4膳目。カレーライス(後編)

 劈くような悲鳴が山々の間を木霊し、木漏れ日の暖かさに微睡んでいた鳥達が一斉に羽ばたきを上げて飛び立った。

 警笛のような、花火の風切り音のような、歪な調律を施した琴の音色のような。

 この世のどの音階にも属さないような鳴き声を上げて、玉虫色の粘液は飛び出して直ぐ太陽光に目が眩んだ一瞬にして。

 ハスターさんに、吹き飛ばされていた。

「下級種族が……頭が高い」

 吐き捨てるようにそう呟いたハスターさんは、その後ろの方で腰を抜かしていた美澄香さんに向き直ると、手を差し伸べていた。

「だいじょうぶか?」

 差し出された手を取り、立ち上がるが美澄香さんの心臓は早鐘の様に鳴り打っている。

 彼女にはハスターさんが玉虫色の粘液に対して視線を外さなかった位にしか見えなかった。

 それが、何の予兆も無しに瞬時にして吹き飛んだ。

「ハスターさん凄い!!」

 頬を紅潮させ、美澄香さんが声を上げる。

「どうやったんですか?私にも出来ますかそれ!!」

 小さい頃から亡き祖母が読み聞かせてくれた物語をこよなく愛し、将来は魔法使いになると言っていた美澄香さん。

 目の前のは完全なる神格であり、洗い物など手伝う居候なのだが、今の美澄香さんには首から下げているネックレス(後に黄の印というものだと知る)に、黄色の長いローブを纏う姿はまごうこと無き魔法使いに見えた。

 魔術『ヨグ=ソトースの拳』を様々な詠唱を端折って発生させたハスターさんは、己の両手を持って大変興奮した様子でブンブンと大きく上下に振る彼女を、深淵の奥底の瞳でじっと見つめ……。

「あっ」

 意味ありげに、そう声を上げた。

「え、何ですか。な、何かあったんですか!!?」

 魔法使いの意味深な「あっ」という言葉に、美澄香さんは血相を変えて食いつく。

 ハスターさんは、そんな彼女の視線から逃れるように、そっと目線を空の方向へ逸らした。

「ちょ、ちょっと目を逸らさないでくださいよ!な、何があったんですか!!?」

 ギュッと手を強く握り、ハスターさんの本音を聞き出そうとしつこく聞き続けるが、それは失敗したリコーダーのような甲高い叫び声でかき消された。

 ──ぴぃい!!!ぷぃい!!!

「あにうえ!あにうえ!カウントをおねがいしますあにうえ!」

 悲鳴と切羽詰った声に振り向けば、玉虫色の粘液を蔦で雁字搦めにし、マウントを取ってしがみついているヴルトゥームちゃんの姿があった。

 どうやら彼は昨晩食い入るように観ていたプロレスを真似ているらしい。

 ふざけているようにも見えるがどこか真剣なヴルトゥームちゃんに対してハスターさんは腕を組んで溜め息をついたが、間近で本物の魔法を見てしまった美澄香さんの興奮は冷めきらぬままに近くへと駆け寄り草の絨毯の上に膝を付く。

「1!2!3!!!かんかんかーん!」

 3秒ピッタリか疑わしいカウントの後、口でゴングを鳴らした美澄香さんはヴルトゥームちゃんの手を取り天高く共に突き上げた。

 そして2人仲良くハイタッチを交わす。

 いつここまで仲良くなったのだろうかという疑問がハスターさんの脳裏を過ぎるが、視線はヴルトゥームちゃんの魔力を帯びた蔦に見事に絡め取られた粘液に向けられた。

 先ほどの石蓋を弾き飛ばした威勢は何処へやら、ピィピィと鳴きながら草を食み、悶えている。

「あにうえ。ショゴスですよ」

「そのようだな」

 2柱は粘液……ショゴスにじっと刺すような視線を向けた。

 理由など単純明快、危害を加えようとした。それだけだ。

 しかし美澄香さんだけはショゴスを見てから、2柱にこう訊いていた。

「このスライムはショゴスって言うんですか?」

 その問に、2柱は顔を見合わせてから美澄香さんに向き直る。

 あれほどまでに井戸に怯えていたのに、その井戸から飛び出してきたショゴスを見ても微動だにしない豪胆さに改めて驚かされていた。

「……そうだ、ビヤーキーと同じ奉仕種族という括りだ」

「でも、そうぞうしゅたちにはんらんして、おおくはなんきょくに とりのこされているはずですが」

 1人と2柱は、改めてショゴスを見る。

 ショゴスは小さく「テケリ・リ」と鳴きながら、もしゃもしゃと草を食み、黒点のような瞳から食べたはずの草の汁を涙の様に流している。

 その声は弱々しく、美澄香さんの情に訴え掛ける。

「あの、この子お腹空いてるんじゃ……」

 瞬間、2柱が両腕を大きくクロスさせてバッテンマークを同時に作った。

 その息のあいように流石の美澄香さんも驚いてたじろいだ。

「だめですよ!」

「ミスカに危害をくわえようとした奴に、施しなど要らない」

「もういぬごやにはビヤーキーがいるではありませんか」

「ヴルトゥーム。そういう事ではない」

 体の縮小が原因か、観点がズレているヴルトゥームちゃんを静かに制してからハスターは簡潔に言った。

「コイツは敵だ、然るべき罰を与えるべきだ」

 ハスターさんには確信があった、あの瞬き程度の邂逅で彼はこのショゴスが美澄香さんを狙っていたという事実が。

 それはヴルトゥームちゃんも同じで、井戸からせり上がっていた間から、彼は独特の波長と鳴き声から発せられた感情を読み取り、このショゴスが非常に飢えており、美澄香さんの体に染み付いた料理の香りに惹かれて襲おうとした事すら深く知っていた。

「言っただろう。僕はミスカに降りかかる厄災を全て吹き飛ばすと。こういう事だ」

「いどにもどしましょう わたしたち ふたはしらが ふうをすれば にどとこのふたを あけることなどできませんよ」

 ギロり。と今だに赤々とした炭火のように燃えるヴルトゥームちゃんの瞳が、ショゴスを睨み付ける。

 完全に萎縮したショゴスは、ピィィと鳴いて瞳も口も消し、一つの粘液の塊となって縮こまる。

 既に刑は決定した。後は執行するのみ。

 そんな重々しい空気を突如払い除けたのは美澄香さんのゴホンというわざとらしい咳払いであった。

「2人とも、最後の晩餐って知ってます?」

 にこやかにそう訊かれ、2柱は首を傾げてしまったが、博識なハスターさんはかい摘んで答えていた。

「キリストが弟子達と最後に囲んだ晩餐を描いた絵だろう」

「そうです!ハスターさん正解!でももう一つこの最後の晩餐には意味合いがあるんです」

 美澄香さんは柔らかなヴルトゥームちゃんの髪の毛をぽんぽんと撫でながら続けた。

「死刑囚は、決められた金額内で好きな物を最後に食べられます。人間に、しかも大変な罪を犯した人でも刑に処される前はお腹いっぱい食べれるんですよ?」

 どこか物語を語るような心地の良い声色に、ヴルトゥームちゃんの瞳が穏やかな群青色になっていく。

 その様子をじっと見つめながら、ハスターさんは彼女の真意を悟った。

「つまり……最後にコイツにすら腹いっぱい食べさせる権利があると?」

「はい!ここは地球ですよ?郷に入れば郷に従っていただきます!」

 エッヘンと胸を張って答えた美澄香さんの堂々とした言い分に、食べさせてもらっているハスターさんは何も言えず肩を竦めた。

「……それがミスカの願いなら」

「やった!ハスターさん大好き!」

 ハスターさんの言葉に無邪気な笑みを浮かべて、彼の手を取り嬉しそうにブンブンと上下に振り回した後、静かにしゃがみこみショゴスに静かに語り掛けた。

「お腹すいてたんだよね、ちょっと待っててね。美味しいご飯作ってあげる」

 優しく微笑んでそう言った美澄香さんに、ショゴスは片目だけをポコンと作り出してじっと彼女を見つめた後。

 ──テケリ・リ。

 と、まるで上等な琴の音色のような声で一つ鳴き声を上げていた。



 普段なら好奇心のままに待ち続ける夕食前の時間が、妙に張り詰めてピリピリしていた。

 美澄香さんの言葉に従うしかなかった2柱は、まだ彼女に危害をくわえようとしたショゴスを許してはいなかった。

 ショゴスはビヤーキーの監視の下、ハスターさんが犬小屋に張った結界の中で相変わらず縮こまっている。

「むりもないですよ」

 幾分か声色が柔らかくなったヴルトゥームちゃんがハスターさんの視線に気が付いたのか静かに呟いた。

「せっかくのえものだとおもったのに おもいもよらずわたしたちをてきにまわしてしまいましたからね」

 ふわふわとテレビ横のコンセントに繋がれた保温用の電気釜から炊きたてご飯の湯気が2柱を隔てるように上がっている。

 その1本の湯気をふぅっと戯れるようにハスターさんは吹いて、風の流れに弛たわせてから言った。

「クトゥグアが居ないのが幸運だったな、もし奴が居たら瞬きする間に蒸発していただろう」

「やだ、ぼくもやけてしまいます」

「そう言われればそうだな」

 ヴルトゥームちゃんの珍しい拒絶の言葉にハスターさんは顔見知り程度の炎の神をぼんやりと思い出す。

 何もかもを焦土に変える、強大なかの神を。

「……居なくて正解だったかも知れない」

「あにうえもそうおもわれますか」

 兄弟揃って脳裏に浮かべたのは大好きな卵焼きと鯖の味噌煮がかの神によって真っ黒焦げの消し炭にされる事だった。

 あいつはダメだ、あいつは本当にダメだ。

 もし来たら全力で追い返そう。

 兄弟は顔を見合わせて、力強く結託したようすで頷いていた。


「ご飯できましたよーーー!!!」


 ガラリ。と足で扉を開けて現れた美澄香さんがふうふう言いながら持って来たのはそれは大きな両手鍋だった。

 蓋はなく、お玉がそのままどっぷりと突っ込まれている所を見るに、汁物だろうかと2柱と縁側に前脚を置いて尻尾を振るビヤーキーが首を伸ばす。

「えへへ今日はカレーライスですよ〜!」

 心なしか普段より声のトーンが1オクターブ高い気がする。

「かれーらいす?」

 でんっと円卓に置かれた鍋を覗き込むヴルトゥームちゃん、それにつられてハスターさんも鍋の中身を確認すれば、見慣れた味噌色の粘性の強い具沢山スープがこれでもかというほど入っている。

 しかし、味噌汁とは違う、何やら食欲を刺激する複雑な香辛料の香りが辺りいっぱいに漂っている。

 美澄香さんは眉尻を下げ、普段よりも緩んだ口から「えへへ〜」と間の抜けた笑い声をあげつつ、ハスターさんとヴルトゥームちゃんの間に入り込み、保温釜を開けた。

 ほわっと立ち上るご飯の甘い湯気に、自ずと皆の喉が鳴る。

「今日はチキンカレーですよ〜とっても美味しいんですから」

 しゃもじを手に取り、深めの皿にご飯を盛る。

 ハスターさんには普通に、ヴルトゥームちゃんには少し小盛りに、ビヤーキーにはそこそこに、そして美澄香さんとショゴスの分は大盛りに。

「ミスカ?」

 ご飯で山が出来そうな程の量を盛れば、流石のハスターさんもそう声かけるしかなかったが、カレーライスを目の前にした美澄香さんには聞こえていないらしく、鼻歌交じりにお玉でたっぷりと掬ったスープを、お皿にトロトロと流し込んだ。

「はい!お待ちどうさまでした!」

 でんっ。と目の前に置かれたカレーライスというまた未知の料理を食い入るように見つめる2柱。

 そんな彼らに美澄香さんは細々とした動きでスプーンを握らせてからビヤーキーとショゴスの分の皿を持ち、立ち上がった。

 ビヤーキーは土の色が変わるほどにヨダレを垂らして尻尾をはち切れんばかりに振っている。

 完全に犬化が進んでいるのか、最近は後ろ足で立ち上がる芸も覚えてしまった。

「はいビヤーキーさん。でもまだ待てだよ?そして……ショゴスちゃ〜んご飯ですよ〜」

 犬小屋の前に山盛りのカレーライスを差し出せば、結界向こうのショゴスは、それはもう不思議そうな顔でカレーライスを凝視しつつ、結界を通り抜けた香りに興奮した様子で、透明な壁をペタペタと芋虫のような手で触っては柔らかい頭をぶにょんと付けていた。

「お待たせしました〜じゃあ食べましょう!」

 縁側から戻り、いつもの定位置に付いた美澄香さんはパンっと景気の良い音を立てて掌を打ち合わせた。

「それでは。いただきまーーーす!!!」

 呪文の詠唱のあと、美澄香さんの行動はやはり早かった。

 スプーンを手に取り、ご飯の山を崩してスープに浸して一口食べる。

 そして頬を紅潮させて身悶えて、まるで魔法のように次々とカレーライスを平らげていく。

 時折「やっぱりルゥはパーモンドとジュワの併せが最高」や「今度は鳥の手羽にしよう」など目をキラキラさせて大きな独り言を呟いている。

 そんな美澄香さんの不思議な生態を見つめていたハスターさんだったが、すぐ隣を見てギョッとした。

 ヴルトゥームちゃんが、さらに顔を突っ込む勢いでカレーライスを貪っているのだ。

 あの鯖の味噌煮の時と同じく、口の周りをベタベタにして。

 ビヤーキーももう人では判別が不可能なまでに高速で尻尾を振ってカレーライスをがふがふと食べている。新たなビヤーキーの生態に、またまたハスターさんは感心するしかなかった。

 そして再びカレーライスに視線を落とし、ハスターさんは小声でこう言った。

「いた、だき……マス」

 神が発した人の呪文。

 何も対価としないという意味の分からない呪文。

 しかし、美澄香さんはカレーライスを運ぶ手を止めて、満面の笑みで応えていた。

「どうぞ!召し上がれ」

 まるで、羊毛を撫でるそよ風のような優しい笑みに、ハスターさんは一つ頷いてからカレーライスにスプーンを入れ、ご飯と一緒に口に運んだ。

「ふわぁ……!」

 自分でも、間抜けな声が出たと思ったが、今はそれどころではない。

 まろやかな中、爽やかな辛さが味覚を一気に駆け抜ける感覚。

 このカレーというものだけでは少し舌がヒリヒリするだろうが、それを甘いご飯が包み込んでくれている。

 間髪入れずに2口目を頬張る。

 スプーンで掬ったごろりとした大きめの具は、ほくほくとしたジャガイモだ。

 3口目はじわりと甘みが染み出す人参。

 4口目は弾力の中に滋養たっぷりの旨みが溢れ出る鶏肉。

 カレーだけを食べてみれば、それらの味は複雑に入り交じり、美澄香さんが得意とする和食の甘辛さとは違った新鮮な風味に虜になる。

 じっくりと味わってみれば、ほのかに果実の甘みがあるように感じる。林檎であろうか?

 さらりとした味噌汁などのスープとは違う、とろりと粘性のあるカレーは、熱の保温性が良いのかじっくり味わっても冷める速度がゆっくりな気がする。

 実際、ヴルトゥームちゃんは早々に皿を美澄香さんに突き出してお代わりを要求し、再び盛られたカレーライスをふうふう言いながら食べている。

 ……と、ここでハスターさんは気づいた。

『あ。結界を外すのを忘れていた』

 スプーンを咥え、犬小屋の方を見てみれば、カレーライスに視線を外さないまま精一杯結界を越えようと体を押し付けるショゴスの姿があった。

 しかも目の前ではビヤーキーが一心不乱に食事をしている光景をまざまざと見せ付けられる地獄である。

 美澄香さんを襲おうとしたのはまだ腹立たしいが、それでも少し悪い事をしたとハスターさんは思い、何事かを呟いて結界を解除した。

 ショゴスは、突然結界が消えたことにより前につんのめり、顔面から思い切りカレーライスに突っ込む。

 これにはハスターさんも「あ」と声を上げてしまったが、とうのショゴスは顔を上げると口を形成して周りについたカレーを大きな舌でべろりんと舐めとった。

 そして、真ん丸な黒点のような瞳を輝かせて一気に食らいついた。

 山盛りのカレーライスが、どんどんとショゴスの胃の腑に消えていく。

「ショゴスちゃーん。お代わりあるからね〜」

 そう声がける美澄香さんは、またご飯を山盛りに盛り上げていた。

「ミスカぁ……」

 改めて美澄香さんの大食漢っぷりを確認したハスターさんも、同じくカレーライスをお代わりしようと美澄香さんに皿を預ける。

 彼女は快く皿にご飯を盛り、カレーもたっぷりと注いで手渡すのと同時に、玉を転がすような声でショゴスが鳴いた。

 見れば、ショゴスはポロポロと瞳から透明な液体を流し、むしゃむしゃとカレーライスを食べている。

「いっぱい食べて下さいね。お代わりはまだまだありますから」

 それに応えるように、ショゴスはこくりと何度も頷いた。



「あぁ〜残念ですねぇ〜」

 井戸の前、ショゴスを引き連れた2柱はわざとらしい美澄香さんの言葉に頭を抱えて考えあぐねていた。

「カレーライスいっぱい作っちゃったから絶対余っちゃいますね〜これは何日もカレー続いちゃいますかね〜」

 チラッチラッと邪神の様子を伺いつつ、美澄香さんはどこか楽しげに続ける。

「お手伝いしてくれるひと居ないかな〜じゃないとしばらく卵焼きも生姜焼きも鯖の味噌煮も作れないな〜どうしよっかな〜」

「分かった!言いたい事は分かったから、僕達を虐めるのはやめてくれ」

 カレーライスは確かに美味しかった、だが食べても食べてもどういうわけだか減らないのだ。

 鍋の体積からでいえばあと3分の2は残っていると見積ってもいい。

 どれほど美味しいものであっても、飽きが来る。

 カレーライスを消費しなければ、美澄香さんは2柱とビヤーキーの好物の他に、まだ味わったことの無い美味を提供しないと言うのだ。

 そして、その為には助っ人が必要だと言う。

 ハスターさんは、足下で縮こまっているショゴスを見て、深くため息をついた。

「……最後の晩餐とは何だったのか」

 その言葉の意味を汲み取った美澄香さんは、大喜びでしゃがみこみ、ショゴスと目線を合わせて言った。

「良かったね!今日からウチに住んでもいいよ!」

 するとショゴスは「テケリ・リ!」と声高に鳴き体をくねらせて歓びを全身で表した。

「じゃあ明日はカレーうどんにしましょうか!」

 早速明日の晩御飯のメニューが決まったと、買出しに行く材料の個数を指折りで大まかに数えつつ、家に戻る美澄香さんとショゴス、その後ろを呆れた様子で付いていくハスターさん。

 そんな中、ヴルトゥームちゃんだけはショゴスが吹き飛ばした石蓋をじっと見つめていた。

『エルダーサイン……』

 内側から真新しい互い違いの4本の傷が刻まれ、殆どその形を崩しているものの、ヴルトゥームちゃんには石蓋に刻まれた模様を読み取り、瞳の色を漆黒に変えスッと細めた。

『わたしたちのほかに……なにかがいる』

 嫌な予感に形の良い唇を歪めるヴルトゥームちゃんは、満点の星空の向こう側、暗黒の宇宙の最果てにて座する白痴の神の姿を思い浮かべた。

『……まさかですよね』

 狂乱の楽隊が冒涜的な歌を奏でるあの場所に、旧神の封印を逃れた神がいる。

 かの神が動くとは思えないが、エルダーサインを破壊できるのは兄では出来ない所業である。

 満たされた腹の中、一抹の不安をどうしても拭えないヴルトゥームちゃんは、西の彼方を向いて呟いた。

「でも……もしかしたら……」

「ヴルトゥームちゃーん?体冷えちゃうからおいでー」

 背後、呼ばれて振り向けば己の天秤を傾けた人間が、大きく手を振っている。

 その顔は、神すら隔てぬ朴訥な笑みであった。

「はーい!」

 ヴルトゥームちゃんも、同じように手を振り返した。

 もし彼が脳裏に浮かべたかの神が、彼女に接触を試みようものならば。

 大いなる副王ヨグ=ソトースから分かちし末弟ヴルトゥーム。

 観測者の理を破壊しても彼女を悪手から守る花弁で包もう。

 邪魔などはさせない。

 鯖の味噌煮もカレーライスも、食べられなくなるぐらいならどんな事でもやってやろう。

 ヴルトゥームちゃんは小さな胸の中にその硬く強靭な決意を秘めて、美澄香さんのもとに歩み出していた。


(to be continued→)

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