昔話。お茶漬け。

 岡田誠一郎は、二親を亡くした葬儀中ですら涙の1つも見せなかった。

 その代わりに、14歳にしては鋭い目付きで線香の細い煙の向こう側に置いてある棺を睨み付けていた。

 剣呑な空気を漂わせる誠一郎のその様子を見ながら、彼の親族たちはひそひそと言葉を交わす。


 ──気丈な子だよ、両親を同時に亡くしても口を真一文字に引き締めてさァ、焼香の時なんてまぁ、まるで射殺すような眼力だったよ。


 ──いやでもそうなっても仕方ないだろう、近年の一郎さんとトヨさんは何だか妙な神さんを崇め奉ってたじゃないか。


 ──代々の仏壇まで潰してねぇ……噂によるとサンノメ様とか言うらしいよ? 聞いたこともない怪しい神様を拝むために、豊次ちゃんの位牌まで捨てちまったんだろう? 本末転倒というか……憐れでなんないよ。


 ──それで、誠一郎くんはどうするんだ?


 ──アタシは嫌ですよ引き取るなんて。


 ──俺のところもなあ、可哀想だと思うんだがこればっかりは……。


 ひそひそ、ひそひそ。


 背後で囁かれる言葉を、誠一郎は一言一句漏らすことなく聴いていた。

 そして、生まれつきの耳の良さを呪いながら、更に唇を固く引き絞る。


 サンノメ様。


 誠一郎の両親が妙な神を拝むまでにおかしくなったのは、10歳下の弟が流行り病で死んでしまってからだった。

 弟の死までの時間は、悲惨としか言いようがなく、それが両親を更に追い込んだのもあるだろう。

 弟が死んだ後、誠一郎の家から生気の火が消え、底冷えするどんよりと重い空気の中で過ごす日々が続いた。

 父は毎晩安酒の臭いを漂わせるようになったし、母は毎日仏壇の前で泣き崩れていた。


 誠一郎も勿論悲しかったが、廃人のようになってしまった両親を支えなければならないという使命感を胸に一人立ち上がり、両親がこの悲しみを乗り越えてくれるまで、身の回りの事を全てやった。

 しかし、甲斐甲斐しく働く誠一郎の姿を、両親の濁り湿った両目が写すことは二度となかった。


 そして、どこからか聞き付けたのか、怪しい宣教師が家を訪れ、両親にサンノメ様の御神体とかいう不揃いな切り子が入った黒い石を見せたのだ。

 両親は、その御神体を虚ろな目で眺めていたが、突然「豊次がこの中にいる!」と狂喜して、宣教師の言われるがままにご先祖様と弟の位牌が置かれた仏壇を壊し、代わりに不気味な祭壇を拵えて、更に仏間の出入り口以外を板や漆喰で塞ぎ、少しの光りも入らないようにしてしまった。

 両親の凶行を誠一郎は必死に止めたが、父親に馬乗りにされて何度も何度も殴られた時、優しかった両親はもう壊れてしまったのだと、誠一郎は深い絶望の中に沈んでいった。


 その日から、両親は光の無い仏間で奇妙な念仏を唱え続け、まれに仏間から出たと思えば誠一郎に暴力を振るった。

 誠一郎は、家を出ていくことも考えたが、やはりどうしても両親を見捨てることが出来ず、学校を辞め配達や活字拾いで生計を立てた。


 地獄のような日々だった。


 しかし、そんな毎日を送るなかで、誠一郎はふと念仏が途絶えている事に気が付き、彼は首を絞められるのを覚悟で仏間の戸をわずかに開けた。

 むわりと、鼻をつく人間の皮脂と糞尿が腐ったような悪臭の中で、祭壇にすがり付くような姿で、両親は体に沸いた毒虫と天井の隅で目をギラつかせていたネズミに食い殺されていたのだった。


 こうして誠一郎は、地獄からの解放と引き換えに、天涯孤独の身となったのだ。


 線香が燃え尽きた。


 親族は既に帰った後らしく、どうやら長いこと誠一郎は仏前で固まっていたらしい。

 重苦しい溜め息を吐いて、後片付けをしようと腰を浮かせた時だった。


 ぎしりと畳を踏む音と、線香の香りをかき消すような濃い煙草の匂いで部屋が満ちた。


 力強い足音が数歩、そしてどっかりと誠一郎の隣に座る。


 思わず浮かせた腰を再び落として隣を見れば、太いタバコをふかした大柄な男がいた。

 男は、線香よりも更に白い煙を口から吐きながら、低く落ち着いた声色で言った。


「俺ァ蘭堂らんどうっちゅーもんだ。しがない貿易商をやってる」


 日に焼けた肌。筋肉の付いた体。頭髪には白い毛が混じっていたが、見た目は若々しく思えた。


「お前ェの親父達は質の悪ィもんに憑かれちまった。親父達を殺したのは虫でもネズミでもねえ、そのサンノメとかいうペテン野郎さ」


 ふぅーっ。と再び白煙を吐き、蘭堂は懐から小箱を取り出した。


「これだろ、御神体とかいうやつァ」


 ぱかり。と蘭堂が開いた小箱には、あの黒々とした、不揃いな切り子の石が入っていた。

 誠一郎は、脳裏に甦った忌まわしい記憶にひゅっと息を飲む。


「安心しろ、こいつァ紛いモンだ。材質はトネリコ、黒漆塗り。どっちもウンガイの森っつー米国の木から削り出されたもんだ。本物は木じゃねえ、二寸六分10センチぐれぇの結晶だ」

「紛い物……? どういうこと……ですか?」

「お、やっと喋ったな。口が利けねぇもんだと思ってたぜ」


 蘭堂は困惑する誠一郎の顔を横目で見ながらニヤリと笑った。


「お前も知らねぇうちに、コッチ側に足を突っ込んじまったって事よ」


 そう言うと、おもむろに彼は吸っていたタバコを口から外し、何のためらいもなく御神体に押し付けていた。

 あ。と、誠一郎は声を上げる。

 タバコを押し当てられ、揉み消されたそれは、あの禍々しさはどこへやら、タバコの丁髷を生やした滑稽なガラクタに成り果てていた。


「おい坊主。俺ァ腹が減ってんだが、なんか食いもんはねぇのか?」


 パチン。と小箱の蓋を閉じ、灰にまみれたガラクタを懐にしまいこんで蘭堂は言う。

 誠一郎は、奔放な彼に戸惑いながらも立ち上がった。


「冷や飯と……ぬか漬けがあったはず。茶漬けでよければ出しますよ」

「おっ。いいねえ、どれ俺も手伝ってやろう」


 そう言って蘭堂も立ち上がり、男二人で台所へと向かった。

 仏間の代わりに宛てがわれた両親の部屋を出る時、誠一郎はわざと敷居を踏んで出ていった。

 その横顔は、どこか晴れ晴れとしていた。





 両親の面倒を見ることになった時、最初に誠一郎が覚えたのが茶漬けだった。

 何のことは無い、母親がかき混ぜていたぬか床から野菜を抜いて、洗って大ぶりに切って飯に乗せ、そこに熱い茶を注ぐだけで出来るものだ。

 13になるまで包丁を持ったことがない誠一郎でも、ゆっくりとした手つきながら拵えれた初めての料理だった。

 今では、すっかりと様になった手つきで、糠を洗い落としたキュウリと人参を切り分けていく。あとは朝に切っておいて忘れていた沢庵も入れれば良いだろう。

 手伝うといって付いてきた蘭堂は、お湯を沸かしていたが、それはもうよく喋った。


 米国で、魚面の男達に攫われそうになった事。

 印度で、ガネヱシャとか言う神仏像を運んでいたら、それが全く違う邪法の神の像だった事。

 阿弗利加で、砂漠を泳ぎ、石を噛み砕くイカのような化け物に襲われた事。

 埃及エジプトで、猫神を信仰する血なまぐさい民族に追い回された事。


 どこまでが本当なのか分からないが、まだ成人していない誠一郎にはどれも刺激的な内容だった。

 面白おかしく語られるそれらの話に、思わず包丁の手を止めて聴き入った。

 ヤカンが蒸気を吹き上げた。

 誠一郎は慌てて途中で止めた漬物を切り、おひつで保管していた冷や飯を丼に盛り、漬物を乗せる。

 蘭堂は慣れた手つきでヤカンのお湯で茶を入れれ、先々と茶の間まで持っていき、誠一郎が丼を持ってくるまで、タバコ入れを取り出して、曲がったタバコを出来るだけ真っ直ぐにするように撫で回していた。


「お待ちどうさまです」

「おう、こっちも茶葉はいい塩梅にふやけた頃だぞ」


 誠一郎は器用に片手ずつに箸の乗った丼を持って来た。

 盆は無いのか? と蘭堂が訊くと、誠一郎は困ったように笑い、祭壇を拵えるのに使われてしまった。と言いながら丼を差し出した。

 蘭堂は丼を受け取り、中を見る。

 ぬか漬けはキュウリと人参。そして手製の白い沢庵だ。


「いいじゃねぇか、堪らんほど豪勢だ」

「そう言って貰えると有難いです」


 はにかむ誠一郎が気恥しそうに頭を掻いている間に、蘭堂は丼にたっぷりの茶を注ぎ、直ぐに口を付けた。

 ズッ。と啜られた茶の味は濃く、少し苦味があったが、冷や飯を崩しながら啜れば、米粒の形がしっかりとしていながらも、噛めばじわりと甘く、丁度いい。

 塩辛さを欲して齧る漬物もまた美味い。

 ぬか漬けはじっくりと何年も使い続けたのだろう、キュウリと人参の雑味が抜かれた真の味が噛むほどに広がり、食感はパリッと気持ちがいい。

 沢庵はしっかりと塩を効かせているらしく、ゴリゴリに固くてしょっぱいが、これが飯とお茶に合わさると口の中で良い出汁となって喉奥にスルスルと流れていくのだ。

 空腹もあって、蘭堂はペロリと茶漬けを平らげてしまうと、腹の真ん中の辺りがじんわりと温まる感覚にホッ、と息をこぼす。

 それは良い茶や良いタバコを嗜んだ時の様な、一服の呼吸。

 刹那の至福を堪能し、その余韻を噛み締めるようにゆっくりと伏せていた目を上げて、ギョッとした。

 誠一郎が、目から大粒の涙を零しひっくひっくとしゃくり上げながら、茶漬けを食べている。

 葬儀中、あれほど棺を睨めつけていたのに、両親の部屋を出る時に、わざと敷居を踏んで行くほど恨みを込めていたというのに。


 ──けれども、あぁ……そうだ、そうだよなァ……。


 ぬか漬けは家の味。同じ味は存在しないと言われている。

 誠一郎が泣きながら食べているのは、最期に残った母の味だ。

 まだ両親は正気で、可愛い弟も居て、笑いながらちゃぶ台を囲んでいたあの頃の味のままなのだろう。

 自分の心は騙せても、舌を騙すことは出来ない。

 今、ようやく彼は優しかった両親と今生の別れをする事が出来たのだ。


 泣きながら茶漬けを頬張るその顔は、何のことは無いただの14歳の少年の顔であった。





「坊主、お前一通りの事が終わったら俺の所に来い」


 静かに泣きまくったせいで、パンパンに腫れ上がった目を、水枕を乗せて冷やしていた誠一郎は思わず「え?」と聞き返す。

 親戚連中ですら引き取りを渋った自分を引き取って、一体どうするつもりだ。というような意味合いを込めて。

 すると蘭堂は、食前に伸ばしていた巻きタバコを取り出して火をつける。

 そして軽く一服をしてから、落ち着いた楊子でゆっくりと語り始めた。


「お前の親が関わったサンノメには別の名前がある。米国ではナイアーラトテップ。埃及では黒きファラオ。英国では確か膨れ女とかだったな。様々な国、遠い過去から人間を狂気に陥れ、人理を引っ掻き回してはケタケタと嘲笑うとんでもねぇ野郎でな、俺達はそれを総称してと呼んでる」


 ぞわり。誠一郎の肌が粟立った。

 蘭堂が手巻きタバコに火を付けながら語る言葉の一つ一つに、得体の知れない粘ついた恐怖がまとわりついている。

 蘭堂は、なおも続ける。


「奴は執念深い、一度関わった人間を逃す事はしねぇ。これから先、真っ当に生きようとしてもお前は必ず厄介な事に巻き込まれる」


 思わず水枕を退けて身を起こせば、蘭堂の口から、ふぅと白煙が散った所だった。


「だからこそ俺の会社は、そういう奴らを集めている」


 蘭堂が誠一郎と視線を合わせる。

 その目は真っ直ぐだ。


「目を付けられたら厄介な事に巻き込まれるなら、いっその事それを金にしてしまえばいい。そうしながら俺達は無貌の神を含めた様々な化け物どもに対抗する力を蓄えるんだ。ちなみに俺はお前を無貌の神の三眼から逃す事が出来る」


 再び白煙を吐く。

 誠一郎は彼の言葉に目を丸くしていた。

 あまりにも豪胆で、あまりにも規格外の男であると。


「一目見た時から気に入った。お前には真っ直ぐ通った芯がある、俺はお前を育ててみたくなった、輸入業はキツいが、見返りに安息の地を約束してやる。悪い話じゃあるめぇよ」


 ニヤリと笑った蘭堂の表情は、必ずやり遂げてみせるという自信に満ちたものだった。

 親もなく、親戚も期待出来ない。その先の無い人生に手を差し伸べる姿は、まさに下界に現れた釈迦か菩薩か。


「どうか、どうかよろしくお願いします」


 誠一郎は姿勢を正し、深々と蘭堂に頭を下げていた。

 彼はタバコを消し、膝をポンと叩いた。


「おう、この蘭堂銀助に任せとけ!」


 こうして、岡田誠一郎は蘭堂輸入業へと就職を果たした。

 蘭堂に連れられ、様々な国を巡り、危険な目に何度も会ったが、後に彼の姪である霧町美芳子と結婚した。

 蘭堂曰く、美芳子には強力な蛇神の加護があり、紛い物を介して目を付けられた程度なら、簡単に弾く事が出来るのだという。

 誠一郎は、蘭堂に与えられた恩を返そうと今まで以上に彼に尽くそうとしたが、彼は可愛い姪の結婚を見送ると、自分の後継者に全てを任せて煙のようにその消息を絶ってしまったのだった。


「美芳子さん。どうだね体の具合は」

「だいぶ良いですよ誠一郎さん。んだけんども晩飯の用意ばしてもらって、何から何まで悪いわぁ」

「そんなん構わんですよ、一人の体じゃないんですから。医者から悪阻が酷い時は、さらっと食えるものが良いって聞いたから……茶漬けを作ったんだが、食べれるかい?」


 だいぶ大きくなった腹を擦りながら、布団から身を起こした美芳子は柔らかく微笑んだ。


「誠一郎さんの作る茶漬けなら、うんめぇすけいくらでも」


 2人は向かい合って、茶漬けを啜る。

 そしてこのささやかな幸せを噛み締めるように、穏やかに笑いあうのであった。

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