Track15.THE SALVATION
ざっく、ざっく、ザック・ワイルド……そういう調子で砂を踏みつけながら、夜の砂漠の先陣を切るアイヴィー。
【──こういう、しまらない
そう言って、シドは星空を見上げる。長い、長い、独白が終わり、ようやく一呼吸つく頃には、ナオンの口の中は砂漠も顔負け、からからのからっぽに干からびていた。
「……シドが、クレイジー・ジョーだったんだね……」
ナオンは、ようやっとのことでその一言を捻り出した。どこに触れていいやらわからないのだ。あんな話、まるで地雷原じゃないか。
それに、こんな形でカミングアウトされたって、サインをねだれるような雰囲気でもないし──カリスマの本性は、思い描いていた理想像とは少し違う。
『なるほど納得でありマス』と、バッカス。『あなたがマキネシアを灰に変えた悪魔でありマシたか』
【間接的にはオレ様が、直接的にはシュティードが……というより、ネオ・ラッダイト運動の現場で起こったなにかが……この掃き溜めを生み出したのだ】
一拍開けて、シドはまた吐き出す。
【……クレイジー・ジョーというのは、個人じゃない。そういう存在なのさ。このギターを拾ったものが悪魔と契約して、その名を
煙たい部屋を換気するみたいに、シドは大きく溜息を吐く。もちろん、音だけで。
【クレイジー・ジョーを名乗ったのはオレ様が最初じゃない。その名が知られる前から、このギターが存在していた頃からずうっと、色んな時代にそういう男がいたのさ。ある時は殺し屋、ある時はギタリスト……それはたとえばシュティードのように……】
「……」
【……なぐさめばかりに、言っておくが】
【貴様が知っている〝クレイジー・ジョー〟がオレ様かどうかはわからない。シュティードかもしれないし、そうじゃないかもしれない。もっとマシな奴だったかもしれないさ】
「……」
【だが……イザクト事変の火種を起こした
また言葉に詰まって、ナオンは首の骨をぽきぽきと鳴らす。背負った〝棺桶〟は重くないのに、煮崩れた──それも他人の──夢の爪痕が、何故だか肩を重くする。
【一つ聞きたい】
「いくつでも」
【信じていれば、許せる日は来るか】
また難しい質問だ。ナオンは小首を傾げ、胸元のストールを
「……大人が子供にそんな質問する? 逆でしょ、普通」
【
「……わかんないよ、そんなの。でも、許すことは信じることに繋がると思う」
【本当にそう思うか】
煮え切らない様子でシドは食い下がった。彼が彼自身を許せていないのだ。さっきの話を聞いたあとだと、いくらナオンが子供だろうと、嫌でもわかってしまう。
【いつか貴様がロックンロールに……いや、ロックンロールじゃなくても……相棒に失望させられて、裏切られたとしても……それでも貴様は許せるのか】
「望むなら」
【何故許せる?】
「僕が相手の立場だったら、裏切ってしまったことで傷ついちゃうからかな」
シドには耳の痛い話だ。はっとするような気分だったし、それは軽快な
血溜まりの酒場。群がる白服。無傷のギターと散らばる酒瓶。薄暗い部屋の湿った空気、むせ返るようなアルコールのえぐみ。やさぐれ怒鳴る赤毛の男、がさつに引っ掴まれたネック。そして──そして最後にマキネシアの雨と、見渡す限り砂色の世界。
ざあっとシドの中に浮かんだ情景は、札束を数えるみたいに急ぎ足でバラバラと脳裏を駆け抜け、最後の最後で彼の心臓へと返ってきた。
【……捨てられる前……奴にいろんなことを言った。言ったし、言われた。言われて当然の過ちを犯した】
柔らかな砂へ瞳を落とし、シドはぼそりと呟く。
【裏切ったのはオレ様の方だ。オレ様が、ロックンロールを裏切ったんだ】
「……それは」
【貴様の言う通りだ。ただ信じるのをやめただけだった】
「……」
【最低の気分だ】
ナオンはなんと答えていいやら分からず、闇を色濃くするマキネシアの空を見上げる。
不思議なことに、聞けば聞くほど、出会った時の罵りように合点がいく。
クレイジー・ジョーの後釜に座り、なり損ない、そうして街を砂漠に変えた男。
鋼鉄の二人の日々は、きっとどちらにとっても戦いだったのだろう。シドはそこに償いの気持ちをまじえたが、シュティードにしてみれば他人のツケを背負わされただけだ。
ほんのネジ一つぶんぐらいの歯車のズレが、二人の最後に亀裂を入れた。
「……でも、悪いのはロックンロールを
【シオンだ】
「そう……シオンの件を引きずるのはわかるけど……それは二人のせいじゃないし、ロックンロールが二人を裏切ったわけでもないと思うよ」
【……いいや。オレ様たちのせいだ】
【……自分のロックンロールを、信じ通せなかったんだ。だから勝負に負けた。人生というここ一番、一回きりのビッグゲームに負けたんだ。負けて、他人に託すなんて真似をしてしまった】
「……」
【雨に歌ったあの日……あの日、諦めていなければ、シオンだって……】
「そんなこと言い出したらキリがないよ……。僕だって、あの時ああしておけばよかったってこと、いっぱいあるもん……」
【ああ、そうだ。時間は前にしか進まない。わかってはいるんだ。いつまでも過去に縛られてるだけじゃ、どうにもならない……。そんなことは、わかってるんだ……】
俯いたシドはどうにもナイーヴだ。触れるだけで壊れてしまいそうな、ガラス細工みたいに繊細なセンチメンタリズムは、十二の少年の手には負えなかった。
二人ともガサツだし野蛮なのに、変なところで女々しい。こんな時こそ〝なんでもねえ〟で済ませてしまえばいいのに──ナオンはそう思う。
「……そういうわけにはいかないのかな」
【なにがだ】
「なにも」
結果論だ。今まではそうしてきたのだろう。だけど、圧し掛かってきた〝これから〟があまりに大きすぎたから、二人とも潰されてしまったのだ。
自分にもこういう困難が襲い掛かるのだと思うと、ぎゅっと肩を抱きたくなる。ましてや大切な誰かが死んで、その一因が自分にあると責め続けるだなんて……強がりを続けてきたナオンには、それが恐ろしくてしかたがない。
ロックンロールでさえ救えない悲劇があるなんて、信じたくない。
「……あのさ」
きっと、この場面では何も言わない方が理想的だ。理想的だけど、なんだか背中が落ち着かなくて、むずむずして、そわそわして、ニヒルを気取った空気にどうにも耐えられなくて、ナオンはやっぱり口を開いてしまう。
「シオンって、僕に似てた?」
【生き写しかと思うほどさ。だが、シオンの方が勇敢だったな】
勇敢すぎた、とシド。
【あいつが貴様ぐらいへなちょこの臆病者だったら、結果は違ってたかもしれない】
「僕はへなちょこじゃないし!」
【そういうところだよ。シオンはもっとキザだった。自分を妖精かなにかだと思い込んでいたんだ。ジョークもかましたし、悪いこともやってたし、やれと言われれば腹を括ってみせるだけの……そんな、少しばかりの余裕を持ってたんだ。それに、ギターもあいつの方が……】
いよいよ品評会じみてきたものだから、ナオンは鮫みたいに口を尖らせる。シオンが何者だか知らないが、比べられるのも、自分にその影を見られるのも気に入らない。
【だが、ロックンロールへの情熱は貴様にそっくりだった】
「それ、ムカつくからやめてよね。僕は僕だよ。シオンじゃないよ」
【ふん】と、苦笑するシド。【そういうところもそっくりだ】
「だから、やめてってば!」
ブーツの先っちょで砂を蹴り上げて、ナオンはずんずんと歩を進める。
「聞かなきゃ良かった、昔の話なんて……。全然面白くないや」
【ともかく、これで分かっただろう。普通の国ならいざ知らず、
ナオンには、いまいち納得のいかない理屈だった。危険なんかを引き合いに出すのなら、そんなものは掃き溜めに生まれた時点で同じことなのに。
【これが最後の忠告だ、小僧。ロックンロールなんかに手を出すのはもうやめろ。新しい道を歩め】
そらきた。またこれだ。決まって煮え切らない口調で言われるものだから、ナオンはいよいよ苛立ちを覚える。
【母親を探しているんだろう、貴様は。そいつが貴様の夢なら、その為に進め。途中で殺されたら元も子もない……それこそ、シオンのように】
「……」
【オレ様はもう、同じ末路を見るのは……】
「あのさあ!」ナオンは立ち止まる。「くどいよ。何回同じ話するつもりなのさ」
【何度だってするね】
「僕は僕だよ。シオンじゃないよ。僕は死んだりしない。悪い大人に引っかかったりもしない。
【そんなこと、わからないじゃないか】
「だから確かめにいくんだ」
サイズの合わない砂よけのゴーグル──母親の形見の一つを握り締め、ナオンは言葉を紡いだ。強がりだとわかっているからそうしたのだ。
「なんで簡単に諦めろなんて言うのさ。わかんないじゃないか。サイコロ振って、次また同じ目が出るかどうかなんて、そんなのわかんないじゃんか。六回転がしてずっと同じ数字だったら、七回目を振ればいい。七回目も同じなら八回目も振ればいい。違う目が出るまでずっとやり続ければいいじゃんか。八回振ったらなにか変わるかもしんないじゃん」
【オレ様たちはそうしてきた。そうしてサイコロに裏切られてきたんだ】
ざし、とブーツが砂を踏みつける。加熱する二人の口論を小耳に挟みながらも、アイヴィーは振り返らない。亡者のように淡々と歩を進める。そういう女だったし、ここではそれが救いにもなる。
「だからやめるの? 今が七回目だったらどうすんのさっ」
【次に違う目が出る保証などない!】
「保証がなきゃなんにも出来ない生き方なんてクソ食らえだ!」
【なんだと!?】
「そんなの死んでるのとおんなじだ……! 機械と一緒だよ!」
【黙れ!】
シドが語勢を強める。雨の日の残り香がそうさせた。
【死んだらなにも残らないんだ! 死んだらな、なんにも残らないんだよ!】
「嘘つき! 大人はみんな嘘つきだ! しっかり覚えてるじゃないか! シオンのこと、ちゃんと覚えてるじゃん! だから起き上がれてないんじゃないか!」
【そ……】
「死んだらなんにも残らないなんて二人が言ったら、本当になんにも残らなくなっちゃうじゃないか! 死んで、焼かれて、体がなくなってそれでおしまいなら、今頃ロックンロールなんか島のどこにもなくなってるよっ!」
胸の真ん中を強く叩いて、ナオンは続ける。
「シドの音楽をシュティードが受け継いだじゃないか! シュティードの音楽を僕が受け継いだじゃないか! シオンが歌ってた〝砂漠の星〟だって、ちゃんと僕に受け継がれてるじゃんか! そうして今度は僕が、僕の音楽を──僕が受け継いできた音楽を、誰かに受け継いでいくんだ! 二人が歌ってきたロックンロールを、鳴らし続けてやるんだ!」
【……】
「一番最初に歯車を回したあんたがそんなこと言ったら、本当におしまいだよっ」
ふん、と鼻息を荒くして、ナオンは精一杯胸を張る。そののち大きく息を吐き出して、彼はシドを抱き寄せた。
「……ほら、よく言うじゃない。有名になったからー、とか、最近のファンは分かってないーとか。そんなので音楽を離れちゃうのって、変だよね。ファンになるタイミングは自由で、どう好きになるかも自由なのにさ。他人のことなんて、関係ないのに」
【……】
「でも音楽って優しいよね。嫌いになっても、離れていっても──裏切ってしまっても、それを咎めるわけでもないし、いつでも戻ってきていいんだもん」
まるで、とナオン。
「母さんみたいだ」
【……何が言いたい?】
「わかるでしょ?」
シドは閉口した。する他なかった。内省の時間だ。ご高説を垂れた後には決まって訪れる。過激な物言いも、自身への糾弾も、どちらも音楽への情熱がもたらしたものなのに、えらく耳ざわりが違う。
「きっと今は聴く気分じゃないだけだ。だから、聴きたくなったらまた聴けばいいんだよ。ロックンロールのせいで嫌な思いをしたなら、逃げてみるのもいいと思う。行けるとこまで行ってみて、それから戻って来ればいいんだよ。なにも嫌いになることないじゃん。そんな形でさよならばいばいなんて、もったいないよ」
にへら、と笑ってナオンは続ける。
「また、ロックンロールを聴いてみてよ。きっと信じられる。僕がさ、いつか、ロックンロールが死んでないって証明するから。その時でいい。ううん、もっと早くても、もっと遅くてもいい。もう一度、思い出した時に聴いてみてよ。
やめるなんて、言わないでよ」
【……】
「きっと魂は、好きだと思った気持ちを忘れてしまったりはしないんだ」
つい、とナオンの目線がシドに落ちる。
自分にはない輝きがそこにはあった。星。星の輝きだ。
大きな差がそこにある。時代の差でも世代の差でもない。それは多分、いまなお信じて止まぬ者と、信じ通せなかった者とを隔てる壁だろう。
【貴様は……】シドはぼやいた。【人生、何周目なんだ】
「馬鹿なこと聞かないでよ。人生は一回きりだよ」
【……ああ、そうだな。そうだった。この先も、ずうっとそうなんだ……】
ぐっ、と
【わかったよ。泣き言はもうなしだ。だが、悪いが貴様を待つつもりはない】
ようやっとのことでシドは笑った。
【ロックが二度死ぬかどうかは、貴様より先にシュティードが証明する】
「は? そんなことないし。あいつがヨボヨボになって死ぬより先に僕が有名になるし」
【望み薄だな。気長に待ってやる。待つだけならタダだ】
ようやっとのことでシドは笑った。もちろんニヒルに鼻だけでだが、ぶすっとしているよりはマシなのでよしとしておく。
ナオンのほうも満更でもなさそうだった。これではどっちがベビーシッターだか分からない。掃き溜めの連中は誰も彼も、魔法にかけられたお姫様みたいに、ある時は大人で、ある時は子供なのだ。
【許すさ。もういい。過去の話だ。奴を許す。喧嘩はおしまいだ】
「謝るの?」
【まさか。クソの海を泳いだ方がマシだ】
「でも、許すんでしょ?」
シドは小さく笑った。
【望むなら】
「それがいいよ」
問題は、とぼやくシド。
【オレ様があいつを許すかどうかじゃなくて、あいつがオレ様を許すかどうかさ】
「どうかな。お互いそう思ってたら、それは、とってもハッピーだね」
ラブ・アンド・ピースの精神か。ジーナみたいなことを言うものだ。この掃き溜めではいつだって、女の方が強いらしい。対する自分の情けなさに呆れ果てたのち、シドは思い出したように問うた。
【なぜ逃げないんだ?】
「なにが?」
【アイヴィーはヒールだ。この距離なら逃げられるぞ。貴様がオレ様たちのイザコザに付き合う義理なんてどこにもないじゃないか】
「出会っちゃったものはしょうがないよ。それに、棺桶を貸す代わりに母さんを探してもらえるなら、悪くない話だし」
【嘘が下手だな、マニッシュ・ボーイ。サインでもねだるつもりか?】
「まさか」
ストールを引き上げて口元を隠し、ナオンは言ってやった。
「ムカつくんだ、あいつが」
【シュティードか?】
「そうだよ」
【ますます意味がわからん。だったらさっさとおさらばした方が建設的だ】
「だめだよ。言っとくけど、あいつの為じゃないからね」
そうとも。あいつの為などではない。男はいつだって、自分の為に戦うものなのだ。少なくとも、自分に男であれと教えた人はそう言っていた。
そいつを支えにしてきたからこそ、少年ナオンは、強がりながらでも進むのだ。
「ここであいつがギターをやめちゃったら、僕は大事なものをなくしちゃう」
【大事なものって?】
「とっても、とっても大事なものだよ」
母さんが言うには、とナオンは笑った。
「男の子には、必要なものなんだってさ」
◆
野良猫が嫌いだ。生きていようと死んでいようと。孤独の臭いにつられて群がってくる奴らを見るたび、自分がそういう星の元に生まれたことを自覚させられる。
「こういう、しまりのねえ顛末さ」
雨の日の記憶を一思いに吐き出して、シュティードは冗談っぽく締めくくった。七杯目のグラスの中、溶け出したロックアイスに過去が滲んでいる。あの日の自分はぐにゃりとねじれて、頑なにその表情を見せようとしない。
語りすぎた後はいつだって、居心地悪さに身もだえしそうになる。シュティードは完全に手持ち無沙汰だった。あるのは水だけ。口元もお留守。どうにも足が落ち着かない。
けれど、アーク・ロイヤルには手を出さない。ここで火をつけたら、
小振りなシーリング・ファンの駆動音だけが、ウォンデン・ハブを包む身を裂くような沈黙を和らげていた。いつの間にやら客も消え、残ったのは二人だけだ。
ヘイルメリーもヘイルメリーで、何事かを言い返すわけでもない。キャッチボールは、シュティードが投げ終わったところで途切れていた。
あまりにも、シュティードの言葉が独り歩きしていたからだ。ただただ出来事をなぞるだけで、そこに彼の気持ちは現れない。図書館……そう、まるで電脳図書館の人工知能が、歴史上の出来事を紹介するように──機械的に──彼は話した。
記憶とは呼べない。メリーが受け取ったのは、ただの記録だった。
シュティードは、ずっと一人なのだ。他人といようが関係ない。それこそシャッターで囲まれてるみたいに、完成された世界の中でじっと壁を眺めている。会話のキャッチボールが成り立たないのはそのせいだ。お互いが壁ごしにボールをぶつけて、結局返ってくるのは自分の言葉だけ。
この男は────他人を見ようとしていない。必要としていないのだ。産まれながらにして自分は完成されているとでも言うように。
メリーの目にはその生き様が、自分で自分に
「つまり」メリーが先に切り出した。「シオンって子が死んだから、ロックンローラーをやめたのね?」
「そうだ」
「はずれね」
がん。シュティードはグラスを置いた。これで八杯目の要求だ。メリーもそれに従う。
はずれ。はずれだと。この女、一体こっちがどんな心情で吐露したと思っているのか。この世の全てでも見てきたつもりか。気分は慈愛の聖なる女神か。ああクソ酒だ。こういう時にこそアルコールが必要なのだ。
「シンキング・タイムよ、ミスター・ノーバディー。頭を回してみて。あなた、自分のせいで誰かが死んだからって、罪悪感を感じるようなタチじゃないでしょ?」
「てめえ、いくらなんでも言っていいことと悪いことがあるぞ」
「だってそうじゃない? あなた、根本的なところはクズそのものだもの。人が死んだかどうかなんかで、あなたは変わったりしないわ」
「知った風な口利くのも大概にしろよ、メリー。いくらそいつが女の美徳だろうが俺にも我慢の限界はあるぜ。俺はブラストゲートの件で……」
「傷ついた? でしょうね。だってあなたは自分の欲しがってたものを失くしたんだもの。悲しんで当然だわ。でもそれは、罪悪感から来る悲しみじゃないのよ」
シュティードは閉口した。生来自分がそういうタチであることは十二分に理解している。この難儀な脳味噌は罪悪感など感じるようには出来ていないのだ。噛み締める後味の悪さなど、せいぜい腐った豆で淹れた
ならば──ならば何が答えだというのか。写真の中の輝きに満ちたロックンローラーを、何が夢を唾棄するまでに
自問し、答えを掴み損ね、そののちシュティードは問うた。
「じゃあ、なんだってんだ?」
「……エクセレントな質問ね」
「ああいいぜ、認めてやるよ。俺はろくでなしのクソったれだ。誰を殺そうが誰が死のうが涙なんて流したりはしねえ。そういう風には出来てねえし、多感なお年頃ってわけでもねえ。だったらなんなんだ? 何が俺をここまで駄目にした? ええおいメリー、教えてくれ。認めるよ、わからないんだ。俺にはわからない」
取り乱すでもなく、目を潤ませるでもなく、淡々と、ただ淡々と、砂一面の景色のように淡々と、シュティードは言葉を紡いだ。感情を上手く表せていない、機械みたいに無機質な声色だ。あれほどポンコツだの魂がないだのと
メリーは黙する。八杯目のグラスをその手に持ち、迷える野良猫の二の句を待った。
これだけは、飲み込ませはしなかった。
「俺は……」
シュティードは言葉を選んだ。彼に出来うる限り精一杯慎重に。
そこに悲観はない。あるのは疑問だけだ。この場の何一つとして弱さから来るものではなかった。ただ、気が重くなるほど辛気臭いだけであって。
「俺は独りで生きてきた。実際に一人かどうかじゃない、在り方の話だ。歯車はひとりでに回るモンだと思ってた。自分こそがこの世で唯一、ひとりでに回り続ける歯車なんだと思ってた。他人の言うことなんか関係ねえと思ってたし、そいつは実際に正しかった」
「ここまではね」
その通りだった。問題はいつだって〝これから〟なのだ。
「……俺の中に正解がないのなら、独りで生きてきた俺にはわからない」
「……」
「俺にはわからない。わからないのさ、いつだって」
シュティードの終わりなき〝もう一杯〟を一口だけ奪い、メリーは続ける。
「私には荷が重いわ。あなたのもやは、同じ夢を抱えた人間にしか晴らせない」
「セラピスト気取りか。殊勝なもんだ」
「経験談よ。今のままじゃ救われない」
「俺は救いなんか求めちゃいない」
「救われない人間はみんなそう言うの」
「……少なくとも音楽には求めちゃいない」
「なら何があなたを救うの?」
「救われなくてもいいんだ」
「嘘ね」
「本当だ」
「ならなぜ救おうとしたの?」
メリーはまた写真を指した。
「救われたかったから、救いたかったのよ。逆はないわ」
「……」
「音楽があなたの救いだったのに、音楽以外の何があなたを救うのかしら」
シュティードは黙り込んだ。自分の組成を思い起こしてみる。タールに、アルコール、それらを分解するための鋼の肝臓、人殺しのメソッドに、ジョークの手引き……あとは……音楽。半分ぐらいは音楽だ。音楽を失うことは、自分の半身を失うことに等しい。
だったら、ますますおかしな話だ。半分も自分の中に巣食っているのなら、家賃分ぐらいは救ってくれても良さそうなものなのに。
高望みか。ない物ねだりか。俺は本当に、そいつに救いを求めていたか?
「思い出してみて、
違う。それだけはシュティードの中ではっきりとしていた。躊躇なく首を横に振れた。
ロックンロールは一人じゃ鳴らせない。グランド・ピアノでエチュードを鳴らすのとはわけが違うのだ。グルーヴという生き物は孤独を嫌う。
ある時はドラムスが、ある時はベースが、ある時はキーボードが、そしていついかなる時もギターが──彼のロックンロールと共にあったのだ。いや、それらなくして彼のロックンロールは成り立たなかった。
ことギターはそうだ。たとえロック・ミュージシャンが絶滅危惧種となった新・禁酒法時代において、アンドロイドの自動演奏をバックに歌ったとしても、ギターだけは、シドだけは、いつもシュティードの傍にあった。共に、同じくして、ロックンロールの荒波の渦中にいたはずだ。
分かち合わずとも語る相手は腐るほどいた。ブラストゲートの一件があるまでは、ある時はジーナに、ある時はアイヴィーに、時には素面で、時には酒を交えてロックンロールの喜びを語ったりもしたし、語り過ぎて
それを〝独りじゃなかった〟と簡単に言えるほどシュティードは簡単な造りじゃない。数の問題ではないのだ。何人寄り添っていようが人は一人であるべきだ。シュティードが言うところの〝独り〟とはそういう意味だった。
どちらも独りには変わりない。そういう意味では根幹がブレたわけではないのだろう。これまでもそうだったし、きっとこれからもそうだ。未来永劫何年経とうが、シュティード=J=アーノンクールという生き物は一人ぼっちのままなのだ。それでいい。
けれど、あの頃の〝独り〟と今の〝独り〟とでは何かが決定的に違う。
答えは難解なものだろうか。それともそう感じているだけで、蓋を開ければなんてことないものなのだろうか。
それこそ、箱の中の猫だ。
「……救い……」
シュティードはまたつられて写真を見る。ステージに立つロックンローラーは、とても救いの手を求めている面には見えない。
けれど、少なくとも救われようとはしていたのだろう。馬鹿らしいことに救おうとさえしていたのかもしれない。ロックが人を救うと信じ、信じ、信じ、信じ切り、結実させんと我が身を賭して歌っていたのかもしれない。
馬鹿げた話だ。そんなの、手酌で砂漠の一輪に水をやり続けて花が咲くのを待つような、途方もない夢だ。終わらない旅に他ならないのに。
その馬鹿げた話を懐かしみ、あまつさえ時が巻き戻ったらなどと考えたりするのも、まあなんともこの上なく馬鹿げた話ではあるが。
「……脳味噌がショートしそうだ。全部はわからねえ。だが一つだけ」
ひどくぬるい水を飲み干し、シュティードは人差し指を立てる。
「一つだけわかった」
「わかった?」
「わからないのは独りで生きてきたからじゃない」
「そうよ。あなたは別に独りで生きてきたわけじゃないもの」
「いや、違う。俺は独りだ。これまでも、これからも。問題はそこじゃねえ」
「じゃあなんだと思うわけ?」
いつも通り、シュティードは皮肉げに破顔した。
「単に、俺が馬鹿だからさ」
「まあ、さっきよりはマシな回答ね」同じく顔を
「いつになるやら」
「あなた次第」
「何事も」
「そうね」
やっとのことでシュティードは八杯目を口にした。至福と安堵の八杯目だ。
グラスも持たずに内省を吐露している間は気が気じゃない。おしゃぶりを失くした赤子みたいに瞳が落ち着きを失う。飲んだところで乾いた喉をよけいに乾かせるだけなのに。これでは依存症と
悲劇が絡むにしろ絡まないにしろ、やはり彼とアルコールは切り離せない関係にある。同様に、彼にとってはロックンロールも。
言いたかないが──本当に、言いたかないが、シドだって……。
「まあ、わかったわ。そのクソガキと出会ったから、ブラストゲートの件を思い出しておセンチになっちゃったってことね」
「おい、言葉に気をつけろ。別にセンチにはなっちゃいねえ。ただ思い出しただけだ」
「その子はきっと」メリーは言った。「あなたの歯車を回したんだわ」
シュティードは縦にも横にも首を振らなかった。どっちに振ったところで──時計回りだろうと、反対だろうと、どっちに歯車を回されたところで──なんだか腹立たしい事のように思えたから。
「その子の名前は?」
「ナオン」確かめるようにシュティードは言った。「ただのナオンさ」
腹立たしい名だ。いつかの誰かを思い出すようで。
突き詰めればミスター・ノーバディー。あるいはこれから何者かになるもの。
なり損なった自分とは、決定的に違うもの。
口は災いの元、瓢箪から出た駒……ジパングではそう言うが、マキネシアでは瓢箪から出てくるのは妖精だ。
シュティードがその名を口にした瞬間、ぎ、と扉を潜ってナオンが入ってきた。
「呼んだ?」
「あぁーそうそう。今ちょうどてめえの話を……」
ぎょっとしてシュティードが振り返る。はてもう酩酊したのかと、メリーがやったのと同じように頬をつねってみたりするが、どうやら幻覚ではないようだ。プラチナブロンドの波打つ髪、碧い瞳。胸にはポンコツの残骸を抱いて、しっかり棺桶まで背負っている。ホログラムにしては出来がいい。
「……チェイサーだ、メリー。飲み過ぎた」
「いつもの八分の一じゃない」
『……』
単眼を動かし、バッカスはカウンターを眺めてみた。
空のオールド・ファッションド・グラスが一つ。一つだが……傍に置かれたワイルド・ターキーのボトルは、既に半分以上なくなっている。ざっと、グラス八杯分……。
『八分の一?』バッカスは問うた。『ばかな』
「なんだポンコツ。不満か? 俺はジョークは言うが嘘は言わねえ」
『……普段どれだけ飲んでいやがるでありマスか……』
「鋼の肝臓なのさ」
『肝臓もブラックの時代でありマスな……』
「てめえは俺の主治医か?」
呆れたようにあしらって、メリーはナオンへ微笑みを向ける。
「妖精のお客さんは珍しいわ。いらっしゃい、マニッシュ・ボーイズ」
似ているな、と少年は思った。
「……ボーイじゃないし。ナオンだよ。ただのナオン」
「知ってるわ」
「なんで知ってるの?」
シュティードを指すメリー。
「彼から聞いたの」
け、とナオンが顎を突き出す。酒場で話題に上がるだなんて、どうせよくないことに決まっている。シュティードの方も氷を噛み砕き、つっけんどんな調子で首を横に振った。
「
「うるさい。そんなもん頼んだことないくせに」
「託児所に帰れ、おしゃぶり野郎。ここは酒場だ。ガキが来るところじゃねえ」
「だったらどうしてあんたがいるの?」
「おのぼりのクソガキを叩き出すためだよ」
「へぇー。あっそ。それじゃあんたも早く出て行かないとね」
「満場一致で可決だぜ。てめえの死体をどこに埋めるか決めなきゃならねえ」
言い返そうとして一歩踏み出したナオンが、尻を蹴られて前のめりになる。
「いだい!」
「さっさと入れ」と、アイヴィー。「遊びに来てんじゃねえんだぞ、マニッシュ・ボーイ。今どういう状況か分かってんの……」
か、と言うなりアイヴィーがナオンを押しのける。そののち彼女は肩を強張らせながら歩を詰め、シュティードの顎先へ銃口を押し当てた。
がち、と、ご丁寧に
「てめえシュティード、なに考えてんだ? この非常時にヤケ酒か? てめえの故郷じゃ火事の時にはアルコールを注ぐのか?」
「黙れヒステリー女。てめえの自律神経は年中大火事だろうが」
「まったく私はびっくりだぜ。大事な仲間が人質に取られてるって時に、ハブで深酒決め込んでるような人類最大級のノータリンが存在するなんてなぁ」
はた、とシュティードが真顔になる。そういえば、道中で憂さ晴らしがてらにあの世へ送ったごろつきが、そんなことを言っていたような、いなかったような……。
「……まさかジーナか?」
「他に誰がいるんだよ! ウィンチはどこだ! まだ来てないのか!」
「ウィンチ? なんだ? ここに来るのか?」
バッカスを放り出し、低めのカウンターチェアに腰かけ、アイヴィーは乱暴に煙草を咥える。
「そうだよ。シドと棺桶を抱き合わせで持って来いって」
「フェアじゃねえなあ」
「だッからどうするか考えてんでしょお!」
いつにもましてヒステリックだ。
「あぁあ。どうすんだ。どうすんだよ。あいつに貸した二万ネーヴルは誰が補填してくれるんだ。銀行か。そんなわけないよな。くそぅ。私のデッドプレジデント……」
「落ち着け。まあ飲め。困った時は酒だ。酒が全てを解決してくれる」
「お前のアルコール信仰にはカルト教団もびっくりだよ」
「聖書にもそう書いてあったぞ」
「説得力あるね……」
人差し指を立てるアイヴィー。それを受けたメリーがコリンズ・グラスを取り出し、氷の上からジンを注いで、最後にカットされたライムを添える。彼女なりのいつものだ。
追いつくようにしてシュティードもおかわりを要求し、アイヴィーがグラスに口付けるのを眺めた。別に、エロスを求めてというわけではないが。
「なぁおい、アイヴィー。ジーナだって馬鹿じゃあないぜ。フリーとはいえ仮にも保安官だ。おまけに元・海賊。ツギハギだらけのオーデロナマサ号で、財宝目当てで内部地球に日帰りかましたイカれ野郎だ。なにか考えがあるに違いない」
「いーや」がん、とグラスを置くアイヴィー。「あいつは馬鹿だ」
「そうだが……ウィンチから連絡が来たんなら、ジーナの無事をチラつかせるぐらいするだろ。でなきゃ人質の意味がねえ。どうだ、ジーナは何か言ってたか?」
アイヴィーは首を捻りながら、一言一句を思い出す。どうにも脳味噌が回らない。景気づけにメンソールを一本挟んだところで、ようやくジーナの遺言が蘇ってきた。
「〝助けて……死んぢゃう……〟って」
「なむさん」グラスを掲げるシュティード。「良き友だったジーナに乾杯」
「まだ死んでねーっつの!」
「時間の問題だ」
「だから助けるんでしょうがあ! 酒飲んでる場合じゃねーんだって!」
言いながらも、勢いよくグラスを空にするアイヴィー。シュティードの目がバッカスへ逸れた。
『なんデス、その目は。はん。滑稽なことでありマスな、請負人。ミスター・ウィンチに……というか、機械に人質は通じねえでありマス。貴様の策略など、取るに足らないバービーの皮算用なのでありマス!』
「そう祈るんだな」
メリーへ、ナオンへ、バッカスへ、シドへ……視線をぐるりと一巡させて、シュティードは納得したように頷き出す。悪巧みを思いついたときの顔だった。
「まあ飲め、アイヴィー。名案を思いついた」
「エタノール漬けの脳味噌でか」
「今日の俺はツイてる。いいか落ち着け。まず、ジーナは間違いなく無事だ」
そもそも、とシュティード。
「あいつはどこで人質に取られたんだ?」
「そんなの私が知るかよ……」
「じゃあ質問を変えよう。どこに行くって言ってた?」
「どうせギャンブルだろ。ペインランドリーじゃねえの。時計頭のところの」
シュティードはまた頷いた。アイヴィーが足を蹴って続きを促す。
「知ってんだろ? ジーナのモットーはラブアンドピースだ。どうせ、ウィンチと酒でも飲んで酔いつぶれたに違いない。ギャンブル中毒のあいつなら、相手が誰だろうが勝負の一つぐらい持ちかける」
【……そうだ】と、シド。【たしかジーナは吐いてたんじゃなかったか?】
もったいぶって咳払いを一つ。そののちシュティードは続ける。
「ペインランドリーってことはショット・ブラック・ジャックあたりだ。で、ウィンチはベロベロに潰れたジーナを人質に取って、そこのポンコツと棺桶、それからギターを奪還する一石三鳥の手を思いついた……」
こんなところか、とシュティードは言ってのける。文句なしの的中だ。天にましますマキネシアの女神もこれには舌を巻いたろう。続いて、彼はバッカスに向き直る。
「どうだポンコツ。奴ならやりかねない。違うか?」
『……エクセレントな質問でありマスなあ……』
バッカスはそうはぐらかした。
いやいやまさか。そんな馬鹿な話。いやでももしや、こだわりの強いあの男なら、人になろうとして人の悪い部分ばかり学んでしまったようなアンドロイドなら、もしかしたら、万が一ということも……。
『……』
コール。エラー。リトライ。エラー。粒子通信が繋がる気配はない。ウィンチか、自分か、どちらかが
バッカスのメイン・コンピュータはブルー・スクリーンのまんまだ。胴体がないのだから当然とも言える。残された時間は、頭部に積載されたサブ・コンピュータの電源が許す六時間あまり。
勝負がどちらに転ぼうと、国民の休日の朝が来る頃には、バッカスも幕切れだ。ICMの圏外にさえ出てしまえば、メモリのログはZACTのメイン・サーバにバックアップされるだろう。なに、どうせ機械なのだから、再起動の一つや二つは怖くない。
だが、もし。もしもウィンチがしくじったら、その時は……。
『……無駄なことデス、請負人』
バッカスは勝負に出た。彼の判断でそうした。
『補助バッテリーはそう長くはもたない。仮にミスター・ウィンチが間に合ったところで、本官は人質になどなりまセンよ。大人しく粒子管を渡した方が身の為でありマス』
「お前が機械なら、そうだったかもしれねえな」
ああ、駄目だ。しくじった。こいつはそういう奴だった。人の話をきかない奴だ。ウィンチと同じタイプの哲学を持つ男なのだ。
落胆するバッカスをよそ目に、一呼吸置いてアイヴィーが問いかける。
「……にしたって来るのが遅すぎるぜ。ペインランドリーから来たなら、私らより先に着いてるはずだ。モーテルはあってもガソリンスタンドはない」
「さあなあ」と、シュティード。「セクサロイドの需要もあるし、そういう部分もきっちり再現されてはいるが……女に興奮する機械なんか、俺は聞いたことがねえな」
「……そうだけどさあ……」
「心配性が過ぎるぜ。大体、お前だって知ってんだろ。酔っ払ってる時のあいつは、壊れた芝刈り機みたいなモンだぞ」
壊れた芝刈り機。言いえて妙だ。アイヴィーは失笑を漏らした。なにせ酔っ払ってる時のジーナは芝を刈るどころか、厄介ごとの苗を次から次へと植えていくのだから。
「俺たちに出来るのは、ここのカウンターで酒を飲みながら、モンスター・ビアガーデンが一日でも早く復活するよう祈ることだけだ」
「……」
「そうだろ? 下手に動けば余計に状況がこじれる。時を待て」
「天命ってのは、人事を尽くして待つもんだろ」
「だから」と、グラスを置くシュティード。「人事を尽くしてる」
いたって真剣そのものです、と……彼の表情はそう言っている。冗談ではなく、彼は彼で、酒を飲むことで万全の態勢を期しているのだ。彼なりのバイブルにもとづいて。
アイヴィーは落ち着かない様子で、煙草の代わりに爪を噛んだ。
これは珍しいことだった。彼女が
ラズル・ダズルの中でも比較的頭の冴える彼女が──たとえヒステリーパニック系の女であったとしても──ニコチン漬けの肺をあしらうほど冷静さを失うのは、ジーナが絡んだ時に限られる。
彼女にとってのジーナとは、シュティードで言うところのシドなのだ。シュティードもそれを理解している。だから、真摯に人事を尽くす。具体的には、いつもより多く酒を入れることによって。
「オーケー、オーケー」
「わかったよ。こんなのは、今に始まったことじゃないしな。お前の発酵したひらめきを信じてやる。私は私で、人事を尽くすだけさ」
「相棒の為に?」
「そうさ。だからお前らも、そっちのいざこざは解決しておいてくれよ。もしもの時にさっきみたいないがみ合いされちゃ、救えるものも救えないからな」
当てつけみたいに言い残して、アイヴィーはカウンターを離れた。
鋼鉄のふたりを気遣ったつもりなのだろう。図らずともそれを理解したナオンも、バッカスを抱えて隅っこの机へ。アイヴィーはモバイル・コンピュータと睨めっこ。居心地悪げなカウンターには、シドとシュティード、それから対面のメリーだけが残された。
「……なんだよ」
【……なにも】
尖った声で牽制し合ったかと思うと、そのまま二人は口を閉じてしまった。
もわもわと煙る副流煙の中、お互いに相手の先手を待つ。しみったれた感じだ。なんだこの静けさは。どうせ、開けてしまえばなんてことはないに決まっているのに。
全くどうしたものかと、メリーが──母親みたいに──助け舟の舵を取ろうとしたところ、シュティードが口を開いた。
「一ついいか、メリー」
メリーは肩をすくめた。
「私の前に話す相手がいるんじゃなくて?」
「必要な話だ。これからのために」
「言ってみて」
「息子は」と、シュティード。「置いてきたんだったな?」
「……仕返しのつもり?
「そう取るのならフェア・ゲームだ。次はお前の番だぜ。イエスかノーかでいい」
ふう、と大げさに吐息を漏らして、メリーはカウンターに両肘を置く。
「イエスよ」
「愚直な息子だった?」
「……イエス」
「お人よしに育てた?」
【……おい】シドが制止した。【何を言うつもりだ】
「あいつが店に入ってきたとき」
一度ためらい、シュティードは続けた。
「よく一目で男だとわかったな」
メリーは答えなかった。かと言って、目をそらすわけでもない。強かにも、それが彼女なりの反撃だった。踏み越えた一線、二人の間の空気はピリついて、剃刀のように肌の上をなぞってゆく。
耐えがたい。この
三十秒経ち、一分経ち、ついに二人が口を開くことはなかった。シュティードが女の花を立てたかどうかは定かではない。
はっきりしているのは三つだけ。ヘイルメリーはコウノトリじゃあないし、コウノトリは子供を運んだりはしない。そして、マキネシアにコウノトリはいないのだ。
巡り合わせの中、ともに正体を知りながらも、母と子は目を合わせようとしなかった。
理想的ではない。そうした方が救われる気がした。ありふれた奇跡で終わらせておく方が、マキネシアにはお似合いだから。
◆
シュティードの評で言うところの〝壊れた芝刈り機〟……つまり、酔っ払いのジーナが濃闇の裏路地を駆ける折、ウィンチ=ディーゼルもまた、同じように彼女を評していた。
「ふざけやがって! なんだあいつは! 壊れた芝刈り機かっっ」
「トラトラトラー!」
「待てこらクソアマァ!」
走る走る。ジーナは走る。口元からばるばると漏れてくる擬音は、きっと彼女なりのレシプロ・エンジンだ。両の手を広げ、頭のネジが外れたみたいに駆けずり回るジーナを、ウィンチは無我夢中で追いかけた。
「なんでだっ、どうしてこうなったっ。俺が一体なにをしたってんだ!」
ジーナは遥かに前を往く。泥酔のせいか、追いつけないほどの速さではない。そもそも逃げ出すつもりもないように見えるが……いや、そんな御託はあとだ。
走りながら、ウィンチはジー・ウォッチに目を落とした。クソたれが。いくらアルコール分解の演算に容量を裂くからって、アンドロイドが時計で通信とはどういわけだ。
スタート・アップから粒子通信を立ち上げる。コール。コール。ナンバーは秘匿回線。擬装用の小細工はもう必要ない。じきに通話相手もZACTが嗅ぎつけるだろう。それでいい。事態は既に佳境を迎えている。後は、唯一我こそはと傲慢な錯覚を抱いた、この世で一番の自惚れ屋が──そいつが誰であろうと──泣きを見るだけだ!
「バグジー! 俺だ! ウィンチだ!」
家屋が視界の隅を流れてゆく。バグジー=ブランドンのダミ声が、風音に紛れて聞こえてきた。
『声のトーンを落とせよ、バカヤロウ!』と、死に底ない。『傷に響く!』
「
『待て待て、状況がさっぱりわからねえ!』
「あぁー皮肉だな、俺にもさっぱりわからねえ……!」
ジョークではない。本当にウィンチにもわからないのだ。主に原因が。
「縮れ毛ヤローの一味を人質に取った。奴らと取り引きする!」
『請負人は?』
「奴は必ず来る。そういうタチだ。約束通り粒子管は俺がいただくが、ギターさえ手に入りゃ奴らの命なんかどうでもいい。煮るなり焼くなり好きにしなぁ」
『最高だぜウィンチ。俺ってやつぁグルメなんだ。これでキーラも浮かばれるな!』
はん、と苦笑するウィンチ。
「動ける連中を全員だ。それから
『おい待て、ウォンデンってどっちの──』
ぶつり。そこで通信は途切れた。どこぞの闇酒場が張っているであろう、携行型ICMの有効圏内に差し掛かったのだ。これがあるから粒子兵装は信用ならない。太古の人間が石に文字を刻んだのと同じくして、最後に強いのはアナログなやり方なのである。
右へ一歩。屋根を駆ける。プラ板めがけて着地したはいいが、加重に耐え切れずに大穴が開いた。前のめりに転げるやいなや起き上がり、ウィンチはプラ板を引き千切る。
ちくしょう。つい忘れがちになるが、そういえば俺はアンドロイドだった。鋼鉄の体でこんな薄っぺらいものに飛び乗ったら、そりゃあ穴の一つも開くに決まっているのだ。
「くそだらぁ!」
つかず離れずの距離に苛立ち、ウィンチはとうとう左足の
ぶし、と排気口から蒸気が吹き出て、ウィンチの体がその反動で飛び上がる。左に一度、右に二度。バネのように跳躍を繰り返す。
怪盗。今の俺は、まるで掃き溜めの夜に暗躍するエージェントだ。足りないものは、マントにシルクハット……それから仮面……あとは、手を汚すに値する財宝か。そいつは間違ってもあの女じゃあない。
ジョーク・マニュアル風に言うなら──こいつがメリー・ウィドウ級の美人なら、話は違ったかもしれないが。
あと一歩。蒸気の軌跡。アラートだと? 知ったことか! ウィンチにアラートなどは通用しない。歯車を回すか決めるのは、他ならぬウィンチ=ディーゼルだからだ!
「タッチ・ダウン・ベイビー!」
「ぶにゃあ!」
もみくちゃのまますっ転げて、頭からゴミ箱に突っ込む二人。野良猫達がジーナによく似た声を上げ、一目散に飛びのいたかと思えば、今度はウィンチの胸元に飛び込み始めた。その心臓に埋め込まれた、粒子管の気配に釣られているのだ。
「クソたれが!」と、野良猫を蹴飛ばすウィンチ。「てんやわんやだ!」
「大変だおっさん! てんやものが食べたいぞ!」
「ピザでも頼んでろ! オラ立て海賊! ウォンデンに急げ!」
「保安官だぞ!」
「俺の知ったことか!」
午前二時、観客なきキャット・レース。やっとのことで暴れ馬・ジーナを飼い慣らした頃には、ウィンチのアルコール・エンジンのメータは半分を切っていた。
取り急ぎ、必要なのはアルコールの補充である。全く、我がさだめのなんたる難儀なことか。酒を飲みすぎればショートする。かといって飲まなければ電源が切れる。この愚かしさ極まるナンセンスでシステマチックな体ゆえに──全てはそれゆえに、なのだ。
だが、それも……悠久に思えるこの戦いも、もうじき終わる。
いや、終わるのではない。この俺が、終わらせるのだ。
「
キーラ、キーラ。もうすぐだ。サインの準備をしておけよ。
きっと、ちっぽけな小包だ。まばたきしてたら見逃すぜ。
この夜を照らす砂漠の星にかけて────祝杯は、俺とお前の為にのみ注ぐ。
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