Track07.Gears Goes On



 キルレシオ・ドライヴの余熱も冷めてみればあっけないものだ。後に残ったのは半壊したトレーラー、それと沈黙。今ならなんと目覚ましいことに酒浸りの中年がついてくる。深夜の廃品電話ショッピングでも買う奴はいない。

 ホイールだけになったタイヤが不愉快な振動を生む。かれこれ十五分は経った。そろそろ不安定なリズムにも慣れてきた頃で、ナオンはセッションの一つでもかましてやろうかと計略してみたりする。

 風通しが良い。そりゃそうだ。なにせ〝持ち家〟はどてっ腹に風穴を開けられたのだ。天井の穴一つで騒いでいたのが馬鹿らしく思えてくる。流石のナオンでもここまで壊れてしまってはお手上げだった。

「……あのさー、そのテンションなんとかなんないの」

 ナオンは助手席のシュティードに向けて言う。彼奴は相変わらず外を見たままだ。足もダッシュボードに乗せられている。

「極端だよ。さっきはあんなにはしゃいでたじゃん。見たかクソガキーって」

「明日の朝まではしゃいでろって? フラワーロックみてえに踊ってりゃ満足か?」

「別にそんなこと言ってないじゃん……」

 見ろ、見事な仏頂面だ。落差が激しいにも程がある。一瞬でも高揚した自分が馬鹿だった。ナオンは煙たそうな顔をしてまた進行方向に目を戻す。

 浮き足立った自分を蹴り飛ばしたいのはシュティードも同じだった。それこそ〝フリップブラック〟があったなら、時を逆巻いて十五分前の自分の腸を引きずり出してやるところだろう。

 認められるものか。認めてなるものか。認められようはずがない。

 たかだか十二のクソガキに、一瞬でも導火線をこねくり回されたなどとは。

「……はん」シュティードは小さく呟く。「どうかしてるぜ」

「なにが?」

「なんでもねえ」

 八億なりのプライドか? それとも二十七歳なりの? 掃き溜め育ちの先輩として、知った風な口を利いた後輩が気に入らなかった?

 どちらでもあるまい。語るに落ちるというものだ。単にナメられたのがムカつくのだ。それ以上でも以下でもない。そうだ。そうだ。そうなのだ。シュティードはそう言い聞かせた。亡霊を払拭するように心中で繰り返したし、実際にそれは亡霊だった。

 この憎たらしげなクソガキを見ていると、どうにも喉元が震えるのだ。ひどく惨めな気持ちになって、溶鉱炉の中へ身を投げ出したくなってくる。濁りを知らない凄絶な輝きを秘めた瞳の奥で、遠い昔の自分が呼んでいるような気がするのだ。

 お前はいつ立ち上がるのだ、と。

「止めろ」「えっ」「ここで止めろ」「でも」「いいから止めろ」

 不満げなままナオンはブレーキを踏む。辺り一面クリーム色の砂漠だ。ところどころにイザクト事変当時のものと思しき鋼鉄が顔を覗かせているが、家屋は見受けられなかった。砂の下に隠れ家を作る者は珍しくないが、入り口らしい入り口もない。

「……レストレンジアまで行けって言ったじゃん」

「後は歩く」

 言うだけ言ってシュティードはさっさと砂上に降り立ち、革靴の踵を深く沈めながら歩いてゆく。もちろんナオンに背を向けて。

 はて、どこへ行こうというのか。そっちは歯車の凸の先端にあたる部分……つまり行き止まりだ。先にはなにもない。ただ島を囲む海が広がっているだけだ。ナオンは訝しむ。

「……どこ行くの?」

「行けるとこまでだ。歩けば大体どこかには着く」

「そっち、海だよ」

「…………」踵を返すシュティード。「今のはリハーサルだ」

 そう言ってシュティードは本番を始めた。行くあてもないらしい。それともほとぼりが冷めるのを待つつもりだろうか。昼夜問わずレンジの中みたいに暑いこの砂漠で? 周りに人っ子一人いない孤独の最たる場所で? 根無し草なのはナオンも同じなので人のことは言えないが、それにしたってつっけんどんが過ぎるというものだ。

 にゃあご。また名もなきスクラップの野良猫が寄ってくる。ナオンはその鋼鉄のボディを拾い上げた。

 シュティードはまた一人で歩き出す。なんだか寂しい男だとナオンは思った。孤高と言えば聞こえは良いが、裏を返せば一人ぼっちなだけだ。美学なしに孤高は成り立たない。それはただの孤独だ。 

 思い返せばずっとそうではないか。どうしてもこうも居心地が悪いのか、ナオンはようやく理解した。単に横暴で傲慢でガサツでクズだからというわけではない。

 こいつはずっと一人なのだ。他人といようが関係ない。それこそシャッターで囲まれてるみたいに、完成された世界の中でじっと壁を眺めている。会話のキャッチボールが成り立たないのはそのせいだ。お互いが壁ごしにボールをぶつけて、結局返ってくるのは自分の言葉だけ。

 この男は────他人を見ようとしていない。必要としていないのだ。産まれながらにして自分は完成されているとでも言うように。

「……あのさぁ、悲しくならないの?」

「はぁ?」シュティードは振り向く。とびきり不機嫌そうな顔で。「なにがだ」

「ずっと一人じゃん」

「誰でもそうだ」

「そんなことない」ナオンは返す。「今は二人だ」

「だから?」

「僕の言うことちゃんと聞いてよ」

「聞いてるだろーが」

「聞いてないよ」

 乾いた空気を伝わる舌打ち。鼻持ちならない様子でシュティードが歩を詰めた。

「なんなんだ。さっきからごちゃごちゃ何が言いてえんだ? 俺に惚れたか?」

「は? きっしょ……」

「てめえクソガキそろそろキレるぞ」

「それだよ、それ! ほんっとムカつく!」

 負けじとナオンもシュティードに詰め寄る。

「あんた、喧嘩する時しか僕の言うこと聞いてない!」

「何言ってんだお前? 全ッ然わっかんねえんだよ言ってる意味が!」

「この世に自分一人しかいないってツラして話すのやめてよ! 不快!」

「顔は生まれつきだ! でもって誰だって生まれつき一人だ! 揺り篭から墓場まで一生ずっと一人なんだよ! 甘ちゃんのクソガキにゃ分かんねえだろうけどな!」

 足元のサボテンを蹴っ飛ばすナオン。お冠のようだ。それこそお互い様だが。

「はぁーそれ! それもムカつく! 分かってんのは俺だけだーみたいな言い方! 子供だと思って馬鹿にしてんでしょ!」

「関係ねぇな、関係ねえ! てめえが大人になっても馬鹿にするだろうよ!」

「あんた僕のこと人間扱いしてる? 喋る機械かなんかだと思ってない? そういうのほんとムカつくんだけど! 僕は人間なんだよ、ここにいるんだよ、目の前にいるんだよ! ちゃんと目ぇ見て話してよ!」

 ナオンはまた歩を詰めてぴんと爪先立った。それでも緩んだネクタイの結び目ほどの高さだ。だが負けじと喰らいつく。大人びた見下しを埋めるべく、精一杯その若さを水増しした。少年なりの意地だった。

「あんたずっとそうだよ。全然僕の目を見てない」

「何度も見てるだろが!」

「見てない! なあなあで誤魔化すみたいに額ばっかり見てる! 分かるんだよ! 全然あんたの言葉が伝わんない! ジョークマニュアルと話してるみたいでイライラする!」

 挙句の果てにはジョークマニュアルときた。いい例えだ。シュティードはまた少年の嫌いな皮肉屋然とした面構えで笑う。なるほど名にジェイを持つ者としては、願ったり叶ったりというところだろうが。

 興奮に駆られたナオンは一度口を閉じ、ゆっくりと息を吸って大きく吐き出す。そののち目にかかった前髪を分け、空色の瞳でシュティードを見上げた。

「ねぇ、トレーラーの件はもう水に流すからさ。過ぎたことはどうしようもないもん。だから仲良くしようよ。あんたはどうしてDブロックに」

「くたばれ」取り付くしまもなかった。「俺はころころ態度を変える奴が嫌いだ」

 でもって、とシュティードは念を押す。

「馴れ合いはごめんだ。言ったろ、仲間がいる。仕事仲間だ。充分すぎるほど馴れ合っちまってんだよ。八億の上におつりが来るぐらいだ。これ以上はゴメンだね」

「……なに? なんなの? 僕が何したの? 何がそんなに気に入らないの?」

「全部だ。全部気に入らねえ。ロックンロールとクソガキと野良猫が一等嫌いだと言ったハズだぜ。野良猫抱えたロックンローラー志望のクソガキなんざ最悪だ。つまりてめえは最悪だ」

「ねえ待って、握手しようよ。ほら。知ってる? ジミヘンが言ってたでしょ、左の方が心臓に近いから……」

 差し出された左手をシュティードが跳ね除けた。それも一際強く。

「なにが心臓だ……! 近かったらなんだ? 鼓動が伝わる? 魂が見えるか? どいつもこいつもくだらねえ! 死んだ人間の言うことにいちいち振り回されやがって!」

 いよいよナオンは混乱する。握手をしようと言ってみただけだ。まさか人見知りというわけでもあるまい。野良猫だって挨拶ぐらいは返す。

 なんなのだろう。なにがこの男をここまで鋭く尖らせてしまったのだろうか。

 それとも──単に難儀な生まれつきなのか。

「くだらねえんだよ」シュティードは吐き捨てた。「なにもかも……」

 孤独にまつわる美学だろうか。今のナオンには分からない。時間が解決してくれるという話でもなさそうだ。それに、美学にしてはどうにも歪んで見える。

 うまく形容できない。ただ寂寞せきばくとしているのだ。

 砂一面の景色が殺風景なのは、この男の所為ではないかと思うほど。

「……ちょっと待ってよ」

「しつけえぞクソガキ」

 クソったれが。上等だ。意固地な皮肉屋め。だったらこっちにも考えがある。ナオンは攻め口を変えるべく真っ直ぐにシュティードを見た。

「あんた、請負人うけおいにんなんでしょ」

「だったらなんだ」

「母さんを探して」

 また厄介ごとだ。シュティードは辟易する。そろそろ右手がバントライン・スペシャルに手をかけそうだった。こらしょうがないたちなのだ。

「ふざけろ馬鹿野郎。俺は客、お前は運転手。それ以上でも以下でもねえ。もう俺達の関係は終わりだ。こんな砂漠でぬるま湯に浸かって何が楽しいんだ、え?」

「トレーラーの分の貸しは返してもらってないよ」

「貸しだと? お前の命を助けたのは俺だぞ。こっちが金もらいたいぐらいだね」

「でも棺桶がなきゃあんたは死んでた。そうでしょ」

 シュティードは言葉に詰まる。こればかりは正論だ。棺桶がなければというよりも、そもそもこの少年に叱咤されなければシュティードは命すら投げ出していたに違いない。拾ったつもりが拾われたというわけだ。なんとも皮肉なことながら。

「その分は昼飯でチャラだ」

「あんたがお金を払ったわけじゃない」

「だが俺のお陰で逃げ果せた」

「だったら天井だ」ナオンは言ってやった。「トレーラーの天井の貸しがある」

 こちらもまた意固地だ。諦めが悪い。どこまでも食い下がる、掃き溜めの精神を体現したような小生意気なクソガキ。シュティードはようやく根負けして続けた。

「一〇〇万ネーヴル。ないしはバーボンを四三二〇ミリリットル。またはタール含有量が一六ミリグラム以上の煙草六カートン。あるいはそれらの組み合わせ」

「え……」ナオンが面食らった。「お、お酒……?」

「前金だ。成功報酬は金、現物ともにその倍もらう」

「ひゃ、一〇〇万なんて……」

「それとは別に指名料をもらう。バーボンを三六〇ミリリットル、同じくタール含有量が一六ミリグラム以上の煙草を一カートンだ」

 きょとんとした様子でナオンは答えた。

「ぼく未成年だし」

「市街じゃないから合法なんだろ? ともかく前金を持って来い。話はそれからだ」

 随分と簡単に言ったものだ。場末の技術屋に揃えられる金額ではない。大体なんだ、指名料だと。娼館一の売れっ子でも気取ったつもりか。パネルマジックを過信するのも大概にしろ。ナオンは苦い顔をして舌を噛む。

「……今は無理だよ。でも必ず払う」

「必ずなんて言葉を軽々しく使うな。特に掃き溜めではな」

 シュティードはナオンを見た。なあなあで誤魔化すように額の奥の脳味噌を眺めるのではなく、今度はちゃんと彼の瞳を真っ直ぐに見た。

「いいかクソガキ。母親を探せと言ったな。言いたかねえがそいつは望み薄な話だ。砂場でダイヤの粒を探すようなモンだぜ。てめえの母親が生きてる確率は、この世のどんな小さな数よりも限りなく〇に近い」

「そんなの……!」

「聞け。まあ聞け、こいつは俺なりの親切だ。なにも当てつけで言ってんじゃねえ。冷静に考えてみろ。ここは掃き溜めだぞ。俺以上のクズとろくでなしがごった返して渋滞を起こしてる。今日みたいなのは日常茶飯事だ」

「……」

「母親はどんな奴だ? 喧嘩はよくするか? 銃を撃ったことは? 駄々をこねてるクソガキを引っぱたいて黙らせる? 金属バットで脳天めがけてフルスイングかませるか?」

 ナオンは黙する。言い返せなかった。そうとも、分かりきっていることなのだ。彼自身の中でも答えは出ている。出ているのだけれど。

「違うよな。お前の母親は多分お人よしだ。困ったことがあったら母さんに言いなさい、母さんはいつでも傍にいるから……そういうタイプだ。そうだろ」

「あんたが母さんの何を知ってるんだよ……!」

「なんで俺がてめえの母親を知らなきゃなんねえんだ? ふざけんなよ」

 にゃあ。野良猫が口を挟む。

「優しいと言やあ聞こえはいい。そうあるべきだ。そうあるべきだったんだろう。ここが掃き溜めになるまではな。少なくともお前の母親はそう信じてたに違いねえ。だからお前をこんなお人よしに育てたんだ。自分勝手な八億の賞金首をほいほいトレーラーに乗せちまうような、そんな馬鹿みてえなクソガキにな」

 鋭い耳障りの言葉をあえてシュティードは吐き捨てる。損な役回りなのはいつものことだ。今更ヒールに抵抗があるわけでもないし、そっちの方が性に合っている。まあ、お人好しなのもお互い様というところだが。

 馴れ合いなどごめんだ。魂はそうやって腐っていく。そうとも。こうした方がいい。予感がしているのだ。

 きっとこの出会いはお互いの為にならない。どちらかと言えば自分の為に。

「そいつは掃き溜めじゃ通用しねえ。授業料だ。いい勉強になったろ。生憎、俺はお前とは違う。見ず知らずの他人が抱えてる厄介ごとに首突っ込んだりはしねえんだ」

「……」

「金がねえなら後は知らねえ。探すなら勝手に探せ。あばよ」

 言いたい放題だ。シュティードはそれきり背を向け歩き出し、振り向こうともしない。

「……なにさ……」

 ナオンは空を見た。俯いたら泣いてしまいそうだった。涙腺からじわじわと涙が染み出してくる。脱脂綿みたいな乾いた瞳に、塩気交じりの水が浮かんだ。乱暴な言葉使いが気に障ったわけではない。そんなものはそれこそ日常茶飯事だ。慣れている。

 母の影が出てくるとどうしても駄目なのだ。蓑虫みたいにまとった虚勢がぼろぼろと剥がれ落ちて、後に残るのは丸裸の自分だけ。涙もろくて、子供っぽくて、女の子みたいな自分だけだ。

 ナオン。泣いちゃ駄目よ。男の子は泣いたりしないのよ──ああ、母さんの声だ。またこれか。今更になって蘇ってくる。ますますナオンは泣きそうになる。グレースケールのフィルムの奥、彼女はそうやって笑っていたのだった。

 シュティードの言葉は正しかった。糾弾にしろ、忠告にしろ、それとも心優しきアドバイスにしろ、徹頭徹尾一言一句違うことなくその通りだったのだ。ナオンの母親はお人よしだったし、事実彼はそう育てられた。困ったことがあったら母さんに言いなさい、母さんはいつでも傍にいるからと、正しくナオンの母親はシュティードが類推した通りの言葉を彼に投げかけた。

 きっと彼女は知っていたのだろう。ナオンの弱さも、自分の弱さも。だからこそ優しくあれと告げたに違いない。強者が蔓延るこの掃き溜めで、いや、ここが掃き溜めであるからこそ、そいつが一等眩しく輝くことを知っていたのだ。

 自分にとってのゆずれないものを、自分が命をかけて産んだ命に託したのだ。

 ふざけるなとナオンは思った。実際に口走りそうだった。

 腹立たしい話だ。どこのどいつにそれを──唾棄すべき愚かさを交えた美しさを、糾弾する権利があるというのか。

「……むっかつく」ナオンは顔を上げた。「なにさ、その態度っ!」

 少年は吼えた。犬歯を剥き出しにして、泣くものかと言わんばかりに吼えた。虚勢かどうかは問題ではない。今、少年はこうしなければどうにかなってしまいそうだった。

「なんでもかんでも知った風な口利いて! 上から目線で説教垂れて! 人の話は聞かないし自分勝手だし! それが大人のやることなの! 大人げないよ!」

「当然だ。大人にしかできねえ」

「そんなの屁理屈だ! 僕、言ったよね! 他人の夢を踏みにじるような奴はクズだって、大嫌いだって! あんた最悪だよ! 最悪! 最っ悪だ!」

「願ったり叶ったりだな。そもそもお前の夢を否定したつもりはないぜ」

「嘘ばっかり!」

「嘘じゃない。本当だ。俺はジョークは言うが嘘は言わねえ」

 シュティードは言い切る。芯のある声だった。

「過酷な道だと言ったんだ。進むも戻るもお前次第だぜ。自分で選んで、自分で決めろ」

「……」

「周りの言うことは関係ねえ。関係ねえのさ、いつだって」

 一人ぼっちのシュティードは続けた。

「どんな理由があれ投げ出すぐらいなら、所詮その程度だったってだけだ」

 それだけ言ってまたシュティードは歩き出す。ナオンの中に苛立ちが渦を巻き、そして言葉の濁流となって喉元から飛び出てきた。

 最低だ。最低の、長い長い一日だ。

「クズ! このドクズ! 死ね! ろくでなし! こんこんちき! バーボンお化け! かっこつけてんじゃねーよ! お礼ぐらい言ったらどうなのさ!」

「ファッキンセンキューアディオスクソガキ。お人よしの母親にどうぞよろしく」

「んだぁあああー! ファッックオーフッッッ!」

 び、とナオンは中指を立てた。それはもう天をく勢いで。




  ◆




 シュティードは歩く。ただ歩く。一人砂漠の砂を踏む。

 にゃあご。名も知らぬスクラップの野良猫がとたとたと後をついてきた。寂しげな鋼鉄の香りを嗅ぎ取ったのだろう。同胞と馴れ合うようにして彼の足に追いすがり、野良猫はがりがりとその爪を立てた。

「このクソ猫が!」

 苛立ち気味に野良猫を蹴っ飛ばすシュティード。革靴の先が野良猫の胴体をがんと鳴らし、その生気のないボディをマキネシアの空へと突き上げる。

 にゃあご。また猫は鳴いた。なにさ、その態度──そんな声が聞こえるようだった。軽快な金属音を立てて砂に降り立ち、野良猫はとぼとぼと踵を返す。時折振り返り、ふしゃ、とシュティードに牙を剥きながら。

「……」

 気に入らない。この世の全てが気に入らない。シュティードはまた歩き出す。極力無心に努めようとはしたが、ただでさえ八億の脳味噌には酒と煙草以外に何も詰め込んでいないものだから、胸元からムカつきが流れ込んできてしょうがない。

 死人の言うことに振り回される人間などごまんといる。芸術にしても格言にしてもそうだ。大体は死んでから名が知れる。馬鹿げたものだとシュティードは思った。軽薄な尊敬と共に添えられた花束に何の価値があるというのか。墓は喋ったりしないのに。

 クレイジー・ジョーがそのいい例だ。死んでも奴に影響される人間が後を断たない。むしろ、熱狂的な奴らは死後の方がより色濃く影響されている。それは例えばクソ生意気な少年のような奴だ。

 七転び八起き。反抗心。それがクレイジー・ジョーの生き様の一つであり、彼のカリスマ性に惹かれた聴衆が求めたものだ。

 そして、シュティードが惹かれたものでもある。

「……くだらねえ」

 シュティードはまた吐き捨てる。馬鹿を二乗してまだあまりあるほど馬鹿な話だ。蓋を開けてみればなんてことはない。食いはぐれた一匹の野良猫が、たまたま祭り上げられただけだ。つまるところ奴は神格化され、その神格化によって殺され、そして殺されることによってますます神格化されたのだ。

 シュティードは死人の言うことをいちいち真に受ける人間が嫌いだ。特に音楽に関しては。ロックンロールなどその最たるものだ。それぞれ魂の形が違う奴らが、自分の培ってきた経験則に基づいて吐いただけの言葉なのに、憧れを抱いた奴らは〝自分もそうあるべきだしそれは正しいのだ〟と軽はずみにわだちを辿りたがる。

 クレイジー・ジョーの熱にあてられたものは大体そうだ。ロックの意味もロールの在り方もわからぬ内から──もっともそれは一生かけても分かるか怪しい代物だが──自らもそうありたがる。そうあろうとしてしまう。そうでなければ駄目なのだと囚われる。

 奴らが目指しているのはロックンローラーじゃない。クレイジー・ジョーなのだ。それがなによりシュティードを苛立たせる。結局誰も彼も死人の影を追うだけで、自分こそは唯一の自分であろうという気概がどこにも感じられないのだ。

 ふざけた夢物語だ。どいつもこいつも死人に憧れている。労働者達のストライキ──ネオ・ラッダイト運動を煽動するだけ煽動して、ロックンローラー崩れのクソガキを蔓延らせ、あろうことかロック狩りの銃口を自分のこめかみに押し当てて引き金を引いた奴に。

 顔も知らないカリスマの骨に、骨の髄まで夢中なのだ。

 なにがロックンロールだ? 憧れどまりの情熱などただ上辺をなぞるだけだ。お前が奴の何を知っている? ふざけるななんで俺が知らなきゃならねえんだと、自分ならそう答えるに違いないだろうが──それにしたって影を追うなら知ろうとすべきだ。なのに誰も奴を知ろうとしない。

 少なくとも自分は、そうしてきたのに。

 奴らがイザクト事変の何を知っている? クレイジー・ジョーの何を知っている? ギターを持っているというただそれだけの理由で何人の子供が死んだ? 後期のクレイジー・ジョーは何故聴衆に見限られた? 何が奴をそこまで迷わせた?

 誰も知ろうとはしない。知る術もないのだ。なにせ、ロックはとうに死んだのだから。

 奴らは豚だ。ただの畜生だ。

 あの頃に戻れたら、なんていつまでも夢の残り香に浸っている──蒙昧もうまいなる豚ども。

 少年ナオンがそうだとは言えない。言い切れるほど知ってはいない。知る義務もない。されど奴も大まかに分ければその一人だ。死人の影をいつまでも追う、半音下げのギターの音に耳を犯された烏合の衆の一人。夢見る子供だ。夢中にいるのだ。

 脳裏によぎる青い瞳。空みたいな瞳。ナオンの目だ。シュティードはそこに自分を見る。どうしても見てしまう。同じくカリスマの影を追い、そうして結局何者にもなれはしなかった蒙昧な豚の姿を。

 だから、どうにも奴が気に入らない。ちかちかと光る砂漠の星が、あたまの中にちらつくのだ。

「……ちっ」

 脳味噌がパンクしそうだ。八億を砂漠に散らせたくはない。気分転換とばかりにアーク・ロイヤルを取り出し、シュティードはコリブリのトリガーを弾く。火はつかなかった。一度、二度、三度、四度……何度やっても火花が散るだけだ。オイルが切れたらしい。それとも石が磨り減ったのか。

 なんだっていい。確かなのは、火種が切れたということだけだ。

「……ん」

 はた、とシュティードは手を止めた。

 えらく身体が軽い。何か大事なものが足りていない。心臓が抜け落ちたみたいだ。

 ロックンロールだクレイジー・ジョーだと散々頭の中で喚き散らしておきながら、シュティードは今更になって自分の忘れ物に気がついた。

 待て。待て待て待て。銃はある。マネークリップもある。肝心の金はないがそれはいつものことだ。宵越よいごしの金は持たない主義であって──じゃなくて!

 ケースだ。シグネイチャー・モデルを収めたケース。

 ハードケースが、どこにもない。

「……んんん?」

 どこだ? どこにやった? そもそもどこかに置いたか? そうだ、レッド・テラスで足元に置いた。だが逃げる時に持ち去ったハズだ。となれば──となれば?

「……ああおいマジかよ、ツキ通しだぜクソったれ」

 八億の脳味噌は今日一番のフル回転を見せた。その甲斐あってか五秒と経たずに急ぎ足で結論へと辿り着く。まったく、どうにも締まらない。

 助手席だ。去り往く少年のトレーラー。積みっぱなしだ、何もかも。

 走りざま、八つ当たりで更に一撃。スクラップの野良猫を蹴っ飛ばし、シュティードはもと来た方へと足を速めた。

「あンのクソガキャァー!」

 暴君らしい怒号だった。置き忘れたのは自分なのに。

 そうとも。いつだって、置き去りにしたのは自分だったのに。




  ◆




 オンボロトレーラーはついに力尽き、ボディ全体から蒸気を吹き上げて亡骸を砂へと収めた。あえなく砂漠の隅でご臨終というわけだ。はらわたには大穴が二つ、外側は黒こげ、メガホンは大破、おまけにタイヤも剥き出し。馬の骨に鞭を打つようなものだ。よく持ちこたえた方だろう。

 相棒が死んでしまった。長らく砂漠を共にしてきたトレーラーも、こうなってしまえばスクラップだ。この掃き溜めを飾るオブジェの一つに過ぎない。このまま砂に埋もれて、申し訳程度に頭を出し、道行く人の記憶にも留まらず時代に忘れ去られてゆくのだ。

 こればかりは仕方がない。機械の末路なのだから。

 ナオンは技術屋だ。腕には自信がある。大体の機械の部品は直せるだろう。だがこいつだけは直せない。壊れ具合の問題ではなく、直せない決定的な理由があるのだ。

 ナオンはギア・レコードと工具の類をズタ袋に詰め、棺桶を──再三言うがとても少年の身体で持てるとは思えない棺桶を背負い──そして最後に助手席に忘れ去られたハードケースを拾い上げ、ぴょんとトレーラーを降りた。

「……今までありがとう。ばいばい」

 さらば相棒。苦楽を共にした鋼鉄の友。ナオンは小さくトレーラーに手を振り、近くに見えた工場跡へと歩を進める。行くあてはない。今日はあそこで寝よう。これぞ根無し草だ。八億の賞金首を笑っていられないではないか。

 そこはがらんどうだった。資材らしい資材はほとんど撤去されていて、ピラミッド上に詰まれたドラム缶、それから蒸気を噴出すパイプの残骸と廃品の山だけがここを工場跡地たらしめている。ほとんどただの鉄の箱だ。

「……」

 ナオンは足元のネジを蹴ってみる。がん、とドラム缶にぶつかって、金属音が空間全体に満遍なく響き渡った。空っぽだ。なんにもないし誰もいない。一人ぼっちだ。

 まあこんなものだろうとナオンは思う。一人には慣れていた。十二歳になりにだが慣れているのだ。毛布に包まって、母親の夢を見て、夜を明かして、そしたらまた朝が来て、騒々しくて忙しない砂色の一日が始まる。旅とはそういうものだ。止まり木はいらない。

 だからと言って、そいつを美学にするなんて真似はごめんだが。

「……あいつ、忘れていってやんの。バーカ」

 言って、ナオンは棺桶を下ろす。その見た目に違うことなく砂が大きく沈んだ。続いて彼はドラム缶の上に座り込み、ハードケースを膝上に乗せた。

 どうやら鍵はかかっていないらしい。かまうものか、見てやれ。どうせ二度と会うことのないロクデナシの物だ。中身ぐらい見てもバチは当たるまい。好奇心には誰だって勝てないのだ。男ならなおのことだ。

「えい」

 ナオンは一思いに鰐革わにがわのケースを開けた。

 黒いボディを有したフライング・Vタイプのエレキギター。フレットは二四まで打ち込まれており、十二フレットには歯車状の模様。高純度のプルガトリウム鉱石と思しき赤い煌きで刻印されている。

「……弦、錆びてるし……」

 通常、ギターは六弦──低音を担う太い巻き弦がピックアップ・セレクター側、つまり上体に近い方に来るよう弦を張るのだが、何故だかこのギターは高音を担う最も細い一弦がセレクター側に張られている。

 なるほど、持ち主は左利きというわけだ。カリスマの利き腕など知らないが、こんなところまでクレイジー・ジョーを如実に再現したのだろうか。とすれば、右手で煙草を吸い、右手でグラスを掴むシュティードの物ではないらしい。

「……すごい」

 ナオンはボディに触れてみる。石のような感触。少なくとも木ではない。骨にも見える。それとも風化したガンドレオン合金だろうか。表面がざらついているが、経年劣化による物なのか、元来そういう素材なのか判別がつかない。あまりに時が経ちすぎている。

 なにより異質なのは、ボディ全体に張り巡らされた、赤ともピンクともつかぬ色の装飾線だ。縦横無尽に、それも歪みとうねりを伴って描かれているそれは、血管を見ているようで気分が悪くなってくる。

 悪魔のギター……ナオンはそんなふざけた言葉を口走りそうになる。

 異形だ。これはまるで──悪魔の心臓。

「……」

 署名品シグネイチャー署名品シグネイチャーだ。クレイジー・ジョーと同じもの。ナオンの中のわだかまりが一気に霧散する。そののち興奮が左手をギターへと走らせた。

 ストラップを引っ提げ、ナオンはギターを構えてみる。折角だから不安定なドラム缶の上に立ってみたりもする。客はいないがスターになった気分だ。悪くない。きっとクレイジー・ジョーもこういう景色を見ていたのだ。

「にへへ」

 半音下げのEメジャー・コードを鳴らし、ナオンはすっと息を吸う。緊張を目一杯吸い込み、胸の真ん中に溜め込んで、それから錆びた弦を掻き鳴らした。なに、弦は逆さまだがそこはお手のものだ。なにせナオンは憧れの甲斐あって、そいつをものにしていたのだから。

 そして少年は廃墟をステージに歌う。クレイジー・ジョーの未公開楽曲……名もないカントリー・ナンバーのサビだ。

 声に荒さはない。小鳥のさえずりか、猫の求愛。十二歳らしい柔らかな声だ。息遣いを多分に含んでいて、耳の表面にしっとりと張り付く。倍音成分が多いのか、やけに艶がかって聞こえる。

 歌うたいとしては良いことだ。特徴的な声だった。ただ、ロックンローラーを目指すうちにこの煌びやかさがざらついていくのが残念であるともとれる。がなり声はどうにも似合いそうにない。少なくとも今は。

「べーいびー、またーよーるーがーあーけるー、そのーまーえーにーぼー、くらー」

 震える空気。宙を伝う波。空が見える。青い、青い空が。

「さーばーくーのーほーしーにーなぁろぉーおー」

 サビも終わりに差し掛かる。いい気分だ。このままどこかへ飛んでいってしまいたい。ナオンは振動の余韻に浸る。

 そこで嵐が訪れた。

【───だぁああああああ】ハスキーな叫び声が轟く。【あああああああああ】

「うわぁああああああああああああああ!」

 ナオンは突然の大声に飛び退き、ドラム缶から転げ落ちてひっくり返る。なんだ。またゴロツキか。身構えるが人影は見当たらない。

 外から聞こえた声じゃない。中だ。それも極めて近い場所から聞こえた。ドラム缶の中か、それとも壁の奥? はたまたジャンクの山の下?

 違う。

 ギターだ。

「えっ……えっ? えっ!?」

【このへったくそがぁー!】

 ギターはそう叫んだ。比喩ではなく、本当にギターがそう叫んだ。男とも女ともつかぬ、歌い方次第でどちらにでも振れそうな、代わりがきかないハスキーな声で。

「……!?」

 ナオンは驚愕する。ボディに据えられた二つのピックアップ──弦の振動を拾うためのものだ。その中腹にあたるスペースに、鋭く尖ったV字の一つ眼が浮かび上がっていた。

 よくよく見れば、ボディに刻まれた赤い線が一定周期でその濃淡を変化させている。脈動しているのだ。明滅と言ったほうが近いだろうか。これではますます心臓だ。薄暗い雰囲気も相まって、どうもナオンの目には不気味に映る。

 びょ、とギターが飛び跳ねて屹立し、唖然とするナオンに追い討ちをかけた。

【コードの押さえが甘い! ピッキングはもっとしっかりやれ! 魂を込めろ! 魂だぞ、魂だ! 腹から心臓を通して声を出せとオレ様に何度言わせれば……】

「……しゃべった……」

【あぁんん?】

「ギターがしゃべった!!」

 やっぱり機械に魂はあるのだ。ナオンのどきどきは止まらない。ギターはシュティードによく似た不愉快そうな目を一層尖らせ、輝きを増すばかりの少年の目を見た。

【待て、待て待て待て。貴様、どこのどいつだ?】

「僕、ナオン。ただのナオンだよ! おはよう!」

【……おはよう】

 何がなんだか、寝ぼけ眼という様子でギターは答えた。

【……あのクズはどこだ?】

「シュティードならいないよ。どっかいっちゃった」

【なんてことだ】

 ギターはふてくされたようにボディの先端で廃材を蹴っ飛ばす。それがまたなんともシュティードにそっくりなのだ。

【最悪だ。捨てられるわクソガキに拾われるわ。塗装は剥げてる、弦は錆びてる、おまけにボディは凹んでるときた。冗談じゃない。なんでオレ様がこんな目に……】

 言われ、ナオンはもう一度ギターを見た。なるほどボディの裏に凹みが窺える。ヘッドも僅かに欠けているし、黄金のペグもくすんでいる。フレットの磨り減りも大変なものだし、ネックには乾き切った手垢がこびりついていた。もう随分と手入れされていないようだ。

 楽器は生きているのだ。魂が宿るのだ。もっと丁寧に扱われなくてはならない。なに、修理ならお手の物だ。ましてやギターとあっては手を抜くわけにもいくまい。

 直せるだろう。このサイズなら。ナオンは揚々としてドラム缶から飛び降りる。

「待ってね、今直してあげるから」

【直す?】

 ナオンは棺桶の中央、歯車状の刻印へと掌を当てて言った。

【なに!?】

『Fingerprint Check. All Clear. "I.Z.A." authrized. Complete.』

 鎖が蛇のようにのたうち回る。そののち暴発。輝きが棺桶をこじ開ける。ぎしぎし、ぎしぎしと重く歪な音を立てて鋼鉄の扉が開いた。

 向こう側に、誘うように。

「チェック────〝棺桶ザ・ボックス〟」

『"The BOX" check,ready.』

 応える女の声。溢れ出る常磐色エヴァーグリーンのイザクト粒子。濃度一二〇パーセントクラスだ。ギターはその一つ目をかっと見開いていた。見覚えがある。遥か彼方の惨事の爪痕。

 かつて開いたあの世の扉──粒子領域そのものだ。

『Conversion:mode "Rewind the time" loading...On your mark.』

 棺桶の光の奥、歯車がごうごうと蠢く。

 何かがいる。巨大な何か。人智を超えた何かがそこにいるのだ。煌々と輝く棺桶を背にナオンは振り返った。

「さぁ、入ってギターさん」

【は、入る……? ちょっと待て貴様。その常磐ときわ色は……】

「大丈夫だよ」棺桶の少年は笑った。「綺麗に直してあげるから」

 軋む鋼鉄。そしてゆるやかに歯車は回りだすギアズ・ゴーズ・オン








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