
二、三年生は地区大会を控えているから、このボランティア公演は一年生十五人だけで作り上げることになっている。
体よく新人の大会への関与をなくす手段だ。一年生は大会用の劇のオーディションにも参加できない。必然的に大会出場者はキャストのみならずスタッフまでもが経験者で固められることになる。大会成績がいいのも頷ける。こういう仕組みだったのかと、入部して初めて知った。
ここでは仲間なんて言葉は存在しない。みんなライバルだ。味方なんて誰もいない。
私たち一年生は今のところ和気あいあいとやっているけれど、そのうちに先輩たちのようなギスギスした集団になってしまうのだろうか。中学の時みたいに、楽しく上を目指すのって間違っているのだろうか。
私のやりたい演劇ってこんな窮屈なものだったのだろうか。
いわば二軍の一年生。でも考えようによっては、一年生の夏から劇に参加できて、しかもそこには先輩がいないというのは恵まれているのかもしれない。
ボランティア公演は木下順二の『夕鶴』に決まった。決まったというか、決まっていた。顧問に「一年生はこれやって」とぽんと脚本を渡されただけ。
それでも演劇ができるというのは素直に嬉しい。
ステージがバミリテープで仕切っただけのスペースであったとしても。観客が演技の上手下手ではなく、高校生が一生懸命になっている姿を楽しんでいるだけだとしても。
それでも「老人介護施設まほろば」のお年寄りたちが喜んでくれるなら嬉しい。
嬉しい……けど。やっぱり力を試したい。
カリンも同じ思いなんだと思う。演出をかって出たカリンは厳しかった。
本気なんだ――。
それがわかるから私も本気で「つう」を演じる。
みんなが醒めた目で見ているのがわかる。なにいきがってるの? どうせ大会には関われないのに。どうせみそっかすなのに。そう声が聞こえる。
たぶん……たぶんだけど、このボランティア公演が終わった頃には1年生の人数は減っているのだろう。みそっかすはいやだから。
でも演劇をできるってすごいことなんだよ。やりたくてもできないことだってあるんだよ。一緒になって劇を作る仲間がいて、劇をやる場所があって、劇を観てくれる人たちがいる。これって特別なことなんだよ。どんなに演技がうまくても、どんなに演劇が好きでも、できないことだってあるんだよ。
だから私たちは幸せなんだ。強がりなんかじゃなくて、心からそう思う。
やっぱり演劇が好き。
そしてなにより、きっと同じ思いで演劇をやっている仲間がいる。……カリン。あなたもそうでしょう?
今こうして「老人介護施設まほろば」で演劇をしていることがたまらなく気持ちいい。
ただ、なぜ……どうして……?
私は混乱した意識を無理矢理に剥ぎ取って「つう」になる。
「与ひょう、あたしの大事な与ひょう」
梢、あたしの大事な梢。どうしてそこにいるの……?
〈ボランティア〉の腕章をつけた高校生らしき人たちが数人いる。梢と……美香ちゃんも。
なんで? どうして?
演劇ができなくなった梢の前で演技するなんて――。苦しくて。嬉しくて。思いがぐるぐると渦を巻く。
「与ひょう、あたしの大事な与ひょう、あんたはどうしたの? あんたはだんだんに変って行く。何だか分らないけれど、あたしとは別な世界の人になって行ってしまう。あの、あたしには言葉も分らない人たち、いつかあたしを矢で射たような、あの恐ろしい人たちとおんなじになって行ってしまう」
今まで稽古してきた中で一番台詞に感情が寄り添っているのがわかる。このぴたりと吸い付くように寄り添った感覚がなんともいえず心地いい。梢に観られているという意識がそうさせたのだろう。
梢に観られたくない。ううん、観てほしい。どっちでもなくて、どっちでもある不思議な気持ち。
――違う高校に行っても、またこの舞台で会おう。
中学の県大会の時に誓い合った言葉。叶うことのない言葉。
あの時、私が教えてあげたなら、梢は今も演劇を続けられたのだろうか。ううん、きっと変わらない。だってもう入試は終わって合格発表を待つばかりだったもの。
それでも少しでも早く教えてあげればよかったのだろうか。
わからない。わからない。わかっているのは、もう梢と県大会で競い合うことができないということだけ。
そのことは私に悲しみと同時に安堵まで与えてくれた。私は梢の演技に怯えなくていいという安堵を手に入れたのだ。
梢が受験した下郷高校に演劇部がないことを教えなかったのは、既に手遅れだったからじゃない。共に演劇を続けようと言っていたのに、私の本心がほかにもあると気付いてしまったから。
言えなかった。劣等感を抱いていたなんて。嫉妬していたなんて。
梢の演技力を認めて、尊敬して、切磋琢磨していきたいと思う気持ちが大きくなればなるほど、どこかで梢がポキリと折れてしまえばいいのにと願わずにはいられなかった。
梢は私の光と影の両方を引き出す人。好きだけど嫌い。演劇をやってほしいけど、やってほしくない。
ああ、梢。なんて目でこっちを見るの。
私は劇が終わると、梢に気付かなかったふりをして急いでハケた。
控室に使わせてもらっている廊下の隅はパーテーションで仕切られている。衣装を着替えるためにその中に入ると、カリンが膝を抱えてうずくまっていた。
「……カリン?」
恐る恐る声をかけると、のそりと顔を上げる。
「終わったの?」
「うん」
「ごめん、観に行けなかった」
「……うん」
きっと美香ちゃんがいるのを見つけたんだ。
彼女が演劇をやめてしまったのはカリンのせいなんかじゃない。なのに、なんでカリンが苦しまなくちゃいけないんだろう。
「ずるいよね。瑞希は逃げられないのに」
「私はキャストだからね」
言ってしまってから、あっと思う。そうだった、美香ちゃんはキャストなのに――主役なのに逃げちゃったんだ……。
それを無責任だと責めるのは簡単だ。でもわかってしまう。逃げるのだって迷いに迷った結果なのだと。自分が消えたあとの劇がどうなるのかを考えないわけがない。それでも恐怖が勝ってしまったのだろう。
弱い、のだろうか? でもそれはもしかしたら、人一倍、責任の重みを知っているということではないのだろうか。
好きなことをやるだけなのに、なんで苦しいんだろう。
「……次の公演」
カリンが膝におでこをくっつけたまま、もごもごとしゃべる。
「――ん?」
「次の公演さ」
「うん」
「絶対、瑞希キャストになってね」
「カリンも」
「私はいい」
「いいって?」
「キャストはもういい」
中学の時に代役とはいえ主役をやったほどなのに? 声に出さないその問いかけになぜかカリンはちゃんと答える。
「コピーだから。私は美香のコピーをしただけだから。私は私らしい演技なんてできない。中学まではそれでも通用したけど、城東学院で通用するとは思えない」
「そんなのやってみなくちゃ……」
「やらなくてもわかる。っていうか、演出をやりたいんだよね」
「え? そうなの?」
「うん。今回やってみて分かった。私、たぶん、人の演技を見るのが得意なんだ」
演劇部の演出は地味だ。劇団の演出家や映画監督のように注目されることもない。しかも、城東学院の演出は、顧問がやるという暗黙の了解がある。生徒が関われるのはせいぜい演出補助だ。
カリンが顔を上げる。
「城東学院演劇部を変えたいの」
くぐもっていた声がクリアに滑舌よく発せられる。
「変えるって……」
「学校の部活なんだよ? 自分たちのやりたいようにやろうよ。だって……」
だって……せっかく演劇ができるんだから。
発せられなかった言葉に私は頷く。
梢や美香ちゃんが演劇から離れてしまったことを私たちはどうすることもできない。もしできることがあるとするならば、失望させないこと。演劇に関わっていられる私たちを見て「せっかく演劇ができるのに」と思わせないこと。
だけど、でも、それよりなにより、私は演劇をやりたい。思いっきりやりたい。
それを観てほしい。梢や美香ちゃんや見ず知らずの人たちに。
そしてその人たちの心を少しでも震わせることができたのなら、私は私のことをほんの少し、好きになれる気がする。
撤収のために施設の玄関が開け放たれると、何重奏もの蝉の声と熱い風が押し寄せてきた。
私はカリンの両手を掴んで引っ張り上げる。
立ち上がったカリンは私の背中をパシンと叩いてパーテーションの外に出て行った。
私は衣装を脱ぐために帯をシュルリと解く。
夏の夕暮れはまだまだ訪れそうもない。
『またこの舞台で会おう――風間瑞希(高校一年)』
―― 幕 ――
スポットライトに照らされて 霜月透子 @toko
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