3膳目。鯖の味噌煮(前編)

 ハスターさんは魚嫌いである。

 正確に言えばこんがり焼いた塩ジャケは美味しく頂くが、青魚やお刺身等は手を付けない。

 これはハスターさんと同棲し始めて2週間が経過しようとしていた矢先に、美澄香さんが気付いた事であった。

 その日の夕食に出たのは、鯖の塩焼き。

 ビヤーキーさんは、ほぐし身をご飯に掛けてあげたものをペロリと平らげたが、ハスターさんは渋い顔(をしているかどうかは分からないが、美澄香さんは直感的にそうだと分かった)をして塩焼きには手を付けず、味噌汁と大好物の卵焼きで夕飯を終えてしまった。

「お魚嫌いでしたっけ?」

 初めて出会った頃、あれほど美味しそうに塩ジャケは食べたのに、と思いながらハスターさんの残した塩焼きを代わりに食べる美澄香さんはそう訊ねていた。

 ハスターさんは大きく息を吐き「ごめん」と謝る。

「白い魚。嫌い」

 白い魚とはハスターさんにとっての宿敵であるクトゥルフの眷属を指した言葉であるのだが、美澄香さんは当たり前のように青魚と解釈して「ああ」と納得する。

「そうでしたか!いやでも意外ですね、ハスターさんに嫌いなものがあったなんて」

 普段であれば、好き嫌いをしないように講釈をたれる人間が多い中、美澄香さんはハスターさんを責めもせず塩焼きをペロリと平らげてしまう。

「まあ仕方が無いですよ、どうしても嫌いな物ってありますよね」

 にへら。と柔らかく笑いかけ「ご馳走様でした」と両手を合わせた後に、美澄香さんは全員分の食器をまとめて流し台へと持って行ってしまった。

 通常、神であるハスターさんに献上される贄は、その機嫌を損ねる物を避けるのが第一重要事項である。

 ハスターさんの招来に、最も忌避される贄は魚。

 特に深き者などは最悪だ。

 代わりに一番喜ばれるのは、羊である。

 これはハスターさんにとって人間より極上の献上品であるのだが、長き歴史の中でその真実は消えてしまい、ハスターさんもその事を今更人に話す事もしなかった。

 なので、信者側……今間近にいるので代弁させるのであれば、ビヤーキーからしたら罰を受けるのは贄を提供する側の美澄香さんである。

 無知は罪である。

 クトゥルフより非力な代わりに、圧倒的な知識をその手に握るハスターさんが好む言葉である。

 三兄弟の中で、最も賢いハスターさんを敬い、崇め奉る信者には相応の教養というものを彼は求めている。

 だが……圧倒的な、ハスターさんから見たら無垢に近いほど何も知らない美澄香さんが、何の見返りも無しに提供してくれる三食とおやつはハスターさんの尽きることの無い知識欲を刺激し、魔力を高めてくれる。

 普段であるのなら、敵対勢力を潰して欲しいだの、一面を更地に変えて欲しいだのといった破壊を願う者共とは違い、美澄香さんは何も願わず、ただただ一緒にご飯を食べる事を幸福としている。

 もう既に、星の一つや二つを破壊する事など造作もない位には、ハスターさんに贄という名の食事は献上されている。

 しかし、美澄香さんが願うのは破壊では無く団欒であるのだ。

 元々はハスターさんは特に信心深い信者には恩恵を与える神である。

 その神の名において、ただ嫌いなものが食卓に出ただけで今までの美澄香さんが無償で捧げてくれた贄の事をリセットする事など許されない。

 邪神と呼ばれようと、神は神。

 等価交換の法則を一方的に断絶するなどという愚行を犯そうとは思わない。

 そのような神は人からも神からも見離され、信仰を失い、忘れ去られ、滅びるだけなのだ。

 そのような愚者に、賢いハスターさんはなろうと思うはずも無く。

 代わりに美澄香さんに対する申し訳ない気持ちを全面に現していた。

 それに何より、美澄香さんがたいそう美味しそうに塩焼きを食べていた姿に、知識欲が疼く。

『どんな味なんだろう』

 かつて、インスマスの近くに居を構えていた魔女は、深き者で塩辛いジャムを作り、それを好んで食していたという。

 クトゥルフの眷属の血肉を、進んで取り入れようとは思わないが、遠き太古の果てに決別した白身魚が、美澄香さんが笑顔を零すほど美味しいのであれば、それを、どうしても食べてみたい。

 しかし、長年拒否し続けてきたものを、簡単に受け入れられるはずもなく、どうしても白身の魚とだけでも手が拒んでしまう。

『美味しいのだろうか』

 いや、絶対美味しいに決まっている。

 美澄香さんが今までまずい贄を作った事があっただろうか。

 あの魚だって美味いはずだ、そうに違いないとハスターさんには断言できた。

『魚……魚……』

 すっかり布団を敷くことも慣れてしまったハスターさんは、縁側の近くに犬小屋をあてがわれたビヤーキーに声をかけてから、かつて美澄香さんの祖父が使っていたという部屋で横になった。

 食べる事の出来なかった塩焼きの事と、美味しい美味しいと笑顔で食べる美澄香さんの顔を思い出しながら、布団に包まれて静かに瞳を閉じた。


 ……そこから何時間経っただろうか。

 まだ空に満天の星が輝く、人が全て眠りの国に誘われる時間帯なのは変わりないのだが。

 はしたなくも枕に涎をダラダラ垂らしながら眠っていた美澄香さんは、突然の爆音と揺れで飛び起きた。

「うひゃぁ!!?」

 おはようバズーカ?

 いや、そんな生ぬるいものでは無い。

 昔見た海賊映画の、いくつもの大砲でドンパチやるような、あれに近い音だ。

 そして大きな縦揺れの地震。

 これは25年生きてきた中で初めて体験する巨大な揺れで、台所の方から皿が何枚か割れて、物が落ちる音が響いたが、タンスなどの家具が倒れてくる程では無く、あっさりと収まった。

「ミスカ」

 そう呼ばれて部屋の出入り口を見れば、ハスターさんが安否を心配するように覗き込んでいる。

 美澄香さんはハッとして汗ばむほど握り締めていた布団の端を手放すと、ハスターさんの方へと転がるように近付いた。

「は、は、ハスターさん!!! 爆発音が! じ、地震が!!!」

「知ってる」

 珍しく取り乱す美澄香さんをやんわりと宥めながら、ハスターさんの指が明後日の方を指さした。

「音からして、あっち。たぶん、隕石が落ちた」

「ああ、何だ隕石ですかあ〜」

 ハスターさんが予想した答えを聞いた美澄香さんはホッと胸を撫で下ろしていつものニコニコ顔に戻っていた。

 ハスターさんはそんな美澄香さんを見て一言。

「隕石で動じないの、おかしくない?」

「原因が分かったらそうでもなくなっちゃって」

 にへら。とふやけた笑顔を浮かべて、そう答えた美澄香さんは、再び寝に入ってしまおうとベッドの方へ戻って行った時だった。

「美澄香さん! 大丈夫かい?! 美澄香さん!」

 と、玄関口を激しく叩き、慌てた様子の男性の声が響く。

「あ、猟友会の北村さんだ、ハスターさん。ここにいて下さいね」

 こくり。とハスターさんが頷けば、美澄香さんは「はーい」と間延びした返事をしつつ玄関口に向かって行った。

 そこから聞こえる会話は美澄香さんの安否を心配するもので、特にハスターさんの興味を引くことは無い。

 しかし、やはり独身女性の一人暮らしを心配するせいか、男性の方がかなり長話になっているのでハスターさんも自室に戻るに戻れず美澄香さんの女性にしては殺風景な室内をぐるりと見回せば、唯一大きい家具である本棚に目が止まり、背表紙を確認する。

『……上段は民話で、中段以降は全て料理の本ではないか』

 その中で【誰でも簡単、基本のおかず】という題名の本を手に取り、パラリとめくってみれば菜食豊かなおかずの写真にその調理方法がズラリと並んでいる。

 勿論、ハスターさんの大好きな甘じょっぱい卵焼きのレシピも乗っており、他にも【出し巻き卵】や【伊達巻】変り種で【オムレツ】等の卵料理が紹介されている。

『たまごやき……』

 じゅるり、と唾液を嚥下しながら次のページをめくっていく。

 肉料理、卵料理と来て魚料理の項目に来た時、ピタリとハスターさんの指が止まった。

『魚かあ……』

 そして大きくため息を付きレシピ本を閉じてしまう。

『塩ジャケというのは食べれたが、どうもなあ』

 未だ夕飯の事を引きずっているハスターさんは、2度目のため息を付いて本をもとの場所へと戻そうと手を伸ばした時だ。

 ──コツコツ。

 ……と、美澄香さんの部屋の窓を叩く音が聞こえる。

 ハスターさんは何事かと思い、じっと息を潜めたが次の瞬間、とんでもない言葉を耳にする事になる。

「あにうえ。あにうえ。ヴルトゥームがまいりました、ここをおあけくださいまし」

 ハスターは、外れんばかりにカーテンを思い切り開き、窓の外でニコニコと微笑む妖華の弟……ヴルトゥームの姿を確認した。


 →後編へ続く。

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