4膳目。カレーライス(前編)

『美澄香、裏手の井戸は【物乞いの井戸】ちゅうてな、今はおもーい蓋ばしてあるけんど決して近寄っちゃなんねぇぞ、井戸の底は深ぁくて真っ暗で、婆ちゃんでも助けられっか分かんねぇからね』

『わかってるよお婆ちゃん、美澄香、もう8つだもん。危ない事しないよ』

『ほんならええんじゃよ。ええか美澄香、どんな事があっても決して近寄っちゃなんねぇからね』

 懐かしい祖母の声、繕いをするしわくちゃで小さい手のひら、着古した割烹着のくすんだ白色、そして漂うお線香の香り。

 古い畳に触れた感触も、何もかも鮮明ながらも穏やかなセピア色をしていた写真のような風景に。

 第三者の視点から美澄香さんは呆然とそれを眺めており……。

 ──ジリリリリリリリ。

 と、けたたましい目覚ましの音で目を覚ました。



「という懐かしい夢を見たんですよ」

 沢庵をパリパリと言わせながら、さっぱり梅茶漬けの朝食を楽しむ美澄香さんは今は亡き祖母が出てきたという夢を、三日前に増えた同居人、ヴルトゥームちゃんとその兄ハスターさんに語る。

 そんな兄弟二柱は梅干しの酸っぱさにおののきながらも新しい味覚の開花を楽しみつつ、美澄香さんの夢の話を興味深そうに聞いていた。

「ゆめはもうひとつのげんじつ」

 最後の1切れとなった沢庵を、すっかり様になった箸使いで、さっきからハスターさんと静かに奪い合っているヴルトゥームちゃんがそう呟いた。

にあらずとも、いきとし いけるものは ひとしくゆめをみます。それはうちにひめし しんじつのだんぺん ミスカのしんじつが おばあさまのおすがたをかりて なにかをおつたえに なられたのでは?」

 そうヴルトゥームちゃんは微笑んで美澄香さんに言ったが、全体図を見れば先程から沈黙しているハスターさんと沢庵の端を箸で摘んで離さないという双方子供っぽい攻防戦の最中だ。

 美澄香さんは苦笑して、自分の分の沢庵を差し出せば、ヴルトゥームちゃんは複眼を緑色に輝かせて元々の一切れをハスターさんに譲り、美澄香さんの沢庵に箸を伸ばした。

「二人とも、沢庵そんなに気に入ったんだ」

 クスクスと笑いながら美澄香さんがそう訊けば、ハスターさんがコクリと頷き。

「たくあんパリパリ、特に黄色が良い」

 と、答え。ヴルトゥームちゃんも。

「たくあんパリパリ、はごたえがきもちいいです」

 と、言葉の初めをそっくりそのまま答えながら、お茶漬けの最後の一口をスルスルと胃の中に招いていった。

「物乞いの井戸と言ったな」

 綺麗に空になった茶碗を置いて、ハスターさんが静かにそう訊けば、美澄香さんは「はい」と頷いた。

「裏手にあります、昔はそこから水を引いてたそうなんですけれど、今は枯れ井戸らしくて」

 ヴルトゥームちゃんの茶碗も片付けつつ美澄香さんがそう答えると、ふと何かを思い出したかのように手を止めてひそりと声を忍ばせて言った。

「何でも昔、干ばつがこの土地に起こったらしくて、水を求めた農民達がこぞって井戸に身を投げたそうです。そして井戸の中で死んでしまった亡霊が、夜な夜なと言うようになったので、住職さんにお願いして霊を祓い、2度と人が落ちないように蓋をしたそうです」

 語り終えた後「おお怖い」と大袈裟に体を震わせてみせるも、神格である2柱は特に何も感じていない様子であった。

「なんでー!!?私この話聞いたらしばらく1人でトイレに行けなくなったのにー!!!」

 ドライな2柱に美澄香さんは信じられないような物を見るような目で声を上げる。

「何でと言われても」

 ハスターさんが静かに答えた。

「僕達は神だからなあ」

「そうですとも そのていど おそるるにたりませぬ」

 うんうんと首を上下に振りながらそう言い切った2柱に、美澄香さんは「そうだった……」と言って項垂れた。

 美澄香さんの頭の中ではハスターさんは黄色い照る照る坊主。ヴルトゥームちゃんは花の妖精という立ち位置になっている。

 本当であれば招来されれば生きとし生けるもの全てが滅びかねない凶悪かつ強大な力を秘めた邪神であるが、どうしても美味しくご飯を食べる姿を見ると、全くそうだとは思えないのが美澄香さんの現状であった。

「じゃあ分かりましたよ!」

 項垂れていたはずの美澄香さんが、突然声を上げた。

「今から井戸を見に行きましょう。百聞は一見にしかずです。もう雰囲気めちゃくちゃ怖いんですから。だからさあさあ立って立って!」

 パンパンと手を叩き2柱を急かし始める美澄香さんにハスターさんが渋々といった様子でヴルトゥームちゃんを抱え上げた。

「みすかは なにをむきになっていらっしゃるのでしょうね」

「僕にもさっぱり分からん」

 早く早くとはやし立てられつつ、美澄香さんの後に続く2柱が聞こえないようにそう呟いていた。



 美澄香さんの家の裏手側と言えばかつてハスターさんが降り立った台所側の勝手口がある方向になる。

 そこから更に東側へ数メートル進んだ場所にポツンと、苔むした古井戸がそこにあった。

「あれですよあれ」

 太陽は高く、土と草の色を鮮やかに照らす程の天気であるというのに、井戸が怖いのかハスターさんの後ろに隠れながら美澄香さんがそう言い指を指していた。

 古ぼけ、打ち捨てられた物特有の、得体の知れない雰囲気に美澄香さんは怯えているようだった。

「馬鹿馬鹿しい」

 すると、そんな美澄香さんに対してハスターさんはそう言葉を零し、彼女の腕を取るとぐいと引き、井戸に向かって歩き出した。

「え?え!?えぇ!!?」

 あまりにも突然の事に美澄香さんはつんのめりながら前に歩むことしか出来ず、ヴルトゥームちゃんも強引な兄の事を止めようともせず地に根を張り大きく天を仰いで光合成をしている。

「待って待って待ってハスターさん待ってぇえ!!!」

 井戸まであと数歩といったところで美澄香さんがようやく抵抗を見せはじめた。

 ハスターさんの鶏ガラのような腕を元来た場所に戻ろうと引っ張っている。

 が、ハスターさんの体躯は痩躯といえどもやはり神である。

 既に足は人の形からタコの足に変わっており、その吸盤でしっかりと地面に食らいついているのだからびくともしない。

 が、それでも美澄香さんは諦めず、遂に涙目になりつつも訴え始めた。

「やめましょう!?やめましょうってハスターさん!!!行くなら1人で様子見に行ってくださいよ!!!私を巻き込む必要ないじゃないですか!!!やめましょうって本当にさもないと今晩のご飯たこ焼きにしますよ!!?」

「いや、脅し文句の意味がわからない」

 まだ居候して数週間であるが、ここまで取り乱す美澄香さんの様子が面白くてハスターさんもついつい肩を小さく揺らしてしまう。

 が、遂には「うぇっ……」という嗚咽と共にベソをかきはじめ地べたにへたりこんでしまったので、からかいすぎたとハスターさんは理解する。

「あー。あにうえいけないんだー!」

 光合成も程々に、様子を伺っていたヴルトゥームちゃんがそう言いながらハスターに指を向ける。

 止めはしなかったが完全に美澄香さん寄りとなってしまった彼を一瞥した後、美澄香さんと目線を合わせるべくしゃがみ込んだ。

「ミスカ、ごめん」

 世にも珍しい神の謝罪である。

 が、その前代未聞さを理解できない美澄香さんは、泣きじゃくりながら答える。

「私やめよう゛っで言っだぁああー!」

「そうだね、言ったね」

「ハズダーざんの意地悪ぅううー!」

「だからごめんて」

 謝りながらもハスターさんは「だったら案内しなければいいのに」と思ったが、不条理こそ人間の本質であると理解しているため寛大な御心でその疑問を直ぐに脳裏から抹消した。

「あにうえ おたわむれが すぎますよ」

 普段は花弁のどこかにしまい込んでいるのだろう幾本もの蔓を蠢かし、器用に2人の下へと移動してきたヴルトゥームちゃんが静かにそう言った。

「けれどもみすか べつになにもないではありませんか」

 小さな手を伸ばし、美澄香さんの頭をぺちぺちと叩いた後、遂に井戸の傍に移動したヴルトゥームちゃんが胸を張る。

「みてください!なんにもありませんよ」

 邪神と言えども見た目は可憐な花の妖精であるヴルトゥームの、得意げなポーズを見て美澄香さんは赤くした目を細めてようやく笑った。

 ハスターさんもほっと胸を撫で下ろし、美澄香さんの手を離すとヴルトゥームちゃんと同じように井戸に近付き、同じように「何も無い」と伝えようとした時だった。

「ん?」

 背の低いヴルトゥームちゃんは井戸の縁が見えるか見えないかという位置だが、それよりも背の高いハスターさんが井戸を真上から見下ろした際、その違和感に気付いた。

「蓋が……ずれている」

 ぽそりと零したその言葉、確か美澄香さんの話によればこの井戸には重い蓋がしてあった筈だ。

 確かに重厚な石の蓋は井戸を封じるようにしてある、それが……手のひらが入る程度の隙間を開けているのだ。

「ミスカ」

 嫌な予感がしたハスターさんは、一旦家に戻ろうと美澄香さんの名前を呼んで振り返った時だ。

「あにうえ!なにかきます!!!」

 という瞳を燃えるような赤に変化させたヴルトゥームちゃんの叫びと同時に、重い石蓋が天高く吹き飛び、中から水とは明らかに違う、鮮やかな玉虫色の粘液が、飛び出してきた。

 2柱は即座に後方に飛び退くと、粘液はヴルトゥームちゃんが居た場所にドスンという重厚な音を立てて着地し、表面をうねらせ、ギョロりとした目を幾つも浮かび上がらせて、晴天の空の下に咆哮した。


 ──テケリ・リ! テケリ・リ!


 →後編へ続く

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