Track14.two men are vagrants




 ごつん。がつん。またごつん。メトロノームみたいに繰り返される右フックを、ゴミ箱の陰から野良猫が眺めている。シュティードが拳を振るうたび、青い宝石の瞳が右へ左へ。そのうちそれにも飽きたのか、くあ、と野良猫は口を開けてみせた。

「わ、悪かった! 悪かった! よせ、もうよせって……」

「俺は、今、機嫌が、悪いんだ、よ!」

 陽が落ちるほどマキネシアは──特にDブロックは賑やかになる。それもきわめて奥ゆかしく。月がそうさせるのか、それとも爛々と輝く市街のネオンがそうさせるのかは知らないが、とにかく夜の掃き溜め名物〝粗忽者そこつもの〟達は、暗がりと危険の香りを上手に嗅ぎわけ、カモがねぎをしょって鍋に入るのを待つのだ。

 しかしまあ、そこは掃き溜めなものだから、誰も彼もがうまいことカモになるわけではないし、噛み付く相手を間違えれば鍋に入るのは狩る側だ。ちょうどシュティードに噛み付いたならず者が、右フックの大盤振る舞いをお見舞いされているように。

「わ……悪かった……」

 やっとのことで拳が止まった。シュティードも飽きたに違いない。顔を腫らした中年の男が呻いて、どっと壁にもたれかかる。いいあざだ。七日は引かない。

「よ、酔ってたんだ……見逃してくれ……」

「謝罪で済んだら警察はいらねえ」

「だからこの町に警察はねえんだろ……」

 男が持っていた酒瓶を拾い上げ、シュティードは中身を飲み干す。薬臭さが抜けない粗悪な密造酒だ。酷い味だが背に腹は変えられない。アル中にとってなにより大事なのは酒を絶やさないことなのだ。

「この酒、どこで買った」

「……いい酒だろ、三日は喉がヒリつく……」

 ぜ、と言い切る前にシュティードの拳が男の腹にめり込む。

「バグジーんとこの密造酒ツキアカリだな? 奴のラベルがついてる」

 男が舌打ちする。しくじったという顔だった。

 シュティードだってそういう表情をしてやりたかった。サイコロの出目なんかに天命を任せずに、さっさと頭に風穴を開けておけばよかったのだ。やっぱり野良猫という生き物は、気まぐれで、いい加減で、あてにならない。

 シュティードは男の胸倉を掴み、禿げた頭をざらついた煉瓦へ押し付ける。

「あの死に損ないに雇われたんだな? 正直に答えろ。そうすりゃ半殺しで済む」

「お、俺だけじゃねえ……。店の常連だった奴ら皆にニュース速報が回ってる。てめえを殺せば向こう四〇年はタダ酒だってよ……」

 馬鹿な話だとシュティードは呆れた。こんな安酒を四〇年も飲み続けたら、肝臓なんかより頭が先にどうかしてくるに決まってる。

「い……今に見てろ、このアホたれめ。てめえは地獄行きだ。バグジーはだぜ。てめえを殺すと躍起になってる……」

「それは前からだしあいつには無理だ」

「てめえが意外とお人よしだってことぐらい、賞金稼ぎなら誰でも知ってる話だぜ……」

 誘拐のメソッドか。掃き溜めらしいやり方ではある。シュティードは酒瓶を壁に打ちつけ、残った鋭利な刃先で男の太股を刺した。

「足ぃアッいっだいだいだだだ」

「俺はお人好し呼ばわりされんのが嫌いだ。これは知らなかったか?」

「足っ、おっ俺のっ、俺の足がっっ、畜生、クソっ、知るわけねえだろっ」

「俺も初耳だ」

 男は脂汗が滲む目元でシュティードを睨みつけ、犬歯を剥き出してにやつく。勇気と無謀を履き違えた、失うものなき野良猫らしい表情だった。

「へっ、請負人。てめえほどの間抜けは知らねえぜ。首に八億ぶら下げて、怖いモンなんかねえってツラしてんのに、なんで仲間なんか作りやがったんだ? ずっと独りで請負人やってりゃ、それこそ完璧で最強の殺人マシーンだったのによ……」

「……」

「傑作だな。孤独は惨めか? そいつがてめえの命取りになるとも知らねえで……いや、てめえ自身そんなことは分かってるハズだろ……。なのにつるまなきゃやってられねえんだ。ええオイ請負人、バグジーはやるぜ。奴は本気だ。てめえみたいなタイプほど、身内の事にはアツくなりやすい」

 瞳の先はお空のかなた。もうシュティードの頭には酒のことしかなかった。

「せいぜい子守りはしっかりやれよ、請負人……」

「ご忠告どうも」

「忠告? 忠告だと? 俺がそこまでお人よしに見えるか?」

「お前はどう思う?」

 起き上がるバントライン・スペシャルの撃鉄。鈍黒の銃口が男の眉間に宛がわれる。シュティードの目は涼しいままだ。お人よしの目つきではなかった。

「地獄にピアノは持っていけねえ。税関に引っかかる。戻ってバグジーにそう伝えろ」

「おことわりだね」

「ならあの世で伝えろ」

 からりと銃声。野良猫が跳んだ。




 野良猫が嫌いだ。生きていようと死んでいようと。孤独の臭いにつられて群がる畜生どもを見るたびに、自分がそういう星の元に生まれついたことを自覚させられるから。

「寄るな」

 とぼとぼとついてきた野良猫を足で追い払い、シュティードは歩き出す。しばらくすると野良猫が、また申し訳なさそうにその後を追う。それを何度か繰り返し、やがて野良猫が諦めてきびすを返した頃、ようやくウォンデン・ハブが前方に見えてきた。

 孤独が惨めだと? 馬鹿馬鹿しい。生き方に貴賎などあるものか。大体なんだ、身内の事にアツくなりやすいだと。奴が何を知っているというんだ。それこそ〝俺がそこまでお人よしに見えるか?〟だ。

 シュティードの苛立ちは増すばかりだった。足りないのは酒だけじゃない。魂だかなんだか、名前はなんだっていいが、とにかくこの苛立ちを鎮める鎮痛剤みたいなものが見つからないのだ。もうずっと、三年近くもそのまんま。

「……」

 やめだやめだ。これから酒を飲もうという時に、こんなじめじめした心持ちでは酒にも申し訳が立たない。

 コンクリート造りの監獄みたいな壁の前までやって来て、シュティードは〝ウォンデン・ハブ〟の扉を開けた。

 カウンターの中にいるメリーといきなり目が合う。挨拶はない。彼女も彼女で野良猫が来るのを待っていたのだ。ロックアイスがグラスに落とし込まれるのを見て、まるで餌付けされているみたいだとシュティードは思った。

 木造のテーブルにカウンターチェア、穴ぐらみたいにか細い照明。店主、ヘイルメリーがもっとも彼女らしく映える簡素な店内だ。自分が纏った幸薄さを理解しているのか、未亡人という立場が無意識にそうさせるのか……。

 〝控え〟であるウォンデン・ハブは基本的に非常時の店だ。従って、その存在を知る者は常連に限られる。表からはただの一軒屋にしか見えないし、それゆえモンスター・ビアガーデンにいるような粗暴な一見客というものはこの空間に存在しない。

 はたと店内を見渡してみても、二、三人の集団が三つ、四つと、あとはカウンターにお一人様が三名のみ。元々そう大きな店ではないから、このぐらいがちょうどいい。

 シュティードはうるさいのが嫌いだ。陰気に寄り過ぎな気もするが、こちらの方が少し落ち着く。今日のような日は特に。

 文句はない。内省には最高の店だ。ここがライブ・バーの名残でさえなかったなら。

「愚痴の日ね」

 酒を注ぎながらメリーはそう言った。どうにも敵わない。

「今日は休肝日かと」

「そんな日はない」

 ワイルドターキー八年、シングルのロック、氷は二つ──いつも通りのシュティードの注文をそつなく捌き、メリーはカウンターに頬杖を突く。

「愚痴の日なのはお前もだろ」グラスを回して言うシュティード。「また全壊だな」

「そうよ。ZACTザクトの所為。新・禁酒法の指定範囲を拡大ですって」

「死活問題だ。明日にでもカタをつける」

「あなた絡みなの?」

「この世の悪いことのほとんどは」

「私、檸檬れもんを咥えた野良猫が走ってたのを見たんだけど、それもあなたのせい?」

 はて。ジーナと戯れていた野良猫だろうか。こいつは数奇なこともあるものだと笑ってみる。笑ってみただけで、笑えるような話じゃない。爆弾が町を走るようなものだ。

「かもな。だったらどうする?」

「どうもしないわ。今更だもの」

 メリーは本心からそう言う。シュティードの職業柄を理解しているということもあるが、なによりキリがないからだ。店が潰れる度に八つ当たりをかましていれば、今頃はここら一帯が墓地になっている。ザイールと違って彼女は割りきりがいいのだ。

「つまらないこと聞くけど、今日はなんで一人なの? アイヴィーとジーナは?」

「ほんとにつまらないことを聞くんだな」

「喧嘩?」

 喧嘩。シュティードは失笑した。そんな大層な名前はとてもじゃないがやれない。茶を沸かしたへそを曲げて砂漠を渡るなど、いいとこ反抗期の家出ぐらいなものだ。

「別に。そういう日があってもいい」

 答えるのが面倒なとき、シュティードは大体こういう風にはぐらかす。なんでもねえだとか、別にだとか、苛立ちだけ見せ付けて素知らぬ顔を決め込むのだ。

 ところが、ヘイルメリーという女は人一倍他人の機微に鋭く、そして底意地が──無害ながらに悪いものだから、彼のわだかまりを飲み込ませはしなかった。そりゃそうだ、そんなものを飲み込まれたところで売り上げには影響しない。商売魂たくましいというべきか。

「昔がらみの話でしょう?」

「……」

「シドが直ったってところかしら」

 見てきたようにメリーが言うものだから、シュティードはぽかんと口を開けた。

「なんで分かった?」

「女の勘」

「フェアじゃない」

「別に、イカサマってわけじゃないのよ」

 種も仕掛けもないらしい。お手上げとばかりにシュティードは肩をすくめた。

 男というのは大体そうだ。力以外の全てにおいて女にはかなわない。ことそいつが掃き溜めの女で、味方となればなおのこと。

「完敗だ、メリー。黒星一つ。万々歳」

「まだ何も言ってないじゃない」

「聞きたくもねえな」

「付き合ってあげよっか? ただしダブル二杯で」

「言っとくぞメリー。未亡人は好きだがお前は嫌いだ」

「あらそう。私はあなたのこと好きだけど」

 メリーは慈悲深く微笑んだ。そら見ろ、このザマだ。木材の香りとランプの灯り、ほのかに騒ぐ酔いどれの談笑、それから店内に響くボサノヴァの湿気が彼女を完璧たらしめている。うかつに歳も聞けやしない。

 彼女の声はよく通る。パーティの中だろうとそうでなかろうと。透き通っているのだ。ちょうど雛鳥のさえずりみたいに。

「愚痴なら」顔をしかめて続けるシュティード。「ザイールに吐いた」

「ホモなの?」

「メリーてめえ」

「冗談。ならいいけど、何事も溜めすぎは良くないわよ」

 何事も、とメリーは念を押す。

になっちゃう。相談できる相手がいないのがいけないんだわ」

「相談? 勘弁してくれ。俺が人の話をまともに聞かねえ奴だって知ってんだろ。どうせ愚痴とジョークぐらいしか喋らねえ。誰に何を相談するってんだ」

「対話は尊いものよ」メリーは攻め方を変えた。「夢を語れる相手はいる?」

「煮崩れた夢をか?」

「さぁ。過去でも未来でも構わないんだけど」

 えらくまどろっこしい言い方だ。こういう腹の探り合いみたいなやり取りがシュティードは苦手だった。というより嫌いだった。そんなのは仕事の時だけでお腹一杯だ。

「何が言いたい? なんでそんなこと聞くんだ?」

「いないのね」

「俺をおちょくってるつもりか?」

「今のあなたは駄目ね、ジェイ

 カウンターに頬杖をついて、メリーはシュティードの目を覗き込む。弛んだ彼女の布切れの奥、豊満な谷間が顔を覗かせたので、シュティードはそっちに視線をやった。あいにく彼は女に興味がないものだから、眼を見るより胸を見たほうが気が楽だからとか、その程度の理由だったが。

「お酒を飲む度に遠い目をして、夢も情熱も平気でなじっちゃう。人の言うことにいちいち苛立ち気味に突っかかるし、冗談が通じないし……それは元からか。まぁでも、どっちへ行こうか決めあぐねてる、そんな感じ。見るに耐えないわ。まるで駄目ね。ダメダメだわ。だめだめダメーのだめ」

「人としてか?」

「ロックンローラーとしてよ」

「言いたい放題だな」

「それでここに来たんじゃなくて?」

 どうにも今日は矢面に立つ日らしい。シュティードは腹を立てるでもなく、アルコールと共に言葉を流し込んだ。言い返しようがないのだ。

「あら」意外そうな顔をするメリー。「大人しいのね。頬でもぶたれるかと」

「しつこいぞ。そういう気分じゃない」

「前のあなたなら、ここで気の利いた洒落の一つでも返してたはずよ。左の頬も差し出すなら考えてやるぜ、とかなんとか」

 これにはシュティードも参った。他人の口から聞いてみると妙に気恥ずかしい。

「あのなあ」

ジェイの名折れね。この頃のあなたはどこに行ったの?」

 言って、壁に掛かった写真を指すメリー。

 映っているのはシュティードだ。年代は記されていない。ステージと思しき場所に立っていて、背後には一〇〇ワットのマーシャル・アンプとキャビネット。右手にシドのネックを握り、スタンドに携えられたダイナミック・マイクに向かって吼えている。

 ああ、これはどこでのギグだったか。レクセルバレーのダイダロス・ハブ? それとももっと昔の遠いところ、この砂漠が産まれる前にあったどこかだろうか。

 馬鹿馬鹿しい。とっくに死んだ赤の他人に過ぎない。クレイジー・ジョーの影を追った挙句に飲まれて消えた、萎びた歌うたいの亡霊だ。

 シュティードは黙ってそれを眺めた。脳味噌のずっと奥の方からハムバッカーの歪んだサウンドが聞こえてきて、語りかけるみたいに鼓膜にまとわりつく。

 写真の中、今とまるで変わらぬくたびれた中年の姿がある。髪型も、服装も、体つきさえそのまんま。しかし不思議なもので、瞳だけはどことなく輝いて見える。照明の当たり具合もあるだろうが、今よりはよほどマシな顔だ。

「いい写真じゃない」

 メリーが邪推なく放った台詞が、シュティードの耳には皮肉に聞こえた。

「よく撮れてるわ、これ」

「遺影に映りもクソもあるか」

「あなたはまだ生きてるじゃない」

「いいや、死んだ」シュティードは吐き捨てる。「死んだも同然だ」

「人として?」

「ロックンローラーとしてだ」

「あなたは」呟くメリー。「完璧なのね」

 今度は間違いなく皮肉だった。それも糾弾すれすれの。

「聞いてくれ、メリー」

「楽しい話なら」

「あるクソガキと出会った」

 メリーは耳を疑った。よもやこの男の口から子供の話が出ようとは。はて、酔いが回ったかと自分の頬をつねってみるが、そもそも飲んだ覚えがない。

 勢いづけるようにグラスの中身を飲み干し、シュティードは続ける。酔っ払いというのは繰り返す生き物なのだ。同じ話であれ、過ちであれ。

「とんでもねえ奴だ。女みたいな顔してる癖に、中身はとんだじゃじゃ馬ときた。ロックンローラーを目指してる上に母親を探して旅してるんだと。信じられるか、そんな奇跡的な確率でしか掴めねえ夢を二つも追ってるってんだぜ。二束の草鞋わらじを価格交渉。おまけにサイズフリーときた」

 気取ったライナー・ノーツでも書き下ろすみたいにシュティードは言う。自分のことを話す時とは違ってえらく饒舌だった。

「……」

「やたらめったら人を質問攻めにするわ、クソがつくほどお人よしだわ、そのくせ負けず嫌いで諦めが悪いわ、人を平気でクズ呼ばわりするわ、挙句の果てには生意気だわ……どうしようもねえクソガキだ」

「まるで」と、メリー。「あなたみたいね」

「俺は人をクズ呼ばわりしたりはしない」

「嘘ばっかり」

「俺はクズをクズと呼ぶだけだ」

 合っているのかいないのか。メリーは苦笑する。

「その子に何か言われた?」

「口汚い言葉は大体言われた。ださいだとか、ろくでなしだとか、クソの中のクソだとか、人の夢を笑うなんてクズ以外の何物でもないとか……そんな生き方してるから、そんな顔になるんだとか……とにかく色々……ああ、色々だ。この世の悪いことの大概だよ」

「だったらその子は間違ってないわ。ただクズをクズと呼んだだけ」

 完封だ。舌打ちの他にシュティードの反撃はなかった。

「ねえシュティード。あなた、自分がなんでロックンローラーをやめたか分かってる?」

 なんで。なんでだと。なんでもクソもあったものか。下らない話だ。言い訳の為に用意されたような、語るに落ちるお話なのだ。




 いつからだ。

 ピックを握っていたこの左手は、いつから銃を握り締めていたのだろう。

 いつから──いつから暴力や血のほうが、しっくり来るようになったのだろう。




   ◆


 


 健やかなる時も、病める時も、喜びの時も、悲しみの時も、富める時も、貧しい時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り真心を尽くすことを──そんな調子で、音楽と母の影はいつでもナオンの傍にあった。

 ウィンチからのラブコールにアイヴィーが応対する頃、ナオンはカーゴパンツのポケットから旧式のミュージックプレイヤーを取り出し、カナル式のイヤホンをその小さな耳へとはめ込む最中だった。

【また随分古いタイプだな】シドが舌を巻く。【とんだヴィンテージだ】

「拾ったの。ギア・レコードから吸い出したから、一曲しか入ってないけど」

【大した心臓だな。こんな人生最低の日に音楽なんか聴いてる場合か?】

「だからだよ」と、ナオン。「人生最低の日だからこそなんだ」

 両耳の奥へとイヤホンを捻じ込む。肌に引っかかるゴムの感触。続いて、薄く聞こえていた酒場と工場の喧騒がシャットアウトされ、ケーブルを撫でる夜風の感触がぼそぼそとした音の塊に変わり、綿でも詰め込むようにして耳へと雪崩れ込んでくる。

 後に残ったのはいやにやかましい静寂だけだ。ラジオノイズのピッチを思いっきり下げたみたいな、静かでざらつきのある、それでいてやけに輪郭のはっきりした、深い深い海の底を思わせる音。

 そのまま、ナオンはすっと目を閉じた。



 なんだか胎内にいる気がする。いつもそう思う。母体の中にいた時、少年ナオンがまだ名もない一つの命であった時も、きっとこんな音の中にいたのだろう。

 どうだろう。もしかしたら彼のことだから、羊水を通じてロックンロールを聴いていても不思議ではないが。

【……】

 どっくん、どっくんと聞こえる心臓の音。魂の声だ。生まれながらに人間誰もが抱えている、ちっぽけで尊い音楽。

 ロックンロールにおいて最もスタンダードなリズム・パターンであるエイトビートは、心臓の鼓動にそのルーツを持つ。表拍は弱く、裏拍は強く──即ち二拍目と四拍目にアクセントが加えられる、バック・ビートの形だ。大昔に初めの音楽を奏でたであろう人類は、誰にそう教えられたわけでもなく、それが最も魂を奮わせるリズムであると知っていたに違いない。

 瞼の裏、二秒前まで見ていた景色が蘇った。荒涼と広がる一面の砂色に、ばさりと下ろされた夜の闇。濃紺の空には名も知れぬ星屑が一つ、また一つと瞬いていて、全音符に似た真ん丸の月が、市街のネオンとその明るさを競っている。

 プレイヤーを弄り、クレイジー・ジョーの一曲を再生するナオン。

 選んだナンバーはまたもや〝名もなき曲〟だ。というよりこれしかない。今はこれがあればいい。こういう日にこそ音楽はよく染み渡る。

 もちろん音楽はいつ聴いたって構わないものだ。早起きした日の朝、揚々とストリートを行きながらダンス・ナンバーを流してステージ盛りのドル箱スターになりきってみたり、雨の日にあてどもなくA列車の車掌になってみたり。

 音楽と人間の生活は切り離せないものだ。それは古来、シャーマンと呼ばれる者達が雨乞いに使っていたものでもあるし、宗教において唱句を歌い上げる際に用いられたものでもある。人類は害獣を退ける為に鉄を打ち鳴らし、狩りの際には雄叫びを上げ、儀式の際には自然との調和を求め、眠る時には子守唄を歌って聴かせた。

 音楽は地球と共にあった。風が木々を鳴らし、雨が地を打つ──原始的なそれらのリズムが、幾億年もの時流の中で形を変え、人類の歴史と足並みを揃えてきたのだ。

 もちろん、音楽は人類だけのものではない。

 チープな物言いをしてしまえば、声を獲得した全ての生き物は、少なからず音楽を奏でているといえる。鳥やネズミ、あるいはカエル、はたまた昆虫におけるまで、あらゆる生物は自身の鳴き声を求愛の為に利用するではないか。

 リズムとメロディー──大まかに分けてしまえば音楽を作るのはこのたった二つだ。しごく単純な反復に過ぎないその波が、何故だか人の心を大きく振るわせる。ある時は悲しみに、ある時は喜びに、またある時は興奮に。

 用途がどうあれ音楽は利用されるものだ。ある時は求愛のために、ある時は睡眠のために、ある時は洗脳のために、ある時は宗教のために、ある時は平和のために。

 またある時は──社会を糾弾するために。

 少年ナオンは、こと辛い時によく音楽を聞く。なにもそう決めたわけではない。自然と心が求めるのだ。辛くて、苦しくて、悲しくて、なんだかやる気も出なくなって、自分一人ではどうしようもなくなって、押しつぶされてしまいそうな時……自分のか細さを痛感する、今日のような夜は、なおのこと。

 半音下げのギターで掻き鳴らされるEメジャー・コード。小細工のないシンプルなエイトビートの周りを波が包み込み、みぞおちの下あたりには少し歪んだエレクトリック・ベベースの低音。そして中央には──声。クレイジー・ジョーの声だ。

 前期のクレイジー・ジョーの楽曲はそのほとんどが攻撃的で、BPMも心臓を死に急がせるように早い。当の本人も行き急いでいたのだろう。オーバードライブ・サウンドを伴って張り上げられるその歌声は、ざらついていて、鋭くて、張り詰めた弦に似ている。

 そういうアグレッシヴな曲は、例えばキルレシオ・ドライヴのような修羅場を抜ける時であったりとか、無理やりにでもやらなくちゃならない事があったりだとか、とにかくのっぴきならない状況に似合う。

 〝名もなき曲〟は違った。目の粗いやすりに似た他の曲とは違って、真綿の海をたゆたうが如く落ち着くのだ。展開は一辺倒で、変わったリフ・ワークがあるわけでもなく、ましてべらぼうに難しいギターソロがあるわけでもない。良く言えば落ち着きがあって、悪く言えば平々凡々。

 なんとも後期のクレイジー・ジョー楽曲らしく、そこに反抗というテーマは存在しない。ただ〝相棒〟という存在と共に砂漠を渡り、いつか無数の星屑の一つとして死ぬ夢を見る──そういう曲だ。荒削りな自由とそれに対する一抹の不安、そして欠片ほどの安らぎが同時に存在している。

「……」

 自由。不安。旅と夢。女の子みたいに長い睫をそっと伏せ、ナオンは音楽の中に自分を投影した。

「……」

 歩く。歩く。ただただ歩く。行けども行けども砂色ばかりの掃き溜めを、傷付き、涙し、ときには喜び安らぎ、お日様とお月様、微笑みと涙、希望と絶望を変わりばんこに繰り返しながら、一人、一人、ただ一人。

 隣に──隣に誰かいるだろうか?

 誰もいない。もちろん誰もいない。友達も、母親も、野良猫も、だれ一人。

「……うーん」

 孤高が少年を男にするのだと、いつか母から聞いたことがあった。けれど、肌を撫でては去ってゆく乾いた風を浴びるたび、ナオンはいつも分からなくなる。

 一人ぼっちで旅をして、そうして夢を叶えたとして、その喜びは誰と分かち合えばいいのだろう。独り占めするには大きすぎるし、そんなのなんにも楽しくない。いくら機械に魂があるからって、オンボロトレーラーはナオンと一緒にハッピーな気持ちを謳歌してはくれないのだ。

「……」

 ナオンには戦う力がない。目的はあっても立ち向かうための術がない。せいぜい運転の技術ぐらいだ。月並みだが、それは逃走のためであって闘争のためではなかった。今日一日で何度死ねたかなんて、両手の指じゃとても足りない。

 護ってくれる誰かが欲しいのだろうか。危険から、挫折から、それとも後悔から、自分を救ってくれるそんな誰かが。無償の愛を惜しみなく隣人の為に注ぎ、火の粉を払い火に入らぬように忠告してくれる、そんな存在が欲しいのだろうか。

 とち狂ったか、ばかめ。そんなのまるで母親じゃないか。

「……」

 少年はまだまだ一人が怖い。いつだって、今だって。

 だから前を向く。怖いときほど前を見る。実際に不屈かどうかは転んだ先の杖だけが知っていればいい。重要なのは、あろうとすること──不屈であろうとすることだ。少年の中ではそうだった。

 強がりと言えばそれまでになる。だけど、それ以外に前に進む方法を知らない。そんなの惨めなだけだと分かってはいるけれど、ナオンはやっぱりそうしてしまう。小さな雛鳥のちっぽけなプライドは、吹けば飛ぶような強がりに支えられているのだ。



「……よしっ」

 四分あまりの没入を終えたナオンはイヤフォンを外し、ぴしゃりと頬を叩いた。

 別にシャーマンというわけでもないが、ナオンにとってこれは一つの儀式だった。弱い自分を奮い立たせる為に音楽の力を借りるのだ。戦場で鬨の声を上げるのに似ている。

 ロックンロールの力を借りなければ、少年はまだ歩くこともままならないのだ。

【〝砂漠の星〟か】

「なに?」

【その曲の名前だよ】

 シドはやっかみみたいに続けた。

【展開は単調、ソロも面白みがない。メロディーも間延びしきっている。反骨精神の欠片もないクソみたいな曲だ。正に後期のクレイジ・ジョーを代表する──星屑のような曲だな】

 口を開けばすぐこれだ。これにはナオンもむっとした。してみただけだ。

「星屑でも星は星だ」

 ナオンはそれだけ言い返した。それ以上は言わない。自分の中で一番であれば何だっていいのだ。他人の言葉は関係ない。関係ないのだ、いつだって。どこが拙いだとかどこが秀でているだとか、肩を並べて品評会でもするような聞き方は、ナオンの性には合わなかった。好きなものは好き、嫌いなものは嫌い。それでいいじゃないか。

【砂漠を渡って星になる? いいシチュエイションだな。自己陶酔が鼻につく。差し詰め貴様は、顔も知らないどこかの誰かが書いた詩に自分を重ねて、それで救われたつもりになっているわけだ】

「……悪い?」

【いいや。だが浅はかだとは思う。やはり貴様はただのクソガキだ】

「そうかな」

【そうとも。ロックンロールを聴く連中はみんなそうだ】

 シドは呆れ気味に言う。

【音楽は人を救ったりしない。そんなものはな、音楽で救われるような連中の脳味噌に問題があるのさ】

「なんだって?」

 ナオンがシドに掴みかかる。こればかりは逆鱗に触れたようだった。

「もう一度言ってみろ」

【不服か? 何度でも言ってやる。音楽は人を救わない。いついかなる時も、決してだ。救われた気になっているに過ぎない。音楽で救われるような連中の脳味噌に問題があるだけなのさ。人を救いたくて音楽を書いてる奴なんてこの世には一人もいやしないんだ。曲を書くなんて行為は所詮ただの自己満足で、熱狂した聴衆というのは差し詰め病人だ。他人の絶頂で自分まで気持ちよくなる、安直な共感と自己投影が行き着くところまで行き着いた、どうしようもないクズどもなのさ。奴らの耽溺はただの反射だ】

 まるで機械だよ、とシド。

「……」

【音楽で救われるような連中は音楽を聴いちゃいない。少なくとも真の意味ではな。音楽の奥に自分を見ているだけだ。過去を、未来を、あるいは現在を、その音楽の中に重ねて自分を眺めている。抗う歌を聴けば自分もそうあろうとするし、悲恋の歌があれば自分もそうだったと嘆いてみせる。前向きになれと歌われれば前向きにもなろう。

 そして例えば息苦しい社会を糾弾する歌があれば──奴らも同じく社会を糾弾する。自分の思想を音楽に蝕まれる。音に、詩に、旋律に、どんな意味が込められてるのか考えもしない。そんなものは芸術としての音楽とはとてもじゃないが呼べないね】

 ナオンは顔をしかめた。言ってることが難しくって、そのうち自分がなぜ怒ったのかも分からなくなってくる。どうやらシドは、よほどクレイジー・ジョーの一件に腹を立てているらしい。

 一思いに言い切って、シドはまた大きく溜息をついた。

【……聴衆も馬鹿なら鳴らす方も馬鹿ばかりだ。こんな馬鹿だらけの世の中で、音楽なんかじゃなにも救えんさ。なにも。なにひとつ。ひとつさえ】

 自嘲のニュアンスだ。天邪鬼あまのじゃくな奴だとナオンは思った。星屑に例えるぐらいなんだから、自分だってその輝きを知らないわけじゃないだろうに。シドが何歳かは知らないが、大人と言う奴はどいつもこいつも素直に物が言えないようだ。

 捻くれた原因──つまり、どうしてシドがロックンロールを嫌うに至ったか──その仔細が本人の口から語られるわけでもない。この手の思わせぶりな言い草をする奴は皆そうだ。けれど、わざわざ言われなくたって想像はつく。ナオンもそこまで子供じゃない。

 なんてことはない。結局は彼も救い損ね、そして救われ損ねたのだろう。

 この男は音楽に正解があると信じ、そして実際にそれを求めているのだ。

 いや、求めていたのだ。

【そういう奴らが、目的と手段を履き違えた連中が、音楽を利用していくんだよ。平和のために、宗教のために、戦争のために……反抗のために。音楽は、そんなことのために存在するわけじゃないのに】

「……」

【音楽は──そこに内在する自由は、そうやって殺されてゆくんだ】

「その程度で死ぬぐらいなら死んでしまえばいい」

 シドは耳を疑った。死んでしまえだと。この砂漠の一輪の彼方、忘れ去られたロックンロールを聴きながらその台詞を吐くのか。その死に感傷はないのか。悲しみは、怒りは沸かないのか。履き違えた烏合の衆……その愚かしさ極まった暴動の果てに追い立てられ、そして死んでいったロックンロールに対して、一抹の名残惜しさもないというのか。

 いや、違う。青い瞳がそう言っている。

 この少年は──死んでいないと信じているのだ。

「利用されるために音楽があるわけじゃないっていうのは分かるよ。だけど、それも音楽の一つのあり方じゃん。BGMビー・ジー・エムみたいに鳴りっ放しの音楽があってもいいし、ホールで聴くみたいにかっちりした音楽があってもいい」

【……】

「宗教のために使われても、戦争のために使われても、誰がそれを否定できるっていうのさ。そんなの言い始めたら、子守唄にまで難癖つけなきゃいけなくなっちゃう。

 それが気に入らないんならそれもいいと思うよ。けど、死んだなんて言うのは簡単じゃないか。言うだけなら誰でも出来るじゃないか。音楽を愛していて、それで音楽の在り方に疑問を感じるなら、言いたいことがあるなら、流れに逆らいたいのなら、そういうときこそ音楽で自分の気持ちを伝えるべきだよ」

 そんな言い草は、とナオン。

「卑怯だ」

【……卑怯。卑怯か】

「音楽はそんなことじゃ死なない。ジャズも、クラシックも、ロックンロールもジプシーもカリプソも、聞いてる方が深く考えなくたって、大人の事情で利用されたって、そんな簡単に死んだりしない。音楽としての意味は失わないはずだ」

 ポケットの中のプレイヤーを握り、砂に眼を落としてナオンは続ける。

「僕だって音楽を利用したよ。自分が救われるために音楽を利用してきたんだ。苦しい時によくロックを聴くよ。シカゴ・ブルースで仕事に向かう元気をもらったりもする。それっていけないことなの? だったら音楽は何の為に存在するの?」

【……それは……】

「僕は音楽に救われてきたよ。クレイジー・ジョーにそんなつもりがあったかは知らないけど、僕は確かに救われた。それが間違った音楽の在り方だなんて、僕には思えない」

 正解などない。ある者にとっては砂金だし、ある者にとっては砂粒だ。あるいは灰となった大鋸屑ぐらいのものかもしれない。救われる者もいれば救われぬ者もいる。興味を惹かれる者もいれば唾棄する者もいる。利用する者も、利用される者も、崇める者も、この荒んだ砂漠を見れば憎む者さえいるだろう。

 それは例えばシドだ。彼とナオンが分かり合うことはないだろう。少なくとも今は。彼には彼なりの経験と哲学があって、それは必ずしもナオンの歯車とは噛み合わない。

 それでいいのだ。ナオンはそう思う。きっとそれでいい。誰もが音楽で救われる必要はないし、音楽が誰もを救う必要はない。シドとだって、別に喧嘩がしたいわけじゃないし、これは喧嘩なんてなことじゃないのだ。

 重要なのは──聴く側にしろ聴かせる側にしろ──自分がどうあるかだ。正解ではないかもしれない。けれどナオンの中ではそれが正解だった。多分、恐らく、きっと。

「なんて言われても、僕はやっぱりロックンローラーになりたいよ。なってやる」

【……ふん】

 やはりシドは納得がいかないのか、それとも引っ込みがつかなくなったのか、ともかく臍を曲げたようにそっぽを向くだけだった。

「音楽は背中を押してくれるし、辛い気分も晴らしてくれる。どうしようもなくなった時に、僕の心を救ってくれるんだ」

【……心を救う、か】

 歳をとると口げんかも弱くなる。二の句がつかえて出てこないのだ。

 もやもやした陰鬱な気持ちのまんま、シドは暗い砂の最果てを睨んだ。

【貴様と話していると昔を思い出す】

「昔? いつ?」

【オレ様がまだロックンロールを信じていた頃のことだ】

 、という言い草が気に入らなくて、ナオンはつんと口を尖らせる。

【……なあ小僧。音楽は神様じゃない。信じた奴らを──信じきった奴らこそを、音楽は平気で裏切るんだ】

 裏切られたらしいシドはそう呟いた。

【一つ昔話をしてやる】

「楽しい話なら」

【楽しい話さ】

 シドは無理やり笑ってそう言ったが、どうにも気まずそうなVブイ字の瞳は、とても楽しい話をするようには見えなかった。

【その時はまだ、楽しかったんだ】



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