10膳目。ミルク粥(前編)

 ハスターさんは悩んでいた。

 霧町家メンバー中でも自分が一番の穀潰しでは無いかという事に。

 ハスターさんの仕事は洗濯物にいい感じの風を送ることと、時々書庫の掃除をするぐらいである。

 それ以外は、基本的に本を読んでまったりしているので、弟のヴルトゥームちゃんが作物に祝福を授け、妻のシュブ=ニグラスさんが稼いだお金を家賃がわりに美澄香さんに支払っているのを見ると、妙に居心地が悪くなる。

 かと言って、ハスターさんの祝福は羊が丸々と肥え、豊かな羊毛を蓄えるか、狼に気付かれないように風向きを変えるものである。

 つまりは、羊飼い専用の祝福。

 紀元前辺りの頃には、ロームルスやダビデなどの羊飼いを王にしたりしたが、美澄香さんは羊飼いでは無いし、恐らく王などというものにはなりたくはないだろうし、その器でもない。

 もうひとつ、ハスターさんには世の信者、世の神秘学者達がどれほど乞うても届かないセラエノ大図書館の叡智を与える事が出来るが、かつて招いたシュルズベリィとかいう男は、いい線まで行ったが結局は大図書館の全てを読破する事は叶わず、結局は人間の知識を蓄える限界を知っただけだった。

 と、まあこのように、ハスターさんは何ら役に立たない自分に日々悶々としていた。

 美澄香さん的には雨の日でもパリッと洗濯物が乾くので、ハスターさんが役に立たないとは微塵も思っていないのだが、神の矜持とは人のそれよりはるかに高く、そしてとても面倒くさい。

 もっともっと、美澄香さんに何かしらをしてやりたい。

 そんな気持ちを抱きつつ、日々洗濯物に風をおくる事を続けていると、その日は突然訪れた。

 カラカラと、玄関の滑車が滑る音。

 たまに近所の人間が採れた野菜や獣肉を置いて帰っていくものと思って留守番のヴルトゥームちゃんと共に息を潜めていたが、どうにも帰る気配がない。

 不審に思って首を捻ると、玄関から弱々しい声が聞こえてきた。


「はすたぁさーん……ぶるとぅーむちゃーん……たすけてぇ……」


 その声はまごうこと無く今朝仕事に行ったはずの美澄香さんのもので、慌ててかけつければ、上半身を段差の所にぐったりと横たえて倒れる美澄香さんの姿があったのだった。





 最近流行の風邪だと、美澄香さんは言った。そしてそれは別段命を奪うほどのものでは無いとも。

 朝から少し熱っぽいなとは思っていたらしいが、職場に着いてからそれがひどくなり、職場の人に心配された為、早退して診療所で見てもらい薬をもらって帰ってきたという。

 少し懐を痛めるが、緊急事態と言うことで帰りはタクシーを使い、スクーターは置いてきたそうだ。賢明な判断である。

「こういうときこそ ビヤーキーをつかえばよろしいのに」

 厚い布団に横になり、おでこには昔ながらの氷嚢を乗せた元祖病人スタイル。

 枕元には万が一の為のエチケット袋とスポーツドリンクが3本。

「ごめんなさい〜……でも出来る限り風に当たりたくなくてぇ……」

 布団を鼻まで被り、側で心配そうに見つめるヴルトゥームちゃんに申し訳なさそうに答える。

「ハスターさんも、お布団敷いてもらっちゃったりごめんなさい……」

「いや、いや、そう言うな。僕達は大丈夫だから」

 ヴルトゥームちゃんの隣で、落ち着きが無さそうにソワソワと体を揺らすハスターさん。

 今まで体調を崩したことの無い……肉体面での弱さを初めて見せた美澄香さんに、彼は動揺を隠せずにいた。

「しんぱいせずとも しにはしませんよ」

 そんな兄の姿に呆れたようにヴルトゥームちゃんがそう言えば、フードの奥底の深淵がギョッとざわめいた。

「死ぬなどと! そ、そんな事を口に出して言うものでは無い!!!」

「ですがそうでもいわなければ で なにもてにつかないでしょう?」

 冷静なヴルトゥームちゃんの言葉に、ハスターさんはぐぅと言葉を詰まらせる。

 これではどっちが兄なのか分からないと、布団の中で美澄香さんは熱に浮かされながらもクスクスと笑った。

「心配かけてごめんなさい、でも……私は大丈夫ですから、あ、カバンの中にお弁当が入ってるから、お昼ご飯に食べてください」

「だがそれではミスカの食事が……」

「ちょっと食欲が……それにまだ朝ごはんがお腹に残ってるので」

 そう言い、彼女は赤く火照った瞼を閉じて、深くゆっくりと息を吐いた。

 ヴルトゥームちゃんは、それは人が眠りへと向かおうとする行動だと分かると、名残惜しそうな兄の背を伸ばした蔓で押し、部屋を静かに出ていく。

 襖を完全に閉める寸前、少しでも鼻通りが良いようにと、ミントの香りを部屋に撒いたのは、ヴルトゥームちゃんもまた彼女を心配しての事だった。





 美澄香さんのお昼になるはずだったお弁当と作り置きの昼食を、仲良く二柱で分けて食べたあと、洗い場の水桶に使った箸と器を沈めてから、ハスターさんが口を開く。

「ヴルトゥーム、何か僕らに出来ることは無いだろうか」

 どうやら何か少しでも彼女の役に立たねば気が済まない様子の兄の姿は、ヴルトゥームちゃんにとっては滑稽に見えたであろう。

 しかし、美澄香さんの前では冷静に振舞っていたヴルトゥームちゃんもまた、彼女の手助けになりたいと思っていた。

 何故ならば、運の悪いことに万能家政婦ことショゴスが、朝から山中散策に出てしまっているからだ。

 経験上、美澄香さんの帰宅時間1時間前か、カゴに木の実やキノコを満たさなければ帰ってはこないだろう。


「とにもかくにも、まずはミスカになにかたべさせることです」


 そう、まずはそれが優先だった。

 悲しい事があった時だって、仕事で嫌な事があった時だって、食事は絶対に欠かしたことは無かった。

 朝ごはんがお腹に残っていると言ったが、きっとあれは嘘であると二柱は早々に見抜いていた。

 休日は朝昼晩と、茶碗にたっぷりと白米を盛る姿を何度も見ているし。

 実際お弁当だって、弁当箱にはおかずがみっちりと詰まっていたし、主食にはラップに包まれた大きなおにぎりが2つも入っていたのだから。

「しかし、今日の昼飯を温め直した程度では、きっとミスカの喉には通らないだろうな」

 うーん。と腕を組み悩むハスターさんに対し、ヴルトゥームちゃんは自信ありげに胸を反らした。

「だめだめですねぇあにうえは! こういうときは おかゆ がよいと、そうばはきまっておるのです!」

「おかゆ」

 見たことはある、アニメで。

 黒猫を連れた魔女の少女が風邪を引き、下宿先のパン屋の女将にミルク粥を作ってもらっていたはずだ。

 作品の時代と文化圏、そしてパン屋という職業から察するに、美澄香さんが大好きな米で作られたものではなく、麦。オートミールに近いものだろう。

「オートミールであれば分かる。確かハイータがヤギ乳を用いて作っていた」

 ハスターさんの言葉に、ヴルトゥームちゃんが目を丸くした。

 まるで、珍しいものを見るかのような顔である。

「なんだ? 何かおかしいか?」

「いいえ ただあにうえが のなをくちにするのは ずいぶんとひさしぶりのことでしたから」

 随分と久しぶり……。

 その弟からの言葉は、ハスターさんの記憶の片隅を僅かに揺さぶったが、今はそんな事に気を割いている時間はないと、頭を数度振って話を元に戻す。

「しかしこの家にオーツ麦は無い。あるのはミスカが使っているご飯入れの中の冷飯だけだ」

 そう言って、ハスターさんは何時も茶の間に置いてあるおひつをポンポンと叩く。

「じゅうぶんではないでしょうか あれは おーとみーる ではなく らいすぽりっじ かもしれませんし」

「ライスポリッジ?」

「あとでせつめいしてさしあげます」

 知識欲旺盛な兄のあしらい方は心得ているようで、さらりと流したヴルトゥームちゃんはおひつを抱えると、羽を動かしてふわりと宙に浮かんだ。

「そうときまれば、つくってしまいましょう! おもいたったらきちじつ です! ミスカにおいしいおかゆを たべさせてあげましょうね!」

 さぁさぁ。と蔓を伸ばし、ハスターさんの腕を引いて台所へと連れていくヴルトゥームちゃんであった。

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