Rewind the time #1 -ミスター・ノーバディー-




  ◇



 常磐色の光はシケたドーナツを歯車に変えた。角砂糖が水晶のざらめとなって指の隙間を零れ落ちるように、都市の一輪を砂と鋼に噛み砕いたのだ。それはもう随分と前の話だった。

【……なんだ、これは……】

 男の眼前に広がった光景は異様の一言に尽きた。マキネシアに冬は存在しないが、三途の川を渡り損ねた彼に〝核の冬〟を思わせるには充分であった。

 なにせ見渡す限り一面の砂漠なのだ。細やかな砂粒の中には常磐色の輝きを放つ結晶が散見され、ビルか工場の名残と思しき鉄筋が顔を覗かせている。

 蝶はひらひらと飛び、野良猫はにゃあにゃあと大合唱。しかしどちらも鋼鉄の体で、時計のムーヴメントに似た心臓はきらりと輝かしい。

 男は再び辺りを見渡す。砂と鉄と、鉄と砂。それ以外に目立ったものはない。鉄塔の先端だのモノレールの残骸だの、とにかくスクラップが砂礫の中に埋もれているのだ。目につく何もかもがテクスチャでも貼り付けたみたいにレトロな色合いで、ひっくり返ったチープな乗用車ですらヴィンテージらしい趣が感じられる。

 〝Bブロック道中、ブルー・シュレッダーズ・ボーダー〟──砂からはみ出た看板には、ざらついたグランジ風の書体でそう記されている。どうやらここはCブロックとBブロックの間に位置しているようだ。

 男はその地名に聞き覚えがあった。だが見覚えはない。あるにはあるが、今いる砂漠とは似ても似つかないのだ。

 ビルがあって、小汚い路地があって、ライブハウスがあって、酒場があって、賭場があって、娼館があって……男にとってここはそういう街だ。美徳と悪徳が絶妙な按配で配合された、希望に満ち満ちた薄汚い街だ。新・禁酒法の手から逃れ続ける者達の、執念の結晶とも呼べる街だ。

 そうだった、はずだ。

【……わけがわからん】

 しかもどうだ、オープン・カーのガラスに映った自分の姿は、たいそう悪趣味なフライングVブイ・タイプのエレクトリック・ギターではないか。これまた見覚えがある。天下の大馬鹿者、クレイジー・ジョーが愛用したギターだ。

 男は沈黙してみてから、まあそういうこともあるだろうと割り切った。なに、カフカに倣ったと思えばいい。自分の体が機械であるか人間であるかなど男にとっては些細なことだった。

 男は驚いた。他の全てを差し置いて──なにより自分が目覚めたこと自体に驚いたのだ。なにせ彼は、もうとっくにあの世の門を潜った亡霊だったから。

【まるで墓場だな】

 死んでから何年経っただろうか。五年。十年。あるいはもっとか。なにぶんあの世は右も左も常磐色で満ちていたものだから、ざらついたこの景色でさえなんだか新鮮に感じる。どうやら時はえらく進んだらしい。

 いや、それにしても進みすぎではないか。一〇年や二〇年でこうはならない。ましてマキネシアには核などないし、核を撃ち込まれる道理もない。

 全てが風化している。まるで、早送りにした時に置き去られたように。

「ようやく見つけたぜチクショー。やっぱツイてる」

 背後から声がした。ギターは振り返ってみる。黒いシャツに赤いネクタイ、捩れた赤毛に浅黒い肌……サラリーマンのなり損ないか、あるいは水商売の手合いか……どちらにせよ、砂漠にはまるで似合わない風貌の男が立っていた。

【……誰だ貴様は】

 喋るギターに一瞬驚いたかに見えたが、それも束の間、男は皮肉げに笑う。

「ハロー、相棒」

 キザな野郎──それがその男の率直な第一印象だ。良くはなかった。ギターは顔をしかめるように一つ目を歪める。

【……相棒?】自分のボディに目を落として彼は言う。【オレ様が、貴様の?】

「そのはずだぜ。喋れるとは知らなかったがな。そんで、てめえは何者だ」

【死人だ】ギターはありのままを答えた。【目覚めたらこの体だった】

 男は眉をひそめる。何を馬鹿なと思ったのだろう。かくいうギター自身も自分の吐いた台詞の荒唐無稽さに鳥肌が立つ思いだった。まあ、今となっては立てる鳥肌もないが。

「なに言ってんだ。意味がわからねえ。死人? なんで死人がここにいるんだ」

【死神にフられたのさ】

「女を見る目がないな」

【こっちから口説いたわけじゃない。勝手に寄ってきて、勝手に離れていった】

 誰が好き好んで死神を口説いたりするものか。ギターは重ねて続けた。

【イザクト粒子はガンドレオン合金との相性がいいからな。つまりオレ様の魂が、あの世からこっちに引きずられてきて、見事にギターに張り付いたというわけだ】

「はぁん」男は眉を吊り上げた。「剥離と憑着。なるほど納得だ。ジャンク人間なら何人も見てきた」

【勝手に納得するな。意味がわからないはこっちの台詞だ。いいか、オレ様は死んだんだ。とうの昔に死んだ。なんで今になって生き返るんだ。それもギターの姿で】

 知るかとばかりに男は肩をすくめる。

「死神にフられたんだろ?」

【そうじゃない。魂がこっち側に引きずられたということは、あの世の門……つまり粒子領域が開いたということだろうが。この砂漠はなんだ? 何があった?】

「色々あってな」

【その色々を聞いとるんだろうが】

「事故だよ」【事故?】「いや、事件か。ともかく粒子の衝突だ」【何故そんなことに】

 丸めて広げたアルミホイルよろしく、男の眉間にくしゃりと皺が寄る。

「クレイジー・ジョーとかいう馬鹿野郎のせいだ」

 巻き舌気味に吐かれた台詞を受け、ますますギターの頭は混乱する。彼が知る限り、その名を持つロックンローラーはとっくにこの世を去ったはずだからだ。

【クレイジー・ジョーだと? 奴はとっくに死んだ。今が何世紀だか知らんが、どうして今更その名前が出てくるんだ】

「ストライキだよ。そいつの歌にアテられた労働者が暴動をかました。ZACTザクト本社にだぞ、信じられるか。暴徒ライオットはハッキングされるわそこら中穴だらけだわ、もう無茶苦茶だ。で、市民の方にも粒子兵装を持った奴が混じってて……後は語るが烏滸おこの沙汰ってワケ。目覚めたらこの有様よ。中央区以外は全滅だぜ。エアブラシでぐるっと囲ったみてえに、ドーナツ状の砂漠になってやがる」

【馬鹿なファンもあったものだ】呆れと共にギターは呟く。【考古学者にでもなったつもりか。化石を掘り起こすような真似をしやがって】

「あぁー全くだぜ。死人がいくら偉くなったってしょうがねえ。迷惑な話もあったモンだぜ。奴のせいでロックンロールが規制対象になったってのに、とうの本人は好き勝手やるだけやって勝手におっ死にやがったときた」

【……】

「知ってるかぁ、今のロックンロールの課税率。八〇パーセント超過だぜ。ギタリストはどいつもこいつも廃業寸前だよ。まぁ、このザマじゃ木材も採れねえし、終わってみりゃ結果は同じだがな」

 まったく、と男は溜息を吐いた。

「追いかける方のことなんかまるで考えちゃいない」

 遣る瀬無い声色だ。ギターは男の言葉に隠れた意図を汲み取った。このV字のギターが自分のものだと言ったことからも検討がつく。

 この男もまた、カリスマにあてられた蒙昧な豚の一人というわけだ。

【小僧。貴様、ロックンローラー志望だな】

「小僧?」男が頓狂な声を上げる。「誰に口きいてんだ。俺は二十七歳だぜ。死ぬまでな。それに志望じゃねえ。ロックンローラーさ」

【クレイジー・ジョーの影を追ったか。馬鹿馬鹿しい】

「俺をそこら辺の有象無象と一緒にするんじゃねえぞ、ネジ巻き野郎。俺はもう何度もなろうとしてる」

【なる?】ギターは問う。【クレイジー・ジョーに?】

「そうだ。俺はその為に産まれた」

【なんだその自信は。なんでそう思う?】

「勘だ」

 馬鹿な答えだった。ギターはいよいよ呆れ返る。クレイジー・ジョーを後追いするものは一人の例外もなく現実を直視できない馬鹿者ばかりだが、ここまでの馬鹿者に出会った経験はなかった。確信に何一つ根拠がないし、それを欠片も疑っていない。

 それとも、根拠を必要としないまでに、産まれ持ったものを信じているのだろうか。

「まぁ、そんな話はどうでもいい。とにかく俺と来てもらうぜ」

【お前と? どこにだ?】

「旅だ」男は言った。「時代を逆巻く旅をしてる」

 時を逆巻くリワインド・ザ・タイム──クレイジー・ジョーのナンバーの一節だ。隠す気も見られぬ愚かさに顔を……というか一つ眼をしかめ、ギターはなじるようにして台詞を投げる。

【ロックンロールを蘇らせるだとか愚かなことをぬかしてくれるなよ】

 ビンゴだ。男の口元がほころんだ。

「ギターにしちゃ物分りのいい奴だな」

【馬鹿か貴様は。いや馬鹿だ。この砂漠を見てみろ】

 言って、ギターは一面に広がった砂色へとヘッドの先端を向ける。

【砂と、鉄。それだけだ。なにもない。安らぎも、希望も、夢も、未来も、命さえ。ここにはなにもない。なにもないんだ。クレイジー・ジョーがなんだ? 奴の音楽が何を残した? 社会への反抗などという青臭い理由に囚われた結果がこのザマだ。奴は何も残さなかった。全てを奪って、そして消えただけだ】

「はぁ」

【ロックンロールに夢を見るのはよせ。音楽の力なんてクソみたいなものを信じるんじゃない。そんなものは戯言だ。音楽で救われるような連中の脳味噌に問題があるだけだ。一人の男が死に物狂いでこの世の全てに抗ったところで、後には何も残らない】

「ほぉ」

【ましてやこの惨状だ。クレイジー・ジョーの音楽がこの大惨事の引き金を引いたなら、いよいよZACTはロックンロールを目の敵にするぞ。ただでさえここは高貴な実験都市で、ロックンロールは本来この島にあってはならなかったんだ。課税ではすまない。この先に待ち受けているのは言うなれば〝ロック狩り〟──宗教的とも呼べる、思想の排斥だよ】

「へぇ」

 男に向き直ってギターは続ける。

【悪いことは言わん。ロックは死んだのだ。割り切れ小僧】

「無理な相談だ。生憎育ちが悪いモンでな、引き算以外知らねえのさ」

 ひどい返しもあったものだ。馬の耳でももう少しちゃんと働くだろうに。ギターは狼狽気味に言った。

【貴様、オレ様の話を聞いてたのか?】

「悪いな、聞き流した。話が長い。おまけにつまらん」

【このクソガキ……】

「死んだって誰が決めたんだ?」

【なに?】

 面食らうギター。男はにやつきながら続ける。

「ロックが死んだ? 誰が決めた? えらい奴か? 死体でも見た? 死亡届は? 墓はどこにあるんだ? 俺はまだ花も添えちゃいないぜ」

【茶化すな。別に誰が決めたという話ではない。事実としてそうなっている】

「馬鹿ぬかせ」男は失笑した。「まだなっちゃいない」

【……同じことだ。いずれはそうなる】

「じゃあ俺はロックンローラーになっちゃいけねえのか?」

【なってもどうしようもない】

「勘違いしてんじゃねえぜ、ネジ巻き野郎。そいつは俺が決めることだ」

 砂の上へと乱暴に腰を落とし、胸元から煙草を取り出す男。

 銘柄はアメリカン・スピリットだ。薄汚れた巻紙の先端を、コリブリ社製燧発すいはつ式ライターの小振りな火種がじわりと燃やした。

「進むも戻るも俺が決める。他人の指図は受けねえ。自分の意志に肘鉄砲かまされたまま誰かの言いなりになって生きるなんてゴメンだね。二度とゴメンだよ」

【若造らしい考えだな。勘違いしてるのは貴様のほうだろう。何もかもが思い通りにいくと思うなよ。世界は貴様を中心に回っているわけではない。人一人など、所詮は巨大なシステムに組み込まれた歯車の一つに過ぎんのさ】

「なに言ってんだ? 世界は俺を中心に回ってる。いつだろうと、どこだろうと」

 男は言い切る。そこに躊躇いはなかった。

「そうとも。歯車さ。誰もが歯車だ。システムに組み込まれる? 上等よ。悪い気分じゃないぜ。なにせそのシステムとやらは歯車なしには動かねえんだからな」

【……】

「シンキング・タイムだ。しっかり頭を回せよ、ミスター・ノーバディー。あの世の釜でのぼせたか? 考えが耄碌もうろくしちまってるぜ。システムを動かすのは最初に動いた歯車だ。そして誰もがその先陣を自分が切ったと思ってる。それでいいのさ。そうあるべきだね。この世の誰もが自分中心に世界が回ってると思うべきだし──実際そうだろ?」

 悪びれる様子はない。この男は本気だ。ギターはお手上げとばかりに目を伏せた。

【イカれてる】

「イカしてんのさ」

 青く、愚かで、口が減らない。男の言葉の端々に滲み出た反抗心が、ギターの脳内にやかましいロックンロールの歪んだリフを想起させた。

 まるで、大衆が求めたクレイジー・ジョーそのものだ──ギターはそう思う。演奏や歌の問題ではない。もっと複雑かつ原始的な部分だ。私淑の粋を大きくはみ出ている。

 なろうしているのだ、この男は。そして実際になりかけている。

 正しく自身が吐いた言葉通り、大衆が求めたクレイジー・ジョーそのものに。

【クレイジー・ジョーの受け売りか。努力は認めるが賞賛はできんな】

 ギターはなじるように言った。

【そんな真似を続けているようではクレイジー・ジョーになどなれはしない】

「なぜ言い切れる?」

【魂の形が違うからだ】

 男の眉が揺れた。どうやらこの一言は刺さったらしい。

「握手は左からか? なにが魂だ。くだらねえ」

【では試してみるか?】

「なに?」

【オレ様を弾いてみろ】

 ギターはその身を浮き上がらせ、男の肩にストラップをかけながら彼の手元に収まる。それも、弦は右利き用の並びで張られているにも関わらず、左利きの演奏家に身を預けるようにして。男の左手がピックアップ側に、右手がネック側に来る形だ。

「……」

【どうした。弾いてみろ】

 利き手など構うものか。この男はこの珍妙なセッティングでも弾けるはずだ。ギターは確信していた。弾けなければ、亡霊の影を追うなんて言葉が口を衝くはずはないし──そもそも、このスタイルで弾けない奴なんかにその資格はない。

 喧嘩上等という面構えで、男は胸元のドッグ・タグを引き千切る。合金製の三角形だ。ただのファッションか、あるいは元・軍人……なんでもいい。とにかく墓標、兼ピックといったところか。

【クレイジー・ジョーならどれでも弾けるか?】

「くだらねえこと聞くな」

【だろうな。無理だと言ったらズタボロにしてやるところだ】

 口が汚いのはお互い様か。男は無理やり顔の右半分を吊り上げる。

「そんでどの曲がお好みですかねぇミスター・ファッキン・ノーバディー」

【好きに決めろ。どれでも分かる】

 男はギターのヘッド──弦と弦の隙間に吸いかけの煙草を挟み、待ってましたと半音下げのEメジャー・コードを鳴らす。フォー・カウントの四拍目へと食い気味に入り込んだグリッサンドに次いで、アンプラグドなギター・リフが流れ始めた。

【……?】

 単調なコードワークに間延びしたメロディ。ギターは顔を──顔であろう一つ目をしかめる。はて、これはどの曲だったか。一度死んでボケたのだろうか、収録されていたアルバムはおろか曲名さえ思い出せない。聞けば聞くほど単調だ。

 いや、そもそもこんな曲──クレイジー・ジョーには存在しない。

【おい待て、ストップだ。止めろ止めろ! 止めろーッ!】

 ぶんぶんと暴れ回るギター。倣って男の体も振り回される。

「なんだよ!」男は不機嫌そうに手を止めた。「レギュラー・チューニングで?」

【このボンクラが。クレイジー・ジョーを弾けと言ったはずだ】

「ボンクラはてめえだろ。こいつはクレイジー・ジョーの曲だ」

【タイトルは?】

「タイトルはない。未発表曲だ。勘弁してくれよ、知らねえのか? マニアが聞いて呆れるぜ。てめえ一体いつ死んだんだ? 〝エヴァー・グリーン〟が発表されるより前か?」

 ギターは目を細めた。これまた聞き覚えのないタイトルだ。シングルなのかアルバムなのかも見当がつかない。

【……何枚目のアルバムだか知らんが、そいつが出る前に間違いなく死んでるね】

「この野郎が。てめえが好きに決めろって言ったんだろが」

【……〝ルーム・サービス〟をやれ。それで大体分かる】

 言われるやいなや男はリフ・ワークを鳴らし始めた。弾きたくてたまらないという印象だ。ブルース・ソングに通じるシャッフル調の軽快なビートに合わせ、シングルコイルのキレの良いアタック音が思い起こされる。

 〝ルーム・サービス〟はクレイジー・ジョーの曲でも難解なものだ。コードワークに目立った複雑さはないが、ペンタトニック・スケールをメインとしたイントロダクション、それと〝キメ〟のフレーズが曲の難易度を引き上げている。

 シンガーとギタリストを両立するクレイジー・ジョーの楽曲において、彼の歌唱が入る部分のバッキング・パートは単純な構成だ。その難解さの殆どは、彼がギターのみに専念するイントロダクション、ソロ・セクション、あるいは〝キメ〟にある。

 これは楽曲における〝主役〟をどう捉えるかの問題だ。メロディ部分では歌が主役であるし、イントロやアウトロでは他の楽器が聞き手の耳を一手に奪うことになる。ソロなどは言わずもがなだ。全ての楽器が主張し続けていてはやかましいだけだし、節操がない。彼の楽曲はそうした主役の棲み分けの下に構成されていた。

【……】

 この一つ眼のギターが知る限り、シャッフル・ビートのノリをうまく──ここでは単なる正確さの話ではなく──表現できるギタリストはそう多くない。出来ているようで出来ていないのだ。BPMテンポが上昇するほどにその難易度は高くなるし、余弦の雑音を防ぐミュート技術も高度に要求される。

 その点、この男はどうだ。ミュートに関して粗はない。極めて模範的にシャッフルを演奏出来ていると言っていいだろう。リフワークにもミスはみられなかった。

 次にギターが驚いたのは〝声〟だ。流石にクレイジー・ジョーと比べると少し声が若い気がするが、喉の掠れ具合との再現度には目を見張るものがある。歌い方など本人そのものだ。本家の声よりも倍音成分がいくらか多いが、よほど耳が良くなければ、スピーカーで聞いただけなら本人の声だと錯覚するに違いない。

【…………】

 クレイジー・ジョーはさほど歌が上手くない。それを理解しているかは知らないが、この男はどうやら音程の崩れ方まで再現しているようだ。息の成分ブレシネスや歯擦音、高音の張り上げ方までそっくりそのまま。

 技術的には及第点だ。研鑽を怠れば及第点止まりだろうし合格はやれないが──まあ、それなりではある。クレイジー・ジョーのコピー・バンドでも組めば文句は出まい。

 だが一つ、決定的に足りない物が一つ。

「どうだよ」

 じゃ、とコードを短く鳴らし、男はギグを締めくくる。やけに得意げなその面を見るなり、ギターは大きく溜息を吐いた。

【なめやがって】もう一度、大きく溜息。【気分はエルヴィスか】

「嫌いじゃないが俺ぁハード・ロック寄りだ」

【ハードロックとロックンロールを一緒にするな】

「まだそんなこと言ってんのかよ。抗ってりゃなんだって同じだね」

 とうとうギターは三度目の溜息をついた。

「で、どうなんだよ」

【最悪だな。時間を返せ】

「無茶苦茶言うなよ。時間は前にしか進まねえ」

【なるほど貴様はクレイジー・ジョーになろうとしているようだ】

 ギターは気だるげに溜息をついた。

【なれんぞ、今のままでは】

「口の利き方がなってねえな。てめえにロックの何が分かるってんだ?」

【分かるさ】年季を思わせる声色だった。【少なくとも貴様よりは】

「んじゃどこが駄目なのか言ってみろ。聞くだけ聞いてやる」

【いいとも。懇切丁寧に教えてやるさ】

 不毛だと思いながらもギターは口を開く。本当に、この砂色の一面みたいに不毛だと思いながらも。早い話が、なにもないのだ。

【リフワークの指使いは満点だ。イントロダクションからBメロにかけてはチョーキングの揺れ幅さえ完璧と言っていい。ノリはクレイジー・ジョー同様後ろに置いてあるし、ピッキングのアップ・ダウンも本人そのもの。ハーモニクスの位置までそっくりそのまま。歌声もわざと低めにがならせているな。これもクレイジー・ジョーによく似ている。高音域で意地でも裏声を使わないあたりも】

「つまり?」

【ミス一つない。完璧だよ。譜面どおり。そっくりそのまま、クレイジー・ジョーだ】

 そら見ろ、と男は鼻で笑う。

「文句なしだろ?」

【勘違いするなよ、小僧。貴様のはただの模倣だと言ったんだ。芸術は模倣から始まるが、模倣のままで終わったりはしない】

 自分でも屁理屈みたいな言い草だと思う。なにも後世に伝えるべきうんたらかんたらとか、そんな高尚な話ではないのだが、一つ眼の彼にとっては──死人なりに──大事なことだった。

【貴様は何も理解していない。クレイジー・ジョーがクレイジー・ジョーたりえたのはな、奴がこの世に唯一無二のクレイジー・ジョーという存在であったからだ。死人の言うことをいちいち真に受けて自分の指針にするような奴に……まして自分以外の誰かになろうとする奴などに、伝説の轍は踏めん】

「……」

【そら見ろ、その表情だ。図星だろう。自分でも薄々感付いてるはずだ。貴様が誰だかは知らんがな、貴様はクレイジー・ジョーじゃないぞ。他人にはなれん。誰も誰かの代わりなんかになれはしないんだ。生まれた時から貴様は貴様だと決まっているんだ。壊れた冷蔵庫を買い直すのとはわけが違う】

 貴様の演奏パフォーマンスには、と強調するギター。

【魂がない。空っぽだ】

「空っぽ? 空っぽだと? 言葉のチョイスに悪意があるぜ」

【足りないか? なら継ぎ足してやる。機械的だと言ったんだ】

 男が不快感を露にする。いやにアメリカン・スピリットの燃焼速度にさえ苛立っていることだろう。心の支えは酒か金か……なんにせよ、形のないものは嫌いらしい。

「ふざけてやがんのか? ミスなく弾くのは一番重要なことだろ」 

【はん。選民意識にまみれたクラシックあがりのゴミクズどもが考えそうなことだ】

 憎しみすら感じる言い草だ。男の方も大概口は悪いが、これには失笑する他なかった。

「……確かにクラシックをやってた。やらされてたさ。それがなんだ?」

【シューベルトか? チャイコフスキー? バッハ以降は誰も作曲をしてこなかった? はん、クソったれが。大人しく楽譜の世界に帰るがいい】

「なにをアツくなってんだ。たかだか音楽の話だろ」

【貴様にロックは向いていない】

 地に落ちる煙草。男がギターに掴みかかった。

「ふざけんな! たかだか音楽のジャンルごときに向き不向きがあってたまるか!」

【丁寧過ぎるんだ、貴様の演奏は。まるでグルーヴを感じない。弱いぞ。貴様が奏でるありとあらゆる音が弱い。説得力に欠けている。オルガンの自動演奏とおんなじだ】

 教会の壇上にでも安置されてみるか。笑えない冗談だ。ギターはなおも容赦なく言葉を紡ぐ。たちの悪い講師みたいだった。

【妙なものだな。それだけ反抗心を抱えていながら、貴様の音楽にはまるでそれが滲み出てこない。誰かの言いなりで歌ってる、そんな感じだ。貴様から貴様を感じない】

「……」

【もっとシンプルに言えば──貴様の演奏からは、それを弾くのが貴様である必要性をまるで感じない。いくらでも代わりがきいて、特徴がない、ただ正確なだけの演奏だ】

 思うところがあったのか、それとも不毛だと思ったか、喉から飛び出そうな暴言を飲み下し、男はギターからゆっくりと手を離す。瞳はしっかりと睨みを利かせたままで。

「つまり──……つまりなんだ? 俺の演奏には〝魂〟が足りない?」

【平たく言えばそうなる。青臭い言葉だがな】

「どこで手に入る?」

 難問だ。ギターは面食らった。

【さあ。マーケットには並んでないだろう】

 茶化したわけではない。ギターなりの精一杯の答えだった。どこで手に入るかなど誰も知らないし、そもそも手に入れようと思って手に入るようなものでもないのだ。いい加減な経験則で知った風な答えを返すわけにもいかない。

【とにかくこれで分かっただろう。貴様はクレイジー・ジョーにはなれない。どうしてもと言うならカバー・バンドに留めておけ。話は終わりだ。どこへでも失せろ。そして二度とオレ様の前に現れるな。貴様はどうにも鼻につく】

「臭うか?」

【ああ。酔っ払いの臭いだ。それも重度の】

 今度はただの茶化しだ。男もそれを理解して、冗談っぽく口角を吊り上げる。

「分かった。了解だ、ミスター・ノーバディー。つまり俺は第二のクレイジー・ジョーを目指せばいいってわけだな」

【いや……いやいや、ちょっと待て貴様。待て。おい待て!】

 ネックを掴む腕を振り払い、ギターは男の眼前に舞い戻る。

【このが。オレ様の話を聞いてたか?】

「聞くだけ聞いてやると言ったはずだ」

【えぇい。諦めの悪い奴だな。大体なんだ、第二のクレイジー・ジョーだと? 一も二もあるか。クレイジー・ジョーはクレイジー・ジョーただ一人だ】

 男は困った風に頭をかいてみせる。なんだか妙にわざとらしい。そんなことは言われなくても分かってますよ、と示すようだった。

「シンキング・タイムだ。頭を回せよミスター・ノーバディー」

【なに?】

「死んだらそこでおしまいか?」

 左手で砂を掬い上げ、零れ落ちる粒を眺める男。

「どうなんだ? 死ねば消えるか? 全て消えるか?」

【女みたいな言い草は好かん。シンプルに話せ】

「よく聞けネジ巻き野郎。クレイジー・ジョーが本当にこの世から消えちまうのはな、奴の技術や思想が誰にも受け継がれなくなった時さ。体が死んだかどうかなんてのは大した問題じゃない。次の世代にそいつのエッセンスが受け継がれるかどうかが問題なんだ」

 巷の奴らは、と男。

「腰抜けばっかりだ。くたばりかけのロックンロールに誰も手を差し伸べない。ZACTがこのまま規制を厳格化し続けてみろ、いずれ奴らはマキネシアの外にまで〝高貴な実験〟を広げて、しまいにゃ辞書からもロックが消えるぞ。百年後のガキどもはブルースのつづりすら知らずに生きていくんだ。エルヴィス? 誰それ? 作家? ──てな具合に」

【……】

「俺はロックンロールが好きだぜ。サウンドもそうだし、ルーツもそうだ。反抗の象徴としちゃ最高の形だね。どんな銃より強烈で、どんな戦争より革命的だ。この音楽を、一つの芸術を──あるいは魂の在り方を? まぁなんでもいい。とにかく、こんなイカしたものをみすみす見殺しにするなんて冗談じゃない」

 そういうことか。ようやくギターの中で辻褄が合って、彼は幾らか救われた気分になった。

 この男の目的は継承なのだ。マキネシアという閉ざされた島にロックンロールの一時代を作り上げたクレイジー・ジョーを、彼が奏でた音楽を、後世に残そうというわけである。なるほど、そっちが真の目的であるなら納得だ。

 いや、そうであってほしい。

 そうでないのなら……もし、もしこの男が憧れのままにクレイジー・ジョーを真似ているのなら、そして真似たとして、実際にここまで完璧に再現し、たったひとつ大事なもの──音楽を始めるにあたり、誰もが最初に持っていなければならないものを欠くあまり、追った影とはかけ離れた退屈な音になってしまっているのだとしたら……。

 それは、あまりに救われない話だ。

「ZACTが検閲をかけてるせいで、マキネシアから他の国にはアクセスできない。ロックンロールを知ってる奴はいても、鳴らせと言われて鳴らせる奴は一人もいなかった。

 だが奴は違う。クレイジー・ジョーだけは違ったんだ。分かるか、野郎がどんな奴だか知らねえが、奴はこの島にロックンロールをもたらした存在だ。海の向こうの大国で奏でられてきた反抗の全てが、奴の音楽に詰まってた。そいつが死んで思想も技術もなにもかも失われたら、この島からロックンロールは消える。消えちまうんだよ、なにもかも」

 どこまでが本音だろうか。ギターには分からない。これがこいつの目的だと飲み込んでしまえばそれで終わる。

 だがなんだ。なんだろう。何故だか言い訳じみて聞こえる。

 だから俺にはこれしかないんだと、自分に言い聞かせているみたいだ。

【伝道師でも気取ったつもりか】

「生きがいが減るのを見過ごす馬鹿がどこにいる? たとえば俺の目の前に?」

 これは本心らしい。暴言だけはやけに素直に飛んでくるものだ。悪口を後世に伝えるべく産まれたと言われたほうがしっくりくる。

「俺はロックンロールが好きだ。だから失うわけにはいかねえ。誰もやらねえなら俺がやる。それだけだ。それ以上でも以下でもない。お前はどうなんだ」

【……オレ様?】

「てめえ以外に誰がいるんだ、オレ様野郎。さっきの口ぶり、てめえもロックンローラーだったんだろ。自分のルーツになった音楽が、ZACTの我侭で消されようとしてんだぜ。前世が電卓だか算盤だか知らねえがよ、それも上手に割り算するか? できるのか?」

 名もなきギターは自問する。散々他人の姿勢をこき下ろした後だ。自分に言い訳は使えない。

【……伝道師なんて能書きは肩が凝りそうだな。遠慮したいところだ。俺にはこれしかない、なんて言葉も年齢制限に引っかかる。大体とうに死んだ身だし、そりゃあ確かにギターを弾いてはいたけれど、音楽に救われたかと言われればそうでもないし、食いっぱぐれたこともあるし、いまさらロックンロールなんて……】

「女みたいな言い草は好かねえ。シンプルに話せ」

 キレたカウンターだ。今度は男に軍配が上がった。

【…………ええい】

 ギターはぶんぶんとヘッドを振る。一度死ぬとなんだか投げやりになるらしい。こいつはどうにもよくない考え方だ。

 遠い昔、ロックンロールを愛していた。愛していたとも。いいや、愛しているとも。死してなお進行形だ。ミュートし損ねた余弦のノイズに妙に苛立つのも、ピッチの甘いチョーキングが歯痒いのも、芸のない速弾きシュレッドが鼻につくのも──音楽を聞くとつい体が揺れてしまうのも、一つ残らずそいつを愛した名残なのだ。

 体はとうにない。けれど別のどこかに染み付いている。たとえばそれはなんとも掴み難き、あるのかどうかも分からない、二十一グラムぽっちの小さな粒の集まりなんかに。

 馬鹿な話だ。きっと上手くは割り切れない。大体、前世は算盤や電卓なんかじゃなくて、ロックンローラーなどというどうしようもない生き物だったのだ。不服かどうかなんて問うまでもなかった。

【……本気なんだな?】

「俺はジョークは言うが嘘は言わねえ」

 だろうなとギターは思った。嘘を言う男じゃない。少なくとも、今この瞬間は。

「もううんざりだ。御託はなしだぜ。俺と来るのか、来ねえのか」

【……】

 ギターの中には恐れがあった。音楽と共に生き、音楽の為に生き、そして音楽の為に死んだ生涯を思い起こすと、目の前の男の心中が手に取るように分かるのだ。

 慢心と渇望、不安と虚勢、焦燥と逼迫……なにより危険なのは〝自分こそは〟という根拠なき全能感だ。ギターもまたその感覚に飲まれ、艱難辛苦を幾度も味わってきた身であったし、それゆえ、この男に待ち受ける困難の形もある程度は予想がつく。

 その先はこの男次第だ。結果までは分からない。音楽は信じる者を試し、試してなお時として救わない。神でさえ信仰心の全てを救うことがないように、音楽もまたその為に生きる者の全てに耳を傾けるわけではないのだ。

【……】

 控えめに言っても、この男は不安だ。かつての自分に似た危うさがある。おぼつかない千鳥足の靴底をすくわれ、足場すら曖昧なまま、見えないものにほどよく躓くたちだ。一度火が点けば一気に燃え上がるが、火が点くまでが長いだろう。そこには砂漠を埋めてもまだ余るほどの迷いが、挫折が、後悔が待ち受けるに違いない。

 だが何故だろう。砂の果て、蜃気楼がごとく幻視した鋼鉄のステージでこの男が歌っているのだと思うと────そういう未来を手に入れにゆくのだと思うと────高揚が、どうしようもなく不安に勝る。

 期待させる。賭博に似ている。この男はまるでサイコロだ。

【……一つ言っておく。それは過酷な道だ。クレイジー・ジョーは一つの抑止力だったんだぞ。奴に下手なことをすれば民衆が暴動を起こしかねないから、ZACTに出来ることはせいぜいCDの流通を制限することぐらいだった。だが今はどうだ。もうZACTを阻む物は何もない。奴らがどんな強硬手段に出るか……】

「長くなるか?」

【はぁー……】

 男二人で砂漠旅か。よりにもよってこんなキザで皮肉屋でお喋りで自信家で、この世の悪いところの上澄みを全てかき集めて人型に押し固めたような男と。想像するだけで頭のネジが錆びそうだ。

 ぶつけてやりたい不平不満を溜息に変え、ギターは腹づもりを決めた。すなわち、彼がこれまで〝消化試合に似た冴えない人生〟として忌避してきた生き方──不出来な子供を見守る親のような人生に、我が身を投じる腹づもりをだ。

【いいだろう。貴様に力を貸してやる。ただこれだけは言っておくぞ。オレ様は速弾きシュレッドとハーモニック・マイナーがこの世で一等嫌いだ】

「つまりネオ・クラシカルは最悪?」

【反吐が出るね】

「まぁそう言うなよ。奴らだって、ロックンロールに触れてこなかったわけじゃねえだろ。それより他の音楽の影響が強かった。それだけさ」

 荒涼とした砂漠を眺め、男はしみじみと言う。

「形は変わるもんだ。バニラ・エッセンスみたいな一滴でもいい。そこに風味が感じられるなら、確かに時代は継承されてる。きっと今ある音楽も、それを繰り返して生き残ってきたに違いねえんだ」

【……】

 もっとも、と続ける男。

「受け入れられるかどうかは別の話だがな……」

【なに?】

「なんでもねえ」

【そうか】

「そうだ」

 脊髄からそのまま放たれた言葉だ。この男なりの誤魔化しの常套句なのだろう。ギターもそれ以上は問わない。問うたところで誰も救われない話になる気がした。

「お前の名は?」

【好きに呼べ。オレ様はもう死んだ。誰でもないのミスター・ノーバディーさ】

 そうとも。死人の名など誰も気にしない。生きてたって気にしないのに。

 今更名前などどうでもいい。この男の言う通りだ。死んでからえらくなったって、どうしようもないのだ。

「シド」男は呟いた。「シドってのはどうだ?」

【いい名前だ。破滅的だな】

「別にヴィシャスからとったわけじゃないぜ」

【なら何故シドと?】

BC

 男はやっぱり皮肉げに笑った。

HハーCツェーだ。隣り合った一オクターブの終わりと始まり。奇跡的な名前だぜ」

【歯の浮く台詞だ】吊られてシドも笑う。【浮く歯もないか】

よろしくどうぞダリ・ラリ・ラ・ライだ、シド」

 鋼の砂漠。突風が駆け、タンブルウィードがごろごろと。

「俺の名はシュティード。だからお前は俺の終わり、でもって俺の始まりだ」



 そうして彼の〝ここまで〟が死に、彼らの〝ここから〟が始まってゆく。

 全てが砂に砕かれて間もない、遠いある日のことだった。



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