第一幕 入学

第一場  演劇部がない!?

「演劇部がないって、どういうことですか!」


 クラス担任はあっさり「ないよ」と言った。

 オリエンテーションの部活動紹介で演劇部がなかったから、わざわざ職員室まで来たのに素っ気ないではないか。


「ないわけないですよね! だって、この学校の演劇部って、関東大会常連ですよね?」

「その情報、古いな」


 先生はデスクの引き出しから煙草の箱を取り出した。すかさず、隣の席の先生が取り上げる。


「古賀先生、学校は全面禁煙です。何度言ったらわかるんですか」


 その先生は、睨みをきかせているつもりのようだが、童顔なうえ、雰囲気もほんわかしていて、ちっとも迫力がない。まだ女子高生で通りそうだ。


「あ、これは、つい、うっかり、なんとなく」


 古賀先生は慌てて煙草の箱を引き出しに戻す。そして、私の方にわずかに顔を寄せ、ささやく。


「小島先生な、ああ見えて、すげー怖いからな。覚えておいた方がいいぞ」

「……まる聞こえですが?」


 小島先生がパソコンに向かったまま言い放つ。


「ほらな」


 なんだ、この担任は。中学生か。

 たぶん、古賀先生も小島先生も二十代だろう。先生というより、先輩みたいな感じ。

 大丈夫か、この高校。

 職員室を見渡せば、教師の平均年齢は随分と低そうだ。校長先生、教頭先生、学年主任の先生を除けば、みんな古賀先生と似たり寄ったりの年に見える。

 下郷しもさと高校は県立高校としては歴史も古く、学力も中の上レベルだから、もっと落ち着いた感じだと思っていた。

 いや、そんなことより。


「先生、それで、演劇部は?」

「ああ、そう、それね。さっき君が……えっと、誰だっけ?」


 ……おい。


「一年一組古賀先生のクラスの木内梢です」

「オッケー。梢ちゃんね」


 おっと、下の名前ですか。


「ここの演劇部がすごかったのは、三年前までだな」

「え、そうなんですか?」

「たぶん、それまでの入賞歴が長いからここ数年出場していなくても、下郷高校演劇部って名前だけは有名だったんだろう」


 どうしよう。本当に演劇部がないんだ。

 演劇のない高校生活なんて考えられない。これじゃあ、キャストになるとか県大会進出とかいうレベルじゃないじゃん。


「……いつからなくなったんですか」


 そんなこと聞いてどうするのよ、私。


「んあ。いつかな。俺がここに着任した時には一応あったな」

「古賀先生が着任されたのって、いつですか?」

「えっとー。新卒でいきなり下郷だから……あ、小島先生、俺、今いくつだっけ」


 古賀先生は小島先生の方を向いて、俺、俺、と自分を指さしている。


「数えで二十九じゃないんですか? 誕生日がわからないので、満年齢は知りませんけど!」

「そうか、もう二十代も終わりが見えてきちゃったかぁ。あ、俺ね、小島先生と同い年の同期なの。だから、年齢忘れても大丈夫なんだな」


 普通、自分の年は忘れないと思いますけど。ってか、二十九歳? 二人とも? 見えない。それぞれ違う意味で若く見える。


「だからね、六年前は演劇部あったよ」

「そうでしょうね。三年前まで大会には出ていたっておっしゃっていましたもんね」

「あ、言ったね」


 駄目だ。これは、顧問だった先生に聞かないと。

 と、思った瞬間、小島先生がくるりとこちらを向いた。


「……顧問」


 あ、小島先生も同じこと思ったんだ。


「顧問でしたよね、古賀先生」

「え?」


 古賀先生が首を傾げる。

 え? はこっちだよ! こんなのが顧問? 最悪。


「古賀先生、着任時からずっと演劇部の顧問ですよね?」

「んー、そう、かな?」

「そう、です」

「いつまでやってたのかな、俺」

「ずっとです」

「ずっと、って、いつまでかな」


 私の視線は古賀先生と小島先生を行ったり来たりする。


「だから、ずっと今も継続中です」

「はあ?」


 ちなみに、「はあ?」は古賀先生と私だ。

 いやいや、古賀先生が「はあ?」はないでしょ。自分のことじゃん。なんか、いろいろありえないんだけど、この先生。よく教師になれたな。


「え? 俺って、演劇部の顧問なの?」


 だから、その態度、ありえないんだけど!!


「えっと、古賀先生、つまり、先生ご自身が自覚されていないくらい演劇部は活動していないということでしょうか?」


 こめかみあたりがピクピクするのを感じながらオトナな態度で穏やかに訊いてみる。


「まあ、そういうことなんじゃない? そういうわけで、残念だけど、見学とかなら諦めてね」

「……はい。失礼しました」


 もう、しおしおと退散するしかない。

 古賀先生のいい加減さもありえないけど、私の調査不足こそありえないでしょ。まさか演劇部がないなんて。一生の不覚だわ。



     *



 校舎内もグラウンドも部活動の勧誘と見学者でにぎやかだ。

 なんてキラキラした笑顔。楽しそうだなぁ。ウキウキ、ドキドキしているんだろうなぁ。


 ……いいなぁ。


 すぐに下校する気分にもなれず、とりあえず自分の教室に戻ってみる。誰もいない。そりゃそうか。みんな、どこかの部活に見学に行っちゃったよね。


 窓際の机に腰掛け、ぼんやり窓の外を眺める。

 野球部のノックの音、サッカー部の掛け声、ジョギングする女子テニス部の澄んだ高い声、コンクリートの通路を歩くスパイクの音……。

かすかに傾いた暖かい日差しはやわらかな色合いを帯び始め、風は裏山から緑の香りを運んでくる。


 そうかぁ。放課後ってこういう感じだったんだ。


 中学校では演劇部の活動日は毎日で、いつも自分もあの景色や音や空気を作り出す側にいた。それが特別なことだなんてちっとも思わなかった。

 けれど、外側から見ると、なんてキラキラしているんだろう。

 吹奏楽部の音合わせが始まった。合唱部の発声練習も聞こえてくる。

 本当なら、これに演劇部の発声練習も響かせていたはずなのに。

頬になにかが触れている気がして、何気なく手をやると、指先が濡れた。

やだ。勝手に涙が流れていたんだ。

 そう気づいた途端、涙はぴたりと止まった。泣けるほど私の心を動かすものはもうなにもない。演劇のない毎日になんの意味もない。心は静まり返っていて、私の中がからっぽになった気がした。


 中学校の演劇部はそれなりに「強い」演劇部だった。県大会までは毎年出場していた。私の在学中には叶わなかったけれど、関東大会進出も何度もあったらしい。

 そのせいもあって、部員数は文化部としてはかなり大所帯の四十五名。これは、吹奏楽部の五十八名に次ぐ部員数だった。文化部でありながらこれだけの規模を誇るのは他校でも類をみない。


 しかし、部員数が多いということは、配役が全員に回らないということでもある。卒業までに端役すら得られなかった仲間もいる中、私と瑞希だけが、一年生の夏の区大会から全公演でキャストの座を射止め続けてきた。

 もちろん、全部員がキャストを希望するわけではないが、それでも、演出や舞台監督以外のスタッフを第一希望とする部員はそう多くはない。照明、音響、大道具、小道具、衣装など、スタッフとしての役割もたくさんあるけれど、大抵の人はオーディションに落ちた後に希望のスタッフを巡って再び争わなければならなかった。


 そんななかで、全公演出演の記録はさすがに異例だったらしく、配役に漏れた先輩たちですら、私たちに一目置いてくれていた。生意気な一年生といじめられずに済んだのは、先輩たちの優しさもさることながら、毎回のキャスティングが厳しく公平なオーディションだったことが大きい。


 今となっては別世界の出来事のようだ。ううん。別世界だったんだ。なんていうんだろうなぁ……現実世界と続いていないんだよね。


 どこの部活か、校舎周りをジョギングする掛け声が響いている。


 イチ、ニ、サン、シー。イチ、ニ、サン、シー。


 あの人たちは現実との続きで走っている。走っているのは、いつもの自分なのだろう。日常とつながっている。


 けれど、演劇はちがう。


 公演準備に入る前の基礎練習はたしかに日常とつながっている。私は私のまま。だけど、芝居の稽古が始まれば、それが途切れ途切れのブツ切り稽古であっても、そこは異空間になる。

 体育館ステージの幕を閉めた内側は、フロアーで練習しているバレー部やバスケ部とはちがう空間になる。幕が区切っているからじゃない。ボールの音や掛け声は絶え間なく聞こえているのだから。そうじゃなくて、なにかこう、シールドのようなものが張られる感じ。

 あの感覚はもう味わえない。


 ――ああ! もうっ! リサーチ不足もいいところじゃん!


 頭をかきむしる。

 ばかばかばか! 私のばかぁー!

 イライラして教室をぐるぐる歩き回る。机の角にガツンと足をぶつけて、ガタンと大きな音がした。


「ああーーーー!」


 思わず窓から身を乗り出して、思いっきり叫んでしまう。

 グラウンドの人たちが一斉にギョッとした顔をこちらに向けた。


 やばっ!


 慌てて、その場にしゃがみ込む。

 見せるつもりで見られるのは快感だが、見せるつもりがないのを見られるのはさすがに恥ずかしい。

 すっかり忘れていたよ。この腹式呼吸での声量を持っていることを。


 窓の外では何事もなかったかのように、ボールやスパイクの音、掛け声なんかが聞こえている。

 ……ふぅ~。気を付けなきゃ。でも。ちょっと、すっきりしたかも。


「あーーーっ!」


 これ、私じゃないよ。

 誰? 教室の入り口で私と同じ制服を着た女の子が私を指さしている。


「やっぱり!」

「やっぱり、って? 何? 何? なに~?」

「今、叫んだでしょ」

「あ。えっと、なんていうか、つい……。驚かしてしまったなら、ごめんなさい」


 きっと、あの発声練習のような大声でかなり驚かしてしまったのだろう。恥ずかしいやら、申し訳ないやら、怖いやら……。


「薫子さんでしょ!」

「ふぇ?」


 変な声が出た。もちろん、私の名前は薫子ではない。木内梢だ。でも。


「えっと、あの……」


 この人、知っている?


「……薫子さん、ですよね?」


 あ。敬語になった。

 うーんと、この場合、どう答えればいいんだ?


「中学の県大会、観ました。あのド迫力の悪役、薫子さん役をやった人ですよね?」


 頷く。

 そう。それ、私。かわいらしい役どころの瑞希の敵対役、薫子を演じたのは私。


「やっぱりー。声ですぐわかったもん」

「そ、そう?」

「わかる、わかる。私も演劇やっていたから。まさか同じ高校だなんて、びっくりー」


 こういうのは初めてではない。大会や発表会に一年生のうちから出演している私と瑞希は、他校の演劇部にもそれなりに顔が知られ、ファンらしきものがついていたりもした。華のある瑞希、影のある私。女の子らしい瑞希、男の子っぽい私。私たちはいい対比となる役どころで、握手を求めてくる人のタイプも違っていた。宝塚歌劇団もどきの男役もやることもあった私の場合は、女子校の子が圧倒的に多かった。


「握手してー」


 私が手を差し出す前に、両手で包みこんでくる。


「もう、感激。やっぱり、演劇部入るんでしょ?」


 刺された。

 ナイフでグサッと刺された気がした。しかも両手で。


「……ないんだって」

「ないって?」

「演劇部」

「え?」

「もう何年も活動していないって」

「……うそ。だって、名門でしょ、ここ?」


 ああ、この人も知らなかったんだ。

 私の手を握る力が抜けていく。


「あ、えっと、私は別に演劇続けようとは特に思っていなかったから、いいんだけど。薫子さんは……」


 あー、そこの傷、触れてしまうのね。ついさっき受けたばかりの傷なのに、直接触れてくるわけね。


「とりあえず、薫子は役名だから」

「あ、そっか」

「木内梢」

「木内さん……役のイメージと違って、意外と存在感ない名前だね」


 おい。抉ったね、あんた。


「私は宇梶美香。一年二組」

「そう」


 別に興味ないから。悪意のない破壊力持つやつなんて。こっちの身が持たん。


「『そう』って……」


 あ、軽く反撃したつもりが、意外と強く当たっちゃった? こういうタイプは泣いたりしちゃうのかな?


「いや~ん。クールで素敵~」


 防御力、高っ!


「じゃあさ、つくっちゃおうよ」

「何を?」

「こういう場合は、復活させるっていうのかな?」

「だから、何を?」

「やだぁ。演劇部に決まっているじゃん」


 ガツンッ!


 殴られた。お寺の鐘が鳴るように余韻がグワングワンしている。

 つくる? 復活させる? 演劇部を?


「あれぇ? もしかして、そういう発想なかった? 目から鱗出ちゃったってかんじ?」


 目から鱗は出ないから。落ちるものだから。……って、そんなことじゃなくて。


 ガシッ!


 今度は私から宇梶美香の手を握る。


「木内さん?」

「ありがとう! あんた、一緒にやってくれるよね!」

「えー? 高校では違うことやろうと思っていたんだけどぉ……」

「頼むよ!」


 気合が入りすぎて、またもや腹式呼吸。すごい低音。男の子みたいな声になっちゃった。


「……もっと」


 は?


 宇梶美香は潤んだ瞳で私を見つめる。


「もっと言って。できれば、『美香、頼む』って」


 ほ?


「さっきのアルトで」


 ああ。そういうこと。

 おへそのあたりに力を入れる。


「頼むよ、美香。お前だけが頼りなんだよ」


 ついでに肩に手をかける。


「はいっ! 任せて下さい!」


 瞳をキラキラさせちゃって。かわいいじゃないの。

 ――って、私、道誤っていない?


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