3膳目。鯖の味噌煮(後編)

「あにうえが、おせわになっておりまする」

 ペコリ。とハスターさんの膝上に座り会釈をしている幼子程度の大きさの新たなる神格に美澄香さんはポカンと口を開けていた。

 例えるのなら可憐な一輪の花、薔薇や牡丹、芍薬を連想させる花弁は光の当たり具合で光彩を変えるドレスのようで、蝶か蜻蛉かのようなまぶたの無い大きい複眼の藍色の瞳を持った美しい少年がまるで軸のようにそっと座している。

「あにうえハスターがおとうと、ヴルトゥームともうします。いごおみしりおきを」

 今度は会釈では無く深々と頭を垂れるので、つられて美澄香さんも姿勢を正し「ご、ご丁寧にどうも」と畳に額を付けるほどに深いお辞儀をした。

「ヴルトゥーム、なぜ来た」

 しかしハスターさんだけはどこか不服そうな雰囲気を醸し出しながら、ぶにっ。と細い指でヴルトゥームの両頬を摘み、そう訊いた。

 ヴルトゥームはにへら。と鋭い牙の生えた口に敵意のない笑みを浮かべた。

「カルコサから、あにうえのけはいがきえて にしゅうかん、われらが おちちうえのふるえにみみをすませたところ ここにいすわっているとしりまして」

 四本指の手のひらで口元を覆うと泡の弾けるように笑うヴルトゥーム。

 その無邪気な姿にさすがの美澄香さんも見惚れていた。

「なのでいんせきにしがみつき このちにごあいさつにまいりました。そのさい、からだのはんぶんがやけてしまい このようなみすぼらしいすがたとなってしまいましたが」

「あの隕石ブルトゥームちゃんが落としたの!?」

 衝撃の事実に深夜という事も忘れて大声で叫んでしまった美澄香さんに、ヴルトゥームはニコニコと笑みを崩さず「はい」と頷く。ちなみにハスターさんは「ミスカ。ブじゃない。ヴルトゥームだ」と小さく呟き、訂正を加えていた。

「ほんらいは、おおきいのですよ。あにうえよりも、もーっと」

 裸体であるのに何も付いていない胸を張って「すごいでしょう」と得意気に語るヴルトゥームだったが、遂にハスターさんが白くてまろい額にデコピンを食らわせて言った。

「横に、だろう」

「いたい〜っ」

 綺麗な弧を描いていた口がへの字に曲がり、白過ぎる肌だからこそなのか、一瞬で弾かれた場所が赤くなる。

 ヴルトゥームはそこを手で押さえ、頬をぷっくりと膨らませた。

「なぜわたしをいじめるのですか かわいいおとうとのヴルトゥームですよ」

「夜中にミスカを驚かせた罰だ」

 ハスターさんはそう言い放つと膨らんでいる両頬を摘んでびよんと引っ張る。

 これ自体はヴルトゥームは痛くないらしく、は行をひゃ行にしながら文句を連ねた。

 ちなみに美澄香さんは傍から見れば年の離れた兄弟の仲睦まじい触れ合いにほんわかと心癒されつつ、ハスターさんに声がけていた。

「ヴルトゥームちゃん。お餅みたいで可愛いですねぇ〜」

「ミスカ?」

「おもひりょはなんれひゅあ?(お餅とは何ですか?)」

 ふふふ。と和やかな笑い声を上げてから、ふと美澄香さんが祖母の時代から働いているコネチカットの時計を見れば、時計の短針が3の文字を指し示そうとしている頃だった。

「うわぁ!もうこんな時間!!!小学校の読み聞かせに呼ばれてるのに!」

 美澄香さんは大慌てで自室から2人を追い出し「おやすみなさーい!」と扉越しから声だけ掛けてそのまま寝に入ったようで静かになってしまった。

 ヴルトゥームを抱え、美澄香さんの部屋の前でしばらく立っていたハスターさんだったが、無邪気な弟の顔を見て小さく溜め息をついた。

「仕方ないな」

 半ば諦めたような呟きを漏らしながら、ヴルトゥームを抱えて寝室へと戻るも、初めて見る布団に興味津々の弟をどうにかこうにか寝かしつけようと孤軍奮闘しているうちに、すっかりと夜は明けてしまったのであった。


 次の朝、やはりぎりぎり寝過ごしそうになった美澄香さんが大慌てで用意した朝食はベーコンエッグとトーストに縁側のプランターに生い茂るサラダ菜で作ったシンプルなサラダ、あとはミルクコーヒーの素朴でも温かさを感じるラインナップだった。

 特にヴルトゥームは卵の黄身をスプーンで掬って、トロトロで濃厚なそれを一口食べると、複眼の虹彩を更に鮮やかに輝かせて、興奮した様子でハスターさんにしきりに報告する。

「あにうえ!あにうえ!このにえはなんですか!?トロトロで、まったりしてて、あたたかくて、すこしあまくて!」

 それからもベーコンを食べればベーコンの、サラダ菜を食べればサラダ菜の、トーストを食べればトーストの感想を逐一報告しては忙しなく朝ごはんを食べていく。

 ハスターさんは、そんな弟にハイハイと適当に相槌を打ちつつ、ベーコンエッグを丸ごとトーストの上に乗せて、齧り付いていた。

 美澄香さんが留守の時に暇じゃないように、と置いていってくれたアニメDVDの中にあった、とあるワンシーンの食べ方を、真似てみたかったらしい。

「あにうえー!このミルクはふしぎですよ!あまくてにがくて、丁度いいあたたかさで!」

「分かったから落ち着いて飲め、零すぞ」

 トーストの縁から流れ落ちそうになる黄身を零さないように啜りつつトーストとベーコンを一緒に齧る。

 ある意味魔術の詠唱や、その媒体を精製する事よりも高度で繊細なテクニックを要求するとハスターさんは思いつつ、真っ白い頬を薔薇色に染めながら、今度は静かにゆっくり味わうようにミルクコーヒーを飲むヴルトゥームを見る。

『幾億の年月、兄弟並んでの食事は初めてだな』

 ヴルトゥームは温厚である。それと同時にクトゥルフとハスターに対する敵対心に肩入れせず、傍観を決めている観測者でもある。

 故に、兄弟の中では最も平等だ。それも残酷な程に。

 ヴルトゥームは平等に兄達を愛し、そして己の興味が示すものにも平等に応える。

 先の食事も、己が知らぬ美味を同じように平等に評価して、報告している。

 もしここが美澄香さんの用意してくれた円卓ではなく、三兄弟揃い踏みをした鮮烈な戦いの中であったとしても。

 ヴルトゥームは平等に、愛するものの行く末をただただ観測するのであろう。

 三兄弟の中、己が乾いた生命の星である火星に座し、積極的に信者を募ることをしないのはその本質ゆえか。

 これからも永遠に、もし三柱が二柱になる日が来るとしても、ヴルトゥームの天秤は常に水平を保ち続けるのだ。

『今回ぐらい、良いかも知れん』

 綺麗に食事を平らげて、窓から差し込む太陽の光を気持ちよく浴びているヴルトゥームの柔らかな頭髪を撫でる。

 すると、少し驚いた様子でハスターさんと視線を合わせたヴルトゥームの絹糸のような頭髪に指を滑らせながら呟く。

「気まぐれだ」

「きまぐれですかあ」

 にへへ。とまさに花が咲いたような笑みをハスターさんに向けてくすぐったそうに身をよじるヴルトゥーム。

 その可憐さにうっかりと見とれてしまっていた美澄香さんは時計がボーンと9時の時刻を告げる音にハッと我に返ると、バタバタと片付けを済ませてから読み聞かせ用の絵本が数冊入ったリュックサックを背負い、玄関口へと小走りで向かおうとした時だった。

「そういえばヴルトゥームちゃん。何か食べたいものはある?」

 その声がけにキョトンとヴルトゥームは複眼を丸く見開いたが、すぐに「たべたいもの……」と首を捻って数秒、ポンッと手を叩いて言った。

「おさかながたべたいです!」

 その隣、ハスターさんがビクンと明らかに体を震わせたが、そんな兄の姿を見ていながらもヴルトゥームはさらに続ける。

「あまい。あまいおさかなはありますか?」

「甘い魚!!?」

 これにはハスターさんも絶叫した。

 塩ジャケは身が赤く、なおかつ塩辛いから食べれたものだ。

 というよりも、あの塩だらけの水に棲む魚をわざわざ甘く味付けるのなんて考えただけでもおぞましい。

 しかし、美澄香さんは笑顔で「はぁい」と答えると、お昼ご飯には作り置きのサンドイッチを食べてね。とだけ声掛けて「いってきまーす」と元気よく家を飛び出して行ってしまった。

「み、ミスカぁ……」

 縋るような声を上げるもすでに美澄香さんはポンコツスクーターに乗って読み聞かせ依頼を受けた小学校へと発車した後であった。

 ヴルトゥームはそんな兄の心情を知ってか知らずか無邪気に「あまいさかな〜♪」と自作の歌を口ずさんでいた。


 夕刻、ハスターさんは長い神生の終わりに直面し、だらしなくも茶の間でぐったりと寝そべっていた。

 確かにヴルトゥームが住まう火星は水がない為魚という生物はその知識の中にしかない生き物であり、興味を持つのは必然的であった。

 しかし、それを甘く味付けて食べたい等と言い出し、これには魚を克服しようとしていたハスターさんもあまりにもハイレベルな注文に死を覚悟した。

 美澄香さんも断れば良いのにと思うも、台所からは絶えずいい香りが漂うのが、それがまた悔しい。

 ビヤーキーなんかは縁側から顔を出して尻尾をはち切れんばかりに振っている。この裏切り者が。

「あにうえ、もうあきらめましょう」

 ハスターさんにとって諸悪の根源であるヴルトゥームがにっこりと微笑んで毒を吐いた。

「いやならめしあがらなければよいのですよ」

 そうさらりと言ってのけたが昨日の手前残すのは忍びなかった。神としてのプライドがどうしてもそれを許さなかった。

 恐らくであるが、ヴルトゥームもその葛藤を知り、面白がっている。

「あにうえはおかわりになられましたね」

 クスクスと泡が弾けるような笑い声を上げ、寝そべるハスターさんの頭を撫でた。

「ご飯できましたよ〜!」

 そうこうするうちに、遂にその時間は来てしまった。

 ハスターさんは覚悟を決め、のっそりと起き上がる。

「今日のお味噌汁はお豆腐とワカメ、小鉢はほうれん草の胡麻和え、そしてじゃーん!ヴルトゥームちゃんからのリクエストにお答えして、鯖の味噌煮にしてみましたー!」

 鯖。確か昨日の晩にも出た青魚だったはず。

 ああ……とハスターさんが小さく溜め息をついて、ゆっくりと目の前に置かれた鯖の味噌煮という料理に視線を向けた。

「……ん?」

 と、同時にハスターさんは首を傾げていた。

 茶色いのだ。

 あの塩焼きとは違い、外側に掛かっているとろりとしたソースで煮込んだのか、青魚は上品な茶色に染め上がっている。

「いただきまーす!」

 昨日と同じ魚であることには変わりない事実に、ハスターさんは不思議そうに首を傾げている間、すっかり用意の整った美澄香さんはさっさと呪文の詠唱を済ませると、早速鯖の味噌煮に箸を入れ、ご飯に乗せて一口。

「〜〜〜ッ♪」

 そして破顔。

 その様子をじっくりとヴルトゥームは観察した後、初めて使う箸を握り、美澄香さんを真似て鯖の味噌煮をほぐし、ご飯の上に乗せて一口。

「!!!」

 瞬間、ヴルトゥームの瞳が鮮やかな浅葱色に変わり、柔らかな頭髪が風もないのに逆立った。

「……え?」

 呆然といった様子で漏らした言葉は全てを物語っている。

 卵焼きを初めて食べたハスターさんのように、その未知なる美味に対しての神の理解力が及ばない快感に絶句した。

 脳裏にその知識を書き込むように、ヴルトゥームは必死に鯖の味噌煮に食らいついた。

 優雅な花の姿に似合わぬ、どちらかと言えば少年相応のがっつきっぷり。

 小鉢にも味噌汁にも手を付けないところを見るに、もうそれにしか意識が行っていないのだ。

 この時、ヴルトゥームの中立は崩れた。

 意識が完全に、鯖の味噌煮という未知の料理に全て奪われてしまっていた。

 そして早々に鯖の味噌煮だけを完食してしまったヴルトゥームは、口の周りを味噌ダレでベトベトにしながら呆然と呟いた。

「おいしい……」

 もう、これしか言葉が出ないらしい。

 朝食時のように、様々な食材への細かな感想をハスターさんに伝える事も忘れて。

「良かった!今日は特別美味しく出来たんですよ」

 美澄香さんはニコニコと笑って、ティッシュペーパーを数枚手に取るとヴルトゥームの口元を優しく拭った。

「しらないちしきが、だくりゅうのようにおしよせました……なんと、なんとひょうげんしたらいいか、わからないのです」

 ようやく落ち着いたように味噌汁の椀を手に取り、ゆっくりと啜って一息ついた。

 そして、ちらりとハスターさんの手元を見て静かに笑った。

「あにうえ、おさかなたべれてるではありませんか」

 その言葉に、ハスターさんはハッとして手元を見れば、鯖の味噌煮はすでに半分も己の胃の腑の中に消えている後だった。

 そして口の中に広がる、味噌のすでに慣れ親しんだ風味と、爽やかな生姜の香りに混じった、とろりとした魚の脂の柔らかな味に「ほう……」と黄衣の奥に秘めた瞳を細めた。

 全く生臭くない。

 今までどうして毛嫌いしてきたのだろうと、数刻前の自分を叱責したくなる。

 美澄香さんはそんな兄弟を眺め、クスクスと笑いつつ片手を差し出していた。

「お代わりはいかがですか?」


「しばらく、おせわになりたいです」

 と、夕食後唐突にヴルトゥームが美澄香さんの前に頭を垂れた。

 あまりにも突然の事で、美澄香さんは慌てて正座をし直してヴルトゥームと向き合った。

「べ、別に構わないよ?そ、そんな神様が頭を下げる事なんて!」

 ハスターさんも美澄香さんの後ろで、声には出さずともヴルトゥームのいきなりのお願いに驚いていた。

 平等に人を見据える観測者が、美澄香さんに興味の天秤を傾けたという事実に。

「もちろん、ここでおせわになるたいかはしはらいます。わたしはくさばなをよりゆたかにはぐくむちからがあります。おそとのはたけ、わたしがりっぱなさくもつがとれるように、しましょう」

 垂れていた頭を上げて、ニッコリと微笑んだヴルトゥームの申し出を断れるはずもなく、美澄香さんは二つ返事で彼とも円卓を囲む事に決めた。

「ヴルトゥームちゃん、よろしくね」

 その言葉に瞳の色を若葉色に変化させたヴルトゥームが美澄香さんにギュッと嬉しそうに抱き着いたのを見ると、ハスターさんは即座に彼を引き剥がした。

 そして二柱はぎゃいぎゃいピイピイと言い争いを始めたが、美澄香さんが食後のデザートに、と取っておきのフルーツ寒天を持ち出してくれば、二柱はピタリと喧嘩を止め、仲良く並んでフルーツ寒天に舌鼓を打ったのであった。


 ーto be Vulthoom.

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