6膳目。卵かけご飯(前編)
ハスターさんのお陰で台風は去り、美澄香さんご自慢の畑に実っているトマト達は誰も落ちる事無く、ようやく花開いたナスもまた、嵐の後の露を吸って逞しく育っていた。
この調子ならば、中旬頃には甘いトマトがどっさりと取れ、初秋前にはナスも収穫出来るだろう。
『まずは氷水でキリッと冷やして丸かじりでしょ〜それにサラダにジュースに……トマトピューレ作ってミートソース!あああ楽しみだなあ〜』
笑みを浮かべ、口内にじゅわっと満ちる涎を何度も飲みながら、美澄香さんはせっせと畑の手入れを続ける。
天気は快晴、雲一つ無い青空の下、気分はまさに爽快と言ったところだ。
「美澄香ちゃん〜具合はなンじょだね〜?」
ふとそう声かけられて、草むしりの体を持ち上げれば、そこにはいつも彼女が卵を買う養鶏場のお婆ちゃんが階段手前の下り坂付近で手を振っていた。
「鶏のお婆ちゃん!今日はどうしたんですか?」
軍手を外し、作業着の土埃を軽く払い落としてから養鶏場のお婆ちゃんに小走りで近付けば、年の割にはしゃんとした背筋の彼女はニッコリと笑って言った。
「あンれよ、明後日水神様のお祭りがあっから知らせねばなんねって思ってさァ」
「水神様のお祭り……?」
聞き慣れないその言葉を反復して美澄香さんは首を傾げる、するとお婆ちゃんはアッハッハと豪快に笑って続けた。
「んだ無理もねがったわ〜。水神様のお祭り2年に1度だし、お
ごめんね〜と手を合わせて美澄香さんに謝りつつ、お婆ちゃんはこう説明してくれた。
「オラん家の近くに神社があるべや?あそこに水神様祀ってあんだわ〜屋台もなァんも出んけれど、町の方から来た巫女さんにお供え物渡してな、豊作祈願するだけだ〜」
「お供え物?」
「んだよ、茹で卵」
笑い声が更に大きくなる。
そして美澄香さんはなるほどと察する。
「今日は卵の行商ですか?」
「あっはっは!ンだ!ンだ!」
卵のようにつるりとした丸顔に、おおらかな笑みを浮かべて、お婆ちゃんは近くに止めてあったリアカーの中、緩衝材に包まれた卵を1つ取り出して、美澄香さんに持たせてみる。
「今朝の産みたて、大きさはMって所だけどどうするかね?」
美澄香さんの手の中に、すっぽりと入る白い卵はまだほんのりと温かい気がする。
指で表面を撫でれば、ザラザラボコボコとした肌触り。
産みたての証だ。
「じゃあ32個で、4パック分」
「はいよありがとね」
紙で作られた緩衝箱に丁寧に、しかし素早い手付きで卵が詰められ、蓋を閉めて手渡される。
「じゃあ500円ね」
野良着のポケットから非常用にと持ち歩いている小さながま口財布を取り出して、そこから大きな硬貨を1枚指で摘んでしわくちゃの手のひらに乗せた。
「はい、ありがとうお婆ちゃん」
「こちらこそありがとうね」
お婆ちゃんはリアカーの輪留を外し、ぐるりと方向転換して坂を下ろうと1歩踏み出そうとした時、ふと美澄香さんの方を振り向いて、尋ねていた。
「そういえば美澄香ちゃん、アンタの家友達でも遊びに来てるんろっかね?」
「え?」
突然の質問に、美澄香さんはあっけに取られた顔でお婆ちゃんを見つめた。
「いやね?話し声ば聴こえっし、卵だって美澄香ちゃんがいくら食いしん坊だっても食べきれないでしょう?」
確かに。と美澄香さんは大事に取っ手を掴んだ卵入りの緩衝箱に目を落とした。
まさか神様と同棲しているなど言えるはずもなく、美澄香さんは苦笑いを浮かべて「そうなんです〜」と、曖昧に返事をした。
すると、お婆ちゃんは訝しげな顔をする事も無く「そうかね〜」と一言だけ、嬉しそうに笑顔を浮かべて頷いた。
「ええ事だ、大切にしなんしょ」
最後にペコリと会釈をし、お婆ちゃんはリアカーを引いて緩やかな坂を下っていった。
美澄香さんはその小さい背中を見送って、そろそろ朝食の時間だと思い立ち小走りで階段を駆け上がった。
「気に食わない」
本日の朝食は炊きたてご飯にけんちん汁、おかずは鯵の南蛮漬けに、叩きキュウリと……勿論卵焼き。
熱々のホカホカご飯に、1晩じっくりと冷蔵庫で寝かせた南蛮漬けのキュッと酸っぱい冷たさは、夏のシーズンに気だるくなりがちな体を締めてくれる。
今やすっかり円卓も、それぞれのオカズでギュウギュウ詰めになり、人間1人に神2柱、後は謎の生き物1匹で囲むには手狭になりつつあった。
しかし、これはこれで幸せだなぁ、と甘いご飯を噛み締めながら、美澄香さんは今朝方の話を簡潔に述べていたら、突然ハスターさんがそう不機嫌そうに言ったのだ。
卵焼きがあるのに、ここまで不機嫌さを顕にするのも珍しいと、美澄香さんはご飯を飲み込んだ。
「養鶏場のお婆ちゃんはいい人ですよ?」
そう美澄香さんが言うと、ハスターさんが一瞬だけ首を傾げたが、食い違いがあると気付いたのか「いや違う」と訂正し始めた。
「祭りがあると、言ったな」
「はい。水神様のお祭り」
「僕が気に食わないと言ったのは、それ」
けんちん汁の大根を口に入れ、ゆっくりとハスターさんが咀嚼する間に、早々に南蛮漬けを食べ終えてしまったヴルトゥームちゃんが続ける。
「いぜんミスカには わたくしたちに おおあにうえがいることを おはなししましたよね?」
「うん、仲が悪いんだってね」
「おおあにうえ、クトゥルフはみずをしはいするかみです ゆえに、あにうえはみずのげんそをつかさどる そのけんぞくすべてをきらっておいでです」
「なる程ねー」
納得したように美澄香さんが頷けば、ローブ越しの、真っ暗な顔の向こう側で確かにハスターさんはヴルトゥームちゃんを睨んでいた。
「アイツの名を出すな、その名を聞くだけでも忌々しい」
そう言い、卵焼きを1切れ食べると、落ち着いたように息をついていた。
彼にとって卵焼きは鎮静剤か何かなのだろうか。
「うーん……でもそうなるとおかしくないですかね?」
叩きキュウリの、カリカリシャッキリした瑞々しい食感と、鼻から抜けるゴマ油と鷹の爪の風味を楽しみつつ、次は美澄香さんが首を傾げた。
「ここは山間ですよ?確かに川はありますけれど小川程度ですし、それに大兄さんは海の神様なんですよね?こんな山奥にまで信仰されるほどなんですかね?」
その疑問に2柱は確かに、と頷いた。
「おおあにうえにしては、てびろくやりすぎですよね」
「そうだな、なるとアイツの線は薄くなったな、結構な事だ」
ハスターさんはほっとした様子で、再び卵焼きを頬張りつつ、空になった茶碗を美澄香さんに差し出して2杯目の白米を盛ってもらう。
「ですが、ミスカ。ようじんしてくださいね?」
「用心?一体何に?」
ヴルトゥームちゃんのその言葉に、お代わりの白米に箸をつけようとしたハスターさんも思わず固まったように彼の言葉に耳を傾けた。
「いどにとじこめられていたショゴスのように、このちには なんらかのかみのちからが はたらいているとしか おもえないのです」
「何らかの神様の力?」
「おまつりはけっこうですが へんなものをひきいれぬよう きをつけてくださいねミスカ」
いつになく真剣な眼差しのヴルトゥームちゃんだったが、美澄香さんは聞いているのかいないのか頷きながら南蛮漬けを一口。
昨晩揚げた小鯵は玉ねぎと南蛮酢のお陰で小骨が気にならないほど柔らかく、ホロリと口の中で解けていく。
酢も、尖った酸味は小鯵の脂で丸く収まり、薄口醤油の醸された風味と塩っけで、ご飯が何杯でも食べられる。
「はぁ……もっと食べたい……」
どこか恍惚すら感じられる吐息を吐きながら、本日3杯目の大盛りご飯をわしわしとかき込むその姿に、ハスターさんはヴルトゥームちゃんにコッソリと耳打ちをした。
「……無形の落し子の退散でも、唱えた方がいいだろうか」
その言葉に、ヴルトゥームちゃんは苦笑いを浮かべる事しか出来なかった。
お祭り当日。
美澄香さんはゆで卵を数個入れたビニール袋を持ち、ゆっくりと石畳の階段を上っていた。
よくテレビで見るような、立派なお寺や神社とは違って、コンクリートや綺麗な石で舗装された道などあるはずはなく、先日の台風の影響で土はぬかるみ、歩く度に泥が跳ね、美澄香さんのジーパンの裾を汚した。
勿論、街灯など便利なものすら無いので、途中までは美澄香さんもスマートフォンのライトを使って足元を照らしつつ歩いてきたが、今日はお祭りとあってか、昼間でも天高く伸びた木々に囲まれて薄暗く、幽霊の1人や2人は出そうな雰囲気のある神社には、轟々と真っ赤な篝火が焔の身をくねらせて辺りを明るく照らしていた。
「あら美澄香ちゃん。来なすったんらねぇ」
篝火の近く、近所のお年寄り達と話をしていたらしい養鶏場のお婆ちゃんが美澄香さんの姿を見てにこやかに手を振った。
周りのお年寄り達も美澄香さんを見知っている様子で、ニコニコ顔で彼女に会釈をする。
「ああ会合の皆さん、どうもこんばんわ」
美澄香さんの挨拶に、お年寄り達もゆったりとした口調で「こんばんわ」と返した。
「お
「お美芳さんも、よく来て下さって。そのお孫さんが御参りに来てくれるなんて嬉しいことだねぇ」
「ワシらはもうしわくちゃだから、美澄香ちゃんみたいな若い子が御参りに来てくれて、水神様も喜んでらっしゃろうなあ」
「違ぇねぇ、違ぇねぇ」
ワッハハハ。と、お年寄り達と笑いあい、少し会話を楽しんだ後、美澄香さんは境内に上がり綺麗な紅白の装束を来た巫女さんに促されるまま、お供え物のゆで卵を手渡した。
「本日は、どうもありがとうございます」
深々と巫女さんが頭を下げてから、美澄香さんに朱色の杯を手渡すと、そこにお神酒をゆっくりと注いだ。
美澄香さんは少し緊張した面持ちで、恭しくお神酒を受け取ると、すっと一口分のお神酒を飲み干してから、杯を巫女さんに返した。
それを見計らい、神主が大幣を頭の上で振るい、五穀豊穣の祝詞を読み上げた。
普通、祝詞は神の御前にて読み上げるものだけど……。とぼんやりとそう思いつつ、読み上げが終わった神主に深くお辞儀をしてから、境内の階段をゆっくりと降りて行く。
お神酒と言えども酒は酒、しかも美澄香さんは余りお酒が強くはない。
火照り出した頬を手のひらであおぎながら、広場を抜け、石畳の階段を慎重に降りつつ酒気の含んだ息をふうふうと吐く。
元々弱い体質だが、OLを辞めてから一滴も飲んでいないのもあり、美澄香さんの体に一気にアルコールが駆け巡っていた。
酩酊までは流石にいかないものの、久しぶりに感じる視界の歪みに、くらりと眩暈を覚えて美澄香さんはふらついた。
まだ階段は降りきっていない。
極論、死にはしないが落ちたら確実に怪我をする。
朝も早ければ寝入るのも早い老人達は、美澄香さんが祝詞を読み上げられている間に全員帰宅している。
あやわ、美澄香さんの嫁入り前の体に醜い傷跡ができてしまうのか。
……と、その時だった。
「ほら、危ないよ」
美澄香さんの細腕を、優しく取って引き寄せる者がいた。
おっとっと。と、彼女は後ろによろめくが、その体を上手に受け止めたその人は、掴んでいた美澄香さんの右手を古びた手すりに誘った。
「危なっかしいねェ、全くお酒が弱いのを自覚しているンなら、どうして断る事をしないかなァ〜……」
困ったような、しかし不快感は全くない男性の声。
酔いが回った美澄香さんは、聞き覚えのないその声に多少困惑したものの、男性が「ほれ、歩けるかい?」と手をパンパンと鳴らすとそんな考えは音と共に弾けてしまったように忘れてしまい、後ろで男性が見守る中、数段残した階段をようやく降りきったのだった。
はぁ〜……っ。と、ここで酔いも少し覚めたのか、安堵のため息をついた美澄香さんは、お礼を言わないととクルリと振り返った。
そこには古風な……一言で表すならば大正ロマンたっぷりな、黄色と焦げ茶の矢羽柄の羽織を引っ掛けて、灰の総絞りの着物を身に付けた、切れ長の瞳をした涼しげな好青年が柔和な微笑みを浮かべていたが、美澄香さんの顔を見た瞬間、その爽やかさが驚きの色に染め上がり、切れ長の瞳が真ん丸に見開かれた。
「お美芳ちゃん……?」
青年の口からポロリと零れたのは、間違いなく大好きな祖母の名前だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます