最後の幕が上がるまで――澤田カリン(中学三年)
えんじ色の緞帳がゆっくり下り始めると会場から拍手が沸いた。それは緞帳の端が舞台に触れてピタリと止まるまで鳴り響き、フェードアウトしていく。
いったんは静まり返ったかに思えた客席でひとつパンッと手を打つ音がした。
静けさの中でどうしても最後の拍手を鳴らしたい人がいるらしく、毎回のように取り残された拍手がひとつ零れる。それを聞くたびに私はなんだか胸の奥がかゆくなる。苛立ちとも恥ずかしさとも違う、少しだけ不快な感情。さっきまでの時間を穢されたような気がしてしまう。
穢すもなにも、今の劇なんて、はっきりいって下手だった。なんで県大会に上がってこられたんだろうと思いながら観ていた。
脚本は既成のものだから良し悪しは関係ないにしても、キャストの演技も衣装もあまりに似ていて見分けがつかなかった。ひとりひとりは滑舌もいいし、表情も豊かなのに、なぜか一人の人が全ての役を演じているようにすら見える。たぶんだけど、地区大会がレベルの低い会場だったのだろう。
そこまで思うのに、それでもやっぱりあのひとつ遅れた拍手で穢していいものじゃない。上手いとか、下手とか、そういうことじゃなくて。県大会まで来られるってことは、ものすごく頑張った人達ってことだから。そうは言っても、発表した側はそんなふざけた拍手なんて聞いちゃいないだろうけど。
客電がつき、ざわめき始めた会場で、私の周りの同じ制服を着た人たちが次々に席を立つ。もちろん私も。
階段状の客席通路を出口に向かって上りながら、手にしたプログラムに視線を落とす。
『中学校演劇発表会 県大会』の見出し。
タイムテーブルでは、今、二つ前の学校の発表が終わったところ。
次の次が私たち海浜第一中学校の番。
今回私はスタッフだからキャスト程の緊張はないけれど、それでも体温が上がっていくのを感じる。
ミスは許されない。それはキャスト以上のプレッシャーでもある。
自分が舞台上にいる時は、多少のミスは自分でカバーできる。台詞の言い間違えやど忘れ、相手役のミス、小道具の紛失などはどれもアドリブでどうにかなる。私のいる板の上で起きていることだから。
だけどスタッフはまた違う緊張感がある。自分のミスは誰かへの迷惑になる。しかも自分では手の出しようがない。誰かにフォローしてもらうしかない。そういうところがもどかしいし、つらい。
スタッフはリハーサル通りにできることが最低条件。本番で加点されることはない。すべては減点方式。ミスったら最後だ。
ミスらなくったって私たち三年生はこれが最後。中学三年の冬まで部活を続けている人などほとんどいない。どの部活も夏で引退することがほとんどだ。
けれども私たちは勝ち進んだ。このメンバーで勝ち取ったチケットだから、このメンバーでやる。メンバーが入れ替わったらそれは脚本が同じだけの別の劇になってしまう。そう思うけれども、スタッフだった三年生はみんな辞めていった。
キャストに比べ、裏方であるスタッフはどうしても軽くみられる。やっている本人たちですらそうだ。
私にはそれがどうしても納得できない。
表には表の、裏には裏の楽しさがあるというのに。同じ時間を同じように演劇と接してきても同じ思いには辿り着かない。
キャスティングのオーディションは演出や舞台監督の希望者以外は全員オーディションを受ける。
みんな舞台に立ちたい。三年生は特に。最後を舞台の上で迎えたい。
その気持ちがわからなくもない。私もあそこからの眺めが好きだ。あの高揚感が好きだ。
だけどもっと好きなのは、みんなでひとつの劇を作ること。幕を上げて下ろすこと。その一体感。その中にいられるのなら、私はどんな役割でも楽しめる。
演劇が好きだ。
中学三年の冬まで部活を続けるなんて好きじゃないとできない。受験勉強のための英単語や年表を覚えるよりも、脚本のセリフや進行を覚えている。
誰だって受験は気になっているし、勉強時間が削られていることに不安や焦りはある。だけどやめられないんだ。親と喧嘩したって部活をやめられない。
そして、同じ思いの仲間がいることを思う時、私は全身が震え、涙が溢れる。きっと幸せってこういうことなんだって思う。中学生でもうそれを知ってしまえるなんて、それもまた幸せなんだって思う。
ロビー脇の階段を地下まで降りる。楽屋入口の鉄製のドアを開けるとそこは地下駐車場のような広い空間が広がっている。その空間の中心には大黒柱のように太い骨組みがむき出しになっている。回り舞台の装置だ。
大会では舞台転換に回り舞台を使うことは許可されていない。裏では次の発表校が舞台装置の準備を進めているからだ。前の発表が終わり、緞帳が下りたら舞台が回される。この回り舞台のおかげで各校の入れ替わりは十分間ですむ。
今頭上では私たちの前の発表が行われているはずだ。発表時間は約四十五分。その間に大道具はセットを組み、ほかのスタッフもそれぞれの準備を進める。そしてキャストは衣装に着替える。
壁際に並んだ楽屋のドアのひとつが全開になっている。一中の楽屋だ。準備のために人が出入りするから開け放たれているのだろうけれど、あれではキャストが着替えられないではないか。
私は楽屋に入るとドアを閉めた。と、同時に顧問の林田先生の声を聞いた。
「それで宇梶はどこいったの!?」
――え? 美香? いないの?
宇梶美香は主役だ。今日も何度か顔を合わせている。さっきまでホールの客席にいただろうか。いるに決まっているから気にも留めなかった。そうよ、いたに決まっている。きっと今はトイレにでも行っているんだ……。
そう思うのに、私の心臓はドクンドクンと跳ね回る。
そう……ひっかかってはいたんだ。何度か顔を合わせたのに一度も話していないことが。一度も笑顔を見ていないことが。
――まずい!
跳ね回っていた心臓はピタリと動きを止め、キンと冷えた。
「探してきますっ!」
踵を返し、締めたばかりの冷たいドアノブに手をかける。
「行くな、澤田」
背後から林田先生の鋭い声が飛ぶ。女性にしては太く落ち着きのある声。
私は無言で振り向く。挨拶や返事の仕方ひとつひとつにまで厳しい演劇部だけれど、私の頭の中はいなくなった主役のことでいっぱいで、「はい」のひとことすら出てこない。
「澤田は着替えろ」
「――はい?」
風呂敷包みが飛んで来る。反射的に抱え込むようにして受け取る。
「でも、あの……これって……」
桜の花びらが散ったような模様の風呂敷を掲げる。
衣装は役ごとに風呂敷で包んでいるからわかる。この風呂敷は美香のものだ。
「こんな時のためのサブキャストだ」
部員数の少ない学校はどうしているのかわからないが、一中は全ての役にサブキャストをつける。いわば保険だ。
保険とはいえ、一通りの台詞と動きは入っている。そうでなければ保険の意味をなさない。練習が進められる段階ごとにメインの演技を見せられ、サブも稽古をつけられる。ただメインのようにしっかりとではなく、確認するために軽く流すだけだ。それでもサブキャストだけでそれなりの劇になるまでには整えられる。
そう、サブとはいえ、二番手なわけじゃない。メインの影武者だ。動きや台詞回しをメインに沿って身に着けていく。自分らしさなんて求められていない。影武者って、サブキャストって、代役って……そういうこと。
共演者が戸惑わないように。照明の位置がずれないように。音響のきっかけが迷わないように。メインキャストのコピーをいかに正確に演じるかにかかっている。
練習の間も、キャストの誰かが風邪かなにかで学校を休んだりした場合は、穴埋めにサブキャストが入ることもある。その程度の役回りだ。本来は本番のための代役だけれど、私の知る限りではそんなことは一度もない。
「先生……もう少し待ってみてもいいですか? 私が衣装を着てしまったら、宇梶さんが戻ってきた時にすぐ着替えられないので」
「戻ってくるならね」
「きっとトイレが混んでいるんだと思います」
「トイレは一年生がもう確認してきた」
「じゃあ上の階のトイレに……」
「澤田」
「……はい」
「幕が上がるまで三十分を切っている。宇梶が今から戻ってきたとしても澤田でいく」
三十人余りの部員たちはみんなその場に立ちつくし、声どころか息をする音さえひそめている。
本来なら誰もが慌ただしく動き回っている時間だ。開演までの準備にかかる時間も短縮できるようにと「準備の練習」だってしてきた。それが無駄になっている。
このままでは劇そのものまでもが無駄になってしまう。
「なぁ、澤田」
林田先生の声が和らいだ。
「残念だけど、宇梶は戻らないよ。おまえがやらなければ一中は棄権することになってしまう」
わかっている。
「――だから、着替えろ」
私は首を垂れた。俯いたのか頷いたのか、自分でもよくわからなかった。
「さあ、みんなも急いで!」
林田先生が叫ぶと、「はいっ」と切れのいい返事が重なった。
美香が初めてキャストになったのは同学年の中で最後だった。先輩たちが引退してからだから、初舞台は二年の文化祭だ。次が春季発表会。それからこの劇だ。
この前の地区大会で本番は経験済みだと言っても、三回目の劇で県大会出場、しかもその主役となれば怖くなるのは当然だと思う。
普段のエチュードを見る限り、美香が私たちより演技力が劣っているなんてことはなかった。だからこそ今回だって主役をとれたのに。それなのに――。
私が乱暴に風呂敷をメイク台に置くと、こちらをチラチラ窺っていた視線が一斉にそっぽを向いた。
あと二十分――。
美香は現れない。
私は勢いよく風呂敷の結び目をシュルリと解いた。
キャスティングはオーディションで決まる。
私がサブキャストだということは、当然オーディションで美香に負けたということで。運動部の補欠と同じで、二番目に評価が高かった人がサブキャストになる。
悔しくないと言ったら嘘になる。だけどそれは美香に負けたことが悔しいんじゃなくて――あ、いや、それはそうなんだけど、なんていうか、美香に追いつけなかった自分の演技力が悔しいというか……。この結果に納得できてしまうことが悔しい。
そして、気付いたんだ。私は、舞台の上だけが楽しいわけじゃないって。どこにいても同じように楽しいんだって。劇を作る雰囲気の中にいられることが楽しいんだって。
向上心がないなぁって自分でも苦笑いが出てしまう。だけど、私より舞台に立つことが好きで、私より演技が上手な人がいたら、その人に頑張ってもらいたいって思う。いい劇にしてほしいって思う。
そしてその一端を担う、私はそのポジションがいい。
「十五分前! 準備できた人からホールに上がって!」
慌ただしく声をかけ合いながらぞろぞろと人が出ていく。
人が減っていく楽屋で私は自分の脚本を手に鏡に向かっていた。美香に合わせてある衣装は私には心持ち小さい。
初めの台詞を空で呟く。その場で控えめな身振り手振りをつけ、表情は大きく動かし。時おり脚本に目を落として余白に書き込まれた文字や図を確認する。
丸印で人を表した図は舞台上の動きを示す矢印が引かれている。台詞がない間の動きや表情もメモしてある。それらはすべて美香の演技。
なぞる。美香は役を。私は美香を。
私だってこの三年間で何度も舞台に立ってきた。回数だけは美香よりも多い。緊張との付き合い方も身につけた。だから自分流に演じたいと思わないでもない。
だけど私は代役だから。美香の影武者だから。
私が私の演技をしてしまったら、みんなが戸惑う。立つべき場所に立たず、見るべき場所を見ていないとみんなが困る。みんなの演技もズレてくる。なんのために今日まで繰り返し練習してきたのかわからなくなる。
だから私はなぞる。できる限りなぞる。台詞の言い回しさえ。
もちろん完璧になどできるはずもない。でもせめてみんながいつもに近い演技ができるように。いつもに近いきっかけで照明や音響を出せるように。
私たち三年生は今日の発表が最後だ。
美香が舞台に立てば、もしかしたら関東大会出場のチケットを後輩たちに残していけたのかもしれない。私ではダメだ。それはわかっている。でもせめて。いつもに近い形にまで持っていきたい。みんなで作り上げた劇を上演したい。
美香。美香はきっとそれが怖かったんだよね? ここまで作り上げたものを壊してしまいそうで。怖くて怖くて、美香が壊れちゃったんだよね? わかるよ。わかっちゃうよ。
でもね、美香。それが演劇なんだよ、きっとね。だから幕が下りた時に泣けるんだよ。ただいつも通りにできたというだけで身体が熱くなるんだよ。
自分ひとりじゃないから。みんなでみんなの劇を成功させるから。
「澤田」
呼ぶ声に振り向くと林田先生が楽屋の入口に立っていた。いつの間にか全員出払っていて、散らかったそれぞれの鞄や、脱ぎ捨てた制服が、誰もいない楽屋を広く見せている。
「もう全員上に行ったから。あとは澤田だけだ」
「はい。もう行きます」
私はパラパラと脚本をめくって立ち位置の図を目に映していく。
「十分前だ」
「はい」
メイク台に置いた脚本はいつも握っている形にくるんと丸まって、少しだけ揺れた。
「急げ。ここはもう鍵を締めるから」
ドアを抑えて立つ先生の前をお辞儀しながら通り過ぎる。
「失礼します」
背後でバタンと大きな音を立ててドアが閉まり、ガチャッと鍵の締まる音が響いた。
歩き出した私の肩に熱を持った手が置かれた。驚いて林田先生を見上げる。
「そんな顔するな」
そんな顔とは驚いた顔のことだろうか。そう思いながら何の気なしに顔に手をやると、眉間に皺が寄っていた。
「まだ終わったわけじゃない。諦めるな。妥協するな。みんなで関東大会を目指しているんだろ? 澤田だってその一員じゃないか」
「でも……」
「澤田が主役を演じる劇が今から始まる。それでいいじゃないか」
「今から始まる……。私が主役を演じる……」
「しっかり始めて、しっかり終わらせて来い」
ホールへ続く階段を上っていると拍手が聞こえてきた。前の学校の発表が終わったんだ……。
これから一中の番。私たちの劇が始まる。
「舞台、半回しします! 生徒さんたち、一旦下がって!」
インカムを付けた文化センターの職員が抑えた声で指示を出す。
回り舞台が半分回れば、裏でセットを組んだ舞台が表になる。下りた緞帳の内側で陰回しされる舞台。
開演五分前を知らせる一ベルが鳴る。
私は板付きのため、舞台上手に立つ。幕が上がった時に私は既に舞台にいる。
もう誰も口を開かない。見上げた照明室では誰かの頭が右に左に動き回っている。同じく板付きのふたりが下手に並んで立つ。
『次は海浜第一中学校、演目は――』
開演のアナウンスに続き、二ベルが鳴る。
板付きの私たちは視線を合わせ、ひとつ大きく頷く。
やる。やってやる。私たちの劇を。美香が手放した劇を。それでもみんなは手放さなかった劇を。
拍手とともに緞帳が焦らすように上がっていく。客電の落ちた闇が足元から覗き始める。パラパラと取り残された拍手が散る。
スポットライトが私にあたる。夏の日差しのような熱を感じながら、私は最初の台詞のために息を素早く吸った。
さあ。私たちの劇が、始まる――。
『最後の幕が上がるまで――澤田カリン(中学三年)』
―― 幕 ――
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