少年

 その少年は、普通にノックして入ってきた。それはちょうど正人さんがトイレで席をはずしたわずかな時間。

 小柄な少年はせいぜい七、八才くらい。真っ黒な黒髪はサラサラでその下の双眸は淡いグリーン。ハーフだろうか。とてもきれいな顔立ち。

 場違いな黒のタキシードに黒の蝶タイでにっこり笑いかけてくる。


「えっと、部屋を間違えたのかな?」

「間違えてないよ。あなたのところに来たんだ」


 そう言ってとことこと近寄ってくると綺麗にお辞儀をした。どこかのお坊ちゃんだろうか?

 

「はじめまして。マミ」

「はじめまして」


 思わずつられて挨拶してしまうと。


「最初に謝るね。ごめんなさい」


 もう一度ぺこりと頭を下げる。


 え? 謝るって何を? と訊き返そうとしたとき、正人さんが戻ってきた。少年をみると胡散臭そうに眺めまわす。


「ああ、やっぱりすぐ戻ってきちゃったね。本当はマミと二人で話したかったんだけど。まぁ、いいや。どうせあなたも聞きたがるんだろうから」

「…………誰だ?」

「ボクはティム。はじめまして、正人」


 私のときと同じように綺麗にお辞儀をする。

 正人さんはそれに返そうともせず、つかつか歩いてきて私と少年の間に入るとつっけんどんに言った。


「…………要件は?」

「マミの命を狙ったことを謝りにきたんだよ」


 ティムと名乗った少年は、さらりと爆弾発言をした。

 それを聞いた途端、斜めに位置していた正人さんがさっと動いて、私を後ろに隠した。


「そんなに警戒しなくても、もう何もしないよ。謝りに来たんだから」

「ふざけるな‼」


 飄々と言う少年――ティムを正人さんが怒鳴りつけた。それにひるむことなくティムはそのまま先を続ける。


「ふざけてなんていないよ。ボクがしてしまったことを謝りに来たんだ。それで、理由をちゃんと説明しようと思って」

「理由?」

「うん、全部話すから、聞いてくれる?」


 明らかに怒気をはらんだ正人さんの声をまるっきり無視して、ぴょこんと横から顔を覗かせて私に言う。

 

「私を狙った理由。そりゃ勿論聞きたいわよ。生半可な理由なら承知しないんだから」


 ティムは首を竦め、ひょいっと私のベッドの足元に飛び乗るようにして座ると突拍子もないことを言い出した。


「ボクね、実は人間じゃないんだ」

「何を馬鹿なこと……」

「黙って聞いてよ」


 あまりに意外なことを言うので思わず口を挟んだ私を手で遮る。正人さんは今すぐに害はないと思ったのか、腕をくんでじっとティムを睨みつけたまま椅子に腰かけるとゆっくり脚を組んだ。




 ボクはね、もともと天使だったんだ。

 天使になるには学校があってね、人間のことを勉強するんだ。卒業したら人間の役に立つためにね。

 先輩たちの話を聞いてると、人間てすごく興味深い生物なんだよ。

『純粋で気高く、汚れなき心を持ち、その心はビードロ細工のように繊細で傷つきやすいんだ』

『芯はやたらと強くて、夢を追い求め、不可能を可能にしてしまうことのできる生物よ』

『思慮深いのかと思えば、感情が先走って理性ではわかっているのにとんでもないことをしでかしてしまうことがあるの』

『淋しさには弱くて、孤独を嫌うね』

『とにかく可愛くって目が離せない』

 それが先輩たちが人間に抱いた感想。

 ボクはすっごく楽しみにしてたんだ。人間に会うのを。

 近くで見る人間ってどんなだろう。早く見てみたい。どんな感じなんだろう。早く立派な天使になって人間というものの役に立てるようになりたい。そんな思いでいっぱいだったんだ。

 そしてボクはそこを最優秀で卒業した。


 天使の仕事っていってもいろいろあってね、病気で心細くなっている人を励ましてあげたり、貧しくても誠実に生きている人に幸せを運んだり、淋しさでつぶれそうになっている人には温かい心休まるところへ導いてあげたりするんだ。あ、あと、恋の手伝いをするときもある。

 そういう仕事をするのは新米の天使。


 だけどボクの成績があまりにも良かったから、いきなり手が足りていない上級天使の仕事を任されたんだ。


 上級天使になると仕事は少し難しくなって、楽しいことばかりじゃなくなってくるっていうのは聞いていたんだ。それはいわゆる”悪人”を改心させる仕事。

『忍耐が必要だよ』

『ゆっくりと時間をかけないといけないから、心が折れそうになる時もある』

『生来の心の美しさを信じるしかない』

『魂の周りについた汚れは一度に簡単にはとれないんだ。ゆっくりとじっくりと向き合わなければならない』

 何度も何度も先輩たちに相談しながら、試行錯誤して人間――悪人たちに向き合ってきた。


 でも、正直に言って人間に失望しちゃったんだ。裏切られた。そう思ったよ。

 ボクの担当した人間たちはきれいな心とは縁遠い人たちばかりだった。ボクは耐えきれなくなった。人間に対して抱いていた尊敬と憧憬も砕け散ってしまった。嫌悪さえ感じるようになった。

 新米天使がやる仕事をすっ飛ばしたのもまずかったんだろうね。その期間に人間に対する更なる愛着と慈しむ心を育てないといけなかったんだ。


 その結果。

 二年前にある事件を起こして、ボクは天使を堕とされてしまった。


 その日、ボクはもう本当に限界にきてしまったんだ。

『人間はわがままだ。勝手すぎる。自分本位で人のことなんて考えもしない。純粋だなんてとんでもない。人間が一体なんだというんだ。人間に一体何ができるというんだ』

 憤りにまかせてボクは自分の感情を爆発させてしまった。

『みんな好きなようにしたらいいんだ。騙したければ騙せばいい。殺したければ殺せばいい。残虐な欲望のままに好き勝手にすればいいんだ‼』

 そしてその時周り――花咲公園にいたたくさんの人々をボクの爆発した感情の波に巻き込んでしまった。

 その結果、同時殺人事件が起きた。

 それだけたくさんの人々が、少なからず相手に対して殺意を抱いていたという事実が、ボクの感情をさらに波立たせた。それに加えて何も影響を受けなかった人々の悲鳴、悲鳴、悲鳴‼

『うるさい‼』

 ボクは均整のとれていた時空のバランスまでも壊してしまい、生き残った人々の半数以上をどこかへ吹き飛ばしてしまった……。

 そうしてボクは天使を降ろされ、時空管理の仕事を与えられた。


 時空管理の仕事は極めて簡単なものだった。まれに自然に起こる時空のずれを調整すればいいんだ。だけどそんな時空のずれなんて滅多なことでは起こらない。天使が責任を持って起こすずれはきちんと制御されているから、実際にはすることなどほとんどないに等しかった。


 ボクは暇を持て余すことになった。

 考えなければいけないことはいくらでもあった。人間のこと。天使の役目。自分のしたことの反省。

 でも、何も考える気にならなった。人間には失望しきってしまっていたから。天使としての役目を果たしたいとも思わなかった。自分がしたこと――それが悪いことだと頭ではわかっていても、反省する気にはなれなかった。

 ボクは暇にまかせて、猫の姿を借りてそこらを散歩したり、陽だまりで日向ぼっこをしたりしていた。


 あれから二年たって。

 ボクは少しずつ、人間について、また天使の役目について考えるようになってきていた。学校で習ったこと。先輩たちの話。もう一度、人間というものを確かめてみようという気持ちがおこってきはじめた。


 人間に再び興味を持ったボクは、大天使様にお願いしたんだ。


『もう一度、天使としての仕事をさせてください』

『来年の春まで無事にこの仕事ができたら、また天使に戻してやろう。それまでの間、しっかりといろんな人間を観察して勉強するんだぞ』


 大天使様はそう約束してくださった。




「ボクは真面目にいろんな人たちを観察し始めてたんだ。仔猫の姿であちこち歩き回って。だけどあの日、自転車に轢かれそうになって、無意識に別空間に移動してしまって」


 え、それって……。


「そう、マミはボクにくっついてきちゃったんだ。連れてくる気はなかったんだけど」


 ……あの黒猫がそうだったんだ。


「で、お前がこいつを狙ったのは、それとどういう関係があるんだ?」


 正人さんは鋭い眼でティムを睨みつけたまま言う。


「こいつをここへ連れてきてしまったのが偶然だってことはわかった。でもそれならなんでこいつを狙ったんだ? 時空管理の仕事をしてるんだろ? こいつをこっちに連れてきてしまったんなら、なんですぐに元の世界へもどさなかったんだ?」


 組んだ脚をほどいて身を乗り出すと矢継ぎ早に質問する。ちょっと……いやかなり怒ってるみたい。


「そんなに一度に聞かれても答えられないよ」


 ティムの方は相変わらず悠然と答える。


「マミを殺そうとしたのは悪かったと思ってる。ごめんなさい」

「おい! お前、かりにも人の命を狙っておいて、その言い方はないだろ!」


 バシッと自分の膝を叩く。

 正人さんの怒りがあまりに激しすぎて、私は毒気を抜かれてしまってほけっと二人のやり取りを見ていた。


「でも、あの時はそれしか方法がないと思ったんだ。彼女がここにいるのはまずいし、かといって大天使様に報告もできないし」

「こいつを元の場所に戻せばすんだことだろ」

「そういうわけにはいかないよ。大体マミがついてきちゃった時点でバレなかったのが不思議なくらいなんだから」

「なんでその大天使とやらにバレたら駄目なんだ? そいつならなんとかしてくれるんじゃないのか?」


 苛々してきている正人さんにティムは少し躊躇して小声で答えた。


「今、こんな失態をするわけにはいかないと思ったんだよ。春まで無事にやり遂げるって約束したから」

「で、こいつがいなくなればいいと思ったのか?」

「うん」


 ティムがあんまり素直に頷いたので、それ以上怒る気力も失せてしまったのか正人さんはがっくりと項垂れて小声で呟いた。


「それって、天使的にどうなんだよ…………」


 ふと疑問が浮かんでくる。


「ね、どうして今頃になって本当のことを言いに来たの?」

「バレちゃったんだ。大天使様に」


 ペロリとかわいく舌を出す。


「と思ったら、大天使様は実は最初からご存じだったんだ。っていうか彼が仕組んだことだったらしい」

「え? なに? どういうこと?」

「マミがここに来たことだよ。ボクもちょっと変だなとは思ったんだ、あの時。マミに触れてもいないのにどうして一緒についてきてしまったのか。だけど、”見つからないようにしなきゃ”って思いに駆られてしまって、それについて深く考えなかったんだ。

 失敗したよ。

 大天使様は、ボクを試すためにあんなことをしたんだ。

 本来なら、即報告してマミにとって最善の対処をするにはどうすればいいのかを考えなければいけなかった。それなのにボクはそれをしなかった。それどころか証拠を隠滅しようとした。……こっぴどく叱られたよ」

「ちょっと待って、じゃあその大天使さんは私の命が狙われていることも知っていて、放っておいたっていうの?」


 それが天使のすること? しかも大天使っていうからにはお偉いさんじゃないの?


「全部失敗に終わってただろ? あれは偶然じゃなかったんだ。大天使様が阻止してたらしい。

 今まで二年間ボクが人間に興味を持っていなかったのはチェックされていて、そんなボクがまた天使になりたいというからには、どういう行動をとるのか見ていられた。

 そうしたらボクが本当にマミを傷つけてしまったから、呼び出されて全てを明かされたってわけ」


 ぴょこんとベッドから飛び降りると私の前にやってきて、もう一度頭をさげる。


「本当にごめんなさい」


 なんていうか……小説にでも出てきそうな話。


「……それで、私は向こうの世界に帰れるってことなのかな?」

「うん、勿論。マミが帰りたいのならすぐにでも。だけど……」


 だけど?


「少し、時間がほしいよね?」


 確かに。融通がきくなら、みんなにお別れを言ってから帰りたい。


「一週間までなら、なんとかするよ。それ以上ここにいるのは具合が悪くてできないけど」


 私の目をじっと見て頷くと、「じゃあ、また後で」と言い残してふわりと消えてしまった。


「……消えちゃった、よ?」


 後に残された正人さんと私は、夢でも見ていたんじゃないかとお互いに顔を見合わせた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る