第四場 一日練習しなければ

 とにかく部室に戻ろうとピロティを通ると、誰もいないはずの空間に大の字に寝そべっている人がいる。Tシャツには「根性」の二文字。


「そのTシャツ着る資格ないじゃん。根性の文字が泣いているよ」


 仁王立ちで見下ろしてやると、北山はピョコンと勢いよく起き上がった。


「すいません! なんか急にめまいが……って、なんだよ、先輩かと思ったじゃん」

「めまい起こした人がそんなに素早く動けるわけ?」

「いやいや……。これは、ちょっと休憩というか」

「はあ?」

「だって、外暑いじゃん?」


 言いながら再びコロンと横になる。


「そうだよね~、運動部は夏きついよね~」


 美香が相槌を打つと、北山は転がったまま「あ、わかってくれる?」と嬉しそうに答える。


「でもって、今は休憩時間なんだよね、当然」


 私は美香みたいに優しい言葉なんかかけてやらない。


「違うけどさぁ、マジきついんだって」


 だったらなんで陸上部なんかに入ったのよ。わけわかんない。


「あ、でも俺すごいんだよ」


 起き上がって胡坐をかく。


「サボってばっかなのに、夏の大会でリレーの補欠なんだよね~」

「へぇ! すごいね!」


 美香は手を叩いている。すごいのか? 補欠だよ?


「そう、すごいんだよ、俺。リレーは部内の選抜メンバーみたいな感じだからさ、一年生で補欠って結構すごいんだよね」


 美香はひたすら「すごいすごい」を繰り返している。北山もご満悦だ。

 そんなに盛り上がっちゃって、馬鹿じゃないの? 私はグツグツと熱くドロドロしたものが胃の辺りから噴き出してくるのを感じていた。喉元に力を入れ、抑え込もうとしても、私の中のマグマはせり上がってくる。


「もしかしたら、俺って陸上の才能あるのかも」


 美香が乗せるものだから、北山は調子に乗っている。

 もうだめだ。噴火する。


「だったらきちんと練習してレギュラーになってみなさいよ! サボっている自覚があるんだったら、ちゃんと練習に出なさいよ! それとも、なに? 本気になってやった結果がたいしたことなかったらカッコ悪いとか思っているの? ばっかみたい!」


「……梢?」

「えっと……木内?」


 姿勢悪く座っている北山のTシャツにしわが寄って、「根性」の文字がひしゃげている。


「真面目に一生懸命やるのを恥ずかしいとか思っているんだったら、部活なんかやめちまえっ!」


 怒鳴り声がコンクリート打ちっぱなしの壁に反響している。


 私は部室へ向かった。階段のカメムシも気にせずにガンガン踏み潰して、部室のドアを勢いよく開けたら、茶色い巨大バッタと、緑の巨大バッタがそろって飛び立った。



 しばらくすると、部室のドアが静かに開いて、美香が入ってきた。


「うわっ、なにここ。すっごくカメムシ臭い!」


 せっかく静かに入ってきたのをぶち壊す大声で美香が叫んだ。


「梢の上履き、洗った方がいいって。もとい、絶対に洗って下さい、お願いします」


 言われると、ものすごい異臭が立ち込めているのに気が付いた。しまった。一時の感情でカメムシの大群を無視して歩くなんて、とんでもないことをしてしまった。

 私は靴脱ぎ場にある自分の上履きを外廊下に出してドアを閉めた。中にバッタが入るかもしれないけれど、仕方がない。臭いの元を遠ざけることが優先だ。


「今更外に出してもおそいよ~。部室中に充満しているし。オエッ」


 美香は棚から取り出した過去の台本らしきものを両手に持って仰ぎ始めた。効果があるとは思えないけれど、反省の印として私も美香に倣った。

 やがて少しは臭いがマシになって、私たちは仰ぐのをやめた。臭いが消えたわけではなくて、鼻が順応しただけかもしれないけれど。


「すみません……」


 私は小さくうなだれてお詫びした。


「別にいいよ、カメムシは。あ、いや、よくはないけどさ」


 美香には悪いところはなにもないのに、モジモジしている。


「北山君さ、練習に戻って行ったよ」

「……そう」

「落ち込んでいて、ちょっとかわいそうだった」

「ふぅん」


 それきり美香はなにも言わなかった。


 自分でもわかっているんだ。八つ当たりだって。部活が思いっきりできる状況でありながら、サボっているのが許せなかった。しかもそれでも補欠だなんて。大会に出られるなんて。そんなのじゃダメだって思った。――違う。羨ましかった。悔しかった。恵まれているのにそれに気づいていない北山が。


 でも、そんなことは北山自身が決めること。あいつ自身が望んでいることではないのなら、それは本人にとって恵まれた環境とは言えないだろうから。

 そんなこと、全部わかっている。わかっているのに、我慢できなかった。立場を代えてほしいよ。私だったら、なんでもする。自主練だってやっちゃう。それをきついだなんて思わない。楽しんでやる。


 けれど、私は陸上部ではないし、そもそも陸上なんて興味ないし。だから羨んでも仕方がない。わかっている。わかってはいるんだけど……。


「うわっ! やっぱくっさっ!――ねぇ、梢。これどうやって持って帰るのぉ?」


 美香が鼻をつまんで私の上履きを掲げていた。



     *



『一日練習しなければ自分に分かる。二日練習しなければ批評家に分かる。 三日練習しなければ聴衆に分かる。』


 これは中学の時に先輩から教えてもらった言葉だ。なんでもアルフレッド・コルトーとかいうフランスのピアニストの名言らしい。もちろん音楽のことを言った言葉だけれど、表現するということにおいては同じはず。そういうわけで、新入部員が入るとこの言葉を教えるのが伝統行事となっていた。そして演劇に置き換えて『一日練習しなければ自分に分かる。二日練習しなければ相手役に分かる。 三日練習しなければ観客に分かる。』と覚えさせられた。


 この言葉を思い出して、私たちは発表のあてがないまま基礎練習だけは始めることにした。けれど、一日練習しなければ自分にわかるものを四ヶ月練習しなかったのだから、我ながら驚くほどの衰えっぷりだった。


「うわっ、なにこれ? 自分の身体じゃないみたい!」

「痛い! 膝の裏、痛い!」


 前屈をするが、手がつま先まで届かない。膝の裏がピンと張って今にもブチッと切れそうだ。


「うう~、足が全然開かない……」

「駄目だー、座っているのが精一杯。前屈なんかできないよ~」


 開脚前屈をしようとしても、足を九十度も開いたら股が裂けそうに痛い。上体を倒すなんてとても無理。

 身体中の筋が縮んでしまったかのように、なにをしても可動域が狭くなっている。少しでも無理をして伸ばそうとすれば、途端につる。

 柔軟体操もそこそこに筋トレを始めることにする。しかし、こちらも筋力低下の速さを思い知らされる。腕立て伏せ、背筋、腹筋。どれも全身を痙攣させて倒れ込む。


「腕立て、八回が限界だよぉ。十回もいかないなんて信じられな~い」

「腹筋十回目でおなかつった!」

「腹筋百回なんてとてもじゃないけど、できないよぅ!」


 回数は全然やっていないのに、Tシャツはぐっしょり濡れ、膝まで折り上げてあるジャージも腿にひっついて気持ち悪い。

 まずい。これは非常にまずい。発表が決まってから基礎練習をやっていては絶対に間に合わない。中学三年間、毎日欠かさず、やってきたことがこんなにも簡単に無に還るなんて!


「まさに『継続は力なり』だね」


 力なく転がる私に美香がタオルを投げてくれる。


「ありがと」

「うん。……ねえ、ランニングはどうする?」

「あー。まだあったかー」


 今日やろうと決めた予定は、柔軟、筋トレ、ランニング、発声練習。時間に余裕があったらエチュードとかもやりたいね~なんて言っていたのだが。


「この体力の衰え方からすると、かなりきつそう~」


 美香が体育座りでうずくまる。確かにランニングはきついだろうな。夏だし。

 しかーし! この前、北山に説教に見せかけた八つ当たりをしてしまった手前、やるしかないでしょ!


「行くよ! 美香」

「え~。行くのぉ~?」


 めちゃくちゃ嫌そうな口調だけど、ちゃんと立ち上がる。


 最近ちょっとわかってきた。美香は口に出している言葉よりずっとやる気があるって。たぶんだけど、スポ根みたいなド根性が嫌なんだと思う。それはわかる。なんか暑っ苦しいもんね。

 でも、中身はあっつあつなんだよね。小龍包みたいな感じ。外側はつるん、ぷよんとして「どうってことないですよ」って顔しているくせに、中は激熱。わかるよ、私もだから。たとえはわかりにくかったかもしれないけれど。


 ランニングコースは外周道路。下郷高校は斜面に建っているから、当然のことながら外周は全部坂道。平地なし。ただ、気持ちはいい。校門側はバス通りになっているけれど、部室から見える方は山と畑を眺めながら走れる。上り坂だけど。


 山側は蝉の鳴き声がものすごい。一帯が重なり合った鳴き声で充満していて、肌の表面まで空気が細かく震えている感じすらする。音は空気の振動なんだと実感する。


 外周道路を二周もしたら、足がもつれて進まなくなった。部室まで辿り着けず、誰もいないのをいいことにピロティで大の字に寝転んだ。一日中日が当たらないため、床がひんやりしていて気持ちがいい。北山がこの場所で休んでいたのもよくわかる。


 こんなんじゃ駄目だ。もっと体力をつけなくちゃ。六十分の上演時間に耐えられる体力をつけなくちゃ。柔軟性も必要だ。動きを自然にきれいに見せるためには体は硬いより柔らかい方がいい。

 ああ、この後は発声練習もやらなくちゃ。声も小さくなっているかな。腹式呼吸もちゃんとできるかな。喉を潰しちゃったらいけないからね。滑舌も……。


 ピロティを風が吹き抜ける。夏の匂いがする。眉間のあたりがトロリとしてきて、ゆっくり眠りに落ちていくのを感じる。


 あ……寝ちゃだめ。まだ練習が残っているのに……。


 ――照明、音響、F.O.フェードアウト



     *



 一度はできていたことというのはすごい。柔軟体操は五日もすれば以前と変わらないくらいに曲がるようになり、十日と経たないうちに痛みよりも痛気持ちいい感覚に変わった。ランニングも、苦しいながらも足が地面に吸い付くような重さはなくなってきた。腹筋だけは回復が遅く、どうにか五十回をこなせるようになったところ。


 ランニングを終えて、校門に入ろうとすると、昇降口からやってくる葵が見えた。


「葵ちゃーん!」


 美香が両手を振って、ピョンピョン跳ねる。初日の練習からは考えられない体力だ。


「お。演劇部、やってるねぇ」


 美香とハイタッチしながら私にも笑いかける。


「葵、なにしてるの? 部活は入ってなかったよね?」

「あー、委員会」

「学級委員? 夏休みなのに?」

「そっちじゃなくて。文化祭実行委員。今日、一回目の委員会だったんだ」


 文化祭実行委員は、各クラスから一人ずつ出さなければならない。ほとんどのクラスが二人いる学級委員の片方が文化祭実行委員も兼務しているらしい。クラスの意見をまとめて委員会に上げるのは学級委員の仕事の延長のようでもあるからだろう。


「もう? 文化祭は十一月でしょ? ずいぶん早くない?」

「そうでもないみたいだよ。来週から二学期じゃん? 九月中にはクラスごとの出し物を決めなくちゃいけないから、内訳をどうするか話し合うんだって」

「模擬店ばっかりでもつまんないしね」

「でもぉ、食べ物屋さん以外にやることあるぅ?」


 美香のいうとおり、文化祭といえば食べ物のイメージだよね。なんでだろう。特に面白そうだとは思えないけど。


「去年はお化け屋敷が五クラスもあったんだって」


 葵がうんざりした顔をする。


「そんなにあってどうするの? 十一月に寒い思いしたくはないでしょ」


 さっぱりわからない。そもそもちゃんと怖いのか?


「思いつかなかったんだろうね。あと、迷路とか」


 つまらなそう。そして暇そう。


「まぁ、今から考えておいてよ」

「う~」


 私は肯定とも否定ともつかない曖昧な返事をしてごまかす。だって面倒くさい。もう文化祭とかどうでもいいし。


「あ、でも、演劇部はステージ発表があるから、あまりクラスに顔出せないね。準備期間も練習とかあるんでしょ?」


 声のトーンを上げて話す葵に、うらめしげな目を向ける。


「……え? なに? 違うの?」


 私の反応が意外だったようで、美香にも問う。


「なんかぁ、一年以内に活動実績がないと駄目らしいんだよねぇ。」

「なにそれ? そんな規定あるの?」


 心底残念そうな顔をしてくれる。城東学院の『夕鶴』を観た時から私たちの演劇に対する思いが伝わったのだと思う。思い返しただけで恥ずかしいけど。どこかに入れる穴ないかなとか思っちゃう。


「ゲリラ公演やっちゃえば?」


 葵が過激なことを言う。


「たとえばさ、中庭とかで突然劇が始まるの」


 野外劇か。やったことはないけど、面白そう。中庭は校舎に囲まれているから、きっと声もよく響くだろう。あの階段状になった部分も客席にちょうどいい。きっと通りがかりに覗いていくのだろうから、うんと短い劇がいい。コントのような。それを何本もやる。面白いと思った人はそのまま何本も観てくれるかもしれない。そして、観客がいることで、もっと人が集まるかもしれない。その中心にいるのは私と美香。校舎の窓からもなにごとかと覗く人がいるかも。


「でも、去年ゲリラライブやったバンドは解散させられたらしいけどね」


 葵がさらりと言う。

 一気に夢から覚めた。そんな危険なことできるか。


「文化祭での発表はもういいよ。無理だってわかっているし」


 残念だけど、現実的に考えて美香と二人では無理があるなとは思う。いろいろやりようがあるのかもしれないけれど、今じゃ無理。初心者に毛が生えた程度にしか戻っていないし。体育館ステージみたいな広いところでやるとなると、それなりの実力が必要だ。キャストもスタッフも。細かい理由はいくつも思い浮かぶけど、演劇を知らない葵に言ってもピンとこないと思うから、「二人でスタッフまでやるのも限界があるしね」と言うに留めておく。

 すると、葵は「なるほど、人数の問題ね」とかなり薄っぺらな理解を示した。


「あ、ちょっと今、クラスの出し物でいいこと思いついたかもしれない」


 そう言って上機嫌で「ばいばい」と手を振る。


「あ、そういえば」


 帰りかけた葵が傍まで戻ってきて、小声で告げる。


「玲奈、彼氏と別れたらしいよ」


 ……どうでもいいわ! その情報。






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