Rewind the time #7 -too young to...-
汝ら、この門をくぐる者、一切の希望を捨てよ──偉人の叙事詩にそうある。
シュティードは、たかだか門の一つをくぐるぐらいのことで、いちいち持っているものを捨てたりはしない。預けるのもごめんだ。つまり、飛行機の搭乗ゲートはくぐれない。門をくぐる時に捨てるのは二日酔いを恐れる心だけだ。
今日に限っては、そもそも捨てる必要がなかった。酒場に行くのに家から氷とアイスペールを持参する奴はそういない。
要するに、希望の一切とやらは扉の向こうに用意されていたのだ。
「……タンゴでも踊るつもりか」
人種と世代のサラダボウルを目にして、シュティードはそう漏らした。
酒場〝ジュリアス・バッド・アス〟の仄暗いホールはまさに
シュティードは、ひしめく来訪者達をざっと見渡した。
中年層から老人が六割。一割は町の子供。残りの三割はまだ若々しい顔つきの青年達だが、ブラストゲートの住人ではあるまい。メイが他所から呼んだのだろう。
およそ半数は近代的な私服で、残りの半分はコルセットだの真鍮だの革のベルトだの、蝶の飾りにシルクだの、とにかく悪趣味な──そういう時代が過ぎたからこそこう形容できる──空想近未来風。
そのちぐはぐな様相はつまり、オーディエンスの半分が市街からやってきたことを意味している。飲み慣れぬ酒の味を占めたか、カウンターでへべれけになっている連中がいい例だ。
大人と子供。過去と未来。時の流れがこの空間にかき集められている。
【……凄い数だな】シドの声が音の壁に埋もれた。【キャパを超えてる】
この人いきれと騒音の中では、カクテルパーティー効果も頼りない。カウンターの向こうでは店主のジュリアスも大忙しだ。ビール、バーボン、ノン・アルコール、ビール、ビール、またビール……サーバーの勢いが追いついていない。
「……」
シュティードは耳を凝らした。この町で過ごした月日の中、あれほど疎まれていたロックンロールという言葉が、あちらそちらからちらほらと聞こえる。
ステージに鎮座しているマーシャル・アンプとキャビネット。ありあわせの鋼鉄で組まれたドラムスに、古びたかえしのモニター、マイクスタンド。懐かしいつくりのダイナミック・マイクから伸びたケーブルが、暗幕の裏のコンソールに繋がっている。
誰も──誰もそれを咎めない。顔をしかめたりしない。
予定より少し押しているのだろうか、ステージは未だサウンド・チェックの途中だ。にも関わらず、次はなにが飛び出るかと語らいを交えながら、みなグラス片手に音を待っている。
縮れ毛の男がステージに上り、ベース・アンプのサウンドをチェックし始めた。ぼん、とふくよかな輪郭の音が響いて、重い低域が腹の奥を揺らす。
次はドラムスだ。体格のいい男がスネア・ドラムをチューニングし、金物を鳴らしてみて、軽くワンフレーズを通して叩きはじめる。
ああ、これだ。次に何が起こるかわからない、この高揚感。
これこそが、俺たちが待ち望んでいたもの。
暗幕の袖からシオンが出てきて、ぎこちない動きでアンプの前に直立する。サウンド・チェックのはじまりだ。
緊張に飲まれた彼の容態は、おおむねシュティードの予想通りだった。顔面蒼白、膝はがたがたで、トーン・ノブを回す指がおぼつかない。シールドをストラップに通すことも忘れているが、それどころではないらしい。
まさに、ステージの魔物に取りつかれた姿だ。
「やればできる、やらねばできぬ、なにごとも……」
呪いのように小さな声で、シオンはぶつぶつと繰り返す。なんだか目がうつろだ。
「僕はジミヘン、クラプトン……現代のジョニー・ビー・グッド……万事オッケー絶好調……ににんが三四のいんげん豆……ワチャゴナドゥーでジャンバッハネー……」
勢いよく回されるアンプのボリューム・ノブ。スピーカーから鋭いハウリング音が響く。耳を塞ぎ、野次を飛ばす観客。慌ててシオンがギターのボリューム・ノブを絞った。
ノブを回すシオン。ゲインの調整がうまくいかないようだ。なんだか輪郭がぼやけていて、音に芯が感じられない。
【……大丈夫か? あいつ】と、シド。【バンビみたいだぞ】
「ゾンビよりマシだ。あれでいい」
【何事も経験。手厳しいな】
「お前ほどじゃない」
四苦八苦するシオンを眺めながら、シュティードはぼそりと呟く。
「……俺一人じゃこのステージは拝めなかった」
【……かもしれん】
「お前と会わなきゃ、俺はとっくにやめてたかもしれない。一度しか言わないぜ、シド。俺は……ロジャーにも、あのクソガキにも、Dブロックの未亡人にも、ヘビースモーカーのインテリ女にも、ネジが外れた海賊保安官にも……それから、お前にも……」
【ええい、言うな言うな。気持ち悪い】
耳がこそばゆくなってきて、貴重な語録を遮るシド。
【その続きは、いつか貴様がステージに立った時に聞いてやる】
「おい、俺は……」
【未来の話だ。それも、仮定の。音楽は逃げない。いつ戻ってきてもいいんだ。音楽は、神様よりも物わかりがいい。ヨリを戻そうと詰め寄ったって文句を言わない】
「それはたちの悪い女と一緒だ」
【美人なら構わん】
豪語するシド。やっぱり女を見る目がないやつだ。きっと前世も悪い女に引っかかって破滅したに違いない。
【オレ様達の旅はまだ終わっていない。これは、はじまりの一つだ。そうだろう? 死ぬにはまだ早い。ギグを見れば、きっとまたステージに立ちたくなる。そういうものだ。
オーガストも言っていたろ。遅すぎることなどない。続けてきたことをやめるにしろ、新しいことを始めるにしろ、旅人はいつだってトゥー・ヤングなのさ】
「……」
【だからオレ様は、貴様と旅に出たんだ。出ようと思えたんだ、シュティード】
ぎょん、とシオンがギターを鳴らす。オーバードライブ気味のサウンドがフロアに響き渡る。リフ・ワークを軽く一つ、二つ……歪みとイコライザを調整。
やっとのことでサウンドを調整し終えて、シオンはお気に入りのフレーズの一つを奏でた。ユニゾン・チョーキングを交えて展開される、シュティードが教えたものの一つだ。
【ヒュウ】わざとらしく口笛を鳴らすシド。【いいぞいいぞ、かましてやれ】
「……」シュティードの頬が引きつった。「……あのヤロー」
ふくよかな倍音、マイルドな中域と研ぎ澄まされた高域、それでいてミュート・ピッキングのニュアンスを損なわぬ明瞭な低音。
やはりシオンの耳は良い。心地よいサウンドを引き出すことに長けている。それは感覚的なものだ。若さは時として、実際に雲を掴んでみせる。
「…………」
熱を帯びる観客達。音と酒が互いに引き立てあう。指笛と声援。初陣の緊張と興奮が、シオンの表情をよけいに輝かせる。フロアはまるで振られたマラカスのようだ。
ああ。本当なら俺も、あそこに──
「……はん」自嘲気味に鼻を鳴らすシュティード。「まあ確かに、やられっ放しってのは趣味じゃない」
【だから言ったろ? 今からでも遅くない】
「肝臓次第だな」
そう言って、彼はカウンターへと歩を進める。肝臓と相談するためだ。なにも遊びに行くわけではない。これは仕方がないことなのだ。実に仕方ない。
一〇分押しでサウンド・チェックが終わる。早くもカウンター周りはアルコールの香りで一杯だ。価格が安いのをいいことに、どいつもこいつも有り金を湯水のように使うわけである。オーガストの読みは大当たりだった。
まずは気つけに一杯──シュティードなりのサウンド・チェックだ。ジュリアスに半券を渡すと、いつものターキー、八年のシングルが差し出される。
「言っとくが」と、睨みを利かせるジュリアス。「俺はロックンロールなんか滅んじまえばいいと思ってる。相変わらずお前の事は嫌いだね」
「金の為か?」
「金の為さ。つまり、巡り巡って町の為だ」
グラスを掴むシュティード。だがジュリアスは手を離さない。どころか負けじと力を込め、剛健な前腕に青筋を浮かべる。まるで綱引きだ。
しばらく力の
「オーガストいわく」と、シュティード。「
「……」
「奪い合えばこうなる。砂時計をひっくり返したって、こいつは元には戻らない。あんたはどうする。グラスだってただじゃない。それでも続けるか?」
いや、と破片を片付けながら返して、ジュリアスは新たに酒を
「酒は楽しく……」今度こそグラスが置かれた。「それがウチのモットーだ」
いいスローガンだ、ぜひとも語って聞かせてやりたい──シュティードはそう思った。たとえば子守唄の代わりなどに。
「エルダー・ジュリー。そういやぁ、結局オーガストの奴は……」
シュティードはそこで言葉を止めた。割って入った誰かの手が、グラスを引っ掴んでいったものだから。
「身の程知らずにもいい酒だな、歌うたい」
いつの間に隣に来たのやら、メイ=カルーザはそう言って、横取りしたターキーを一思いに飲み干してしまう。
「おい、殺すぞ。人の酒を勝手に飲むな」
「違約金だ」メイはしれっと言ってのける。「安く済んだと思え。この嘘つきめ」
言葉こそ冗談まじりだが、メイの目元に穏やかさはない。そら見たことかとシドが目をひしゃげた。
「嘘つき? 譜面のことか? クソガキから受け取っただろ?」
「トレバーがな。ついさっきだよ。子供に預けたなら最初からそう言え。おかげで余計な時間を使った」
「代えはない、あれ一組だけだ。後で返せと伝えておけよ」
「そんな話をしにきたんじゃない」
テーブルに尻を乗せたまま、シュティードの耳元で呟くメイ。
「話が違うぞ、歌うたい。ステージに立つのは君だったはずだ」
「ロックンロールを聴かせるとは言ったが、俺が出るとは一言も言ってないぜ」
「駄目だ。君が歌え。私は君と契約したんだ」
「誰でもいいんだろ? お前はそう言った。つまりお互いの認識に
「屁理屈だ、そんなもの」
「ちょっとは俺の耳を信用しろ」
「信用の問題じゃない。いや、信用の問題だが……なんだ、あれは。下の毛も生えてないような子供じゃないか。いくらなんでも若すぎる」
「だから選んだ」ステージを指すシュティード。「見てろ」
ドラムスのフォー・カウント。ベースとギターが同時に入る。シオンの
緊張で指が震えているのが見える。それを補おうと前のめりになる。棒立ちなのは恥ずかしいし、かといってどこまで振り切っていいかも分からないし……。
少年の初陣は勢い任せの演奏だった。パフォーマンスも何をしていいやらよくわからなくて、頭を振ってみたり、体をくねらせてみたり、しまいには肩足立ちで膝を曲げて、けんけんしながらリフを弾いてみたり。
「正気か」と、メイ。「鴨の踊りだ。確かに音はいいが、それはギターの問題であって、あの子供の腕がどうかとは……」
歌声が喧騒を劈き、メイの言葉を遮る。ダイナミック・マイクを通じて演奏を引っ張ってゆくのは、幼く、
場数を重ねたブルース・シンガーの声が鈍器なら、雛鳥の断末魔を思わせる少年の叫び声は
未熟と言っていい。だが、懸命に歌い上げる様は魂を磨り減らしているようにも見え、それが曲のグルーヴを強引に作り上げている。
余裕などはどこにもない。だから目を見張るし息を呑む。打ち込んできた情熱の全てが、シオンのステージに可能性の光を注いでいるのだ。そういう、紙一重のスリリングな演奏というものは──やはり、シュティードでは表しきれぬ表情だった。
Bセクションで音出しは打ち止めだ。後は本番を待つのみ。ボリュームを落とし、シールドを引っこ抜き、暗幕の向こうへと消えるシオン。汗で前髪が額に張り付いている。
「あいつは伸びるぜ」喝采の中、シュティードは呟いた。「賭けてもいい」
「……」
「あいつはバカだしクソガキだが、だから良いんだ。あの勢いはガキにしか出せない。そして、ロックンロールにはそれが必要だ」
要するに、と笑うシュティード。
「スクラップに出る幕はないってことさ。俺に出来るのは、ここでターキーを飲みながら、あいつの演奏を見ることだけだ」
彼女は答えない。言葉をつむぐことを諦めたようにも見えた。ただじっとシュティードの瞳を覗きこむだけだ。もちろんシュティードも彼女の目を覗く。折れた方が負けだし、揚げ足を取られてもおしまいだ。
ジュリアスが蛇口を捻るのと同時、ぱ、とメイが顔を離した。根競べはシュティードの勝ちだ。この割り切りの良さが彼女の利口さでもあるのだろう。勝ち目の薄い勝負には手を出さないタイプらしい。
「それもそうか。いや、いい。言葉のあやを取られた私の落ち度だ」
「なんだ。もっと粘るかと思ったぜ」
「言っても聞きそうにないからな。不服だが、全ては結果だ。だろう? 君が手塩にかけたと言うなら、あそこに立っているのは君の未来同然だ。君がそう言うならそれで構わないし、そうなんだろう」
ただ──と、鋼鉄の右腕を抱いて続けるメイ。
「賭けてもいいと言ったな?」
「言ったが」
「博打というのは金持ちの遊びだ。だから、誰も責任を取っちゃくれないぞ」
「構わない。どこまで行けるかを確かめる。俺はその為にここに来た」
「ではそう祈るがいい。願うだけなら、タダだからな」
言うだけ言って、メイは人ごみの奥に消える。空っぽのグラスと、いやに甘ったるい
【クレイジー・ジョー・フリークか】と、シド。【鼻持ちならん女だ】
「ああいうのがタイプなんだろ、お前は」
口ではそう茶化してみるが、シュティードだって不満がないわけじゃない。グラスが空く早さが物語っている。
ビジネスライクな付き合いというものは、極力自分の人生に持ち込みたくないものだ。こと、音楽をやる上では。他人にお膳立てされた舞台に乗るというのは、それこそ彼の趣味ではない。お互いにとって、この辺りが落としどころなのだろう。
「覚えてるか、前に言った……」
【暴動に興味がない、まともなファンなら生き残ってるかも……か?】
「だからって奴がまともだとは言わねえが」
三杯目はまだ頼まない。今度は煙草の時間だ。アーク・ロイヤルの煙を天井へと吐き出し、シーリング・ファンの残像を眺めるシュティード。
「自分の音楽を聞いてた奴が、新・禁酒法に喧嘩を売ろうとしてるだなんて……あの世のクレイジー・ジョーが知ったら、どんなツラになっちまうんだろうな」
【知ったことか】目を伏せ、シドは失笑した。【死人に口なし。顔もなし、さ】
「お前も少しは口数を減らすべきだ」
【男が上がってしょうがないな】
「これだよ……」
◇
オーガストの仏頂面に休みはない。オフの日だろうが激務だろうが、彫像から取って貼り付けたような
スヘッツコーツの砂ばんだアスファルトを踏みながら、その自由なるジャズ・マン……すなわちオーガストは、
オフの日はなにもしない。そう決めている。街灯の真下に投げ銭用のケースを広げ、ストラップを首から提げたら、人生唯一の相棒である
オーガストにとって、それは何かをしたうちには入らない。呼吸と同じことだ。
「……」
ウッドベースとドラムス、それからバンジョーとクラリネットの音色……その響きを自分の演奏の背後に思い起こしながら、オーガストは〝麦畑〟の件を思い出していた。
路地で奏でるミュージック・マン……彼もまた、シュティードと同じく自らの音楽を信じる者の一人であった。人がいようがいなかろうが、吹き続けることに変わりはない。
年季で言えばオーガストは、二十七歳を自称するシュティードよりはずっと長くストリートでの演奏を続けている。挫折も苦悩も甘いも酸いも極めた人間だ。それだけに、楽器は違えど彼のスタンスを否定はしない。もちろん肯定もしない。あるがままにあればいい……彼の人生にとって全てはそういうものだった。音楽の成り行きさえもだ。
だが、町だけは違う。
Bブロックに流れ着いた時から、遡ればそれよりずっと前から、彼の音楽はストリートと共にあった。彼の音楽のルーツもそういうものだ。道往く人々を振り向かせ、暮らしの一部に食い込むことこそ彼の目指すところである。
町がなくなれば自分のこれまでが消えてしまう。それは
時の流れの中で、どれだけ自分の音楽が霞んでしまおうと構わない。その時は今より一際強く吹いてみせる。だが、町だけは。この町だけは……。
「……ちっ」
オーガストは唐突に口を離す。やめだ。今日はどうにも音が
トランペットをケースに仕舞い込み、重い足取りで再び歩き出す。
午後九時。そろそろギグが終わる頃だ。歌うたいは上手くやっただろうか。出番はたしか最後だったはずだ。今から急げば間に合うか……。
……いや、それもやめだ。どうせ店は騒がしいだろうし、とち狂ってセッションをしていないとも限らない。そもそも酒が余っているかどうかも曖昧だ。
薄暗い十字路の角、ふとオーガストは足を止めた。街灯の下に誰かがいる。
女。女だ。掃き溜めの夜を恐れぬ
「ああ、そうだ。終わるまで誰も出すな。ああ。ああ、そうだよ。お前も出るな。なに? トイレが足りない? ゼファー、お前はそこに便所を増設しにきたのか? 酒瓶にでもしておけ」
はて、市街上がりであろうか。それにしてはとんでもない口の汚さだ。いや待て、よくよく見ればあの女、ギグのビラを配りに来た──メイ=カルーザではないか。
「一人残らずだぞ」メイは続ける。「北はあらかた片付けた。残りはそう多く……」
「おい、あんた」
たまらずオーガストが声をかける。気の迷いだ。気まぐれがてらに一杯引っ掛けて、あわよくば……そのぐらいのつもりだった。
なぜって、オーガストもまた男だからである。
「……」オーガストの方を一瞥するメイ。「……少し待て」
歩み寄るオーガスト。ははあ、この女、よくよく見れば中々の美人である。顔半分は機械だし、残った半分の顔も鉄仮面みたいに冷徹だが、それがまたどうにもミステリアスだ。早い話、オーガストのタイプだった。
女。まさしくこれが鉄壁の男オーガストの、唯一の弱点である。
「なにか?」
メイはにこりとも笑わない。それもまたよし。オーガストはこの程度では動じない。普段の寡黙さからは想像もつかぬフランクさで声をかける。
「あんたあれだろう、ビラを配りに来た。その節は世話になったな。ギグはどうした? もうオープンしてるぞ。行かないのか?」
「趣味じゃないんだ」
「そうかい。俺もギターの音ってのはどうも苦手さ。だから今日はオフだ。どうだ、暇ならどこかで一杯……そう、ジャズが流れるいい店が──」
がいん。火花と硝煙。アスファルトに血が
オーガストはそれを目で追ってみて、出所が自分の
「お……」目を見開くオーガスト。「おい、おい……いくら、なんでも……断り方ってもんが、ある……だ……」
腹部を押さえ、オーガストは崩れ伏す。見下ろすメイの右手から煙。銃だ。それも内臓式。口径はそう大きくないが──だめだ。当たり所が悪すぎた。
どこをやられた。大腸か。それとも肝臓? そいつは最悪だ。酒が飲めなくなっちまう。股間をブチ抜かれなかっただけマシってもの……言ってる場合か!
回る。回る。オーガストの脳味噌がぐるぐると回る。なんだ、この女。そもそもなんで撃ちやがったんだ。ナンパしたからか? こいつの故郷じゃイタリア人は皆殺しか?
ちくしょうめ。やっぱり美人のケツなんか追いかけるもんじゃない。
「すまない」
さらりと言ってのけるメイ。今更謝られたってどうしろというんだ。肩がぶつかったのとはわけが違う。
「言い方が悪かったな。音楽自体、趣味じゃないんだ」
「…………」
ああ。
ああ、そうか。そういうことか。
やられた。オーガストは精一杯苦笑してやる。
「……よく……知ってたな……俺の中に、ジャズが流れてるって……」
「ほう。それがジャズの色か。覚えておこう。だから、もう少し見せてくれ」
メイはそう言って、うつ伏せのオーガストの腹に銃口を押し当てる。
くそ。ちくしょうが。奴の言った通りだ。自分の畑の土だけ踏んでりゃ良かったんだ。救おうと、救えると──救われると、思っちまったばっかりに。
おしまいだ。俺も、この町も。
「……あんたは……」
ごぼ、と排水溝みたいな音をたてて、オーガストの喉から血が逆流する。
「セッションには、向かねぇな……」
「何故?」
「覚える時間なんてねえ。ジャズは……いきなりやって来て、一発本番だぜ……」
「そうか」メイは吐き捨てた。「なら死ぬこととはジャズなんだな」
一発。二発。三発目まで容赦なく撃ちこむ。火薬の香りと血の湖。尻尾を逆立てた鋼鉄の野良猫が、銃声のたびにおどおどと身をすくめた。
オーガストが動かなくなったのを確認したのち、メイは気だるげに立ち上がり、ジー・ウォッチへ短く語りかけた。
「ショウ・ダウンだ。星まで吹っ飛ばせ」
去り往く女。オーガストはそのケツを眺める。こんな形で眺めたかったわけじゃない。
息遣いが揺れる。
「……才能のなさに……感謝する日が、来るとは……」
力なくまさぐるは懐。手から滑り落ちる廃品電話。血まみれの右手でボタンをプッシュ。グルーヴの欠片もないクソみたいなコール音を耳に、ごろりと仰向けに。
頭上に暗天。死ぬか。ここで終わりか。それもいいだろう。死ぬのが俺だけならば。
あぁオイ、歌うたい。こいつは本当に──葬式をやる事になっちまうかもな。
俺のか、あんたのか、それとも両方かは知らないが。
◇
四回、五回、六回……奏者が入れ替わり立ち替わりステージへと上り、そのたびシュティードのツケがたまってゆく。聴衆たちは体を揺らし、酒を
ターキーのボトルが一つ空く頃にはギグも大詰めで、あとはシオンの演奏を残すのみとなった。カウンターのレジスターからはネーヴル紙幣がはみ出ていて、これ以上は詰め込めそうにない。
紙幣のいくつかは、多忙な店主ジュリアスに向けて奢られた分だ。働きながらタダ酒が飲める、おまけに店も儲かるとあっては、今日の店番を担当しなかったオーガストも、さぞや地団太を踏むであろう。
「どうしよう!」
ぱたぱたと軽い足音を立てて、暗幕の裏からシオンが駆けてきた。落ち着かない様子で視線を右へ左へ、爪先もこつこつと床を打ち……高鳴る心臓の音が、シュティードの耳にまで届きそうである。
「どうしよう、どうしよう! ねえ、どうしよう! もう次だよ……。うまくできるかな。ピックを落としたらどうしよう。弦がいっぺんに全部切れちゃったら……」
「そんなことがほいほいあってたまるか」
シュティードは素っ気無く答える。
「もう逃げられないぞ。男なら
「簡単に言わないでよ!」
「なら首でもくくるか?」
「なぁー! ほんっとおじさんと話してると調子狂う!」
しゅしゅしゅ、とシオンが右フックを繰り出す。シュティードは上体だけでそれを避ける。本番前の肩ならしだ。こうしておけば体も少しは柔らかくなるだろう。
右ストレートを受け止めて、「なにが怖い?」とシュティードは問うた。
「ミスすることか? それとも機材のトラブル?」
「……違うよ」シオンが細い腕を下ろす。「演奏すること自体が……」
シオンは柔らかな
「怖いんだ。足ががくがくして、手も震えて……喉もうまく動かないし……。魂だけが、お空の彼方に飛んでっちゃったみたいで……」
鋼に毛が生えたような心臓を持つシュティードは、生まれてこのかた緊張という奴をまともに味わったことがない。遠い昔に置いてきた小さな感覚だ。だから、シオンの話を聞きながら、そいつをゆっくりと呼び起こしてみる。
「すぐに慣れる」
その結果がこの一言だ。アドバイザーやカウンセラーには向いていない。
「酒と一緒だ。一度飲んだら、後は酔っ払うだけ……そこからは流れに任せればいい」
呆れ返るシド。今に始まったことではないけれど、シオンもつんと口を尖らせる。
「もっとまともなのないの……? なにか、アドバイスとか、緊張しない方法とか……」
「強いて言うなら……」
アルコールでグズついてきた脳味噌を、シュティードは精一杯ひねった。シオンが相手だからそうしてやれた。
「……集中することだ」
「それは当たり前じゃん」
「その当たり前が一番難しいんだよ」
これにはシドも納得したのか、うんうんとケースごと頷いた。
「ギグが始まる前にはそういう空気がある。こればっかりは、自分でそこに立たなきゃわからない」
「空気……」
「それに没入する。演奏に関わる音以外はシャットアウトするんだ。酔っ払いが叫んでようが、カウンターでグラスが割れようがな」
「つまり」と、シオン。「めちゃくちゃ集中すればいいの?」
「さぁ。俺がそうしてるだけだ。上がり症なら下手に気にしない方がいい。しくじってもいいんだ。一度雰囲気に飲まれたら、出てくる音まで臆病になる」
だから、とシュティード。
「ミスを恐れるな。死ぬ気でやるのさ。ロックンロールに死んでやる、ぐらいの勢いで。最初の内は、そういう勢いに乗っかった方がやりやすい。戦場のピアニストじゃないんだぜ。たかだか一音外したところで誰が死ぬわけでもない」
「……慣れたらコントロール出来るの? その、勢いってやつを……」
「いいや。駄目な時は駄目さ。時の流れと同じだ。だが、たとえコンディションが最悪だろうと、演奏からは逃げられない。どうせ逃げられないなら、思いっきりやればいい」
ふ、とシオンは前髪を吹き上げた。シュティードがよくやる仕草だ。
「結局、人それぞれってことか……。おじさん、いっつもそれだよね」
「言ったろ。百人いれば百通りの演奏がある。ステージに臨む時の心構えもそうだ。だから、お前はお前のやり方でやれ。それが誰かの真似でもいい。だんだん分かってくる」
よそはよそ、うちはうち──聞く耳持たずの英才教育だ。シオンもそれを理解しているものだから、彼の言葉は話半分に聞いておく。それでも律儀に守ってしまうのが、シオンという少年だが。
「おじさんも、誰かの真似から始めたの?」
「そうだ。何もかも真似事から始めた。俺の脳味噌なんてほとんどが人の受け売りみたいなモンだし……今でもそこを抜け出せてる気はしない」
だが、とシオンを指すシュティード。
「お前はきっと誰かになれる」
「……なるもなにも」シオンは小首を傾げた。「僕は僕だよ」
「だろうな。だから言ったのさ」
だからの意味もわからぬまま、シオンは曖昧に頷く。
「じゃあ僕は、おじさんの真似から始めることにするよ」
「別に真似しろってわけじゃあ……」
「ううん。いいんだ。今の僕には、それが合ってると思うから」
指先の震えは止まらない。けれど、きっと止めてはいけないものだと少年は思う。少なくとも今は。飛び込んだ者にしか味わえない、生きてる証というやつなのだ。
ぎゅっと拳を握って、シオンは顔を上げた。
「ありがとう、おじさん、シド」
「てめえ、何を勝手に終わった気分になってやがるんだ。そういうのは後にしろ」
「真面目に言ってるんだよ、僕は」
喧騒が二人の意識を取り巻き、真ん中に大きな穴を空けたまま通り過ぎてゆく。そこに、シオンの言葉がすっぽりとはまった。
「わかってるよ、おじさん。時々厳しいことも言うし、口は汚いし、頭は悪いし、酒浸りのろくでなしだし、滅茶苦茶なことやったりするけど……それって、僕が真面目にギターをやるようにそうしてるんだよね。反面教師ってヤツでしょ」
【……んん?】一つ眼を吊り上げるシド。【そう……そうなのか……?】
「いや……」シュティードが頭を押さえる。「そういうつもりは……」
「またまたぁ。誤魔化さなくてもいいよ。僕はわかってるから」
「あのな、お前……」
「わかってるよ。安心して、おじさん!」
少年はしたり顔だった。あんまり満足げに笑うものだから、シュティードは是正するのも馬鹿らしくなって、酒で言葉を流し込む。
おじさんは、とシオンは続けた。
「僕にギターを教えてくれた。おじさんと出会わなかったら、きっとコントラバスもやめちゃって、今ごろ僕にはなんにもなくなってたと思うから」
「……はん」
なんだか奥歯がぎくしゃくしてきて、シュティードは氷を噛み砕いた。
なんにもなくなってたのはこっちの方だ。出会わなかったら、今頃は……。
「だから、ありがとう」
「なってねえぜ、マニッシュ・ボーイ」
誤魔化すようにはにかんで、シュティードは左手を差し出した。
「握手は左からだ。かましてこい」
じろりん、じろりん、じろじろりん。ちょうどシオンがステージに上る頃、その一報はジュリアス・バッド・アスの喧騒の中に小さく響いた。
それはきっと、風の便りみたいなものだったんだろう。
「電話鳴ってっぞ」カウンターへ投げかけるシュティード。「奥さんかも」
「十四年も前に離婚した!」酒を注ぎながらジュリアスが叫ぶ。「代わりに出ろ!」
「美女からかも」
「そん時はすぐ俺に代われ!」
「
「それも代われ!」
「奥さんだったら?」
「くたばれと伝えろ!」
「わかった」と、電話に手を伸ばすシュティード。「ヨリを戻そうって伝えとく」
「やめろバカ! わかった、わかったよ、出ればいいんだろ!」
ヤケ気味に板氷を砕いて、難儀なジュリアスが受話器を取る。
「酒は楽しく、それがモットー。ジュリアス・バッド・アスにお電話……」
ぐにゃ、とジュリアスの眉が歪んだ。
「オーガスト? なんだ? 今日はオフだろ。安心しろ、酒は飛ぶように売れてるぜ。ほんとに羽が生えてるみてえだ。価格こそアレだが、数は……」
オーガストの名が出た瞬間、シュティードの右眉が吊りあがる。やっぱり混ぜてくれという話だろうか。奴に限ってそれはないか。あれでも気にかけていたのだろうか?
「……無茶言うなよ、今更。お前だって同意しただろ。往生際が悪い。ざっと一二〇人は入っちまってる。今からなんて……おい、声がちいせえよ。もっとはっきり……」
積み上げられていく空のグラス。そうこうする間にシオンがサウンド・チェックを追え、大きく息を吸って目をつぶり、精神を集中させる態勢に入った。
客席の騒がしさもピークである。なにせ最後の演目だから、ここまで酒と共に聴いたとあっては、自然とおかわりの要求も増えるというものだ。
回ってくるグラス、終わらぬ電話。受話器にじっと耳を押しつけたジュリアスは、なんだか焦っているような、苛立っているような表情だ。
「オーガストか?」
見かねて問いかけるシュティード。押しつけ気味に受話器が渡される。
「そうだよ。やっぱり客を叩き出せって」
「あの野郎」
「どうにもナイーヴらしいぜ。声が小さくて聴き取れねえ」
「奥さんじゃなくて良かったな」
「てめぇ、次からツケは利かねえと思えよ!」
じきシオンのステージだ。もう一分もない。泣き言をさっさと終わらせるべく受話器に耳を押し当て、シュティードはいつもの軽口を叩いた。
「ジャズに誓ったんじゃないのか、オーガスト。往生際が悪いぜ」
二秒。
「オーガスト?」
五秒。
いつもの返事がない。
いや、何事かを呟いてはいるが、やけに声が細い。こいつは一体どうしたことだ。これでは死にかけの蝿ではないか。
「おい。オーガスト。用がないなら切るぞ。トリが始まる」
『出ろ……』掠れた声がした。『出ろ、歌うたい……』
「出たら見に来るのか? よく聞けオーガスト。俺はこのギグには……」
『そうじゃない……店から出ろ……!』
「なに?」
切羽詰まった様子だ。いつもの余裕がどこにもない。
まさか。
まさかこいつは、悪い報せか?
『罠だ』
さ、とシュティードの頭の中が無音室になった。
罠。罠だと。罠ってなんだ。縄と間違えたのか。首でも吊るつもりか。
こいつは、ああ、こいつは、まさか。嘘だろ。そんな。そんなことって。
『ジャズはな……笑って、見送るんだ……本当なんだぜ……』
乱回転する名もなきゼンマイ。シュティードの脳味噌をシネマがめぐる。
罠。誰だ。メイか。何の為に。麦畑の件か。町を狙ったか。なら何故市街や他の町から人を集めた。わざわざロックンロールなんかを餌に。
待て。ロックンロールだと。そいつを餌に使う理由があったのか。老人ばかりの町で若者をかき集めて何になる。そんなことをすれば未来もへったくれもない。この町だって、ロックンロールだって。
未来を潰すのか。ロックンロールが狙いか。それとも酒か。粒子管か。シドか。俺か。それら全部か。だとしたらなんだ。だとしたら誰だ。可能性の欠片も残さずロックンロールを消し去り、酒の流通すら意のままにするつもりか。だとしたら誰だ。得するのは誰だ。一番得するのは、
──────
「エルダー・ジュリー!」あらん限りの声で叫ぶシュティード。「客をたたき出せ!」
「はぁん? 馬鹿言うな、もう始まるぜ!」
落ちる照明と受話器。フロアを包む静寂。固唾を呑む聴衆を掻き分け、シュティードは一目散にステージへと泳いだ。
「どけ! そこをどけ! 邪魔だ!」
【……シュティード?】
おいバカ、なんだこいつは、うるせえよ、台無しだ──そんな野次が上がる。始まりを目前に静まり返った酒場の中、シュティードの足音だけが乱暴に響いた。
【おい、シュティード。どうした。飲みすぎか?】
カウンターに取り残されたシド。シュティードはなおもステージへと向かう。シオンはまるで気付いちゃいない。いい集中力だ。畜生、どうしてこんな時にまで。
駄目だ。間に合わない。どう来る? 奴らはどう出る? 銃器で蜂の巣にするか。それともアンドロイドに任せるか。
いや、どれも手間だ。自分がZACTだったなら、建物ごと吹き飛ばすに違いない。それこそ星の彼方まで。蜂の巣にするにしてもその後だ。
観客に服を引っ張られながら、シュティードは辺りに目を凝らす。どこだ。どこかにあるはずだ。丸ごと吹き飛ばすなら粒子爆弾か。火薬の線も……いや! 奴らなら粒子爆弾だ。そうに決まっている。自分もそうしてきたんだから。
照明。違う。客席。ない。カウンター。そこにもない。天井。これもはずれ。どこだ。隠すならどこだ。隠すなら。誰も触らない場所で、誰にも見つからず……。
誰にも? 違う! 内部に誰かがいるハズだ! でなきゃここまで誰も気付かないなんて話があるものか。
出演者の中の誰か。ということは機材の中だ! 全てのサウンド・チェックが終わった後で仕掛けられて、本番中には誰も熱心に確認しないような部分!
「どこだ……! どこだ! どこだッッ」
アンプではない。弦の奏者が変わるたびに触れる。リスキーだ。コンソールも必ず触れる。マイクなど論外も論外。ならスピーカー。もしくはやはり照明の裏──
「──あ」
中央に鎮座するバス・ドラムの中、詰められた布の影、その上部。ソケットほどの大きさのなにか。見える。シュティードには見える。酔っ払いの老眼どもには見えていない。
細く、青く点滅する──粒子爆弾特有のイザクトリ偏光。側面に音感センサー。車両に積載されるものを小型化したもので、特定の周波数の音が
ああ、畜生。シオンの時だけリハがやけに長かったのは、ギターの波形を
「離れろシオン!」
静寂に怒号。少年は答えない。瞳を閉じて顔を伏せている。呼びかけても無駄だ。彼の意識はギグの先にある。とびきりイカしたパフォーマンスをやってのけるに違いない。
このギグに、先があったなら。
「そこを降りろ! ステージを降りろッッッ!」
輝きは青から赤へ。シオンが目を見開き、息を吸い込み、勢いよく手元のボリューム・ノブを回す。一拍目の表にシンバルとバスドラムが──よせ、よせ! よせ!
「シ────」
炸裂のオープンE。閃光は瞬く間にステージを飲んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます