Rewind the time #2 -鋼鉄のふたり-
◇
根無し草に負けずとも劣らぬ日々が続いた。止まり木もなく、行く当てもなく、何日も、何週間も、何ヶ月も、何年も、革靴の底はただ砂を踏み、音は砂粒に消えるだけ。
一年、二年、三年。高揚と落胆、慢心と内省、希望と絶望を何度も何度も繰り返す。昨日はどん底、今日は頂、二日も置けば自分の背丈。研鑽に、罵倒に、飢えと渇望。
四年、五年経ち、倦怠感が再びやって来る。それも、月がやかましい日なみにどぎつい奴が。肥大化した慢心と自信が銀箔に倣って徐々に削れ、薄れ、霞んで、自分の弱さと蒙昧さ、背丈と歩幅を突きつけてくる。
ちょうどそれは、上げ底なしの自分の背丈を思い知らされる時期なのだ。
六年、七年も経てば、惰性が喜びを食い散らかす。ここを超えれば再起が待っていると、今までの経験からそう分かっているのに、それでもなんだかやる気が出ない……偏頭痛を持ち込む雨の日みたいに憂鬱な、そんな時分だ。
──鋼鉄のギター、煙草と酒、それから一つまみのロックンロール。
相棒はそれだけだ。他にはいない。観客はにゃあにゃあと付きまとってくる、孤独なスクラップの野良猫だけ。
雑多な場所を渡った。海の見える街、ヤドカリの上の岩場、時計の墓場、スタジオの残骸。もちろん、酒場はプライベートでも。
渡り鳥みたいな生活をしている癖に、肝心の音楽は泣かず飛ばず。ようやく活気を──流れ者の掃き溜めなりに──取り戻した町へ出向くはいいが、誰もロックンロールなどには見向きもしなかった。
喝采にもアンコールにも覚えがない。聞き慣れたのはお決まりの台詞だけだ。
「なにがロックンロールだ、くだらねえ」
いつもの野次がまた飛んできた。一〇〇回目か、それとも二〇〇回目……どっちだって一緒だ。二〇を過ぎた辺りから数えるのをやめた。
十字路の角に立つシュティードは溜息をつく。それから一五ワットの小型マーシャル・アンプに手を伸ばし、ボリューム・ノブを絞ってから電源を落とした。
マキネシア
周知の事実であるように、都市粒子化現象は鉄を砂に噛み砕き、そしてあらゆるものを鉄へと変えた。木材だって例外ではない。
元々が極度の乾燥気候であるマキネシアでは、ただでさえ自生する植物が少ない。都市に利用されていた植物の多くは島外からマキネシアに持ち込まれ、人々の生活の為に植林されたものだ。
そして、それらの多くは此度の大災害によって鋼鉄の樹木へと姿を変え、あるいは砂粒となり、それら粒子化現象の余波を逃れた木々も、砂粒の遥か奥底に埋もれた。従い、災害からまだ間もない現在では、住居に利用できるだけの木材が充分に揃わないというわけである。
そのため、人々の家屋の大半は機械の残骸とコンクリートを組み合わせて作られており──それはクッキー片の混じったバニラ・アイスに似ている──純粋な木材が窺えるのは、まぐれ当たりで粒子化を逃れたラッキー・ハウスだけだ。
ほとんどは民家で、一軒だけスタジオの名残を持つバーが残されている。だが、シュティードがその門を叩いたのは最初だけだ。二度目はなかった。どこからともなく体格の良い男共がやってきて、文字通りの門前払いを食らわせられるのだ。
シュティード個人への恨みではないだろう。余所者を厄介払いするというよりは、ロックンロールそのものを邪険にする意味合いが強かった。
さだめ。これは、一つのさだめなのだ。
話を戻そう。
ともあれ、シュティードらはここを〝
イザクト事変が都市を灰に変えるに至った過程は周知の通りだ。大人なら誰だって知っている。生き残ってさえいれば。
だが子供は別だ。新しく生まれた子供達は、知識としては知っていても、実際にそれを目の当たりにしたことがない。ロックンロールというものがかつて存在していて、そいつが原因でイザクト事変が起きたと言われても、実際に音を聴いたことはないのだ。
シュティードはそこに賭けた。今の十歳、十二歳……大目に見て、十五歳ぐらいまでは〝ロックンロール〟という音楽の存在を知らない可能性がある。知っていても理解はしていない。羊水の中で監獄ロックでも聴きながら育てば話は別だろうが、そんな子供はそうそういないし、そもそもレコードが流通していない。
反体制を念頭に置いたロックンロールが実際に国家を揺るがした以上、
勝機はそこにあった。思想や感情の抑圧は必ず一定数の反発を生む。それがどれだけ正しいことだとしても。
悪行で減点だの善行で加点だの、はては悪事の密告システムだの機械に将来を決められるだの、大人ですら溜まったもんじゃない仕組みの中に、清も濁も噛み締めていない子供達は否応なしに放り出されるのだ。そこに反発が生まれないわけがない。
鍵となるのは〝反抗心〟だ。シュティードが狙ったのはそいつを抱えやすい、思春期や反抗期といった年齢の子供だった。世の中が馬鹿ばかりに見えてしょうがない、大人の言うことに苛立ちを覚える、そんなごく当たり前の子供達だ。
もちろん、マキネシアの住人がどのように補充されるかを考えると、他にもアテがないわけではないが……世代の継承という大仰な名目を抱えた以上は、やはり子供に託すぐらいがちょうどいい。
言いようのない葛藤とジレンマ、誰にも言えない未来への野心や、行き詰った自分への後ろめたさ、理解されない焦りや不安……そんな迷いのはけ口を、ロックンロールという強烈な音像に導けたなら──そこに未来を見せることが出来たら──シュティードはそう当たりをつけ、それゆえブラストゲートを選択した。
したまでは良かったのに。
【
往来も賑やかな十字路の隅、壁に立てかけられたシドが言った。
「なにがだ」
【路地で歌ってきた回数だよ。そのうち投げ銭はたったの六回。それも哀れみのだ】
「ジパングの言い回しが正しいなら」と、シュティード。「三途の川は渡れるな」
【泳ぎは得意な方か?】
「てんで駄目だ」
【ああ、なら望み薄だ】
無関心のまま移り変わる雑踏、世界から切り離された男……スヘッツコーツの白昼が、出来の悪い映画のワンシーンを思わせる。力なくシドの隣に座り込み、シュティードはよれたアメリカン・スピリットを咥えた。
【もう諦めろ】
「去年も聞いた」
【まだ懲りてないのか】
白い巻紙に印刷された大鷲の紋章を眺め、シドは続ける。
【ギグのたんびに言われてきただろう。クレイジー・ジョーの音楽をやってるというだけで、掃き溜めからはろくでなしの戦犯扱いなんだ。リフを弾いた瞬間に叩き出されたバーがいくつあったと思ってる? 興味ありげな客なんて一人もいやしなかった】
「歌い出しゃみんな見る目を変えた」
【あぁーありゃあ親の仇を見る目だ】
見ろ、とシドが雑踏の一角を指す。少年が母親と思しき女性に手を引かれていた。陽で焦げた頬にはオイルの汚れと一枚のガーゼ。長い睫毛に囲まれた瞳は半開きの髪留めに似ていて、涙腺から滲んだ侮蔑の色がシュティードらへ向けられている。
【不良の時代なんてのはとっくに終わったんだよ。大体、あの子供達が掃き溜め落ちしたのだって、
シュティードは少年に向けてぶらぶらと手を振ってみる。〝調子はどうだ〟のニュアンスだ。少年も応じて右手を掲げたが、中指以外は体調が優れないようだった。
「最近のガキはスレてる」
【貴様ほどじゃない】
「光栄だね」
【言ったろ、過酷な道だと。一度築かれた価値観は、そう簡単に覆ったりしない】
だろうなとシュティードは思った。好きなことでさえそうなのだ。嫌いなこととなれば尚更だ。ベクトルこそ違えど、捻じ曲がったこだわりと反抗をテーマに、自分の価値観もまた築かれてきたのだ。そいつの逃げ道を探してやるのが難儀なことはよく理解していた。
【狙うなら……】
「狙うなら?」
【……元々ロックンロールに興味がある奴だ】
「あぁ、なるほど。クレイジー・ジョーのファンだった連中の子供ってか?」
【生き残ってればの話だ。イザクト事変の日、ファンのほとんどは暴動に参加したんだろう。ZACTが手を下したにせよ下してないにせよ、こんな──島の一輪を砂に変えるような大惨事の爆心地で生き残ってるとは……とてもじゃないが思えん】
そんなものは、とシド。
【奇跡に等しい】
「んなモンそこら中に転がってる」
【なら何故オレ様達二人の前には転がってこない?】
「出会いで使っちまったからさ」
鼻につく言い回しだ。シドが呆れ気味に目を伏せた。
【なんにせよ望み薄だ】
「どうだかな。暴動なんぞに興味がなくて、純粋に音楽だけ聴いてた……つまりまともなファンなら生き残ってるかもしれないぜ」
【それをまともなファンと呼ぶのかどうかは知らんが】シドは失笑した。【そんな奴ばかりなら救われただろうな】
そうとも。誰もが救われたに違いない。誰もがだ。
二人はしばらく無言だった。お互いにそうあるようにそうした。
空っぽのハードケースと慰めの煙。いい気分じゃあない。一本の煙草を吸いきる気力さえ失ってしまいそうだった。こんな日は、ただでさえ遅いアメリカン・スピリットの燃焼速度が、よけいに遅く感じるのだ。
ご褒美が欲しいというたちでもない。されど、一欠けらの光明や僅かな雲間さえ見えぬままでは、歩みは日に日に辛くなる一方だった。
あるいは巻紙に口づけ息を吐くたび、この喉元から、魂と呼ばれるものが煙となってどこかへ飛び出しているのではと──そう錯覚するほどに。
◇
三日、四日、一週間、一ヶ月。日々は変わりなく続いた。下降するでもなく、上昇するでもなく、静かな海に似た二十四時間を繰り返す。
相変わらず人々は耳を傾けない。どころか塞ぐ始末だ。クランチ気味のサウンドに変えてみたりもしたが、寂れた歌うたいの姿は余計に惨めに映るだけ。そのくせ気の迷いでクリーン・トーンに趣旨替えし、ボサノヴァもどきのフレーズを奏でた時だけは、人々の目がほんの少し柔らかい。それがまた彼らを憂鬱にする。
二度とやるなとマーシャル・アンプを蹴り飛ばされたので、酒場にたむろするゴロツキどもを憂さ晴らしにしばいて回ったりもした。そんなのはしょっちゅうだ。
なじられる内はまだいい。耳に届きはしているのだから。鳴らした音が背景に溶け込んで、いつしか当たり前みたいに誰も興味を示さなくなるのが一番こたえる。〝ああ、今日もやってるのか〟……それで終わりだ。そこには蟻の巣を眺めるときほどの好奇心もない。
袋叩きにされることもあった。痛みにはまるきり疎い方だが、シュティードだって超人ではない。ましてや、この時分は請負人でもなんでもなく、八億の値札も提げていない、言ってみればそこらのゴロツキのうちの一人なのだ。
そんな余所者がロックンロールを、ましてや復興間もないクローズドな街で歌うとなれば、拒まれるのは当然だ。
さだめ。これは、一つのさだめなのだ。
分かっていたはずだ。こうなることは、分かっていたはずなのに。
雨が続き、弦が錆び、希望の灯はじわじわと小さくなり、侮蔑にも軽蔑にも無関心にも心が慣れ、ヴィンテージ・ギターの乾いた木材みたいに脳味噌がからついてゆく。いっそここで銃を手にとって、ゴロツキどもをしばき回す、真のならず者になってやろうか。街の用心棒となって、激化する密造業者の縄張り争いに手を貸して、ブラストゲートを掃き溜め一の街に仕立て上げて……そっちの方がどれだけ楽だろうか、そっちの方がどれだけ……そんな考えが頭を過ぎったりもした。
それでもシュティードはギターを選んだ。この左手は銃ではなく、ギターを取る為にあるのだと、自分にそう言い聞かせ、そうでなければならないのだと、来る日も来る日も鳴らしては歌った。さだめとかいうクソ下らないものに中指を立て、今に見ていろと鉛色の空を睨み続けた。来る日も、来る日も、来る日も。
意地と言えば聞こえはいい。だがそうじゃない。それ以外に術を知らないだけだった。
さらに二ヶ月経ち、三ヶ月経ち、やがてそこには執念しか残らなくなった。
やめてしまえば折れてしまう。一度折れればそこまでだ。だからやめるわけにはいかない。それだけだ。それ以上でも以下でもなかった。世代の継承だとか、ロックンロールの繁栄だとか、はたまたシドとの約束だとか──そんなものは、今この状態で認められたとしても、ただの結果にしかならないような──そんな心境だ。
やがて暴力にも慣れた。振るう側ではなく、振るわれる側として。
「二度とツラを見せるなと言ったろ」
拳がシュティードの顎を打った。反撃はしない。やり返したって何も変わらないからだ。口の中に鉄の味が広がる。いつだって、噛み締めているのは鉄の味だった。
「とっとと街から失せろ、時代遅れのガラクタ野郎」
路地裏に雨が降り始め、陰鬱な臭いが立ち込める。自分を袋叩きにした男達が遠のいていくのを大人しく眺めたあと、シュティードは傍らのシドに手を伸ばし、力なく鰐革のハードケースに収めた。
シュティードは雨が嫌いだ。雨の日はどうにも調子が出ない。ネジが錆びたように体ががたつくのだ。つまり、その日は最低の日だった。未来のビジョンなんて一ビットも浮かばない、覚えておくのも馬鹿らしくなる一日だ。
「……無事か、シド」
【オレ様は鋼鉄だ】みょん、とハードケースの表面に
「俺も鋼鉄だ」
気だるそうに上体を起こし、煉瓦に背中を預けるシュティード。
「頑丈なのさ」
【心はどうかな】
〝コリブリ〟社製
「……」
何日歌っただろう。
何人が聞いただろう。
そしてそのうち何人の心に残っただろう。
あとどのぐらいこの日々が続くのだろう。
五年か。十年か。死ぬまでずっとか。
それともシドのように、死んでもなお続くのか。
「イズカラグアは」シュティードは呟く。「いい街だった」
【ああ。どいつもこいつも水着だからな】
「どうせなら泳いどきゃ良かった」
【沈むのがオチだろう】
「レクセルバレーはイマイチって印象だ」
【だがダイダロス像はロマンがある】
「しかし男二人で旅ってなぁどうにも……」
【Dブロックの未亡人がいたじゃないか】
「駆け落ちしろってか? 冗談だろ。連れてきたところで、俺は……」
そこでシュティードは口を
──長い、長い旅だった。
終わらない旅だとさえ思った。たまたま出会った見知らぬ二人が、ひたすらに同じコード進行を繰り返すジャム・セッションのようなものだと。
そこにはグルーヴがあった。一人では決して奏でられない魂の揺れ幅が。だけど、何度繰り返してもそこに高揚はない。楽しくなって、夢中になって、そのうち何度目かも分からなくなって、どこが小節の区切りかも曖昧になり、互いに止め時を見失ったまま、ずるずると惰性のまま続けている……そんな印象だ。
馬鹿馬鹿しい話だ。終わらない旅なんてこの世にはない。
そんなの、ただ終わらせていないだけじゃないか。
「……ここで終わりか」
諦めが悪いのが美徳の一つだった。だが未練まで行き着くと頂けない。人生、引き際が肝心なのだ。だからシュティードはそう吐き捨てた。
【……】
なにが、とは言わない。どういう意味かはお互いに理解している。やると決めた時からこういう未来も結末の内だ。けれど、シドはすぐには答えられなかった。
「……どう思う、シド」
【……貴様次第だろう】
「
【オレ様一人ではどうにもならん】
「そうだよな……」
生きるも死ぬも二人はともに。乗るか反るかは神のみぞ知る。行くも戻るも棘の道で、丁か半かは運任せ。
雨を恐れ、野良猫達が路地裏へと駆け込む。シドは重々しく口を開いた。
【……やめるのか?】
「見えねえんだ」
【未来が?】
「自分が」
シュティードはゆっくりと顔を上げ、目にかかる赤毛の隙間から曇天を見上げた。
「……ロックンロールが蘇って、いつか、ギア・レコードが店で流通するようになって、クレイジー・ジョーの再来だなんて言われてる奴がステージに立つ。時代を逆巻くそのイメージの中で、ステージに立ってるのは俺じゃない」
【…………】
「……そこに俺はいない」
水溜りに吸殻。物好きな野良猫が擦り寄ってくる。雨を恐れぬ愚かなはぐれ者の喉元を撫で、シュティードは続けた。
「それでもいいと思ってた。俺がクレイジー・ジョーになれないなら、他の誰かがなればいいと。俺のやってきたことが無駄じゃなくなるんなら、ステージにいるのがガキだろうと構いやしないと……」
【……】
「今はそれすら見えない。ステージには誰もいない。観客もいない。いないんだ、誰も」
シュティードの目は遠くを見ている。遠い、遠い、どこか遠い、ここではないどこかだ。雨雲の先に未来を見ようとしていた。
捩れた赤毛に水が滴る。シドが溜息をついた。深く、大きく、尊く。
【証が欲しいのか。生きた証が】
「死ぬのは怖くない。そんなものはない。ただ電源が切れるだけだ」
【なら何が恐ろしい】
「誰にもなれずに終わるのが」
【……それが普通だ】
「趣味じゃない」
夢破れた者の末路がどういうものかは、シドもシュティードもいやというほど目にしてきた。してきたはずだ。それを承知の上で進んで、進んだ上でこの結末に辿り着いた。
当たり前だ。誰だってそう思っている。でなきゃ夢なんかに魅せられたりしない。それも分かっている。それでもなお信じたのだ。それでもなお。
二人は考えるのをやめた。こうしておけばとか、ああだったからとか、後から振り返って言うだけなら誰でも出来る。そこには何の責任も伴わないし、何の意味もない。ただただ惨めさが膨れ上がって、みっともなく
【よくやった方だ】
「……」
【上達したとも。リフのキレは以前よりいい。荒さも少し出てきた】
「それで」シュティードは力なく言った。「誰が振り向いた?」
【……時代が悪かったんだ】
「よせよ。惨めすぎるぜ、シド。そんな言い訳は……」
【……】
「……惨めなだけなんだ」
精一杯やった。それは事実だ。過程としては満点だろう。だが全ては結果だ。結果が全ての世界で生きてきたのだ。やりたいことを好きなようにやったのだから満足していますなんて、そんな開き直りで気持ちよくピリオドを打てるものか。
どんな理屈を並べたところで、世に敗者が説く正論などない。彼らはそういう世界で生きてきた。そういう世界で生きることを選んで、代わりにそれ以外の全てを捨てたのだ。青春の時分であるとか、友だとか恋だとか、酒の
自分で望んで
全てを賭し、そして負けたのだ。それだけでいい。それだけで……。
「明日だ」
アメリカン・スピリットの火をにじり消し、やっとのことでシュティードは口にした。してみればなんてことはなかった。どんな熱い火種だって、喉元を過ぎればこの程度のもんだろう。
【……】
「明日の朝、ここを出る」
【……その後は】
「……俺が知るかよ」
鋼の塊みたいに重い腰を上げ、シュティードはケースからシドを取り出す。そののちフレット上でハーモニクスを鳴らし、ゆっくりとチューニング・ペグを巻き始めた。
【……おい、弦が錆びるぞ】
シュティードはチューニングをやめなかった。シドも一度口にしただけで、もう咎めはしない。分かっている。錆びてもいい。
もう、いいのだ。
「さあさ皆様、お手を拝借」
じゃっ、と半音下げの弦を小さく鳴らすシュティード。
「Bブロック最後の演奏だ」
【あの曲を】
シドはリクエストを口にする。最初で最後のつもりだった。
【出会った日に貴様が弾いた……あの曲を聞かせろ】
「……」
【タイトルは】
「未定さ」シュティードはネックを握った。「ずっと」
半音下げのEメジャー・コード。次は
盛り上がりに欠ける一辺倒な展開だ。訴えるようなメロディーで、そのくせなにを訴えたいのかなんて、自分でもまるで分かっていなくて……。
だからシドはこの曲を選んだ。ルーム・サービスみたいな激しい曲を今プレイしたって、落胆と後悔が空回るだけだ。こっちの方がよほどらしい。
始める前が一番わくわくするものだ。後はせいぜいよく出来たおまけ。蓋を開けてみればせいぜい一山いくらのもの、そこらにありふれた
雨の中、シュティードは歌った。心から歌った。心とは、魂とは何かをついに彼は理解するに至らなかったが、それでもシュティードは心から歌った。客がいようがいなかろうが関係なかった。
訴えるものなどもう何もない。どんなに大声を張り上げたところで負け犬の遠吠えだ。
それでも歌わずにはいられなかった。最後の足掻きだ。ここで歌わなければ嘘になる。無駄にはなっても嘘にだけはさせない。させてなるものか。させてはならないのだ。どうせ飛び立つ鳥ならば、せめて後を濁したくはない。
頬に水が滴る。涙じゃない。そんな筈はない。俺に涙はないのだと、シュティードはそう自分に定めてきたし、そういう星のもとに生まれたのだ。だからこれは涙じゃない。ただの雨だ。雨粒の一つだ。無数に流された雨粒のたった一つだ。
鋼鉄のふたりに、最後まで涙はなかった。
こいつはきっと世界一惨めな演奏だ。誰の耳にも届かない。観客がいなくて良かったとさえ思う。音楽に生きる者としてはあるまじき発言だが、音楽に生きられずしてただ死ぬ者としては、これ以上の形はあるまい。
男は歌う。夢は許すか。ギターよ響け。どこへでも。
あと少し。少しだけでいい。
もうじき終わる。終わるのだ。噛み付く日々が、闘争の日々が、反抗の日々が──青く荒削りで無謀なる、理由なき反抗の日々が、ようやく終わるのだから……。
慰めか、自戒か、それとも残念賞のつもりか、とにかくこれは自分への歌だった。自分達への歌だった。鋼鉄と砂、
消えゆく和音。余韻と雨音。終わる。最後のギグが終わる。俺は、俺達は、二人の男は、擲った全てと引き換えに、この惨めさを手に入れたのだ。
信じて破れて終わるなら、そいつも一つの生き方か────
「それ、なんて曲?」
「なんて曲なの?」
透き通った声色だ。宝石に似ている。シュティードはシドから目線を外し、瞳だけで声の主へ目をやった。
──少年だ。傘を差している。十五にも満たない。カーゴパンツから華奢な脚が覗いており、左手にはスクラップの野良猫。パーマがかった見事な銀髪と、息を呑むような紫の瞳。どうにも掃き溜めらしくない、優雅な雰囲気を放つ子供だった。
「ねえ、なんて曲なの?」
首を傾げ、少年が歩幅も小さく歩み寄る。顔つきが女らしいことも手伝ってか、どうにもその仕草があざとく見えたものだから、シュティードは苦い表情をした。
「……」
「教えてよ」
余韻が台無しだ。ボトルで頭をかち割ってやりたい気分だった。少年はシュティードの顔色なんか窺おうともせず、無垢な表情で惨めなロックンローラーを見上げる。
「僕の話聞いてる?」
「……未定だ。まだタイトルはない」
「未完の芸術ってやつ? いいじゃん」
「何様だクソガキ」
「続けてよ。もっと聴きたいな」
シュティードは野良猫が嫌いだ。子供も嫌いだ。つまり野良猫を抱えた子供なんかは、見てるだけで気分が悪くなるような代物なのだ。
人生の終着点に辿り着いたばかりのロックンローラーには、もう腹を立てる気力もなかった。さっさとシドをケースにしまい込み、シュティードは苛立ち気味に背を向ける。
「待ってよ!」
「失せろ」
「なにさ、その言い方」少年がむっとする。「おじさん、名前は?」
「関係ねえだろ」
「あるよ。だって僕ら出会っちゃったじゃん」
始まりの日の回顧録が、馬鹿馬鹿しくもシュティードの歩みを止める。それがますますシュティードを苛立たせた。こうなるともう、野良猫だとかクソガキだとか雨の日だとかそういう問題ではない。
奇跡などともっともらしく名付けるつもりか。馬鹿馬鹿しい。
「まだ名乗れるような名前はない」
「じゃあ、ミスター・ノーバディーだ。僕、シオン。ただのシオン」
興味なさげにシュティードは歩を進めた。実際に興味はなかった。
「明日もここで弾く?」
鋼鉄のふたりは答えに詰まる。明日のことなんて考えたくなかった。最悪の質問だ。これで考えなくて済むのだと、そう胸を撫で下ろしたところだったのに。
「明日なんてない」
「ボニーとクライド?」
「銀行強盗に見えるか?」
「ううん。役所のおじさんって感じ」
にへ、と頬を緩めて少年は続ける。
「ね、お願い。明日も弾いてよ」
雨と鉄の臭い。シュティードは振り向いて少年を見る。瞳が目を刺し、声が耳を打つ。浄化槽の中で仕立てられた染み一つないワイシャツみたいな笑顔が、シュティードの短い後ろ髪を強く引っ張った。なり損ないが直視するにはあまりに輝きが過ぎた。
そう、ちょうどこういう子供だ。世の中のことを何にも知らなくて、生意気で、斜めに構えていて、背伸びがしたいお年頃。屈託なき微笑みを打算なく露に出来る──こういう子供こそがシュティードの求めていたものだ。だったのだ。
だったってのに、どうして今なんだ。
「お前は」シュティードはまた踵を返す。「遅すぎた」
少年シオンはぽけらと口を開ける。約束もしていないのに遅すぎたとはどういう理屈だ。彼からしてみれば随分と身勝手な落胆だ。
「じゃあ、明日は早く来るから! ここで待っててよ! 友達連れて来るから!」
約束だからね、とシオンの声が聞こえる。それきりシュティードは振り返らない。黙して路地の隅を行き、拠点である寂れたモーテルへ足を進めた。重く、ゆっくりと。
【……シュティード】
「なにも言うな」
【……】
「なにも……」
シュティードは約束を破る奴が嫌いだ。だから守れない約束はしない。
しないと決めた。もう二度としないと決めたのだ。
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