第三場 いるはずの誰か
昨日一日かけて掃除をした部室は、まるで初めからこのままだったかのような当たり前の顔をしている。そして、ソファに寝そべる私も、ロッキングチェアでユラユラしている美香も、ずっと前からここにいたかのように居心地良く感じている。
日差しはギラギラと照りつけるけれど、部室は窓を全開にしていれば涼しい風が入ってくる。クーラーも扇風機もなくたってそこそこ快適に過ごせる。
だけど、私の中では名前のないドロドロとした熱をもったものがボコボコ沸騰していた。
「なんでもう少し早く始めなかったんだろう」
何回目になるだろう。言っても仕方のない言葉がこぼれる。
「せめて夏休み前だったら、どうにかなったのかな」
美香も今更戻れない分岐点を探し求める。
窓からの風が長机の上に置かれていた一枚のレジュメをパラリと音をたてて床に落とした。私達はそのチラシをソファとロッキングチェアの上からじっと見つめる。また吹いた風でレジュメはパリパリと乾いた音とともに部屋の隅に張り付いた。
「よいしょっと」
私はおばさんくさい掛け声をかけて立ち上がると、レジュメを手に取った。
『高等学校演劇発表会 地区大会』
見出しの文字を見ただけで、トクンと心臓が跳ねる。
埃とカビの匂いが微かにする舞台袖。息を詰めるキャストたち。
引幕を開けるだけのことに全神経を集中させるスタッフ。あまり遅くてはいけないが、幕の裾が揺れるほど早くてもいけない。ロープを引く際の滑車のわずかな音さえ極力抑える。これが意外と難しい。だからこれだけを何回も何日も練習する。
そんなスタッフがいるからこそ、キャストは更なる使命感に支配されるのだろう。
幕が開けば、体育館の暗幕の隙間から細く漏れる光。目が慣れるまでは観客の顔どころかそこにいることすら見えない。あるのは、ただ私が今ここにいるという確かな実感だけ。
「大会は来年までお預けかぁ~」
いつの間来たのか、美香が私の手元のレジュメを一緒に覗きこんでいた。
大会日程を確認しようと古賀先生のもとを訪ねたのは今朝のこと。
地区大会の一言を口にした瞬間に差し出されたのがこのレジュメだった。地区大会の地区割りが決定したというお知らせだった。
つまりどの会場校にどの学校が出場するのかはもう動かしようがないということだ。当然、追加も認められない。
通常七月か遅くても八月中旬までには地区大会の会場校、発表順が決定するらしい。地区割等の協議をする生徒実行委員会があって、そこで各校から事前提出されている希望票をもとにどこの会場校に参加するのかが決まるそうだ。ちなみに会場校は持ち回り分担で、春のうちに出場予定校の顧問たちの会議によって決定している。
「大会に出れなくても、演劇ができればいいかな」
「一年目だしね。強豪校だったら、どうぜ一年生なんかスタッフどころか雑用しかできないし」
笑顔でさらりと言い合うが、お互いにわかっている。どうせ強がりだ。
演劇ができる状態に近づきつつあるのは本当に嬉しい。でも、大会に出られなくてもいいなんてちっとも思わない。発表の場は少しでも多い方がいい。そして、発表する以上は認められたい。
強豪校だったらキャストになれないなんて、そんなことわからない。オーディション次第だ。そして、私はオーディションに受かる自信がある。美香だってそうだろう。一中で大会の主役を射止めたのだから。それで自信がないなんて言ったら嫌味だ。
もし、自分がステージに立てなくても、演劇を作り上げる一端を担っていられるのなら、それは大きな価値がある。あの雰囲気、一体感の中にいられるというのなら会場整備だって構わない。その魅力がわからない美香じゃない。
「とりあえず、私たちには文化祭があるじゃん」
美香がレジュメを取り上げて机に伏せて置いた。
「そうだよね。十一月までに劇ができる状態にもっていかないとね」
「そうだよぅ。仲間を増やすにしても、キャストをやれる即戦力は私たち二人だけなんだからぁ」
そう、私たちには立ち止まっている時間なんかない。猛スピードで流れる「時」は気を抜くと簡単に私たちを振り落していく。
まずは前に進まなくては。進めるうちに進まなくては。少しくらいの落し物なんか、振り返ってまで拾わなくてもいい。たったひとつの大切なものをしっかりと握りしめてさえいれば、きっとどこまでも進んでいける。
窓から見える空には張りぼてのように大きな入道雲が聳え立っている。
「うーん。なにから始めればいいのかなぁ」
「基礎練習とかやる? ここでやる発声練習とか気持ちよさそう」
美香が窓の外に目をやる。夏の日差しはあらゆる色を原色に近づける。山の緑は深く、空の青は力強い。
「常にやっておいた方がいいのは確かだけど、まだその段階にもいっていないよね」
現実問題として、二人で演劇をやるのはかなり厳しいと思う。二人芝居にすれば一見どうにかなりそうな気もしてしまうけれど、スタッフが一人もいないのではどうにもならない。
小道具、大道具、衣装などは事前にやることが大半だからキャストと兼務でも大丈夫だけれど、ステージに立ったままでは音響や照明はどうすることもできない。
そう考えると、部員の確保が最重要課題なのかもしれない。
「古賀センセに相談してみようか」
美香がおずおずと提案する。
「古賀先生ね……あてになると思う?」
「さあ。でも一応顧問だし」
言い出しておきながら、たいして期待が感じられない。
「あんなのが顧問でどうやって活動していたんだろう」
本人がここにいないのをいいことに、私は思ったままを言う。
「先輩たちが余程しっかりしていたとか」
「しっかりした先輩がいたら、県大会常連校が翌年から活動休止にならないでしょ」
「……それ、梢は変だと思わない?」
「変って?」
なにが変なのかさっぱりわからない。
「ちょっと整理してみようよ。古賀先生が顧問になったのはいつから?」
「前にも話したじゃん」
「いいから。もう一度確認していくの。これがわかれば、部員が増えるかも」
机に移動してレポート用紙とペンを取り出す。私も「なにそれ」と言いながらも向かい合って座った。
なにかを進める時の美香は頼りになる。部活動の新規設立についての規約を調べてきたり、顧問や部室を確保したのだって美香の手柄だ。
普段の美香はポーズなのか、バランスをとっているのか、未だによくわからない。
「古賀先生が顧問になったのは六年前って言っていたかな」
「そうだよね。今年二十九歳で、二十三歳になる年に下郷にきて、演劇部の顧問になったんだよね」
「たしかそう」
年齢とかは忘れていたけど、六年っていう年数は合っていると思う。話した私より美香の方が覚えているというのは変な感じだ。
美香がレポート用紙に横線を引いて、六つの目盛をつけた。
「で、最後に大会に出場したのは?」
「三年前」
三つ目の目盛から左側を塗りつぶす。
「この最後の大会を最後に演劇部が活動休止になったとするじゃない?」
なったとする、とは変な言い方だ。だって、実際に次の年は地区大会にすら出場していないのだから。
「だとしたら、三年前の部員は全員卒業しているよね?」
私は頷く。三年前だからそうだろう。当時の一年生も私たちと入れ替わりで卒業しているはずだ。
「じゃあ、これはちょっと置いておいて」
そう言って、レポート用紙を裏返しにする。動作がどことなく芝居がかっている。
「演劇部が廃部になっていなかったのは、なんでだっけ?」
「なんでって、部員がゼロになっていないから……あっ!」
どうして忘れていたんだろう。そうだった。誰かがまだ籍を残しているから、顧問も部室もそのままだったんだ。
あれ? でも。
「この春で全員卒業したはずだよね?」
「そうなの。ね、おかしいでしょ?」
考えられることは二つ。留年したか、もしくは。
美香の瞳がキラリと光ったように見えた。
「その次の年も演劇部は活動をしていた。でも、なんらかの事情で大会には出られなかった」
そうすると、まだその生徒は在学中でもおかしくない。
どっちの理由だろう。留年して二回目の三年生をやっているという方が自然かな。でも、なにかが引っ掛かる。
今までにも気になることがちょくちょくなかったか。暑さで中までねっとりしている頭を必死に働かせてみる。
そんな私たちをあざ笑うかのように、窓の桟にしがみ付いた蝉がジュワージュワーと騒ぎ出した。
*
「なんだよ。二人してそんな怖い顔をして」
古賀先生は大袈裟に後ずさる。
今日の登校当番の先生は誰なのか、今は姿が見えず、職員室には古賀先生しかいなかった。
先生はTシャツに短パン、サンダルという海にでも行きそうな恐ろしくラフな格好で、隣の小島先生の椅子に足を投げ出している。当然、後ずさる際にも足は下さず、机の縁を掴みながらキャスター付きの椅子ごと後ずさるというものぐさっぷりだ。
意気込んで職員室まで来たもの、幽霊部員の存在についてどう切り出せばいいものか決めかねていた。顧問である古賀先生がその彼女だか彼だかの存在を知らないはずはなく、知っていながら教えてくれないのには、深いわけがあるのではないかと思わざるを得ないからだ。
「あ、地区大会のことなら、あれだぞ。俺のせいじゃないからな。お前らが演劇部に入るなんて、わからなかったんだから」
なにを思ったか、見当違いの言い訳を必死にしている。
「もし、梢ちゃんが四月に来た時点で入部するって言っていたら一人芝居でもできたかもしれないけどな」
自己防衛のために、他人の古傷をえぐるか、こいつは。
キッと睨み付けた私の腕を美香が素早く抑える。さすがに暴力には訴えないってば。
「でも、あれか。一人芝居だとしても音響や照明はどうにもならないもんな。助っ人程度じゃ演技にきっかけを合わせるのもなかなか難しいだろうし」
あれ? と美香と顔を見合わせる。意外とわかっているじゃん。
腐っても演劇部の顧問だな。そう軽蔑とも尊敬ともつかない感想を持っていると、心の声が漏れたのか、美香が「めっ!」と表情でたしなめてきた。すんません。
「ちなみに、文化祭も無理だからな」
ついでのようにさらりと言う。
「え?」
文化祭も無理? なに言っているの?
やけに扇風機の音だけが耳につく。外では蝉も鳴いているし、野球部の金属バットのカキーンという音や、掛け声もしているはずなのに、なぜかブォーという低い風の音だけが大きく聞こえる。
「文化祭って、十一月ですよね?」
美香がいつもの弾む口調も忘れて、政治家に詰め寄る記者のような口調で問う。
「いつだろうと無理だって」
「なんでですか? 今から準備すれば充分間に合います。音響や照明だって考えればなにか方法があるはずです」
私は必死だった。大会だけでなく文化祭までも出られないなんて。そんなことがあっていいわけがない。だって、私たちは演劇部で、誰かに観てもらうためにやろうとしているんだから。
発表をしても観客がいないのなら仕方がない。いや、そんなの悲しすぎるけど、誰かに観せるためにつくった劇なら、満足はいかなくてもある程度の達成感は得られるんだと思う。
そうではなくて、初めから発表の場が与えられない演劇部って、演劇部としての価値はどこにあるっていうの?
「だって、この一年間の活動実績がないからさぁ。まあ、一年どころじゃないんだけどね」
「そんなぁ……」
「でも、そんなのは私たちのせいじゃないですよね、古賀センセ」
「もちろん、ミカリンのせいでも、梢ちゃんのせいでもないよ」
おなかの奥でボコリと大きな泡が浮かんで割れた。
「……じゃあ、誰のせいなんですか?」
「え?」
「演劇部を活動休止に追い込んだのは誰のせいですか?」
「いや、それは……」
「県大会出場の常連校が翌年から急に活動休止ってなんなんですか? 一年生や二年生の部員はどうしちゃったんですか?」
「梢……」
私の剣幕に美香が再び腕をとる。だけど、私はその手を振りほどいた。
「美香だって、この話を聞きにきたんでしょ? この学校にはまだ演劇部の先輩がいるんじゃないの? だから廃部になっていなかったんでしょ?」
すっかり敬語を使うことも忘れてまくしたてる。
「……いやぁ。こりゃまいったなぁ」
古賀先生は例のくさい芝居のような、天井を仰いでおでこに手のひらを乗せるしぐさをした。
ふいに世界の音が戻ってきた。蝉は忙しなく鳴き、グラウンドからは野球部の声がする。
「うん。わかった。演劇部の部員なんだもんな。説明しよう」
私たちは身を乗り出した。
「ただ、少し時間がほしい」
説明するだけなのに時間ってなんだ。プリントでも用意するわけじゃないだろうに。
「そうだな、二学期になったら必ず説明するから。悪いが、それまで待ってくれ」
そう言ってぺこりと頭を下げる。
先生に頭を下げられてしまっては、私たちは頷くしかなかった。
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