杏花さん

 買い物はあっという間に終わった。

 お目当ての植木鉢がすぐに決まったからだ。二人そろって同じ鉢に一目惚れしたから。

 それはポルトガル製のお洒落な陶器で、白地に深い緑色の手描き紋様が施されている。セットの受け皿もあり値段も手頃だった。

 帰ってすぐに私は裏庭に回って土を入れ、朝挿した枝の二三本を鉢に挿し直してリビングに運んだ。一番日当たりのいい出窓に置いてみる。


 うん、今はまだ貧弱だけど、紫陽花がもっとしっかりしてくればしっくりくるはず。夕方みんなに見せるのが楽しみだ。


 杏花さんは着物の用意だけしておくからと自分の部屋へ戻ったので、その間に買ってきたパンをお皿にならべる。

 帰る道すがら聞いた話では、午後からお茶とお華のお稽古があるらしい。

 午前中作ってみたスープを温め、グラスにハーブ水をそそぐ。


「あら、いい匂い。スープを作ってくれたの?」

「うん。杏花さんほど上手じゃないけど」


 二人でおしゃべりしながら食事をする。


「そうだ。紫陽花のプランター、裏庭に置いたままなんだけどちゃんとつくまでこっちに持ってきてもいいかな」

「いいんじゃない?」


 裏庭で思い出した。初めてちゃんと会話した一馬さんのこと。


「ね、この前聞きそびれたんだけど、杏花さんっていつから一馬さんのこと好きだったの?」

「聞きたい?」


 ……明らかに言いたそうなんだけど。くふふ。杏花さんって可愛い。


「一馬とはね、高校が同じたったの。私が演劇部に入部したとき彼は三年で文芸部の副部長をしててね。演劇部の部長と仲がいいとかでちょくちょく練習を見に来てたの。

 でもあの頃は一馬、今よりだいぶ太っていてね、私たち一年生の間ではあんまりよく思われてなかったの。黒ぶち眼鏡をかけてて地味で暗そうなイメージだったし。クラスメイトの話では、他の部も見にいってるみたいだし、いつも無表情で見てるしね。『あの人また来てるよ』『何しに来てるんだろ~』なんてこそこそ言ったりして、ちょっと変な人だと思ってたの」


 ひどい言われようだけど、さっき庭のベンチにぼーっと座っていた様子を思い出すと、さもありなんという感じ。

 

「太ってて地味で暗そうって女子から敬遠される三拍子そろってると思わない?」


 いや仮にも自分の彼氏をそんな言い方って。


「だけどある日ね、先生から頼まれた小道具を運んでいるときに手を滑らせてしまったの。『大事なものだから大切にね』って言われてたのに。その時思わず目をつぶってしまったんだけど、落ちた音がしないの。恐る恐る目を開けてみたら、一馬がキャッチしてくれてたのよ~。

『危なかったね』って渡してくれた笑顔が意外にも優しくて、お礼を言ったときのはにかんだ顔が可愛くて」


 自分から話したそうにしていた割に照れ照れの杏花さん。

 嬉しそうに話すあなたの方が可愛いと思いますけど。


「それで好きになったの?」

「それは最初のきっかけでね。それから気になってあの人のことよく見るようになったの。そうしたらね、じーっと見てるだけだと思っていたんだけど、割とよく部長と話をしてるの。だけど、何を話してるのかなって近寄るとすっといなくなっちゃうのよ。気になるから部長に訊いてみても『大したことじゃないよ』ってはぐらかすのよね。

 そのうち文化祭が近づいてきて自分が忙しくてすっかり忘れてたんだけど、あるとき小道具が壊れて私たちが困ってたら、ふらっとやってきてさっさと直してくれたの。私たち一年生はびっくりしちゃったんだけど、先輩に訊くといつものことらしくって。それからも小道具や大道具を手伝ってくれて、一年生みんな一馬のことを見直したの」


 庭をあれだけ改造できるんだから、それくらいお手の物だったんだろう。


「そんな時ね、秘密を知っちゃったのよ」

「秘密?」

「そう、昼休みにちょっと部室に寄ったら移動教室に遅れそうになってしまって、急いで中庭を走り抜けたらぶつかっちゃったの。一馬に。そのはずみで彼が持っていた封筒を落として中身が散らばってしまってね。拾うのを手伝おうとしたら『大丈夫だから』って慌ててかき集めて逃げるように走っていっちゃったの。呆気にとられて見送ったんだけど、足元を見たら一枚拾い忘れたみたいでね。…………何の紙だったと思う?」

「見られて困る紙? なんだろう?」

「それがね、脚本を書いた原稿用紙だったの。赤でいっぱい加筆や修正がしてあってね。…………文化祭でやる劇の脚本だったんだけど、私たちがもらったのはワードで打ち出されたものなのね。それが、一馬が落としたのは手書き原稿」

「それって…………」

「そう、一馬が脚本を書いてたの。後から返しに行ったら、真っ赤になってそれはもう慌てふためいて。その後、口止めされたの」

「口止めってどうして?」

「恥ずかしいからって。それまでの演劇部の脚本、全部書いてたのよ。知ってたのは先生と部長だけ。それから今までの作品を全部読み返して、すごい! って思ったの。最終的には作品の素晴らしさと普段のあの人のギャップにやられたのよね」


 両手で赤くなった両頬を包んで言う。


「それからは私の方からアプローチしてアプローチして、大学も追いかけて入って告白したの」

「杏花さんから?」

「ふふっ。そうなの。でも今は大事にしてくれてるし、とっても幸せよ」

「うわ~。のろけられちゃった」

「マミちゃんの恋を応援するのもね、茶化してるだけじゃないのよ? マミちゃんの心の支えになってくれる人がいるといいなって思うからなの。余計なお世話かもしれないけど、この前も言ったみたいにタイミングってあるしね。ここで不安なことがあっても、心から頼れる人がいると安心でしょ? 勿論私たちもマミちゃんのこと、大好きだし味方になるけど、愛してくれる人がいるのってやっぱり心強いと思うのよね」


 そんな風に思ってくれてたんだ。


「ありがとう。でもやっぱり私は恋愛よりもこれから自分がどうしていくのかってことの方を考えないといけないと思うの。アルバイトするとか。…………いつまでもブラブラしてるわけにもいかないと思うもの」

「そうねぇ。それも考えないといけないわね。…………もしかしてお金のこと気にしてるの?」

「うん、だって自分のものを買ってもらってばかりいるのはやっぱり気がひけるもの」


 ここに来た次の日に買い物に連れ出してくれた正人さんが「とりあえず持っとけ」ってお金を貸してくれたんだけど。働かないと返せない。


「正人か一馬のバイト先に入れてもらえるといいんだけど。どこでもってわけにはいかないものね」


 そうだ。私にはここでの戸籍も何もない。存在しない人間だから。履歴書を書くようなところにはいけないんだ。


「でも、もうしばらくはゆっくりしてもいいんじゃない? 家のことしてくれて私は助かってるわよ」


 そう言ってもらえるとありがたいです。




 杏花さんが『そろそろ着替えるわね』と言うので、一緒についてあがり着るところを見せてもらうことにする。


「興味があるなら、今度着付けも教えてあげるわよ」


 そう言いながらするすると着替えていく。流れるような動きで紐を結び、着物を纏う。後ろ手に帯も器用に結ぶ姿は感嘆に値する。

 夏らしい青みがかったグレーの地に花菖蒲の柄の着物。帯は白地にピンクの細かい柄でとっても涼し気。さっとメイクも変えて、別人のようになる。心なしか表情まで違うように見える。


「杏花さん、別人みたい」

「ありがとう」


 微笑み返してくれるその様も口調も、さっきまでの杏花さんとまるで違う。


「ホントに違う人みたいなんだけど、どうしちゃったの?」

「そう言ってもらえると嬉しいわ」


 ちょっとした仕草や歩き方まで違う。


「今度、オーディションを受けるの。その役がお茶の家元の娘なのよ。

 ……違うのよねぇ。やっぱり小さい頃から身についている人とは。普段の行動がふとした拍子に出ちゃうのよ。だから週に三回、水曜の午後と週末は着物で彼女になったつもりで生活するの。毎日はなかなかできないから、この三日間はみっちりやるのよ」


 そう言って杏花さんは別人の笑顔を残してお稽古に行った。彼女の演劇にかける情熱がうかがえる。

 脚本を書く一馬さんと話も合うんだろうなぁ。


 そんなことを考えてちょっとうらやましく思いながら、ジャージに着替えて幸也を待った。

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