正人

 翌朝、熱を出したのは正人さんの方だった。長時間水に浸かっていた私は全くなんともなかったのに。……お風呂、先に入らせてもらったし、申し訳ないことしちゃった。

 おかゆを作って持って行くと、ベッドの上で正人さんが唸った。


「…………情けねぇな。…………マミはなんともないのか?」

「おかげさまで。なんとかは風邪ひかないっていうし」


 熱のせいか少しぼーっとした正人さんは、からかう元気もないらしい。おかゆを食べ終わるとまたすぐに眠ってしまった。

 しばらくして様子を見に行くと、随分汗をかいていてうなされている。そっと汗をぬぐってあげると。


「…………けいちゃ………だめ……だ…………」


 けいちゃん? 誰だろう。女の人の名前? 


 なんだか胸の中がもやもやする。部屋を出てからもずっとそれが消えない。いつものように家事をこなし、紫陽花の様子を見に行っても胸の奥に何かがつかえているような感じがず~っと続いている。


 は~。なんだろ。このもやもやは。


 洗濯籠を持って洗面所に戻る。――と、鏡に映った自分の顔が目に入った。


 うわ、なんて顔してるんだ。眉間にしわ寄せて変な顔。


 思わず両手でほっぺたを挟んでぐいぐいマッサージした。


 次に正人さんが目を覚ましたのはお昼過ぎ。熱は下がらないけど食欲はあって安心する。安心したら気になってたことをどうしても聞きたくなった。

 図々しいかな、プライベートに踏み込み過ぎかな、とは思ったけど。


「ずいぶんうなされてたよ」

「ああ。…………悪い夢見てた。」


 おかゆを口に運ぶ手を止めて、ぽつりと言う。

 聞いちゃまずいかな。聞いちゃおうかな。

 心の中で葛藤したすえ、結局聞きたいことを口にする。 

 

「けいちゃん、だめ、って言ってた」

「…………そんなこと………参ったな。昨日のがけっこうきいてるな……」


 正人さんはスプーンを置いてしまうと、窓の外に目をやった。 

 遠い目をしてそのまま黙りこんでしまう。その眼があんまりにも哀し気で自分の好奇心を優先させて聞いてしまったことを後悔する。


「マミ、ホットミルクいれてくれないか?」


 そのままずいぶん長い間外を眺めていた正人さんが不意に言った。


「ホットミルク?」

「ああ、…………とびきり甘いやつ」


 甘いもの嫌いなはずなのに? 


 不思議に思いながらもいれてくると、甘ったるいホットミルクに口をつけた正人さんは相好をくずした。


「…………甘いな」

「だってとびきり甘いやつって言ったから」

「うん、これでいいんだ。…………懐かしい味だ。圭が好きだったんだ。おばあちゃんによく作ってもらってた」


 けい? おばあちゃんに作ってもらってた? どういうこと?


 正人さんはもう一口、ゆっくりと口に含むとじっとミルクを見つめて静かに言った。


「圭は幼馴染みだよ。…………ここに来た日にアルバムを見せただろう? その時に拾ってくれた写真、覚えてるか?」


 あ、菜の花の中で三人が手を繋いだ写真。


「あそこに写ってたもう一人が、圭。真由美の兄貴だ」


 兄貴って……お兄ちゃん? 真由美にお兄ちゃんがいたの? 


「この話は真由美には絶対に言うなよ。約束してくれ」


 そう言って天井を振り仰いで。

 それからゆっくりと話してくれた。




 小学校一年の夏。

 俺と圭は初めての夏休みが嬉しくてめちゃくちゃ張り切ってた。七月のうちに宿題をさっさと終わらせて、毎日遊びまわっていたんだ。朝から裏山で虫取りをしたり、公園でブランコや滑り台したり、河原で綺麗な石を探したり。その後ろを真由美はいつもついてきていた。帰ってきたらいつもおばあちゃんがでっかいビニールプールに水をはってくれていて水遊びした。雨が降ったりしてどこにも出かけない日は拾ってきた石や木切れで工作を作ったり絵をかいたりして遊んでた。

 夏休みも終わりに近くなったその日、俺と圭は何日か前からとりかかってた超大作の続きを一生懸命作ってた。ものすごく暑い日でプールに入ってしばらく涼んではまた続きを作って。真由美はそのすぐ隣でずっとプールから出ずに浮き輪やボールで一人遊びしていてこっちの工作には興味を示さなかった。

 ……何をあんなに一生懸命作ってたのか、今でははっきり覚えてないんだけど、途中で材料がなくなったんだ。

 

「真由美、ちょっと一人で遊んでて」

「どこにいくの?」

「河原に材料探しに行ってくる」

「まって、まって。まゆみもいく」

「すぐ帰ってくるから」

「ほんとにすぐ~? それなら待ってる」


 いつもなら絶対に真由美を置いて行ったりしなかったのに、そのときは急いでその材料が欲しかったんだ。真由美も珍しくごねたりしなかったから、俺たちは二人で河原に走っていった。

 走っていったし、帰りも走ったのは覚えてる。河原でも急いで欲しかった形の石を見つけて、そんなに時間はかからなかったと思う。でも、子どもの時間感覚だし実際にはどのくらいたってたのか――家に戻ったらプールのところに真由美がいなかった。おばあちゃんにきいても家の中には入って来てないって言うんだ。でも入ったのに気づいてないだけかもって二人で家中探してもいなくて。もう一回庭に出て裏の方も探してもどこにもいない。


「おばあちゃん、真由美がどこにもいない」

「一緒に遊んでたんじゃないのかい?」

「うん、一緒にいたんだけど。僕たちちょっとだけ河原まで行っちゃったんだ」 

「ねぇ、圭ちゃん。…………帰ってきたとき、門、開いてなかった?」


 俺がそう言った途端、圭は目を丸くして飛び出して行った。俺も慌ててついていく。


「おばあちゃん、河原の方見てくる!」


 走って走って土手の近くまで来てやっと圭に追いついた。二人して駆け上ると、川の浅瀬で真由美が遊んでいるのが見えて、ほっとしたのも一瞬のことだった。


「真由美、戻れ!!」


 浮き輪を腰につけたままパシャパシャと深い方へ歩いていく真由美に大声で言ったのに、聞こえてないのかどんどん深みへ進んでいく。


「真由美! 戻れって言ってるだろ!!」


 坂を駆け下りながらもう一度圭が言ったとき、くるりと真由美が振り返ってにこっと笑って手をあげた。その瞬間、バランスを失って尻餅をついて。といっても浮き輪をしてるから、そのままぷかりと浮かんで流され始めた。立とうと思えば足は届いたはずだけど、その後ろが深くなってるなんて危機感は当然真由美にはなくって、そのままずんずん流されていった。

 圭は真由美を追いかけてジャブジャブ川に入っていった。


「圭ちゃん! 危ないよ! 大人の人を呼ぼう!」

「待ってられないよ! 真由美が流されちゃう!」


 圭はクロールで真由美を追いかけた。……夏休みに入って圭はクロールができるようになってたから。まだ伏し浮きしかできなかった俺は、怖くて膝より深いところまで行けなかった。


「圭ちゃん! 真由美!」


 二人の名前を呼ぶだけしかできなくて。

 流れていく真由美に追いつく前に圭が沈んだのを見ても、泣いて叫ぶだけしかできなかったんだ。


「圭ちゃん! 圭ちゃん! 圭ちゃん!!」


 俺の声を聞いて通りすがりの人が駆けつけてきて人をたくさん呼んでくれて、後から走ってきたおばあちゃんが俺を抱きしめてくれて、騒然とした中でただ泣いてるだけだった。


 そこからはよく覚えていない。

 ただ、引き上げられた圭がみんなの輪の中で人工呼吸されて、最後は人形のように寝かされていた姿だけが頭にこびりついてる。


 幸いなことに、真由美は浮き輪のままうまく流されて怪我もなく救助された。すぐ先は岩がいっぱいで危険だったんだけど、その手前にあった流木に運よく引っかかってたんだ。




 淡々と話していた正人さんの頬を涙がつーっと伝い落ちた。


「もう夢にみることは減ってたんだけどな。…………お前が川の中に倒れてるのを見つけたときは心臓が止まるかと思った」

「心配…………かけちゃってごめんなさい」

「圭の代わりに見守っていくって決めたんだ。…………お前もおんなじだって言っただろ」


 ぐいっと涙を拭いて大きなため息を一つ吐くと、天井を振り仰いで目を閉じる。それからゆっくりと私の顔に視線を移した。

 

「お前から言い出すまで放っとくつもりだったんだけど…………」


 ためらいがちに口を開く。


「俺の方が心配で気が休まらない。…………もう一回、訊くぞ? お前、何か言うことあるだろ? …………もうそろそろ話す気にならないか?」


 言わなくても、結局心配かけちゃってるんだよね。それなら、ちゃんと話した方がいいのかな。でも……。


 また俯いてしまって逡巡している私の頭に手を置いてくしゃっと髪をかき回すと正人さんは、その手で思いっきりデコピンしてきた。


「痛っ」

「この強情っぱりめ」


 おでこをさすって恨めし気に睨みつける。


「なんなら俺が言ってやろうか?」

「え?」

「…………誰かに何かされてるんだろ?」

「なんで知って…………」

「ほら、やっぱりそうだ」

「…………!!」


 かまかけたんだ!

 でも。ある程度は予測してたってことか。

 これ以上隠してても仕方がない。どうせ私一人では何も解決できそうにないものね。私は今までの事故のことを話すことにした。

 順を追って話していくと……。正人さんの表情がだんだん険しくなってくる。


「…………おま……こ…の……、馬鹿‼」


 思わずびくっとするような大声で怒鳴られる。


「なんだって今まで黙ってたんだ!!」

「だ、だって。なんの確証もないし。…………狙われてるかもっていうのも推測でしかなかったし」

「それでも!! …………」


 言いかけてやめ、拳をぎゅっと握りしめる。小さく溜息。


「これからは全部話してくれるな?」


 確認するように言う正人さんに、私は頷くしかなかった。

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