Rewind the time #6 -グッド・ヴァイブレーションズ-



 午前九時。いつものシャツとネクタイ。朝食代わりに安物の蒸留酒。階段を下り、部屋の鍵を受付へ放り出し、シュティードはロビーのソファへ腰かける。出発の前に一息……そういう気分だった。

 宿泊客のリストを整理していたロジャーが、片手間に受付から呼びかける。

「おい、ギグに出るってのは本当か」

 掃き溜めの噂は早い。乾いた風がそうさせるのだ。シュティードはいい加減に右手を挙げ、ひらひらと振ってみせる。

「誰から聞いた?」

「ジュリーのとこに飲みに行ったんだ。したら、妙な張り紙がしてあったもんで。ロックンロールの復活祭だって。何の冗談かと思ったぜ。こんな場末の酒場で、ウッドストックごっこをやろうだなんて……」

 馬鹿げてる、とロジャー。頬杖で崩れた顔はいつも通りのほうけ具合だ。馬鹿な話なのはシュティードも重々承知している。

「俺は出ないぜ」

「は?」首を起こすロジャー。「何を気取ってやがるんだ。やりゃあいいじゃねえか。音楽を続けるかやめるかは、食える食えないの問題じゃあねえだろ。

 年寄りの言うことは聞くもんだぞ。出ろ。その方がいい。ミュージシャンなら、音楽の力って奴を信じてみるべきだ」

 あしらうように耳の穴をほじくるシュティード。彼にとっては音楽こそが力だ。

「そんなモンは最初から信じちゃいない」

「なら騙されたと思ってやってみろ」

「もう騙された」

「信仰心が足りなかったんだな」

「爺さんよぉ……」

 シュティードは狼狽気味に顔を上げ、下側の歯の付け根をあらわにする。

「音楽は神様じゃないぜ」

「神にも裏切りはある」

「だから人も殺すってのか?」

「どうせ人を殺す音楽なら皆殺しにするまで歌え」

「俺がやろうがやらまいが関係ねえだろうが。あんたにも、この町にも。てめえが俺を引き止めてんのは、ギグに出りゃ金が入って、ツケの支払いが一日でも早く終わるからだ」

「金は魂より重いか?」

「はぁ?」

「たとえばお前さんの目の前に、五億……いや、八億ぐらいの大金が積まれたとして」

 続けざま、金庫から紙幣の束を取り出し、ピラミッドみたいに積み上げるロジャー。

「これをやるから音楽をやめろ、と言われたら……お前さんはどうする」

「全部そいつの喉に詰めて殺してやる。金ってのはビスケットと同じだ。叩けば増えるし、叩きすぎれば割れちまう」

「だろ? だったら出るべきだ。人の心は金で動くかもしれない。だが形を変えることはできない。意地や諦めで手放したって、一生後悔するだけだ」

 年寄りは説教ばかりだ。いい加減うんざりしてきて、シュティードは机の上に両脚を放り出す。

「もっとラフな生き方でもいいだろ」

「人生は一度しかない。ゆずれないものがあるなら、時が許すうちに追いかけておけ」

「……」

「お前さんは孤独だ。どこまでも。揺り篭から墓場まで……そういうさだめのもとに生まれてきたんだろう。音楽の他に失うものなどなにもない。それが強みでもある」

 それが、じゃない。それだけが、だ。少なくともシュティードはそう生きてきたつもりだった。

「油が切れて、ネジが錆びて……自分がその日を生きることと、他の何かを守っていくことで精一杯になっちまう前に────若いうちに、追いかけておけ」

「あんたはどうなんだ。過去はいい、今の話だ」

「わしには過去しかない。そこにのみ生きている」

「そういう台詞は」ロジャーの腰元を指すシュティード。「その銃を捨ててから言え」

「無理だと言ったろ。こいつは備忘録びぼうろくだ」

 手首をひねりながら銃を抜くロジャー。弾丸がシュティードの頭上を通り過ぎ、背の高い間接照明の電球を砕く。大した距離ではないが、十六インチのバレルはただでさえ早撃ちに向かない。いい腕だ。

 ロジャーは続ける。

「わしにも夢はあった。ガンマンという夢が。だが叶わなかった。叶わなかったからこそ、こいつだけは捨てるわけにはいかねえのさ。わしが死んで、何が残る? 七〇年生きて、この世界のどこにも爪痕を残せなかった。ロジャーという男なんて誰も知らない。知っているのは家族だけだ。

 お前さんはいいだろう。音楽が残る。歌でもギターでもなんでも、この世に何か一つでも爪痕を……風穴をさえ残せるかもしれない。だが、わしは? わしには何が残せる? この砂一面の掃き溜めで、食い扶持ぶちを稼ぐことでいっぱいいっぱいな老人が、残り少ない時の流れに逆らって…………何を残せるというんだ」

 哀愁だか、感傷だか、そういう重苦しいものがロジャーの顔を辛気臭くさせている。彼は硝煙が消えるまで銃口を眺めて、バントライン・スペシャルをホルスターに収めた。

「この銃はな、孫に託すんだ。ロジャーという男が何に生きたのか、どう生きたのか、何を追い求めていたのかを知っておいてもらう為に」

 世代の継承か。おためごかしなことだ。シュティードだって人のことは言えない。要するにこの老人は、自分のようになるなと……そう言っている。

 そんな簡単なことでさえ、自らの言葉で爪痕の一つにしたいのだ。それに意味がある。ロジャーはそういう男だし──きっと、いつまでも男なのだろう。

「そして最後、行き着くところまで行き着いた、最期の瞬間に……自分の人生がなんだったのか、何の為に生きてきたのかを確かめる為に……そうして死ぬ為に、わしはこいつを持ち続けている。こいつを見ながら、死んでいくんだ。そう決めている」

 理想的だ。美学としてはわかる。そして、そいつがどれだけ難しいことかも。

「歌え、Jジェイ」ロジャーは強く言った。「悔いのないように」

「そんな人生はない」

 頷いて、ロジャーはまた頬杖を突く。分かっている。ようは漸近の話だ。

「言っとくが」念を押すシュティード。「別に音楽をやめる気はないぜ」

「ならどうして出ないんだ?」

 すりガラスの向こう、大通りを往く大人達。時折混じる子供の影を横目で追いながら、シュティードはぽつりと呟く。

「〝俺達が主人公になれる時間はとっくに終わった〟……昔、ある男にそう言われた」

「……」

「ふざけんなと思ったぜ。だが今なら意味がわかる。俺の人生は俺を中心に回ってるが、時の流れが一つの大きな舞台なら、シカゴをるのは俺じゃない。俺より強く主役になろうとした、他の誰かなんだ」

「誰だってなろうとする」

「そうさ。そして俺はなり損なった。だから決めたんだよ。次に行くのさ」

 シュティードはポケットからしわだらけのチケットを取り出し、ソファへと放り投げる。そうしてゆっくりと扉を開け、夕暮れに眼光を向けた。

「主役を食う脇役がいてもいい」




  ◇




「えーっ!」

 調子はずれなシオンの叫び声が、罅割ひびわれたコンクリ壁をびりびりと震わせる。お決まりの路地裏、野良猫達も今日はなんだか賑やかで、どいつもこいつもシオンに寄り添っては、祝電みたいに鳴き声を上げた。

「ちょっと待ってよ! 待ってってば!」

 煉瓦れんがの特等席に腰かけたシュティードが、ぼけた顔でシオンを見返す。

「なんだクソガキ」

「なんだじゃないよ! いきなりギグなんて言われても無理だよっ」

 幼い眉毛をふにゃりと歪ませるシオン。声がいつもより控えめだ。足も内股気味で、肩が怯えたようにすくんでいる。

「僕、まだ人前で演奏なんて……」

「安心しろ。ギグってのはそう長いものじゃない。せいぜい二曲やって終わりだ」

「二曲も!」頭を抱えるシオン。「ジーザス! 無理だよそんなの! まだクレイジー・ジョーの曲で演奏できるの、シスター・ビーツしかないし……」

【砂漠の星があるだろ】と、シド。【あれなら単調だからやりやすい】

「難易度の問題じゃないよ!」

 シュティードはギグには出ない。そう決めた。けれど、せっかくのチャンスを逃すのも忍びない。そこで〝世代の継承作戦〟の出番である。

 いくらギターが上手くなったところで、いざステージに立った時に棒立ちでは味気ない。単なる演奏とパフォーマンスとは異なる次元にある話だ。

 何事も経験──それがシュティードの主義だ。シオンのギターは上達しているし、センスとやらも光るものがある。なにより、誰より音を楽しんでいる。

 そこにワンステージのギグが転がりこんでくるだなんて、初舞台にはおあつらえ向きではないか。これを利用しない手はない。成功しても、失敗しても、得られるものは確かにあるのだから。

「そういうわけでお前の出番は大トリだ。上手くやれ」

「トリ! 最後ってこと? 馬鹿じゃないの! なに考えてんの!? ねえ聞いてる? 僕の話聞いてる? 絶対聞いてないよね!」

「ぴーちくぱーちくうるせえガキだな!」

違いだよ!」

「黙れ。明日の夜七時だ。南にあるバーだぞ! 間違えんなよ!」

 右へ左へパニックの末、がつん、とゴミ箱を蹴っ飛ばすシオン。

「行かないからね! ぼく行かない! 心の準備ってものが必要なんだよ!」

「心の準備ぃ? 俺はいつでも準備万端よ、万事オッケー絶好調だ!」

「おじさんみたいなガサツな人と一緒にしないでよ!」

 小柄な頭を片手で押さえ込み、シュティードは鼻から煙を吐き出す。これが正解だ。こういう時は、勢いで押し切ってしまった方が腹もくくりやすい。

【いいのかシュティード。もともと貴様に来た出演依頼だぞ】

「嘘は言ってねえだろ」

【むう……】

 シドは歯切れ悪そうに言いよどむ。

 そうとも。嘘は言っていない。嘘は言っていないが、こんなのはただの──




   ◇




 メイから差し出されたチケットを、シュティードは半信半疑のまま握った。

「明後日の夜だ。南にある〝ジュリアス・バッド・アス〟は知っているな?」

 シュティードの行きつけの店だ。金がある時だけの、だが。

「……確かにあそこはライブ・バーだ。けどジャズしか流さないぜ。ロックンロールなんて受け入れるわけがない」

「そんな店は市街にもないし、受け入れるかどうかは問題じゃない」

 立ち上がるシュティード。ようやくメイの姿が判然とする。季節外れ……というか気候外れのコートに、膝裏まで伸びた長い髪。右手だけではなく、右足に、それから顔面……要するに、右半身が全て機械化されているようである。

「貧乏人ってのは、札束で頬を叩いてやれば反対の頬も差し出すものさ。金があれば人はどこへでも行ける。なければどこにも行けない。今の君がそうであるように」

 メイは皮肉げに続ける。食えない女だ。長いまつげのせいでよけいに鼻持ちならない。

「三万ネーヴル出す。客の入りが良ければ五万だ。どうだ?」

「ありえないね。このご時勢にロックンロールを聴きに来る奴なんていやしない。どころか、常連の老人連中もその日は来なくなるぜ。何を考えてんだか知らねえが……」

「時の流れは一つの波だ」

 また同じ台詞だ。シュティードはお空を見上げた。

「上れば下る。下ればまた上る。そういう流れが存在する」

「わかるように話せ」

「電脳化が進みに進んだ今この時代……それは差し詰めくぼみの底だよ。市街の人々はZACTがもたらした環境に飽き飽きしているのさ、歌うたい。知っての通り市街ではクラシックが音楽の主流を占めているし、ひずみを帯びたギター・サウンドは存在しない」

 それは、とメイ。

「彼らが知らないあめの味だ」

 シュティードは閉口した。言っている意味はわかる。わかるが問題外だ。

 この女は、メイ=カルーザは──この掃き溜めに、市街から客を呼ぼうとしている。

「……正気じゃないぜ」

「市街だけではない。ここの他にもいくらか街を回ってきたし、何度もやってきた。そこからも客が来るだろう。前回のギグでようやく一〇〇人を超えた」

「はん。一〇〇人。犬小屋でやったのか?」

「さすがに負け犬はよく吠えるな」

「あんだとコラ」

「この時代において、ロックンロールで一〇〇人を集客するということがどれほど困難なことか……君自身よく知っているはずだがね」

 いちいち鼻につく女だ。だが、彼女の考えに感心を覚えないわけではない。

 なるほど市街から客を呼ぶというのは、シュティードが考え得なかったやり方だ。リスクは相応に伴うが、もとより渡るは危うい橋……リターンを加味すれば、芽も出ぬ砂漠だけを舞台に戦い続けるよりは利口といえる。

 もちろん、上手くやれば、の話だ。この女は実際に上手くやってきたのだろう。楽器を弾く人間には見えないが、大勢を見る力はあるようだった。

「アンダーグラウンドなコンテンツを求める人間というのは、どの時代にもいるものだ。せき一つ見逃さぬ密告社会、数字で表される個人の才覚や努力……息が詰まるような奴隷船同然の街の中、働き蟻達が抱えたフラストレーションは、今や行き場をなくしている」

「……」

「そして、人はそう簡単に夢を忘れられない。ここまで街を回ってきた中で、私についてきた十一名……各ブロックで引き抜いてきた奏者達は、みなロックンローラーだ。アルトサックスか、ウッドベースかという違いはあれど、楽器の問題じゃあない」

 ここなのさ、とがねのような胸を指して言うメイ。

「この時代においては──滅びゆくなにかに抗う者は、誰しもロックンローラーだ。私はそう定義している。ロックンロールという概念は、音楽の一ジャンルなどという下らない枠で終わらせるには……偉大すぎると思わないか?」

「たわ言だな。ロックンロールはもっとワガママで、低俗なものだ」

「それをたわ言で終わらせないのがロックンローラーという生き物だ。みな自らの生き様で証明している。そして私は、君もその一人だと踏んでいる。だからここへ来た」

 シュティードは答えない。というより、他に付け足す言葉が見当たらなかった。ロックンロールを不必要に持ち上げるメイの言い草は嫌いだが、彼にとってのロックンロールはまさしくそういうものなのだ。

 ギターを用いるかとか、歌があるかとか、そういう話ではない。精神性や人生観の問題だ。波の集まりである人間……彼らが鳴らす人生という音楽の中に、そういうグルーヴが存在するかどうか──それが、彼の生き方の根幹でもある。

 おほん、とわざとらしく咳払いして、メイは再び口を開いた。

「ここが終わりだ。そして始まりでもある。どうだ、先途にしないか、歌うたい。ロックンロールは一つの対抗文化カウンターカルチャーだ。再びそうなる。ひとたび亀裂を走らせれば──ZACTの理想などはのごとく砕け散る」

「……」

「時代を逆巻くことすら可能だ」

 メイは見る。シュティードを見る。ただじっと、瞳の奥の振れ幅を計る。

 是か。非か。測りかねる。可能なのか。可能なのかもしれないと、この女の雰囲気が思わせる。煮崩れた夢の欠片がちらつく。

 いや、仮に可能性があったとしても、大きな博打ばくちには違いない。

【…………】

 沈黙のシド。鋼鉄と葛藤。どうする。シュティードは。シュティードは──

「……失せろ」

 ためて、ためて、シュティードはそう言った。

 博打は好きだ。勝負にこそ生きている。だが、シュティードは甘いものが好きじゃない。あまりに話が上手すぎるし、この女が信用できる保証などどこにもない。

「俺は音楽を利用するやつが嫌いだ。戦争、政治、宗教……とにかくなんでも。音楽家を扇動者アジテーターにしようったってそうは行かねえぜ」

 生身の方の目をぱちくりと見開いて、そののちメイは吹き出す。

「あっはっは! そうだな。私もそういうのは好きじゃない」

「白々しい女だ」

「なにか誤解しているようだな。私は別に時代を逆巻こうなんて考えているわけじゃないし、政治家でもない。君が望むならという話だ」

 どうだかな、と酒瓶に口付けるシュティード。

「とてもロックンロールの未来の為にって面構えにゃ見えねえぜ。てめえのその目は今まで散々見てきた。自分の事しか考えてねえ奴の目だ」

「そうだ。君と同じだよ」

 コートから歯車を取り出すメイ。放られたそれが、シュティードの手に金属特有の冷ややかな重みを与える。

「……ギア・レコード?」

「最初は誰も信じない。だから持ち歩くことにしている」

 シュティードは盤面に目を落とした。

 〝Machine-gun Talk, Gt-L, 96000kHz, 32bit〟──そう刻印されている。

 クレイジー・ジョーの一曲を収録した歯車……数多に分かれたうちの一つだ。左チャンネルのギターが録音されているようである。

「伝説に憧れていた。生きた伝説に」

「……」

「旧イースト・フラッグ・ブリッジ……私の産まれ故郷だ。今はもうない。砂の底に沈み、機械の巨人ダイダロスの首から上だけがモアイ像のように市街を眺めている」

 覚えのある名前だ。マキネシアGブロック、機械仕掛けの駆動都市──かつて、ブラストゲートに次いでライブ・バーが盛んだった場所でもあり──今ではレクセルバレーと呼ばれている場所。ここと同様に、新・禁酒法の弊害を大きく被った場所でもある。

 駆動音と共に鋼鉄の右手をひけらかし、メイは笑ってみせた。

「そういう場所で私は育った。見えないだろうが、これでもロックンロールをやっていたんだ。ネオ・ラッダイト運動で腕はこのザマ……もう私にギターは弾けない」

 だから、とメイ。

「ギターの音を聴きたいんだ。誰のものでも」

 そう言った彼女の目元は柔らかい。睫が風に押されている。

 帰郷ききょうの念というやつは、ある種の移民の島であるマキネシアには、ずうっと付きまとってきたものだ。鋼鉄の船で故郷から輸送された人々は、故国をしのびながらこの地に新たな根を生やした。数世代に渡りそれが受け継がれ、そして今度はイザクト事変によって、このちっぽけな島の隅にさえその思いを馳せることとなった。

 恐らくは彼女がそうであるように、シュティードもこの島で生まれた。が、故郷に対してこだわりなどない。メイの心中を推し量るのは難しいことだ。

 それでも、滅んだものを、滅びゆくものを懐かしむ気持ちは理解できる。無謀に思える賭けに手を出し、それを取り戻そうとする気持ちも。感傷も共感も同情もないし、肩入れするかは別の話だが、納得するには充分な理屈だった。

「……」

 メイの手元に視線を移すシュティード。左手の指先がそこにないフレットを走る。動きにも手首にも違和感はない。弾けない人間のエア・ギターというわけではなさそうだし、奏者であったことは事実だろう。

 それがになった。

 もし──もしも自分が何かの間違いで左手を永劫失い、二度とギターが弾けなくなったとしたら──きっと、今以上に追いかけてしまうに違いない。

「……弾けなくなるのは」シュティードは苦笑した。「つらい話だ」

「勘違いしないでくれ。お涙頂戴をやりにきたわけじゃあないんだ」

「災難だとは思うが、同情するつもりはないぜ。全ては結果だ」

「そうとも。全てはただの結果だし……この腕は過程のひとつ。だから話した」

 念押しとばかり、シュティードはまた問いを被せる。

「最近の義手は性能がいい。旧型と違ってレイテンシーもほとんどない。マネージメントみたいな仕事に回らなくたって、弾けるようにはなるはずだぜ」

「前のようには弾けない」と、苦笑するメイ。「わかるだろ? 望み薄だよ。だから私は希望が濃い方に賭けている」

「……」

 希望が濃い方に賭けている。シュティードもそうだ。だからシオンにギターを教えた。行き着くところまで行き着いて、そう生きると決めたのだ。

 メイが胸元を軽く指差す。応じて、シュティードはアーク・ロイヤルを投げ渡してやった。他人に煙草をくれてやるなど言語道断だ。普段ならそうする。今は違った。

 深く握りこまれる義手の親指。がちん、と鋼鉄の音がして、さらされた指の結合部から火柱が立ち上る。そうして煙草に火をつけ、メイは灰色の煙を大きく吐き出した。

「クレイジー・ジョーは私の人生を変えた。ああ、そうだな……こう言うと君たちはよく思わないかもしれないが、特に後期の歌が好きだ」

「……」煙草をキャッチするシュティード。「なぜ?」

「迷いが見えるからだ。そのリリックが私を救ってきた」

「音楽は人を救ったりしないぜ」

「かもな。じゃあ、私の脳味噌がどうかしてるのかも」

 どうかしているのはシュティードも同じだ。だから歌っている。

「聞くだけ聞いてやる。その十一人ってのは?」

「君を含めて十二人だ」

「まだやるとは言ってない」

「うち二人はドラムスとベースだ。君を含めて、六人がシンガーとギタリストを兼ねる。残りの四人のうち二人がソロ・ギタリスト。残りの二人はサックス奏者とトランペット奏者。デュオなのさ。ギタリストのうちの何人かには、シンガーのバックで弾いてもらう。

 一〇分前後のステージが全部で八つ。基本的には各々の持ち曲をやってもらうが、望むなら最後にセッションをやってくれても構わない」

 メイは簡単に言ってのけたが、簡単に集まる数じゃない。ZACT風に言わせれば、こんなものはテロリストの集団とおんなじだ。

 ただでさえミュージシャンという人種はこだわりが強いのだ。それを十一人も集めて、一人の女がまとめ上げるだなんて……よほどのカリスマ性がなければ務まらない。

「ドラムスはチェスター=スウィンバーン。ベースはトレバー=グッドマンだ。ともにGブロック出身」

「腕は確かか?」

「腕だけじゃないほどには確かだ」

 冗談っぽく笑って、メイは右手を差し出す。

「ナンバーの譜面を。彼らに渡しておこう」

「そんなモンはない」

「なら当日に渡せ」

「ないと言ったろ」

「音源でも構わない」

「それもない」

「ばかな」頭をかくメイ。「そんなものをどうやって演奏しろというんだ」

 ごもっともだが……と、シュティードは両手を広げる。

「ないものはない。クレイジー・ジョーの曲はとくに厳しく規制された。知ってるだろ。ギア・レコードはあちこちバラバラに散らばってるし、譜面はみんな焼かれちまってる」

「だが君は覚えてるんだろう?」

「俺に書けってのか? 今から?」

「だって、ないものは演奏しようがないじゃないか。そんな音楽は存在しないのと同じだ。君一人が頭の中で覚えていても、君が死んだら何も残らない」

「俺は死なねえ。つまり不滅だ。第一、まだやるとは言ってないぜ」

 親指で輪っかを作るシュティード。よい子のための交渉講座だ。メイが顎を上げる。

「聞くだけ聞いてやる。いくらだ?」

「高くつくぜ」

 そう言って、シュティードは有りっ丈のジョークをふっかけてやる。

「一〇〇万ネーヴル。ないしはバーボンを四三二〇ミリリットル。またはタール含有量が一六ミリグラム以上の煙草六カートン。あるいはそれらの組み合わせ」

「なに? なんだそれは。正気か?」

「それとは別に指名料をもらう。バーボンを三六〇ミリリットル、同じくタール含有量が一六ミリグラム以上の煙草を一カートンだ」

 なんだこいつ。指名料だと。ドル箱スターにでもなったつもりか。さすがに呆れた様子で、メイは両手を腰にあてがう。

「おちょくってるのか? 私も暇じゃないんだ」

「誰がスケジュールを聞いた? 出すのか。出さないのか」

 腕組みするメイ。ヒールの先が地面をこつこつと鳴らす。どうやら本気で渋っているようだ。渋れるだけの財が本当にあるというところが恐ろしい。

「大口を叩くだけの腕はあるんだろうな」

「賭けろ。駄目だったら破産して一人で死にな。俺は責任取らねえぜ」

「フェアじゃないな。誰でもないのはお前も同じだ」

博打ギャンブルってのは金持ちの遊びだぜ。だから誰も責任を取っちゃくれない」

「……」

「金があれば人はどこへでも行ける。そう言ったぜ。お前はどこへ行ける?」

「んん……」 

 唸るメイ。合わせて野良猫達もそれを真似する。ようやくメイが何事かを言おうとしたところで、シュティードは値踏みをやめてやった。

「冗談だ」

「……」

「怒んなよ。ほんのジョークだ」

「……試したつもりか?」

「マジに取ったのか? かさばるだけだろ。金でギターが鳴らせるか?」

「いい音を鳴らすことは出来る」

「いい音だけでいい演奏が出来るわけじゃあない。大事なのは腕だ。悪いがそいつは間に合ってる」

「なら何が欲しい」

 アンプだ、とシュティードは答えた。今度はとびっきり真剣に。

「マーシャルを用意しな」




  ◇




【──屁理屈へりくつだ】

 往来おうらいの中、シドがそう声をかける。シュティードは悪びれもせずに歩を進めた。

「なにが屁理屈だ? 俺は嘘は言ってない」

【こんなもの、詐欺同然だぞ。あの女は貴様が出ると思ってる】

「言葉のだ。奴はギターの音が聴きたいんだろ。だったら俺じゃなくてもいい」

 向かう先はジュリアス・バッド・アス……南にそびえたボロ家のライブ・バーである。当日迷ってしまっては困りものだから、今日はその下見したみにゆくのだ。本当に。酒を飲みにいくのではなく、下見のために。嘘じゃない。本当だ。何度も行った店だけれど。

 ポケットの中には一万ネーヴル紙幣。今日の予算だ。これ以上は飲まないと決めている。ちょうど、ターキーが三杯ほどだ。

 右。真っ直ぐ。十字路を左へ。露店商の前を足早に過ぎる。酒場に一歩近付くたびに、バーボンを求める気持ちが肝臓をかんかんと鳴らし立てた。

「おっさんがロックンロールをやったってしょうがねえんだ。そんなこと、お前が一番よくわかってるはずだぜ」

【……おっさんね。貴様も充分クソガキだが】

「どうせなら若い方がいい」

【それはそうだが……若ければ若いほどいいというものでもないだろう】

「未来の為のギグなんだろ。だったら……ステージには俺よりシオンが似合う」

 シドは口を閉じた。それでいいのか、などと野暮なことは聞かない。彼が選んで、そう決めたのなら、もう口出しは無用だ。


 〝ジュリアス・バッド・アス〟──妙にチープな書体の看板が目立つその店は、悪党バッド・アスの名を冠せど、きわめて平和な店だ。

 稀に、シュティードを路地裏でのしたようなチンピラ崩れが来ることもあるが、店の中で乱闘騒ぎを起こしたりはしない。ただでさえ酒は貴重だし、老人達を巻き込めば棺桶を作らされる羽目になる。

 最も大きな抑止力は、オーガストと呼ばれる黒人のバーテンダーだ。屈強な体を持ち、目元は虎のように鋭く、うるさい絡み酒を嫌い、静寂の中のジャズを好む。彼に目をつけられれば最後、二度と店には入れてもらえない。

 だからこの店は静かで、平和で……管楽器とピアノ、それからブラシで奏でられるドラムのスウィングに満ちている。当たり前だ。誰だって、平和に酒が飲めるならその方がいいに決まっている。

 シュティードは扉を開ける。わっとジャズの音が飛び込んできて、チープな音色の鈴が鳴った。どちらも散々聞いた音だ。テーブル席の老人連中へ酒を運んでいたオーガストが、ちらりと彼の方を見て、空いたタンブラーを下げてゆく。

 かつてステージだったスペースは、暗幕の奥に隠されている。楽器もないし、演奏する人間もいない。もちろん改修する余裕もない。ジャズの音を奏でるのはギア・レコードだけで、伝えるものはスピーカーだけ。それと、オーガストという男の表情。

「いつものだ」

 半円状のカウンター、その右端に陣取り、ネーヴル紙幣を差し出すシュティード。

 オーガストは寡黙かもくな人間だ。滅多に口を開かない。粗忽者そこつものをひねり出す時も、サーバーからビールをひねり出す時も。きっと、ケツからエッフェル塔をひねり出す時だって黙りこんでいるに違いない。

 ようするに彼は、ストイックという言葉を人型にしたような生き物だった。

 黙ってターキーのボトルを手に取り、オーガストはグラスを差し出す。

 はて。グラスがいつもより大きい。そ知らぬ顔のオーガストと水滴を交互に見て、シュティードは怪訝そうな顔つきになる。

「おい、ボケたのか。ダブルじゃない。シングルだぜ」

 オーガストは答えない。黙ってコルクを抜いて、焦げ茶色のガソリンを注ぐ。うんともすんとも言わないものだから、シュティードはしかたなく口をつけた。後で払えと言われたって、シングル以上の代金は持ち合わせていない。

 二人はしばらく無言だった。いつものことだ。特に話すことなどない。ただでさえオーガストは無口だし、相手がシュティードとなればなおのこと。

 壁にはめ込まれたギア・レコードの一群が再生を終える。マスタリング・ギアはそのままにトラックのギアを取り替えて、オーガストがナンバーを新たにする。そうして聞こえてきたミュート・トランペットの音を皮切りに、彼の方から口を開いた。

「あんた、なんて名前なんだ」

 オーガストの問いに苦笑するシュティード。何年も酒場に通いつめて、初めての会話がこれか。殊勝しゅしょうなことだ。ただ名前を聞かれただけなのに、ひどく大事なことのように思えてくる。

「興味ないだろ?」

「だから聞かなかった」

「なら何故いまさら」

「気の迷いだ。男には時々そういう日がある」

 言うだけ言ってみただけのようだ。追求するでもなく、オーガストは淡々と続けた。

「最近、大通りで見かけないな。いったい何をしてる?」

「てめえに関係あるか?」

 オーガストは顎先をなぞる。目元はぴくりとも動かない。

「もう歌わないのか?」

「だったらどうする?」

「せいせいする。エレキギターの音を聴くだけで死にそうになるからな。特に、オーバードライブのかかったやつは」

 オーガストの表情は真顔も真顔、仏頂面が額縁がくぶちから飛び出たような固い顔つきだ。冗談なのか本気なのかわかったものではない。メロウなソロを聴かせた瞬間、眠るように息を引き取ってしまいそうだった。

「元々、嫌いなんだ。ギターの入ったロックンロールが。クレイジー・ジョーがどうだとか、イザクト事変がどうだとかは関係ない」

「なら何故ギグを許可した? ここでやるんだろ?」

 それはな、とオーガスト。

「明日の店番が俺じゃないからだ」

「今からでも遅くない。変わってもらえ。ついでに葬式もやってやる」

「ごめんだな。俺はスウィングの中で死ぬと決めた」

 シュティードは答えあぐねた。知ったことかとしか言いようがなくて、いい加減な相槌で話を切り上げる。自分だっていつも似たようなことを口走っているのに。

 ロジャーといいこの男といい、どうしてこうブラストゲートというところには難儀な男ばかり揃っているのだろうか。どうりで美人が少ないわけだ。

 ギア・レコードが止まる。またオーガストがトラックを取り替える。新しいのが始まって、三分、四分、また交換……十五分ほど無言のジャズを繰り返したあたりで、思い出したようにオーガストが口を開いた。

「マティアスんとこの長男、この間が誕生日だったそうだ」

 マティアス。誰だそれは。てんで覚えがないものだから、シュティードは黙ってオーガストを見返す。

「祝えよ」肩をすくめるオーガスト。「十五歳だぞ」

「お気の毒に」

「何をねだったと思う?」

「いい加減にしろ。酒がまずくなる」

「ギターを」

 シュティードの手が止まった。

「エレキギターを買ってくれと、ねだったそうだ」

 無言でターキーを流し込む。勢いのまま、手が自然と二杯目を要求した。オーガストもそれに応えてグラスを置く。またダブルだ。それがせめてもの救いだった。

 今更そんな話、しらふなんかで聞けたものじゃない。

「あんた、子供にギターを教えてるだろう。それを見たんだ、あの坊ちゃん」

「……」

「もちろん買えやしないがね。エレキギターなんてどこにも売ってないし、掘り出すにしてもアテがないし……なにより、マティアスは厳格化で追いやられたクチだ」

 マティアスだけじゃない。誰だってそうだ。このオーガストにしたって。シュティードだって、シドがいなければ今頃は……。

「どうしてギターなんか欲しがるんだって、マティアスはそう聞いたんだ」

 はにかむオーガスト。初めて見る表情だった。

「かっこいいからだと。あんたが、でも、その子供が、でもない。ギターの音が、かっこいいから……だから買ってくれって。自分も弾いてみたいからって、そう言ったのさ」

「……」

「あんたは?」歯車を取り替えながら言うオーガスト。「あんたもそうだったか?」

「さあ。忘れたな、そんな昔のこと。別に珍しい話じゃない。女をはべらせたいからってギターを始めて、天下を取った奴もいる」

「そこにこだわりはないのか?」

「ないね」シュティードは言い切った。「理由なんかなんでもいい」

 全ては結果。またそれだ。電卓が答えを弾き出すのに似ている。いいかげん飽き飽きして黙り込んでいると、またまたオーガストが口を開いた。

「トランペットを眺める少年の話、知ってるか。あれは昔の俺だった」

 今日はよく喋る日だ。だからダブルにしたのだろう。だったらおごりで当然だ。

「俺はロックンロールが嫌いだが、あの子にとってのギターが、俺にとってのトランペットだったなら……いや、あの子だけじゃない。アンタや、他の歌うたいにとって、ギターがそういうものであったなら……」

「……」

「……そこに生きるのは自由だ」

 シュティードはボケたように口をあけた。そんな台詞、この町に来てから一度も聞いたことがない。誰の口からもだ。

「ああ、ああ。驚いたぜ、オーガスト。俺は驚いた。まずてめえが喋ったことに驚いたし、その台詞にもびっくりだよ。充分だろ。カメラはどこだ?」

「どっきりじゃあないぜ」

「ロックの神様に買収でもされたか?」

「過ぎたことはしょうがないってことだ。たしかにイザクト事変で掃き溜めが生まれたのは事実だが」

 葉巻に火をつけるオーガスト。二人が吐き出す煙で、カウンターの一角がもやもやと白ばむ。

「このままロックンロールをかたきにし続けても、町はなにも変わらない。クレイジー・ジョーは死んだんだ。存在しない敵を勝手に作り上げて戦う羽目になる。そうだろう? 奴がどれだけ市民を煽り立てたかは知らないが、死んだ奴の言うことに振り回され続けるなんて……とても建設的じゃないし、生産的でもない」

 シュティードは行き止まりを見た気がした。

 憎むのだってただじゃない。そんな生き方はひどく疲れるし、なにより彼に言わせればナンセンスで、時間の無駄だ。何十年も費やす復讐がこだわりだというなら、理解だけはしてやるが──自分がやろうとは間違っても思わない。

 きっとこの町も、行き着くところまで行き着いてしまったんだろう。

「俺はもう、いいかげん疲れたんだ。俺だけじゃない。町の奴らもみんな疲れてる。過去にすがることに。遺物を掘り出すのにも限度があるし、それだって無限なわけじゃない。どこかで変えようとしなきゃ、一生砂を掘り続けるはめになるんだ」

「それとロックンロールになんの関係があるんだ」

「わかりやすく言ってやろうか、歌うたい。根負けしたのさ。誰もかれも」

 この俺も、と胸を指すオーガスト。

「時間は進む。人は老いる。時代を背負うのはいつも子供だ。彼らが大人になれば、掃き溜めにはまたロックンロールが鳴り響くだろう。俺たちが望もうと、望むまいとな。そしてこの町の子供達は、そういう方向に傾きかけてる」

「……」

「あんたがやったんだぜ、歌うたい。そこにギグをやろうなんて奴まで出てこられちゃ、俺たち大人のしがらみは、もう幕切れさ。それも結果ってやつだ。昔は良かったなんていう人間はあの世でもそう言ってる。違うか」

 シュティードはシドを見下ろしてみる。瞳は閉じられたままだ。

「人生はジャズだ。そして、それはどこまでも自由でいい」

「……自由……」

「あんたは子供達に未来を望ませた」

 そう言って、グラスにターキーを継ぎ足すオーガスト。

「認めるよ。だからそいつは奢りだ。あんたは賭けに勝ったんだ、歌うたい」

「……」

根競こんくらべはもうおしまいにしよう。俺たちは、共生しなきゃいけないところまで来ちまったんだ」

 にっ、と白い歯を晒し、オーガストは続けた。

「──てのが、前フリで……」

「くそったれ!」悪態をつくシュティード。「だろうな。だと思ったぜ! てめえらノータリンがロックンロールを認めるなんて、そんなタダみたいな話があるはずねえんだ! カメラは! カメラはどこだ!」

「認めたのは本当だ。そして認めたからこそ、あんたにこの話をする。あんたも……いや、あんたが一番困る話だ」

「わかってんだろうな。ビタ一文いちもん払わねえぜ」

「わかっている。まさにその酒の話だ」

 まどろっこしさにシュティードがボトルをかっぱらい、そのまま口づけてラッパ飲みする。呆れたように肩をすくめてみて、オーガストは続けた。


「ターキーが掃き溜めから消える、といったらどうする」


「え」

 反射的に立ち上がるシュティード。椅子が音をたててひっくり返る。耳の遠い老人連中が振り返る。ジャズのダイナミクスに拍車がかかった。

「えっ?」

「驚いたか?」

「冗談だろ?」

「マジだぜ」

「おちょくってんのか?」

「マジだよ」

「冗談だな?」

「マジだって」

「冗談だと言え」

「悪いが」オーガストが両肩に手を置く。「マジなんだ、歌うたい」

 ターキーが? 消える? 掃き溜めから? どうやって? 蒸発するのか? それなら俺もアルコールと一緒に蒸発するしかない。それとも海に流されるのか? だったら俺も海に流されるしか……。

【……シュティード?】

 なんだか現実が上手く飲み込めない。シュティードの意識がお空の上へと昇ってゆく。抜け殻になった体で力なく座りなおし、彼はぼうっと机の木目を見下ろした。

【……おい、シュティード。大丈夫か、シュティード】

 小声で問うシド。シュティードからの返事はない。ゼンマイが切れたブリキ人形みたいに項垂うなだれている。

 咳払いののち、オーガストが続けた。

「知ってるだろ、麦畑は丸ごと鋼鉄に変わった。粒子汚染のせいで、近付けばたちどころに分解される。誰もあの畑に触れられない。いや……仮に汚染がとけたとしても、粒子化や鋼鉄化をまぬがれた稲が残ってるかどうか……」

「ふざけろァ!」

 やっとのことで戻ってきた意識。シュティードは今日いちの大声で怒鳴り散らし、整えられたばかりのオーガストのタイを乱暴に引っ掴む。

「掃き溜めからターキーが消えるだと? そんなことは神が許しても俺が許さねえ。なんとかしろ。どこのどいつの仕業だ? 今すぐ地獄に送ってやる!」

「落ち着け、落ち着けって」

「これが落ち着いてられるか! ターキーがなくなるってことは俺の生きがいがなくなるってことだぞ! なんだその危機感のなさは! てめえそれでも酒場の人間か!」

「なんとかしたいのは山々さ。俺たちにとっても死活問題だからな。だが……」

「だが? だがなんだ!」

「……無理なんだよ。ZACTが介入してくれるわけでもなし、自然に汚染がなくなるのを待てば、あと二年はかかる。粒子スポットはただでさえ悪い噂になっちまってるし、お陰で誰もこの町には来ない。あんたのような流れ者以外はな」

 け、と目玉をひん剥くシュティード。

「そんなもんはアンドロイドに回収させろ! 機械ならいくらでも代わりが利くだろ!」

「だから!」今度はオーガストが叫ぶ。「その機械を掘り出すのに機械がいるんだよ! を掘り出すのにも機械がいる! でもってそいつを掘り出すためには人手がいるんだ! アンドロイドを使うとなれば技術屋だって必要になる!」

「露店商の老いぼれどもがいるだろ!」

「老眼鏡を掘り出すところから始めるつもりか! 棺桶を掘った方が早いね!」

 テーブル席の老人集団が眉をひそめた。だがオーガストは気に留めない。

「若い奴らが必要なんだよ! 技術もそう、体力もそう! この町にいるのは老人と子供ばっかりだぞ! 間の層が足りてないんだ! だからこんな亀みたいなスピードでダラダラと復興を続ける羽目になってる!」

「はぁん!? イザクト事変で若者だけすっぽり消えたとでもぬかす気か!」

「あぁーあ正にその通りだよ! 若い奴らはネオ・ラッダイト運動に参加して、ひとり残らず爆心地で灰になっちまったんだ! なにもかもロックンローラーとかいうグズの能なしのせいなんだよ!」

「なんだとてめえ、もう一度言ってみやがれ!」

「何度でも言ってやる! だいたい今回のギグだってなぁ──」

 がつん。オーガストの肘がボトルにぶつかる。貴重なターキーだ! あわや墜落しかけたそれをキャッチし、二人は揃って呼吸を整えた。

「……オーケイ、歌うたい。根競べはもうおしまいにしよう。俺たちは、共生しなきゃいけないところまで来ちまったんだ。そいつが言いたかった」

「それはさっきも聞いた」

「俺が何を言いたいか分かるか」

「ヤバいってことだ」

「あんたの脳味噌にも問題がありそうだな」

「黙れ。酒がヤバいのは事実だろ」

「そうだ。問題は、どうすればそれを救えるかだよ」

 オーガストが紙切れを差し出す。モノクロの写真が四枚。どれも微妙にピンボケしているが、青年の集まりであることが見てとれた。パパラッチかと思うような構図の中、彼らの後ろに鋼鉄の稲穂が広がっている。

「一昨日の話だ。チンピラ崩れの連中が麦畑の様子を窺ってた」

「はん。ビーチと勘違いしたんだ」

「そのこころは?」

「小麦色だからさ」

 シュティードは一笑に付し、一瞥いちべつもくれずに写真を突き返す。世紀末かなにかと勘違いして、蒸気式バイクで荒ぶる連中だっているのだ。別に珍しい光景ではない。

「普通の連中じゃない。どう考えてもあの畑を狙ってる。粒子スポットなんて、そうそういくつもあるもんじゃないからな」

「たかが酒だぞ」

「されど酒だ。あんたは事の重大さが分かってない」

 写真をしまい、神妙な面持ちで続けるオーガスト。

「粒子汚染を受けてる稲だぞ。万が一にもそいつから酒が作られたとしよう。アルコールからイザクト粒子だけを抽出する技術なんて掃き溜めにはない。まず間違いなく違法粒子管に使われるようになる。

 するとどうなると思う? チンピラ崩れの密売人がそいつを流通させるようになって、それを巡ってマフィアの抗争が始まる。重機に使うか、兵装に使うか……なんでもいい。ZACTだって放ってはおかないだろう」

「……つまり」と、シュティード。「この町を支配した奴は、事実上、違法粒子管を自由に製造できることになる。汚染されたターキーを流せば金も手に入る。重機も兵装も動かし放題。物流さえ思いのままだ。誰もそいつらを止められない」

「そうだ。鋼鉄の七面鳥ターキーを掴んだ奴らが、掃き溜めの王として君臨する。抗争は激化の一途を辿るだろう。そんなことになったら……いよいよ本物の掃き溜めだよ」

 今更本物も偽物もあるものか。シュティードは苦笑する。してみただけで、とても笑える話じゃない。

 酒の流れがその町を支配するギャングによってコントロールされてしまう、なんて……そいつはつまり、飲みたい酒が自由に飲めなくなるということだ。シュティードにとってはまさしく死活問題であった。

「人の流れが必要なんだ。そいつがなきゃ町は発展しない。そして町が発展しなきゃ、いつか無法者の食い物にされてしまう。だからそうなる前に、町の住人であの畑を管理する必要がある」

 それが本題か。道理でボトルも見逃すわけだ。つまりオーガストの言うところは、ある種の停戦協定でもあり、そして共同戦線の提案でもある。

「ロックンロールを町おこしに使おうってのか?」

「言ったろ、若者が必要なんだ。そいつが一番若者の心を掴みやすい」

「俺は音楽を利用する奴が嫌いだ」 

「あんただって音楽の為に人を利用する。子供が多いからここを選んだんだろう」

 見透かされていたようだ。オーガストはにべもなく続ける。

「俺たちはロックンロールを後押しする。あんたは町おこしを手伝う。そうして若者がこの町に流れ込んで、町と音楽を守っていく……フェアな取り引きのはずだ。

 風ってのは、種を運ぼうと思って吹いてるわけじゃない。それで救われる未来があるなら……上々だろ。たとえ、それがただの結果でも」

「……」

「第一、酒がなくなって一番困るのはあんたじゃないのか。バーボンならなんでもいいってタイプじゃあないだろう。俺たちだって困る。だからギグを許可したんだ」

「はん」鼻で笑うシュティード。「結局は、その程度の理由か」

「理由などなんでもいい。あんたがそう言ったんだぜ」

 カウンターの向こう側、ボトルの列を眺めて言うオーガスト。

「馬鹿馬鹿しいと思わないか。酒だの煙草だのを規制されて、そうしてこの掃き溜めに落ちてきたってのに、またそれを巡って争うだなんて……」

「……」

「それじゃ、いつまでたっても奪い合うだけだ。もうごめんなんだ、そんなのは」

 だろうな、とシュティードは頷いた。彼だってそんなのはごめんだ。

 平和に酒が飲めるならそれが一番に決まっている。誰にとっても。争いの中で歌われれば、音楽にだって余計な価値観が付け加えられてしまうだろう。皮肉なことにロックンロールというものは、そういう時代の中にしか輝けない生き物だが。

 払拭するように頭を振り、オーガストはまた続けた。

「とにかく……町同士の繋がりが生まれれば、ターキーの販売網も広げられる。汚染されてるものは処分して、まともな酒をまともな価格で売ればいい。それが当たり前になる時代が来たら、密造酒なんかで無駄な潰し合いをしなくても済む」

「新・禁酒法に喧嘩を売るってことだぜ、わかってんのか」

「ここは掃き溜めだ。俺たちの法律は俺たちが決める」

「禁酒法だけじゃない。そいつは、密造酒を作ってる奴ら全員に喧嘩を売るってことだ。町おこしどころじゃなくなる。考えてもみろ、適正価格で酒が普通に手に入るようになったら、密売人なんか商売上がったりだ」

「そんな連中は死んで当然だ。勝手に潰しあって一人残らずくたばればいい」

 オーガストは口汚くそう言ったが、煮え切らない表情だ。

 この店だって、砂の下から掘り起こした酒が尽きれば、密売人の手を借りるしかなくなるのだ。実際に、いくつかはそうして店に並んでいる。彼自身それを理解しているし、そうしなければ生きていけない。もどかしいのも当然だ。

「ZACTが馬鹿げた法律を定めたのをいいことに、酒で巨万の富を築こうだなんて……いつの時代の話だ。ここはシカゴじゃないんだぞ。それで何が変わる? ZACTの政策に手を貸してるようなものじゃないか。高貴な実験の思うつぼだ」

「……」

「掃き溜めに法律はないんだ。新・禁酒法なんてものに、なんでわざわざ自分達から縛られてやらなきゃならない? おかしいと思ったことはないのか、歌うたい」

 確かに妙な話だ。どうせ法律がないのなら、紙幣なんか紙切れ同然になっていてもいいし、酒だって自由に売られていればいい。

 だがそうはならなかった。そうすることで富を得る者がいるからだ。そして、そいつらが力を持っているからこそ、その仕組みは今でも成り立っている。

「……それ以上突っ込むな、オーガスト。同じようなことを考えた奴は何人もいた」

「俺は本気だ」

「お前一人が本気でも、町の奴らはそうじゃない。自分のことで精一杯なんだ。だから密造酒なんてもんが蔓延はびこってる。違うか」

「……」下唇を噛むオーガスト。浅黒い肌に白い歯が食い込む。「……そうだ」

「そうしてマフィアに喧嘩を売って、町を目の敵にでもされてみろ。それこそ本当におしまいだぞ。やぶをつついて出てくるのが蛇だとは限らない」

「……どういう意味だ」

「言わせるつもりか?」

 じっと瞳を覗くオーガスト。そのつもりらしい。シュティードは眉間を押さえた。

「マクロに切り替えろ」と、シュティード。「一番得するのは誰だ?」

「……」

「奴らが支配するのは市街でも掃き溜めでもない。だ。そしてそいつは巨大な暴力で、俺たちの手には負えない。だからクレイジー・ジョーは消された」

 ターキーで続きを流し込む。ここでおしまいだ。これ以上は言うべきじゃないし、言ったところでどうにもならない。オーガストも、ほどなくして強張った表情を崩した。

「わかってる。わかってるよ、冗談だ。だが、心意気としてはそのぐらいでやりたい……そういう話さ」

 灰皿へ捻じ込まれる葉巻。吸殻のいくつかに火が移る。か細く煙が立ち上り、ゆっくりと消えていった。

「喧嘩を売ろうなんて現実的じゃない。本末転倒だしな。そんな力もない」

 だが、とオーガスト。

「当たり前の価格で酒が飲めるギグ……そいつが大きくなれば、いつか本当に、そういう時代が来るかもしれない。時間が前にしか進まないのなら、俺に出来るのは、時の流れを生み出すことだけだ」

「……」

「俺はそれに賭けてみたい」

 いつしかギア・レコードは止まり、この空間には沈黙だけが流れていた。

 目にも、言葉にも嘘はないようだ。ロックンロールが嫌いな人間の口から出た言葉だからこそ、シュティードはそれを信用した。

 打算と言えば聞こえは悪い。だが、滅びゆくなにかに抗うという意味では同じことだ。シュティードも、オーガストも、こじつければロジャーだって……死ねば何にも残りはしないのだ。それを知っている。おかしな話だが、だから残そうとする。

 ここを先途せんどに──新たな時代の風がく、風穴ブラストゲートにするために。

「どいつもこいつも」シュティードは吐き捨てた。「遅すぎる。俺の七年を返せ」

「遅すぎることなどない」

「正気か?」

「イカれてるのは時代の方だ。俺たちじゃない」

「本気なんだな」

「人生は音楽だ。そして音楽は、いつだって本気でやるものだ」

 左手にシド。右手にターキー。眼前にオーガスト。シュティードは立ち上がる。

「最後だ。いいのか。ロックンロールがこの掃き溜めを生んだんだぜ」

「なら今度は上手くやれ」

 オーガストはそう言ってギグのビラを放り、投擲とうてきしたアイスピックで客席の壁へと打ちつける。鼻先をかすめられた老人連中があんぐりと口を開けた。

「今は乗るときだ。俺の中のジャズがそう言っている」

 オーガストいわく。人差し指をつきつけ、彼は続けざまに問うた。

「あんたの音楽はどうだ?」

 シュティードは答えない。答えなど必要ない。あとは未来が知っていればいい。


 




 一夜明け、その日が来る。シュティードの頭は冴え通しだった。

 夢を背負ったつもりでいた。そうして敗れた。ならば次だと背負わせて、背負うものかと突き返された。そうかと思えば町の未来が、背負ってくれと転がってきた。

 誰も誰かの夢など背負えない。本当にそうだろうか。もし、もしもそれが正しいなら、やっぱり風は種を運ぶ為に吹くわけじゃないんだろう。

 みな自分の為に戦う。それが人生だ。

 人生とは音楽だとオーガストは言った。それなら、それぞれが勝手に奏でた音楽が絡み合って生まれる音楽があってもいい。そこにしかないグルーヴもあるだろう。

 譜面なく始まったジャム・セッションがどこへ辿り着くのかは誰も知らない。終わりがあるのかもわからない。きっと、それが時の流れだ。それは確かに一発勝負で、やり直しもきかなくて、立ち止まることも許されない。

 だから進む。歩き疲れたなら一拍置いて、少し休んでから進めばいい。自分が自分に許せばそれでいいのだ。荷物が邪魔なら降ろせばいいし、物はついでなら背負えばいい。

 他人のいうことなど、やっぱり関係ない。少なくとも俺には。

 シュティードはそう決めて、夕暮れの大通りをハードケース片手に進んだ。勢いよく、怯みもせず、しかと前を見て、肩で風を切りながら。

「シド」

【なんだ】

「前に、生きた証が欲しいのかと聞いたな」

【死ぬのは怖くないとお前は答えた】

「そうだ。死ぬのは怖くない。だが、生きた証は欲しい……。いや、違うな」

 角を曲がる。剥がれかけのビラが壁に二枚。

「俺が俺である証が欲しいんだ」

【……】

「もし、俺が死んだら……俺が俺であったことは、誰が伝えていくんだ」

 空き缶を踏んづけるシュティード。スクラップの野良猫が後を追う。こいつも、今日だけは観客に数えてやろう。

【その時は、貴様がのこした音楽がそれを伝える】

「……」

【音楽は一つの生き物だ。人から生まれ、人を介してその種を広げ、そして人の中で、数多の別の音楽と交じり合いながら、その種を広げて繁殖してゆく。貴様が言った、エッセンスというやつだよ】

 揺れる視界。流れるいつもの路地とロジャーの宿屋。先へ、先へ、その先へ。

【歌われる限り、奏でられる限り、音楽は決して死なない。オレ様が保証する】

「……そうか」

【貴様が貴様というロックンローラーであったことはシオンが覚えている。そしてシオンが奏でたギターが、確かに貴様という存在を受け継いでゆく。子供だった大人からまた子供へ、そのまた子供へ……音楽はそうして続いてきたんだ。続いてゆくんだ】

 ジュリアスの店が目に入る。オープンまで二分。アルトサックスの音が漏れてきた。

【同じだよ。貴様がクレイジー・ジョーの音楽を受け継いだのと。体が死んだかどうかなんてのは大した問題じゃない。次の世代にそいつのエッセンスが受け継がれるかどうかが問題なんだ】

「……」

【貴様は最初から、答えを知っていたはずだ】

 革靴に入り込んだ砂が鬱陶しい。店の前まで来て、シュティードは看板を見上げた。電飾がと点滅している。ついては消えて、消えてはついて……その繰り返しだ。

「いつからわからなくなったんだろうな」

【そりゃあ、惨敗して、泣き濡れて、貴様がブレにブレまくってからだ】

「なんだとこの野郎。俺に涙はねえとあれほど……」

【ブレてもいい】

 シドは言った。

【ブレていいんだ。芯なんて人間の中には存在しない。あるのは無数に区切られた時間の流れと、その時々で弾き出される答えだけだ。

 もしも人生が音楽なら、どんなに正確でミスがない機械的な演奏より、下手だろうが雑だろうが無茶苦茶だろうが、その時にしか出せないノリが存在する演奏の方が……後から見返すには面白い】

 人通りがないのを知ってか知らずか、シドがふわりとシュティードの前へ浮き上がる。

【好きなだけブレろ。最後に戻ってくればそれでいい。ただの結果だ、なにもかも。振れ幅の中に魂がある。あるはずなんだ。そのブレが見せる光を魂と呼ぶ】

「……」

【ブレなければ見えない未来もある。このギグも、シオンも、その一つだ】

 シュティードは失笑した。まったく、得たものと失ったもの、どちらが多いのか分かったものではないし、どちらにより価値があるかもわからない。

「まるで」と、シュティード。「箱の中の猫だな」

【言ったろ。決めるのは誰だ?】

 どこかで歯車が一つでも欠けていたら……なんて、考え出したらキリがない。その逆も然りだ。あと一つ足りていたら、なんて後悔しても、時間は巻き戻ってはくれない。だから全ては結果だ。そういうことにしておく。

 御託はもういいのだ。そういう時間は終わった。あとは、結果を見るだけだ。

「風は種を運ぶ為に吹くわけじゃない」

【それでも花は咲くし、桶屋おけやは儲かるのさ】

「あぁバカ、なんでそこでジョークだよ。台無しだ」

【貴様がいつもやってることだろうが。これも貴様が生きた証だ】

「それこそ屁理屈だ。そういうのはな……」

 言い返そうと言葉をひねる。野良猫が革靴に爪を立てた。頭を回せば回すほどバカらしくなってきて、そのうちシュティードは頭を掻いた。

「……いや、いい。今日だけは、そういうことにしといてやる」

【珍しい。どういう風の吹き回しだ】

「今日だけだぞ」

 半笑いのシドを無理やり引っ掴む。革靴は砂を踏み、音が漏れる方へ。

「オーガストいわく……男には時々そういう日があるんだと、さ!」



 訪れるギグの始まり。舞台はジュリアス・バッド・アス。

 シュティードは扉を押し開けた。誰の為でもなく、自分の為に。





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