お夜食。たまごふわふわ

珍しく、美澄香さんは苛立っていた。

きっかけはなんら珍しくもない、家族関係のいざこざである。


深く語る事も無い、ただの家族間の問題であるのだが、家族であるからこそその棘は深く美澄香さんの心に食い込んだ。


心臓を突かれるような痛みと、胃からせり上がる不快感にはさすがの美澄香さんも参っていた。


帰りの電車に揺られ、数時間前まで確かにそこにいた都会の夜景をぼんやりと見る。


──食べた気がしなかったなあ。


久しぶりの都会。

久しぶりの外食。

久しぶりの家族の団欒。

……穏やかに過ぎる筈だった時間も、美味しく食べられたはずの料理も、ひとつの言葉が全てを崩してしまった。


──鴨肉、柔らかかったのに。味覚えて無いの悔しいなあ。


はぁ。と大きくため息をつく。

せっかくのお洒落も無駄になったと気付いてしまうと更に気落ちした。


──お父さんやお母さんの言いたい事は……分かる。けれどそれをお婆ちゃんの責任にする事なんてないじゃない。


未婚の一人娘が、田舎で一人暮らし。

その生活に、母親は「世捨て人のようだ」とあからさまな嫌悪感を示した。

美澄香さんにはその言葉が、大好きな祖母を貶されたように聞こえ、更に都会に戻るように、結婚をするようにと催促してくる両親の口撃。

そして止めとばかりの「お義母さんなんかに任せるんじゃなかった」の言葉。


思い出すだけで、また心臓が痛み出す。


──なんだか、頑張れないなあ……。


苛立ちと、脱力感の中。

それでもポコポコと音を立てる胃の音。

どうやら、お腹が減っているようだった。

しかし美澄香さんは頑張れない、それに、何を食べていいか分からなかった。

材料も、今日の遠出の為に逆算し、ほとんど綺麗に消費した為、後は卵と牛乳ぐらい。

目玉焼きを作ったにしても、パンが無い。

卵焼きを作ったにしても、ご飯がない。

それに、いまいちピンと来ない。


何が食べたいのか分からないのは、美澄香さんの人生の中で数える程度しかないのだ。


その食い意地は小さい頃、お婆ちゃんの家で夏風邪で伏せっている時でも、何が食べたいと聞かれれば、うなされながらも答えられたほど。

……事の重大さが分かっていただけるだろう。


──何、食べたらいいんだろう……。


自己主張の激しい胃を押さえ、途方に暮れて視線を上に移す。

そこには、電車特有の広告がびっしりと、綺麗に列を成して貼られている。

……その中で1枚、美澄香さんの目を引くものがあった。


【今秋来る── 近藤勇こんどういさみ展、開催決定】


なんの変哲も無い美術館の広告。

しかし、美澄香さんの食欲はまるで安楽椅子の探偵の如くスピードで、一つの結論を導き出した。


「あ……あれなら作れる」






卵を割る。

殻を使って器用にボウルに白身だけを入れ、黄身は小皿に移す。

泡立て器で根気よく白身を泡立てる。


ハンドミキサーの機械音では、同居人を起こしてしまうから。


ガスコンロの上には、一人用の小さな土鍋。

中には昆布と鰹節のお出汁が、弱火の火でくつくつと沸いている。


白く、そしてツノが立つほどしっかりと泡立った白身に、黄身を入れ、また混ぜる。


カッ、カッ、カッ、カッ、カッ、カッ。


テンポは一定に、メトロノームのように。

無心で泡立てるその音に、どこか穏やかな気持ちになれる。


「ミスカ」


背後から、風。

振り向けば、見慣れた黄色いフードを被り、相変わらず表情の伺い知れない邪神が一柱覗き込んでいる。


「あ、起こしちゃいましたか?」


申し訳なさそうに眉尻を下げ、苦笑を浮かべる美澄香さんに、ハスターさんは首を横に振った。


「いや、僕らも起きていた。ヴルトゥームが待つのだと聞かなくて」

「ああ、なんかすいません。それでヴルトゥームちゃんは?」

「耐え切れず寝てしまった」


ハスターさんは二階を指さす。


「ほんの十分前に」


今頃、広々と布団を独占しているであろう花の少年を想像すると、可愛らしくてついつい口角が緩んだ。


「何を作っている?」


妖花の寝姿を空想する美澄香さんの手元を、ハスターさんは前に少しのめって覗き込む。

ボウルの中には、まろやかなクリーム色をした、ふわふわの何かがこんもりと盛り上がっていた。

その正体が分からず、首を傾げたが、洗って布巾の上で乾かされている卵の殻を目敏く見つけると、黄衣が好奇心でソワソワと左に右に揺れ動いた。


「たまご?」

「はい、卵料理ですよ」


美澄香さんは、その問い掛けに答えて、はにかんだ。


「凄いですよ。すぐ出来ますからどうぞ見ててくださいね」


煮立った出汁の火を止めて、そこに一気にふわふわたぷたぷの卵液を流し込む。

かんかんと火にあてられた鍋肌に、卵液が触れて「しゅわっ」と泡が潰れる音が、深夜の虫と蛙の合唱の中に小さく響いた。


「後は蓋をして10秒」


かぽん。と、土鍋に蓋をして、美澄香さんは鍋掴みを手にはめる。


「ハスターさん、私はこれを持って茶の間に行きますから、レンゲとお願いできますか?」

「わかった」


素直な邪神に後を任せて、美澄香さんは土鍋をそっと持ち上げた。






鍋敷の上に、中身が零れないように土鍋を置く。

その隣にハスターさんが、2人分のレンゲとを添え、ちゃぶ台に向かい合って1人と1柱は座った。


「はい、では御開帳ー」


美澄香さんの声と共に、土鍋の蓋が持ち上がる。

湯気がふわりと立ち込めて、すぐに霧散し、現れたのは何やらこんもりと盛り上がった、ふわふわの卵。

目玉焼きでもなく、卵焼きでもなく、オムレツでもない。

近しいものを挙げるのなら、おやつ時に何度か食べた事のある蒸しパンだろうか。


「たまごふわふわって言うんです。可愛い名前でしょ?」


美澄香さんはそう言って微笑みながら、柄の部分に桜の模様が散りばめられたレンゲでたまごふわふわを取り分ける。

文字通りふわふわのたまごと、澄んだ出汁がに盛られて、ハスターさんに手渡された。

ハスターさんは小さく頷き「イタダキマス」と呟く。

美澄香さんは自分の分を盛りながら「どうぞ召し上がれ」と返す。

何の変哲もない、ただツーと言えばカーと返るような、ごく当たり前の会話。

レンゲが掬う、ふわふわのたまご。

熱々のそれを優しく吹いて、出汁と一緒に口に含む。

初めはしゅわっと。続いてじゅわっと。

柔らかい口当たりに、シンプルな出汁が合わさって、それはそれは優しい料理だった。

不思議な事に、喉越しはつるりとしており、美澄香さんのもとで色んな卵料理を食べた筈のハスターさんも、幾重にも食感が変化するたまごふわふわに驚きを隠せない。

1口、また1口とレンゲを進めるハスターさんと相対的に、美澄香さんは1口を大事に食べる毎に、満足そうに息を吐く。


川遊びでハメを外しすぎて、夏風邪をひいてしまった小学生の頃。

病中食としてお婆ちゃんが作ってくれたのがこの料理との出会い。


その後もちょくちょく、夏休みの時だけの友達と喧嘩した日や、楽しみにしていたプールが雨で潰れた日など、心が少しささくれ立った時にお婆ちゃんは何も言わずこれを作ってくれた。


ふわふわの見た目に、美味しいお出汁がギュッと詰まった、食べる度に穏やかな気持ちになれるたまごふわふわ。


先程まで心の真ん中にあったモヤモヤは、包まれてどこかへ行ってしまった。


「やっぱり、お婆ちゃんには敵わないなあ」


に残った出汁に、何時もの顔をした美澄香さんが写っている。


──これでもう大丈夫、明日もちゃんと笑顔になれる。


たまごふわふわを食べる度、お婆ちゃんが決まって言ってくれた慰めの言葉を思い出しながら、美澄香さんは器に口を付けて最後の一滴まで飲み干した。


「あー! あにうえたちばっかりで なにをたべているんですか! ずるいです!!!」


1人と1柱で、こっそり食べてたお夜食は、結局起きてきたヴルトゥームちゃんに見つかってしまった。

自分だけ除け者にされたと、頬をぷっくり膨らませて怒る妖花の神が、まるで先程食べたばかりのたまごふわふわのようで、美澄香さんは思わず声を出して笑ってしまう。


「ごめんねヴルトゥームちゃん。いま同じの作ってあげるからね」


ひとしきり笑って、そして立ち上がる。


体は軽い、よし。と頷く。


大丈夫、明日も頑張れる。



──to be continued.

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