第八場 演劇やりたい!

 私の夏休みはボランティア実習で始まった。


 「老人介護施設まほろば」でのボランティアはただお年寄りの話し相手をしていればいいだけの簡単なものだった。ヘルパーでもなく、特別な講習を受けたわけでもないただの高校生ができることなど何もないということだ。楽して単位がもらえるのだからラッキーだった。

 更にラッキーなことには、葵だけでなく、美香も一緒だったことだ。暇を持て余していた夏休みの始まりとしては充分すぎるくらいだ。


「下郷高校のみんな、ちょっと来て」


 牧田さんという職員のおばちゃんが右手を高く挙げて、おいでおいでをしている。一緒にいたお年寄りに「すみません、呼ばれているので」と断って、レクリエーションルームのあちこちに散らばっていた私たちは牧田さんの許に集合した。


「みんな、今日でここへ来るのもおしまいね」


 牧田さんが言うとおり、五日間のボランティア実習はただ通っているだけで終わりを迎えようとしていた。


「もっと前に言っておけばよかったのかもしれないけれど……」


 この前置きに、私たちは顔を見合わせた。


 牧田さんは連絡事項をよく言い忘れる。まあ、たいしたことではないんだけれど。

 帰り際になってから、誰々さんがお話したいって言っていたわ、とか、昨日誰々さんが羊羹つくったから食べてって言っていたわ、とか。そういう時の定番の前置きが「もっと前に言っておけばよかったのかもしれないけれど」なのだ。

 いつだってその連絡事項は私たちの耳に入った時には有効期限が切れている。お話ししたいと言っていた人は「そんなこと言ったかしら?」と既に記憶にないし、前日からテーブルに置かれたままの羊羹はもはや安全性が微妙だし。


 だから、今日も手遅れの連絡事項を聞く羽目になるのだろうと思って、そっとため息をついた。


「午後から城東学院の演劇部が来るのよ」

「えっ?」


 声を上げたのは私と美香だけ。葵はそれがどうした、と言わんばかりの気の抜けた顔だ。


「どうして……」


 なぜ城東の演劇部が老人介護施設に? 最近はボランティア実習って定番なの?


「毎年夏休みにお芝居をしてくれるのよ」


 芝居……。


 美香と目が合う。眉尻が下がって情けない顔をしている。きっと私も似たようなものだろう。


「へぇ~。それは楽しみですね」


 葵だけが屈託なく相槌をうつ。


「そうなのよ。入居者の中にもずっと楽しみにしている人もいてね」

「そういえば、梢も中学で演劇部だったんだよね?」

「う、うん……」


 わかっている。葵に悪気がないことくらい。


「あらぁ。じゃあ楽しみでしょう。入居者さんたちと一緒に観てね」


 牧田さんは私の腕をポンポンと叩いてご機嫌に去っていく。

 わかっている。牧田さんに悪気がないことくらい。わかっているけど……。


「演劇部の劇を見るのって、初めて。おもしろいのかなぁ」


 葵にとってはいい暇つぶしなのかもしれない。折り紙を折っているおばあちゃんたちの傍に行って、「午後から劇見るそうですよ~」と話しかけている。


 美香の目が「どうしよう」と訴えている。何気ない顔をして観ていられるだろうか。美香はもちろん、私も。

 城東学院の文化祭で『ロミオとジュリエット』を観られなかったのは幸いだったのかもしれない。もうすぐここで劇が始まるのかと思うと、体内を何かがザワザワと動き回ってあまりいい気持ちではない。この気持ちがなんなのか、自分でもよくわからない。観たいのか観たくないのか。なんにしても、観なくちゃいけないのだけれども。


 たいして大きくもない老人介護施設のボランティア公演に、城東学院の演劇部の全部員が来るとは思えなかったが、私と美香はレクリエーションルームを離れていた。澤田カリンとの不愉快な再会を避けるためだ。テラスにいる人たちを連れてくるとか、トイレに行ってくるとか、廊下で誰かが呼んでいる気がするとか、あらゆる理由を考えて逃げ回った。

 もういっその事トイレに隠れていようかと美香と相談しているところを牧田さんに見つかった。


「ああ、いたいた。いろいろ手伝ってくれてありがとね。ほら、もうお芝居が始まっているから、あなたたちも席について」


 私たちは背中を押され、レクリエーションルームに強制収容される。

 暗幕などないから地明かりのままだ。テーブルなどが奥に寄せられ、ステージと客席の境目を示すバビリテープが一直線に貼られている。当然、ステージと客席の間に段差はなく、幕もない。セットすら何も置いていない。『ロミジュリ』の豪華な大道具とは大違いだ。

 誰もいないと思ったステージ部分には粗末な着物を着た男の人がひとり座っていた。


 椅子を並べただけの客席の最後部で葵が手を振っている。用意されていた椅子に美香と並んで腰をおろす。


「『夕鶴』とかいうんだって」


 木下順二の『夕鶴』だろうか。確かに、あれならば『鶴の恩返し』と変わらないから、お年寄りにもわかりやすくて、楽しめるだろう。セットもそれほど必要ない。だとしても、何も置いていないのはどういう演出なんだろう。


 私の膝に手が置かれた。美香が俯いている。やっぱり、何か理由をつけて席を外した方がいいのではないかと思っていると、やがて白い影がするりと出てきて、細く高い声が聞こえた。


「与ひょう、あたしの大事な与ひょう」


 ――瑞希だ。


 お年寄りたちから、ほうっとため息がもれる。葵が身を乗り出す。私は全身に鳥肌が立っていた。

 観たくない。とっさに思った。

 上手くなっている。このわずかな期間で瑞希のまとう雰囲気がまったく知らないものになっていた。

 観たくないのに、白い着物の瑞希が演じる「つう」から目が離せない。

 膝の上に置かれた美香の手が滑り落ちた。隣を見なくても、惹きこまれているのがわかる。


 正直、「与ひょう」や「惣ど」と「運ず」はたいしたことはない。けれども、そもそもこの戯曲は「つう」で成り立っている。


 つうが織った布は、高値で売れる。それを知った惣どと運ずが、与ひょうをけしかけて、つうに更に布を織らせる。そんな与ひょうの声がつうには時々聞こえなくなってくる。


「与ひょう、あたしの大事な与ひょう、あんたはどうしたの? あんたはだんだんに変って行く。何だか分らないけれど、あたしとは別な世界の人になって行ってしまう。あの、あたしには言葉も分らない人たち、いつかあたしを矢で射たような、あの恐ろしい人たちとおんなじになって行ってしまう」


 瑞希は、叫ぶでもなく途方にくれたようにくうを見つめ、瞳に映らない何かを求めるように視線を彷徨わせる。

 不安と悲しみをこんなに静かに表現できるとは。

 私だったら、きっと叫んでいる。泣き叫びながら訴えている。そして、そんな演技ではこのせつなさはきっと伝わらない。


「どうしたの? あんたは。どうすればいいの? あたしは。あたしは一体どうすればいいの? あんたはあたしの命を助けてくれた。何のむくいも望まないで、ただあたしをかわいそうに思って矢を抜いてくれた。それがほんとに嬉しかったから、あたしはあんたのところに来たのよ」


 つうは恩返しのためだけに与ひょうのところへ来たのではないんだ。与ひょうの優しさに惹かれて来たのだ。瑞希の演技を観て、初めてそう感じられた。

 辛そうに訴え続けるつう。


 私ならば、ここは辛そうには言わない。途方に暮れながらも、出会ったころの与ひょうを思い出して笑顔で台詞を言う。今まさに告白しているかのように愛おしそうに言う。その方がせつなさが伝わるはずだ。


 私にやらせて。どうしてあそこに立っているのが私じゃないの? どうして私はここで観ているだけなの?

 私にやらせて。もっといい演技をしてみせるから。あの立ち位置が……あの台詞が……あの全てが欲しい。



 ――どうしても欲しいの!




「……梢」


 美香が私の両手を握っている。

 ふと気が付けば、私はテラスに連れ出されていた。


「私……」


 なにがあったのだろう。劇は終わったのだろうか。なんでここにいるのだろう。


「片付けも終わったから。牧田さんには、気分が悪いから外の風に当たるって言ってある」


 葵がそう言いながら、レクリエーションルームのガラス扉を閉めた。クーラーで冷え切った体が熱い風で穏やかに溶かされていく感じがする。


「……瑞希は?」

「城東学院の人たちはすぐに帰ったよ。瑞希さんは、たぶん梢に気付いていないと思う」


 気付いていない? 観られる側からすれば気付かないのは当然かもしれない。でも、それが悔しい。私の方はこんなにも瑞希の演技に心乱されているのに、当の瑞希はやり切った満足感だけを味わっているなんて。


「……これ」


 葵がハンカチを差し出す。


「泣いているよ、梢」


 言われて頬に手をやると、びっしょり濡れていた。


「劇に感動したわけじゃない、よね?」


 美香が覗き込んでくる。


「……悔しかったの」

「うん」 

「観ているだけなんて嫌だったの」

「うん」

「私にもやらせろー! って思ったの」

「うん……」


 うん、しか言わない美香の声が震えている。


「美香。私、やっぱり……演劇、やりたい」

「……うん、やろう」

「演劇部つくりたい」

「うん、つくろう! 一緒につくろう!」


 私たちは涙も鼻水も流しっぱなしで抱き合った。お互いの汚い顔を見て笑いが止まらなくなった。笑ったら、もっと泣けてきた。

 葵が使われなかったハンカチをひらひらさせながら、「青春していますね~」と、笑った。





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