第四幕 地区大会

第一場 新入部員

「新入部員、入った?」


 放課後の廊下を歩きながら北山が問いかけてくる。


「ひとりだけね。そっちは?」

「仮入部が二十人くらいいるけど、たぶん半分も残らねーな」


 北山の声は頭上から降ってくる。私とそんなに変わらない身長だったのに、いつのまにやら頭一つ分以上高くなっていた。


「仮入部って、なにやるの? 北山は高跳び教えているの?」

「そんな面倒なこと俺がすると思う?」

「……やらないね」

「うん、やるわけない」


 二年生になって、みんなクラスが分かれてしまった。なのに、よりによって北山とはまた同じクラス。けどまあ、北山もニホンザルがチンパンジーくらいには進化したから、前ほどうっとうしくはない。


「じゃ、がんばれよ」


 昇降口を出たところで、北山がグラウンドに向かっていく。その後ろ姿に向かって声をかける。


「ちゃんと後輩の面倒みるんだよ~」


 北山は軽く走りながら空に向かって叫ぶ。


「やなっこった!」


 そう言いながらもあいつは一年生相手にふざけるのだろう。緊張をほぐしてあげるために。そんな姿を何度か見かけたことがある。

 私も部室へと向かう。ピロティではバトン部が練習をしていて、こんな部活あったんだ、と今更気が付く。いつもはどこで活動していたんだろう。

 人が通ろうと構わずに飛び回る大きなバッタをボクサーのようによけながら、ようやく部室に辿り着く。ドアを開ける時にブレザーの袖にテントウムシが止まっているのを見つけ、フッと息を吹きかけて飛ばす。指で触ると変な汁が出ることがあるから要注意だ。

 ドアを開けると、葵が床に座ってストレッチをしているところだった。


「早いね」

「生徒会のミーティングがあるから、途中で抜けちゃうけど」

「うん。わかった」


 ロッキングチェアはすっかり美香の定位置になっていて、今日もすっぽり収まっている。

 そして向かい合っているのは新入部員。これがまた、かわいいんだ。つい最近まで中学生だった雰囲気を存分に残している。背も私より小さいくらいだし、声変わりもしていない。目なんかクリクリで、髪も茶色っぽくてサラサラ。とても澤田カリンの弟とは思えない。


 ――そう、この子はかつての美香の代役ちゃん、城東学院の澤田カリンの弟。中学では部活に入っていなかったらしいけど、下郷高校に合格した時にカリンから演劇部を勧められたらしい。すごく演技の上手い先輩がいるから、って。


 その「すごく演技の上手い先輩」はロッキングチェアでユラユラ揺れている。


「お座り」

「わん」

「お手」

「わん」

「おかわり」

「わん」


 ジャージに着替えた私は、葵の隣でストレッチをしながら目の前で行われている光景をまじまじと見つめる。


「……あれ、なにやっているの?」

「ん? 調教だって」葵は見もしないで答える。

「調教ぉ?」

「梢、見て見て。かわいいでしょー」


 美香が得意げに後輩を自慢する。


「あんたねぇ、悠基ゆうきをなんだと思っているのよ?」

「私さぁ、弟欲しかったんだよねぇ~」

「犬の間違いじゃなくて?」


 その間も澤田悠基はおとなしくお座りの姿勢を維持している。


「悠基も、嫌な時は嫌ってはっきり言いなよ」

「いえ! 楽しいです!」


 ホントかよ?


「あー、ポチ、ミルクティー買ってきてぇー」


 美香が財布から小銭を取り出して悠基に渡す。


「はいっ!」


 悠基も「はいっ」じゃないよ。ポチって呼ばれているじゃん。でも、その返事すら美香は許さない。


「『はい』?」

「あ! いえ……『わん』」

「よし! 行け!」

「わわんっ」


 悠基が出て行ったばかりのドアを見つめるとため息が出た。


「犬じゃなくて、パシリだね」


 どちらの方が格上かわからないけど。


「まあ、本人が喜んでいるんだから、いいんじゃない?」


 葵はストレッチを続けながらのんきなことを言った。

 ……唯一の新入部員が逃げ出さないことを祈るばかりだ。



     *



 山の木々の葉がやわらかそうな明るい黄緑色をしている。辺りの空気まで光の量が増えたかのようで、どこを見ても眩しさに目を細めてしまう。上空をとんびがピーヒョロロと鳴きながら旋回し、時折田んぼに突っ込むようなタッチアンドゴーを披露する。

 その景色を見ながらする発声練習はとにかく気持ちがいい。声と一緒に体の中の淀んだものとかがすべて緑色の光の中へ吸い込まれていく。

 私たちの声すらかき消すように、ンモォー、ンモォーと太く低い声がこだまする。


「学校の裏って牧場でもあるんですか?」


 悠基が窓から身を乗り出して辺りを見渡す。


「ああ、あれね」


 美香が興味なさそうに窓の外に目を向ける。向けるだけでちゃんと見る気はない。


「牛の声ですよね?」

「牛、なのかなぁ?」


 美香が愉快そうに私に声をかける。


「さあね」と肩のあたりで手のひらを天井に向けるオーバーアクションをしてみせる。

 当然私たちは答えを知っている。一年前はやっぱり悠基と同じように牧場があるのだとばかり思っていたけれど。


「遅れてごめーん」といつもの台詞と共に部室のドアが開き、葵が入ってくる。


「ピロティでウシガエルの声が反響してうるさいのなんのって!」


 うんざりした口調で文句をいいながら、耳の奥に残る音を振り払うように首を振る。


「ウシ……ガエル?」


悠基が眉を寄せる。でも眉間にしわは寄らない。いや~、いいねぇ、若いって。一歳しかちがわないけど。


「あーあ。もう正解言っちゃったよ~」


 美香は笑顔のまま口を尖らせる。


「え? あ、なに? 悠基、まだ知らなかったの?」


 葵もすぐに理解する。下郷高校じゃ、この時期の風物詩だしね。ウシガエルの合唱と新入生の驚く顔。

 その間も田んぼではウシガエルがンモォー、ンモォーとおなかの底に響くような低音を合唱している。はっきり言って奴らはうるさい。夕方になるほど元気になるみたいで、午後の授業とかだと先生の声なんてほとんど聞こえないほどだ。


「へぇー。カエルなんですかー。どんな姿しているんですか?」

「え……?」

「……」

「……」

「大きいんですか? 大きそうだなぁ。こんなに声が大きいし」

「……」

「あれ? 先輩?」

「――知らない」


 美香がびっくりしたような顔でつぶやく。


「え? 知らないんですか?」


 悠基も同じような表情になり、私と葵をうかがう。


「そういえば姿見たことない……」葵も呆然としている。

「私だって」見たことない。声はこんなに聞こえるのに。

「ええー?」


 甲高い驚きの声を上げる悠基。

 だって、姿を見たいなんて思ったことないんだもん。なんとなく見ない方がいいような気がするし。


「ウシガエル、うるせーな! モーモーモーモーどんだけ鳴くんだよ」


 ウシガエルにも負けないうるささで入ってきたのは我らが顧問の古賀先生。


「窓閉めろ、窓。話もできやしない」


 窓を全部閉めると、ウシガエルの鳴き声のボリュームが少し落ちた。静かとは言い難いけれど、それでもなんだか体の力が緩んでリラックスする。


「はーい、全員集合ぜんしゅう~」


 古賀先生は全集をかけながら、長机の方へ向かう。全員が席に着くと、一通の封書を私の前に滑らせた。みんなの視線が封書を追い、私の前で止まった。

 「県立下郷高校演劇部 御中」の宛名ラベル。既に封は切られている。中から三つ折りの書類を取り出す。


「――大会の申込書!」


 私の言葉にみんなが姿勢を正す。部室の空気が一瞬で引き締まった気がした。

「どうする?」と古賀先生は私たちを見渡した。


「地区大会の会場分けはくじ引きだ。城東学院と一緒になる可能性もある」


 正直、わだかまりはある。


 交流会で瑞希やカリンになんの抵抗もなく「劇の内容、似ていたね」なんて話しかけてこられた時は、全身が縮こまる感じがした。どうして被害者側が怯えなくてはならないのか。まあ、私たちは直接の被害者ではないけれど。

 そしてそれで確信した。私たちの考えた通りだと。部長しか知らないんだ。他の部員はあの劇がなにを意味するのかさえわからずに演じていたんだ。


 萌先輩はどういうつもりだったんだろう。城東学院の部員たちに知らせないで謝罪したつもりなのだろうか。それっておかしくないだろうか。いや、たしかに今の部員たちは関係ない。過去の話だ。でもそういうものなのかな。個人の問題なの? 城東学院演劇部としての問題じゃないの? そもそも顧問はなにをやっているの? ――まさか。顧問ストップがかかっているとか? 


 遠くでウシガエルの声だけが聞こえる静けさの中で、沈黙に耐えきれなくなったのか、悠基がモジモジし始めた。


「えっと……城東学院となにかあるんですか?」


 うーん……。

 返事に困ってみんなでモジモジする。


「姉が城東学院の演劇部なんですけど……」


 知っているって。


「県大会で下郷高校に勝つんだってはりきっていますよ」


 県大会。カリンは私たちが県大会まで進めると思っているってこと?


「美香先輩はライバルだからって」


 美香が身動きせずに目だけを大きく見開いた。ああ、本当におどろいた時って、案外動きは少ないものなんだな。


「……カリンが?」

「はい。美香先輩を追い越してやるって息巻いてました」

「追い越す? 私を?」


 美香の目尻が下がり赤みを増した。


 中学の県大会当日に逃げ出した美香の代役で舞台に立ったカリン。代役でありながら主役を堂々と演じきったカリンは、その時点で美香の上なんだと私は思う。でも、カリンは美香の演技力の方が上だと思っていることになる。

 ――そうか。だからあんなに怒っていたんだ。自分よりも演技力がありながら自信を持てないでいる美香がもどかしかったんだ。

 なんだ。案外、悪いやつじゃないのかもしれない。


「あと、萩台北中出身の人もいるらしくって、その人も負けたくない人が下郷高校にいるらしいですよ」


 ――瑞希だ。


 美香と葵の目がこちらを向く。

 ふんっ、と古賀先生が鼻を鳴らした。


「なんだぁ? こりゃ、やるしかねーな」

「やりますっ!」


 二年生三人の声が揃った。

 地区大会でも、県大会でも勝ち進んでやるんだから。


「よーし。しっかりやれよ!」

「はい!」


 私たちはじっとしていられずに立ち上がる。悠基だけが座ったまま私たちを見上げて問いかけた。


「――で、城東学院となにかあったんですか?」


 その言葉を私たちはウシガエルの声で聞こえなかったことにした。





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