地図の上の旅人
楠秋生
プロローグ
突然、何か黒い物が視界に飛び込んできた。
黒い物。……え!? あ、仔猫!!
気がついたときには仔猫はもうタイヤの真ん前。私は思いっきりハンドルを切った。
キキキーッ ガシャーン!!
次の瞬間には、私はものの見事にひっくり返ってしまった。
慌てて起きあがって辺りを見回す。幸い辺りに人影はない。仔猫もすでにどこかの繁みに逃げ込んだようだ。
ほっ。よかった。誰にも見られなかったみたい。
……だって、ねぇ。いくら仔猫のためとはいっても、あそこまで見事にひっくり返るところを見られるのって、やっぱり恥ずかしいじゃない? 男勝りだと自覚はしてるけど、一応は女の子なんだし。
それにしても。
よっこらしょと自転車を起こしてもう一度辺りを見回して気づく。
なんで人がいないんだろう?
さっきは誰かに見られたんじゃないかって思いでいっぱいだったから人がいなくてほっとしたんだけど、よく考えてみるとここで人に見られないことなんてまずありえないんだ。
ここ─―花咲緑地公園。
ここは普段、私が知っている限りでは今まで一度も、人影が一つもないだなんてことはなかったのだ。
私が転んだのはちょうど芝生広場の前。
いつもならこの広場は、野球をしたりサッカーをしたりしている少年たちでいっぱいのはずだ。バレーボールをしている女の子たちや、鬼ごっこやかくれんぼやらをして走り回っている子どもたちを見ることもある。家のすぐ近くの小さな公園がボール遊び禁止になってから、ゲームをしているような子たちはそこで満足しているけれど、パワーのあまった元気な子どもたちはここに集まってくるようになっていた。そういった子どもたちの姿もないのだ。
それに、広場の向こう側のポプラ並木に沿って数メートルおきに並んでいるベンチ。あそこもいつもなら何組かのカップルと、散歩に来たおじいさんやおばあさんとで空いているときなんてめったにない。
私が今通ってきた小道にしてもそうだ。今は色とりどりの紫陽花が真っ盛り。紫陽花を愛でる人や写真に収めようとする人が少なからずいるはず。
それなのに。
人が大勢いて当然──いるのが当たり前の場所なのに、人影が見えない。人っこ一人いやしないかのように静まり返っている。
……これは異常事態ではないだろうか。
そういう思いで見ているせいか、木々の様子もなんだか少しおかしい気がする。気のせいでは片づけられない何か。
梅雨の晴れ間。湿った空気が肌に纏わりついて欝々してしまう気分をほんの少し晴れやかにしてくれる青空。落ち着いて見回すと、露をふくんだ紫陽花の華やかな色たちがとてもきれいだ。芝生広場の黄緑の向こうに見える菖蒲園の紫や黄色は遠目にも鮮やかだし、木々の緑もきらりと光る滴が輝きを添えている。
それはとっても気持ちがいい風景。……のはずなんだけど。
なんだか重苦しい感じがするのは何故だろう。
自転車の脇に突っ立ってぼんやりそんなことを考えていた私は、のんびりこんなことしている場合じゃなかったと思い出し、自転車に跨った。
その時、自転車のかごに入っている白い袋が目に入り、思い出す。
──卵!!
慌てて袋の中を覗いてみると、当然のことながらパックの中の卵は全滅だった。
はふっ。ついてないな。
溜息一つ吐いてペダルを強く踏む。
バキッ
今度は後輪で何かを踏んだ音。嫌な予感……自転車を少しバックして足元を見ると。
はあ~~~っ
深い深い溜息とともに項垂れてしまう。
そこには転んだ拍子に落としてしまったであろう携帯電話が、たぶん使い物にならないであろう姿で転がっていた。その残骸を拾い上げ、念のため確認してみる。
あ~あ、やっぱり電源すら入らない。
もうっ。踏んだり蹴ったりだ。誕生日だっていうのになんでこんなについてないんだろ。
乱暴にそれを自転車の籠に放り込むと、今度こそ自転車で走りだした。
遅くなっちゃった。急がなきゃ。
家の鍵は佳代さんに渡してあるし、きっともうみんな着いてる頃だろう。ただでさえ帰りが遅れたんだから。
今日はみんなで誕生日パーティーをしてくれるという。
例年は幼馴染みの幸也の家族がうちに来て、誕生日を祝ってくれていた。ちょっと訳ありで彼が小さい頃に私の家で育った経緯もあって、今でもしょっちゅう行き来してるから本当の家族も同然だった。流石に私や幸也が互いの家に泊まることはほとんどなくなったけど、この家の小さな双子は今でもよくうちに泊まりに来る。
だから家族水入らず、というのは語弊があるけど、そんな内輪のパーティーのはずだった。それが今年はたまたま日曜日で、めずらしく部活が早めに終わったら、なんだか流れで部のみんなもうちに来ることになってしまったのだ。
「マミ~、なんか食べて帰ろうよ。お祝いにおごるからさ」
校門を出たところで後ろから巻きついてきたキャプテンに言われたのは二時間ほど前のこと。その言葉に、近くにいた二人ものってきた。
「あ、いいね~」
「あたしも行く!」
「あ、ごめん。うちでちびさんたちが待ってるの」
何気なく言ってしまってから、しまったと思った。
「ちびさんって幸也くんのところの?」
「お祝いしてくれるの?」
「あ、行きたい! マミんち行ってみたい!」
その声に数人が寄ってきた。
「なになに~? 幸也くんのお母さんの手料理?」
「それって噂の佳代さん?」
「あたしも行く~」
「幸也くんも来るんだよね?」
わきゃわきゃとみんな寄ってくる。
あちゃ~、参ったなぁ。
一つ下の幸也は結構なイケメンで、バスケ部のみならず学校内でもアイドル的存在になっている。さらに佳代さんも実は人気者。いつも美味しそうなお菓子や料理をブログにアップしていて割と有名人なのだ。幸也のお母さんってことで校内でもブログチェックしてる子たちはかなりいるらしい。
そんな幸也の家族と親しくて、うちにもよく来ることをいつだったか話したことがあったのだ。
ことあるごとに『いいな~』と言っていたみんなからは『行きたい!』オーラが出まくっている。
仕方なく佳代さんに電話してみると、佳代さんったら優しすぎだよ。いきなり6人も増えたって言ってるのに軽く受けてくれちゃうんだから。
そんなわけで急にみんなが来ることになったのだ。
「じゃあ、後でね~」
みんなが着替えてからがいいというので、一旦帰ってからうちの最寄り駅に集合して、親友のあかりの案内でうちまで来ることになった。きっとおしゃれしてくるんだろうな。幸也狙いで。
真っ直ぐ帰るぶん少し時間があるなと思って、ちょこっと買い物してちょこっと本屋に参考書を買いに行ってから帰るつもりだったのに。
お目当ての本がなくてちょっとたずねてみたら、とっても親切な店員さんで何度も探してくれて時間をとられてしまった。
さらに店を出たところで、息子さんを訪ねてきたというおばあさんに道を聞かれて教えてあげたら、そのおばあさんが反対の方に曲がろうとしてるのが見えちゃって……ついついおせっかいして目的地までついて行ってあげちゃったのよ。おばあちゃんは喜んでくれたけど、ずいぶん時間がかかっちゃった。
佳代さんとあかりには電話で事情は説明したけど、あんまり待たせるのも悪いので、大急ぎで走っていて――最初の転倒につながるわけだ。
それにしても、私ってほんと考え事してると周りが見えてないな。自転車を走らせながら思う。
別にそんなに難しいことを考えていたわけじゃないの。急遽大人数で祝ってくれることになった誕生日。先に着いてるなら絶対なにかサプライズを仕掛けてくるだろう彼女たちに、いかにしてサプライズ返しをしてやろうか考えていただけ。
それなのに、公園のこの異様な様子に気づかなかったなんて。
結局公園をぬけてしまうまで、誰一人出会うことはなかった。ただ、露を宿した紫陽花だけがきらりと輝いていた。
18歳の誕生日。この日が全ての始まりだった。
私にとって──私の人生において、この日がどんなに重要な意味を持つことになるか、このときはまるで思ってもみなかった。
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