卵焼き。ハスターside
最近、我が牙城カルコサの、大図書館がよく分からぬ干渉を受けて宇宙法則の次元を捻じ曲がり、何億光年も先の惑星と儀式を無しに繋がっている。
どうせ我らが父神か、それともあの道化の仕業と相場は決まっているが、いくら父神と言えども歪みを正す私の労力を考えていただかないといけない。まだあの戦いの傷は完全に癒えておらず、忌々しい旧神の呪いすら解呪する術を模索しているというのに。
ああ、奪われた私の叡智を少しでも取り戻せたら良いのに、我が愛おしきこの大図書館の、管理すらままならなくなっているこの悲しさは誰にも理解しえないのだろう。
ああ忌々しき旧神よ、貴様ら如きも全神の前では夢幻の存在であると言うのにその直系である我らに刃向かい、叡智と力を奪うとは。
ああ思い出すだけでも腸が煮えくり返りそうだ、特にそう、クトゥルフ!!!
旧神共は我が叡智を奪っておきながら、旧神の印を拒絶する呪いをかけておきながら、なぜあの愚兄を始末できなかったのか!
ああおぞましい忌々しい、アレが私と血と肉を分けた兄弟だとは思いたくもない。
その点ヴルトゥームはまだいい、人を好き過ぎる所があるが、私も我が信者は愛おしいと思う点は共感が持てる。
我が叡智を取り戻すべく、クトゥルフや旧神と相対してくれる者共をどうして無下に出来ようか。
……だが最近、贄が不味い。
質というか魔力というか、それが年々劣化しているように思えるのは気のせいだと思いたいが、私は同じ質でもホイホイと招来される妻とは違うと断言しよう。
まあ妻と私とでは使用する力の使い方が違うのだから仕方ないのだが……。
だからといって犬猫や烏にネズミの贄はいくら何でも手抜きとしか言いようがないのではないか?
モノリスを建立しておけば何とかなると思ってはいないか信者達。
いくら私が寛大と言えども限度というものがあるぞ、人間も浮浪者などではなく信者の身を捧げて欲しいのだが、信者の魂はしっかりと安住の地へ運んでやる手助けもしてやるのになぜ伝わっていないのだろうか?やっぱり写本失敗でもしたのか?
ああもう戦争以来物事が何一つ上手く行かない気がする、カルコサは時空が歪んでいるし、クトゥルフに殺意沸くし、信者は年々劣化していくし、ミ=ゴは相変わらず犬に倒される!良質な贄さえ摂取出来れば少しは思考が前向きになるやもしれんが、今やそれも叶わぬ。
ああ、私はここで旧神とクトゥルフへの呪詛を吐き散らかしながら悠久を過ごすのだろうか。
最後に招来されたのは何時だっただろうか?不覚にもダゴンにすら手こずったあの時だろうか?先手を読んでいた敵対者が旧神の印を私に掲げた時だろうか?
……ああ、何だか陰鬱としてきた。
何か気が晴れる事でも無いだろうか、この際どんな些細な事でも良い。
クトゥルフに漁船が突っ込むとか、クトゥルフの寝返りでルルイエが倒壊するとか、ここ数億年絶対に星辰が揃わないとか……。
……何か美味いものが、食べられるとか。
……?おや、なんだろうか。
嗅いだことのない、甘い香りがする。
方向はどこからだ?
ああ、また新しい歪みが出来ている……。
この、向こうか?
この芳しい匂いは、一体何だ?
ああ、何故だ、腹の中で虫が身をよじっているようだ。
こんな現象は初めてだ、何かの呪術の香でも焚き染めているのか?
知りたい。
この先に、一体何があるのだろうか……?
留守は任せたぞビヤーキー。
私は久方振りの知欲を満たしてくるとしよう。
……。
……。
……おお。
これはまた酷く原初に近しい人間の集落に繋がっていたものよ。
陽は低い、まだ明朝か?
香りは……目の前のこの家屋から漂ってきているな。
なんとまあ、簡素な所だ。
私が軽く風で凪いだだけでも吹き飛びそうだ。
よもや過去に飛んだわけではあるまいな?
なんとまあ古い造りの家だろうか……香りはここからか?うむ……小さな窓だ、だが好ましい。
本は陽に弱い、これぐらい小さな窓なら本を痛める事はないだろう。
我が図書館にも紙媒体の本がいくつかある。
あれは良い、指先でめくるという行為が堪らない。
……人がいるな?女か?蓋に手を掛けたぞ、あの中身は何だ……?
あ、目が合った。
何だ、私の事は気にせずその蓋を開けても良いのだぞ?あ、どこへ行く?隣?ああ、ドアを開けたのか。
「どちら様ですか~?」
……私を知らぬとはいえ、なかなか豪胆な女よ。
今は黄衣を纏っているとはいえ、神格相手に接近するとは鈍感なのか?
まあよい、この匂いの元が気になる。
「……匂い」
「はい?」
「……匂いしたから、気になって」
む……やはりここは地球であったか、言語の規制がかかっている。
全くこの私とあろう者が、どうしてこのような知恵遅れのような言葉を発さねばならぬのだ。
それよりも、匂いの元が気になるのだ。
私の腹を狂わせる、甘く心地よいのは一体何だ?
「観光の方ですか?」
観光?まあ……そうとも取れるが、それにしても私の姿を見て恐れも畏れもしないとは本当に何であろうこの女は。
「良かったら朝ご飯食べていきますか?」
……いや本当に何だこの女は、なぜそう軽々と招きの言葉を口に出来る?
というよりも……。
「あさごはん?」
とは、何だ?
食べると言っていたな、つまり『あさごはん』という名の贄を今から食そうとしていたわけか。
人も贄を食らうと聞いたが、妙な名前だな。
しかし、うむ、匂いの元もそうだが『あさごはん』というのも気になる。
「食べる」
せっかくの招きの言葉だ、信者でなくとも無下にするのは好かん。
いやはやしかし私はモノリスの内部でしか動けない呪いを受けていたはずだが、どうしてこう動けるのであろうなあ、旧神の呪いも解けてきたのだろうか。
あ、靴は脱ぐのか。それはすまない。
「ここ道が舗装されていないから、歩いてくるの大変じゃなかったですか?」
どうやら私を人間と勘違いしている節があるな、私を見ても人間と思えるとはよほど地球の価値観も変わってきたらしい。
いや……全神の微睡みの世界だ、なんらおかしくはないか。
おや、平たいクッションだな、そこに座れと?
「ちょっと待ってて下さいね。すぐご飯持ってきますから」
待てと言われれば待とう、私は神だが今は招かれた客である。
そこを弁えぬほど私は愚かではない。
……しかし、脚の低いテーブルだな、そしてなぜ丸いのだろう。
家具は全て木造りか……部屋を隔てる引き戸は紙か?
横に長い棚の上にはよく分からん物が置いてあるな……金を抱いた猫に……槌をもった太った人間?まるでツァトゥグアのようだな。
後はあの女の写真か、背景はここよりまあ発展した場所だな、こちらよりそちらの方が人にとっては暮らしやすいだろうに。
しかしまあ、棚の上はゴチャゴチャとしているな。
ここまで溢れていたら、ひょっこりとトラペゾヘドロンか何かが出てきてもおかしくはないぞ。
……道化ならやりかねんな。
「お待たせしましたぁ~!」
……おお、あの香りがする、それに色鮮やかな贄だな、うわ……だが魚があるな、よくもまあ人間は魚など食えるものよ……と、おお、何か黄色いものがある。
我が衣と同じものを用意してくれたか、その配慮は喜んで受け取ろう。
「お腹空いてるでしょう?簡単なのしか用意出来なかったけれどどうぞー!」
簡単か、結構手間が掛かっているように見えるがな、ああ、でも良い香りだ。
あの甘い香りはこの器に盛られた白いものか?粒の塊のようにしか見えぬのに、どうしてこう美しいだろうか。
ああ……また腹の中が捻じくってきた。
「頂きます!」
いただきます?手を合わせているな、祈りの言葉か?叡智が奪われていなければ、その意味も分かったのであろうが。
「貴方もどうぞ召し上がって、あ、お箸ダメでしたか?」
おはし?ああ、この木の棒か、人間はこれで贄を食うのか?何とも珍妙だな、使い方は女のを見て覚えよう……。
……。
ふむ……。
随分とまあ、美味そうに食うのだな。
魚をだぞ?あの魚をだぞ???まあ青白い肉で無い分マシに見えるがそれでも私には躊躇われる。
……恐ろしいな、この女。
使い方は覚えた、では遠慮なくいただくとしよう。
まずはこの……甘い香りのこれから……。
……。
……!!
おお、甘い。そして……美味い。
血肉のような鉄錆の味も何もしない、素朴に甘いだけのものがどうしてこうも美味いと感じる?
熱いとも思える温度なのに、なぜ含む度に心地好い熱で解けていくのだ?
知らない、このような事は知らない!
久々の探究心が、私と胃の腑を狂わせる。
それに、あの黄色いもの。
これも気になる。
何であろう?
……!!!
「なにこれ……!」
何だこれは!甘くて、しょっぱくて、蕩けて、香ばしい。
滋養も染み入るような味わいだ、この白いのもそうだがこれもまた良い。とても良い!
「卵焼きって言うんですよ。お砂糖とお醤油で味付けしてあるんです。美味しいでしょ?」
「たまごやき?」
この黄色いのはたまごやき、と言うのか?
語感から察すると卵を焼いたもの?
それが、こんなに美味いのか?
ああ、忘れぬようにもう一切れだ、舌が味を忘れてしまう前に。
「たまごやき」
たまごやき。覚えた。この尊大な美味を私はしっかりと記憶した、そしてもっと知りたいと思った、腹の中で暴れる何かが、もっと欲しいと私を急かす。
そして不覚にも、そこから先をおぼろげながらにしか思い出せない。
野草と何か歯触りの面白い布のようなものの和え物は、シャキシャキとした食感が心地よく。
女が味噌汁と呼んでいた汁物は、何かの根菜を入れているらしく、独特の香りがあれども胃に落ちる心地がとても良かった。
そして、魚だ。
あれも、知的好奇心に負けて食べていた。
そしたらあの鼻をつく生臭さが無く、香ばしい苦味と充分な塩っけが絶品だった。
そして気が付けば、女に椀の中身を3度ほど盛らせ、1粒も残さず平らげてしまっていた。
空になった膳を下げた後、女は透明な杯に氷の満ちた茶を持ってきた。
私に気を使ってか、長細い筒を友しており、そこから吸い上げた茶は香ばしい芳香を口いっぱいに広げ、熱された喉にスルスルと落ちていく。
ああ……どうしてだろうか。
私は今、とても満ちている。
「そう言えばお名前を聞いてませんでしたね。何て言うんですか?」
名前か?ああ、そう言えば名乗っていなかったな。
いや、名乗るという行為が何億年ぶりであろうか。
「ハスター」
「ハスターさん?珍しいお名前ですね」
私の周りには私を知らぬ物など居ない、面白い反応だ、新鮮だ、語っても、良いかもしれん。
「……ハストゥールとも呼ばれる、人間達は名状しがたき者とも呼んでいる」
「?」
困惑しているが、まあ無理もないだろうな。
本来であれば私はこのような場所に招来される事など万が一にも有り得ぬ事なのだから。
しかし、今回は私自ら出向き、招来したわけでもないこの女に、見合う以上の対価を貰ってしまった。
……返さねば、神の名が、我がハスターという風の眷属を統べる長の名が廃る。
「……あなたのお名前なんですか?」
名を聞こう女よ、そして応えよ。
さすれば私の加護をお前に授けよう。
「美澄香です。霧町美澄香」
「ミスカ」
私は何度か女……ミスカの名前を呟く。
我が神としての好奇心が続くまで、ミスカに降り掛かりうる厄災を吹き飛ばしてやろう。
「契約しうる対価を貰った。僕は風の神ハスター。ミスカ、僕はあなたの側に居よう」
「はい?」
だからもう一度、たまごやきを作ってくれないか?
(To be continued→)
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