第七場 舞台に立つ資格

 駅前の小さな広場には木陰ごとにベンチがある。私たちは改札口から一番遠いベンチに美香を挟んで腰かけた。木漏れ日が私たちの足元で小さな動物のようにチョロチョロと動き回る。

 駅へ向かう人はどこかへ出かけるところなのだろう。どこか目的地があるのだろうか。仕事や学校がない土曜日にやることがあるのだろうか。自分の行きたいところへ行けるのだろうか――。


 私たちは無言で目の前を通り過ぎる人たちを眺めていた。ぼんやりと休んでいる気楽な高校生三人組――傍からはそう見えているのかもしれない。

 人が何を抱えているかなんてわからない。それを知ったところで、その重みをわかるとも限らない。けれど、きっとそれはわからないままでも分け合えるのだと私は思う。もしかしたら、わかろうとする気持ちが実際に理解することを上回る場合もあるかもしれない。


 だからこの無言の時間も無駄ではないのだろう。無駄ではないかもしれないけれど、それでもやっぱり、この手が届く範囲の人のことくらいは知っておきたいと思ってしまう。


 入江は文庫本を取り出して読み始めた。

 こいつは美香のことをどれくらい知っているのだろう。中学からの友達らしいけど、異性の友達とどれだけ分かり合えるのか私には見当もつかない。


 私にとって男子は猿山の猿と同じだった。楽しければそれでいいのか、毎日ワッキャワッキャと騒いでいるだけに見えた。とても同じように物事を見ることなんてできるとは思えなかった。

 でも、入江はちょっと違う気がする。フクロウみたいにじっとしていて、時々思いついたように羽ばたいて、またじっとする。同じように物事を見られるかどうかは疑問だけれども。


 そっと美香の横顔を見ると、いつもと変わらない様子に見えた。けれど、あのカリンとかいう女の言葉が気になる。


 無理して観ようとした――。


 もしかして、と思う。でも、そんなことありえない、とも思う。

 知ったところで何もできないだろうし、中学時代に何があろうと今更関係ない気もする。けれども、もし、美香の抱える何かを少しでも引き受けてあげられるとしたら、それはきっと私しかいない。

 入江もそう思ったから、私に美香を追いかけさせたのではないだろうか。あいつがそこまで考えているかは怪しいものだけど。面倒なだけだったのかもしれないし。


「美香」


 静かに声をかけたつもりだったけど、美香はハッと顔を上げた。


「体調が悪くて席を立ったんじゃないんだよね?」

「……うん」


 そしてまた口を閉じる。話してくれるんじゃなかったのか。苛立ちと悲しみがない交ぜになって胸が詰まる。


 ――パタン。


 入江が音を立てて本を閉じた。


「俺、帰るわ。本屋も行きたいし」


 片手をひょいと挙げて「じゃ」と改札に向かう。が、定期入れが見つからないらしく、改札口で上着やらパンツやらポケットというポケットに手を突っ込んでいる。ようやく本の間から落ちてきた定期入れを拾い上げると、そそくさと改札の中に消えて行った。


「……今の、きっと恥ずかしかったよね」

「絶対、私たちの視線感じていたよね」


 私たちは顔を見合わせてクスクス笑った。


「入江ってね、ちょっと抜けているところあるんだよねぇ」


 美香が入江が入っていった改札口を見つめながら言う。


「へぇ~。なんか意外」

「あの物静かな感じも、たぶん落ち着きがあるんじゃなくて、急ぐのとかが苦手なんじゃないかと思うんだ」


 いつもの美香が戻ってきた。おかえり。


「それはちょっとひどくない?」

「まあ、悪いやつじゃないってこと」

「それ、全然フォローになっていないと思うけど?」


 また私たちは笑う。爽やかな風がその頬を撫でていく。


「……県大会、覚えている?」


 美香は笑顔だ。入江のやつも役に立つ。


「もちろん」

「一中の発表は観た?」

「うん。主役がサブキャストの、あのカリンとかいう子に変わったんだよね」

「そう。澤田カリン」


 今日の態度はムカついたけれど、演技はなかなかだった。


「メインキャストは……私だったんだ」


 やっぱり。カリンの口ぶりから、そんなことじゃないかと思っていた。あの軽蔑したような、優越感に浸っているようなプライドの塊。


「当日に変更があったって聞いたけど」

「うん。楽屋で『出られない』って言ったの」

「楽屋で?」


 さすがに想定外。楽屋入りしているってことは、直前も直前じゃん。そんな急に何が起こったのだろう。


「親があまり賛成していなかったって言ったでしょ?」


 え? まさか親の妨害? 当日になって?


「会場に親が来て、『こんな大勢の前で恥をさらすなんて』って。今すぐ断ってこいって殴られて」

「殴る?」


 いったい、どんな家庭なのよ! 娘の晴れの舞台に反対って、シンデレラも真っ青だよ!


「――ってことにしたの」

「は?」

「親に反対はされていたけど、そんな積極的な妨害なんてなかったよ。なんか呆れているっていうか。グチグチ文句言われるのを時々聞いておけばいいだけ」


 美香は歯を見せてニッと笑う。

 え? なに? 意味わかんないんですけど。


「実際はもっとひどい理由」

「もっと、って……? 殴るよりひどいこと?」


 思わず美香の手を取って握りしめる。ああ、かわいそうに。一中で主役を張れる力があったばっかりに、親からひどい仕打ちを……!


「あ、ごめん。たぶん、梢の考えていること、違う」


 ほえ? なんですと?


「親のことは言い訳。発表の場に顔見せたことなんて一度もないし」

「じゃあ……」

「――逃げたの」

「……」

「緊張とプレッシャーに負けて、逃げたの」


 ああ……。もしかして、とは思った。でも、そんなこと、ありえないとも思っていた。直前になって主役が舞台を放り出すなんて。


「軽蔑するでしょ?」

「……」


 軽蔑、するだろうか。

 無責任だとは思う。強く思う。でも、軽蔑はできない。だって、怖いもん。本番は怖い。ものすごく怖い。

 心臓が飛び出そうなんてもんじゃない。全身が心臓になったみたいにドックンドックンして、台詞なんか全部忘れちゃって、失敗する想像しかできなくて……。幕が開く直前なんて、息もできなくて、クラクラしてくる。


 瑞希はそれが快感だって言っていた。共感する振りをしていたけれど、私はそうじゃなかった。瑞希のこと、マゾなんじゃないかとさえ思った。

 でも、幕さえ開いてしまえば大丈夫だった。台詞を忘れることもなかったし、私の演技で観客が笑ったり泣いたりするのはゾクゾクした。それを信じられたから、直前のあの時間を耐えられただけだ。


「カリンはすごいよ。当日に代役が決まったのに、すごく嬉しそうに衣装に着替えていたんだよ?」


 たぶん、直前だったからだ。緊張する暇さえなかったからだ。


「だから、高校ではもう演劇はやらないって決めていたの。そんな資格ないから。でも、梢に会ったらそんな決心が吹っ飛んじゃって。そしたらもう、演劇を観たくて観たくて……。で、萌先輩のジュリエットを観ようと思ったんだけど……」


 私はもうたまらなくなって、美香に抱きついた。私の腕の中で美香の声が低くこもる。


「始まるまでは本当にワクワクしていたの。演劇っていいな、って思ったの。でも、幕が開いた瞬間、とても怖くなって。おかしいでしょ? 私が出るわけじゃないのに」


 美香はエヘヘと棒読みみたいな笑い声をあげた。私には泣き声にしか聞こえなかった。






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