Rewind the time #3 -授業料-




 ブラインドの淵に日差し。借り宿に染み付いた煙草の香り。そしてまた朝が来る。雨上がりの泥濘はたった一夜で干からびて、窓ガラスの向こうのずっと向こうでは、また砂色のざらめ達が柔らかさを取り戻し始めていた。

 街を出る。Bビーブロックとは今日でおさらばだ。シュティードはそう決めた。しかし宿を出るのもタダではないので、まずはチェックアウトの為の代金をこさえることにする。

 向かう先は路地に居を構える廃品店だ。回収屋サルベージャーなどは砂中に沈んだ災害以前の部品を拾って、こういった店で換金して生計を立てる。シュティードはなにも回収屋というわけではないが、余所者を──ましてロックンローラーを雇ってくれる店などないし、他に能もない彼が日銭を稼ぐ手段はこれしかなかった。

「二〇〇〇ネーヴル」

 陽を避けた薄暗い軒先、廃品屋の老婆は片眼鏡モノクルを外すなりしゃがれ声でそう言って、シュティードが出したなけなしの廃品を机に放る。キャタピラのような見てくれから察するに、その廃品は災害時に運用された地上用無人機グランドロンの一部であった。

「てめえクソババア、ぼってんじゃねえ」

 腑に落ちない様子でシュティードは机を叩いた。卓上のネジが小さく跳ねるのに倣い、しわばんだ老婆の眉元もぴくりと揺れる。

「足元見すぎだぜ」シュティードは食い下がる。「五〇〇〇だ」

「二五〇〇」

「四〇〇〇」

「二五〇〇」老婆のモノクルが光る。「それ以上はまからんよ」

「あのなあ、俺がどれだけ苦労してこいつを引っ張り出したと思ってんだ。こちとら重機も持ってねえんだぜ。後生だ、頼む。こいつが最後の一個なんだよ」

「はっきり言うが、あんたが持ってくるパーツは全部ゴミ同然だね」

 大体、とパイプをふかして老婆は続ける。桃色だの紺色だの金色だの、とにかく見た目がやかましいアジアン・テイストの狭苦しい店内に妖しく煙が漂った。

「どれだけ努力したかなんて、ものの価値には関係ない。ガラクタはガラクタだ」

 痛いところを突きやがる。シュティードと一緒になってシドも目を逸らした。

「二五〇〇だ。売るのかい、売らないのかい。ああ、そっちのケース……ギターだろ。あんたいつも路地で歌ってるじゃないか。そっちなら高値で買い取ってやるけどね」

 小さく舌打ち。紙幣二枚と硬貨一枚をひったくり、シュティードは大股で店を出た。出たはいいが手詰まりだった。溜まったモーテルのツケはこの二〇倍近くあるし、売れそうな廃品もこれで最後だ。こうなったらもう、手放せるものは一つもない。

 たった一つ、鋼鉄の相棒を除いては。

 馬鹿な話だと理解してはいる。老婆の言うとおりだ。希少金属で出来たギター、おまけにケースは鰐革わにがわ……買い手がロックンロールを好むか好まざるかはこの際問題ではない。ヴィンテージ・パーツとして充分な価値を持つのだ。向こう一ヶ月は酒にも困らない。

 そうだ。それでおしまいじゃないか。夢は諦めた。男達は負けた。

 なのに────どうして手放せないのだろう。

【……】

 くすぶっているのだ、この男は。ただ腐ったわけではない。ただ諦めたわけではない。挫折の味を噛み締めているのだ。この男は、消し損ねたマッチほどのちっぽけな火種を、砂漠でダイヤの粒を探すようにして大事にその手ですくっている。

 シドはそう信じた。だからなにも言わない。自分でもそれがただの祈りに過ぎないことは分かっていたけれど、シドに出来るのは信じることだけだ。

 ギターはその身をどうとでも振れる。次の弾き手を見つければいい。ひょっとしたらそいつが天下を賑やかすロックンローラーになるかもしれないし、そういうのはもう懲り懲りだと言うなら、名も知らぬ子供の趣味の一つになるのもいいだろう。

 だがシュティードはそうはいかない。もちろんギターを必要としないロックンロールなんてこの世には腐るほどあるが、それではシュティードがシュティードである意味がなくなる。ジミー・ペイジ、ジェフ・ベック、ジミ・ヘンドリクス……名だたるギタリストにあやかったジェイの一文字をその名に重ねた以上、ギターを持たないシュティードに彼の音楽は歌えないのだ。

 手を差し伸べることは突き放すことよりも難しい。そして、倒れた者が起き上がるのをただ待ち続けることは、手を差し伸べることよりもっと難しい。

【…………】

 時に委ねるか。何かのきっかけを待つか。きっかけ? どんな? 一度も泣き言を口にしなかった男が初めて吐いた泣き言を、どんなきっかけが鬨の声に変えてくれるというのだろうか? 

【どうするシュティード。金を稼がないことにはモーテルから出られんぞ】

 結局いい台詞が見つからなくて、シドは中身のない言葉をかける。返事はない。

 背丈はまちまち、人影もまばらな夕暮れの大通り、シュティードは黙って歩を進めた。もちろんアテはなかった。

 肩で風を切る──シュティードの歩みは、いつもならそういう傲慢さを感じさせる。戦火の最前線を開拓するみたいな、我こそはという勢いがそこにあったのだ。

 だが今日は違った。向かい風が哀れみから彼を避けているようにさえ思えた。

 逸れる目線。マーケットの店先にうず高く詰まれた酒のボトル。安いバーボンだ。水で薄めたものに違いない。シュティードはそいつを手にとり、手に入れたばかりの二五〇〇ネーヴルを店主へ投げつけた。

【……おい】

「うるせえ」

 ボトルに口づける。喉を焼くアルコール。やはり薄めてある。こんなものかとシュティードは思った。悪銭身につかずとはよくいったものだ。

 あまりに惨めな酒だ。自暴自棄と慰めの塊。誰だってこんなものは飲みたくない。誰が飲むものかと思っていた。どれだけ落ちぶれたって、酒は飲む為に飲むものであり、逃亡の手段なんかには決してしないのだと。

 気持ちとしてはそうあるつもりだった。しかし、思い返せば今まで飲んできた酒というのは、どれもこれも惨めさの塊のようではないか。どれだけ楽しい気持ちでいたつもりでも、肩口には常に漠然とした不安が乗っている。死神はいつもすぐ傍にいて、自分の首に鎌をあてがったまま、その肩が凝るのを待っているのだ。

 今のシュティードにとって、酒はその視野を狭める為のものでしかなかった。酒のあり方としては最悪の区分けだ。そんなことは彼が一番よく知っている。

 それでも飲まずにはいられなかった。そうしなければ生きていけないからだ。他に理由なんてない。慰めなんかじゃなく、生きる為に必要なことだからだ……そう言いわけしながらシュティードは酒を煽り続けた。そうすることで屈辱を飲み下した。

 ボトルが空になるまでそれは続いた。最後の一滴を地面に垂らしてみれば、後は空っぽの瓶が残るだけ。さらばなけなしの二五〇〇ネーヴル。

 道端にひっそりと瓶を置いて、シュティードはまた歩き出した。スヘッツコーツの喧騒を、出来る限り耳から取り除きながら。

【宿に戻らないのか】

「……戻ってどうすんだよ」

 五分ほど歩いて足が止まった。

 目線の先には罅割れた路地のコンクリート。気まぐれな雨雲が去り、強烈な日差しによって一夜で干からびた水溜り……その痕跡。ちょうどシオンが現れた路地でもあり、二人が夢を託していた場所でもある。

 昨日はあんなにしけた面をしていやがったのに──去りゆく気まぐれな曇天を、鋼鉄のふたりはそういう心持ちで睨み上げた。


【未練か】


 とうとう口にしやがった──シュティードはそう思った。コリブリの火花でシドを黙らせ、慰めるように鼻孔から煙を吐き出す。

 それはお前だろ、と言ってやりたかった。もちろん口にはしない。口にすれば、飲み込んだ諦めの悪さが喉の奥から這い出てきそうだった。

「やめると決めた」コンクリの壁に背を預けて言うシュティード。「だから終わりだ」

【なら何故ここにきた?】

「黙れ。だいたい散々諦めろ諦めろってうるさかったのはお前のほうだろ。今更なんだ、どっちなんだよ」

【あれは……】シドは口ごもる。【……本気でそう言ったわけじゃない。言い訳にしか聞こえないだろうが、必要な言葉だった。そのぐらいわかるだろ】

「親切と自己満足を履き違えてるぜ」

【褒めて欲しかったのか? ガキじゃあるまいし】

「そうは言ってねえだろ」

 ただの言い訳なのか本心なのか、シドの言葉の真意をシュティードは測りかねた。自分と同じく諦め切れていないようにも思えた。敗北と挫折がもたらした後味の悪さを、その場の勢いで鞘走った感情なのだと是正せねばならないほどに。

 人の気持ちを想像するのは得意じゃなかったし、今更どっちでも同じだ。そして、そのやさぐれた心のは、シュティードの表情に出てしまっていた。

【やさぐれるな】と、シド。【指揮者は台を降りるまで一礼しない】

「クラシックのルールなんか知ったことか」

【ものの例えだ。スターのつもりでステージに上がったなら、スターのつもりでステージを降りなきゃならない】

「客もいねえのにか?」

【それでも歌うと決めたのは貴様だ。そもそも負けて当たり前の戦いだった】

 キレのいい舌打ちが一つ。シュティードがケースに掴みかかる。

「てめえ、その場の勢いで言っていいことと悪いことがあるぞ」

【その場の勢いでやめるだなんだと口にした貴様に言われたくはないな。大体、競り合う相手もいないのに誰に勝つというんだ】

「敵は常に自分だ」

【あぁーあそれだ、それ。その青臭い考えが貴様の驕りなんだよ】

 呆れたようにシドは吐き捨てた。そうしてみせた。優しい言葉のかけ方など知らない彼では、もうこういう手段しか思いつけなかった。

【貴様が戦っていた相手は自分なんかじゃない。クレイジー・ジョーだ。第二のクレイジー・ジョーなどという馬鹿な目標を掲げた時点で勝ち目はなかった。死人を相手にしてるんだぞ。死んだ連中が行くところは棺桶の中と相場が決まっているし、追いかけるもなにもない。奴らはずっとそこにいるんだ】

「てめえ今までずっとそう思ってたのか? そう思いながら、俺の夢が叶わねえと思っていながら、わざわざここまでやってきたってのか? 冗談だろ、信じられねえ。なんて性格の悪いヤローだ」

【一度このぐらいの挫折でもしなきゃ、貴様のような奴は人の話を聞かないじゃないか。クソガキというのは大体そうだ。痛い目を見るまで分からない。オレ様が言って大人しくやり方を変えたか? ええ? 出会い頭にも同じ事を言ったはずだぞ】

 言い返そうとしてシュティードは返答に詰まる。自分の考えに固執してきたのは事実だ。ここまではそれが正解だと思っていたのだ。ここまでは。

【死んだら一生安泰だ。ジミヘンも言ってたろう。伝説となって死んだ奴を追い抜くことはできない。出来るのは、ただ追いすがることだけだよ】

 そんなもの、とシド。

【勝負とは言わない】

「……」

 不穏な空気と鋼鉄の香りを嗅ぎ付け、スクラップの野良猫がシュティードに擦り寄る。

【貴様だって薄々わかってたはずだ。だから〝継承〟なんてお為ごかしな言葉を言い訳に使った】

「そいつに関しちゃ嘘は言ってない」

【だが言い訳にしたのは事実だ。それとも貴様なりのジョークか? だったらナンセンスだ。とことんナンセンスだよ、貴様は。そんな戦い方で負けてステージを去るのはもっとナンセンスだ】

 ごにゃあ。革靴が野良猫を蹴り飛ばした。

「いちいち口うるせえな、俺はてめえの息子じゃねえんだぞ!」

【息子? 貴様のような馬鹿者が? 願い下げだな。一人いたがとうに死んだ】

「はん。納得だぜ。俺に影でも重ねたか。それこそ後追いだ」

【そんなつもりで言ってるんじゃない!】

「どうだかな。どっちにしろ余計なお世話だしいい迷惑だ」

 びょ、とシドの目玉が飛び出た。

【いい加減にしろ! そうやってと自惚れて人の話を聞こうともしないから痛い目を見るんだ! 貴様のやり方で勝てないことはもう充分に分かったはずだ。なら次だ。次はどうする? また同じやり方を繰り返すのか? そしてまた同じように挫折するのか! 貴様は自分の筋を通すことにこだわりすぎなんだ!】

「黙れうるせえくたばれ死ね! 次なんてねえしここで終わりだ! そう決めた!」

【なら何故オレ様を手放さないんだ!】

 言ってしまったとシドは思った。シュティードがはっと目を見開いて、そののち静かに歯を食いしばる。ごつごつとした拳が固く握られ、野良猫がまた彼の足に寄り添った。

【……とにかく、未練があるならもう一度立ち上がれ】

「……」

【今度は後追いや継承の為ではなく、貴様自身の為にだ。貴様が貴様であるためにのみ立ち上がれ。きっとその方がいい】

「……」

【楽しめ、シュティード。何者かになろうとか、未来の為にだとか、そんなことは二の次でいいんだ。音を楽しむんだ】

 簡単なことではないと知っていた。それでもシドは伏し目がちに続ける。

【昨日演奏した、あの、名もない曲……あの路線でやってみろ。貴様の声にはそのほうが合っている。クレイジー・ジョーの声より中高域の聞こえがいい。リフ・ワークに関してもそうだ。こうあるべきだとロックンロールの雛形を模倣するのではなく、貴様なりにそれを噛み砕いた曲を作っていけ。なにもクレイジー・ジョーばかり聴いてきたわけじゃあないんだろう】

「……それじゃあクレイジー・ジョーにはならねえだろ」

【まだそんなこと言ってるのか。エッセンスが一滴でもあれば音楽は受け継がれる──そう言ったのは貴様だぞ。そのやり方でも問題はないはずだ】

 そうとも。問題はここからである。これまでが終わればここからが始まる。ただ意固地であればいいという話でもない。ようは頭の使いどころなのだ。うちのめされ、攻め口を改め、そうして初めて気付くこともあるだろう。

 授業料。この喉にへばりついた後味の悪さは、あまりに高すぎた授業料なのだ。

 だがシュティードのプライドが──負け犬として固めてしまった歪な芯が、彼の揺らぎを許してくれない。

【きっと……】シドはためらいがちに言った。【……貴様の探し物はその先で見つかる。そこにしかないんだ】

「……なんだよ、探し物って」

【さあな。少なくともマーケットには並んでないし、貴様の演奏に足りなかったものだ】

 魂。またそれかとシュティードは苛立った。

 それが自分の敗因だというのか。らしさらしさとオリジナリティを求めることが、それほどまでに高くそびえるというのか。形も見えないたかだか二十一グラムぽっちのちっぽけなが、万物を万物たらしめるというのか。

 存在を、自己をさえ──それたらしめるというのか。

「形のないものは信じちゃいない」

【見えていないだけだ。いずれ見える】

「……それがそんなに大事なことかよ」

【……普通など趣味じゃないと言ったのは……貴様自身だろう】

 自分らしくあることが、それほどえらいことなのだろうか。シュティードには分からないし、仮にそうなら気に食わない。自己などただの歯車だ。特徴のない普通の人間など世の中にはごまんといる。

 だが、そちら側に行くことをよしとしなかったのは、そうあるべきだと自分に課したのは他ならぬ自分自身だ。そしてそれがシュティードにとってのであり、それがかくも困難でありながらも裏切れぬものだからこそ、シュティードは葛藤する。

 言われてみればおかしな話だ。自分こそは特別だと信じていたのに、やろうとしていたことは伝説の後追い。

 それはまさしくクレイジー・ジョーに魅せられた者の末路であった。その音楽に、美学に──この世で唯一自分こそはかけがえのきかぬ自分であるという生き方に──飲まれてしまった者の末路。

 そうだ。俺は一体なにをやっていたんだ。

 らしくあろうとしたその思想すら、ただの受け売りだったんじゃないか。

「……俺は……」

 シュティードはひどく陰鬱な気分になって、固く唇を結んだまま俯いた。最悪だ。こんな時に限って雨雲はいない。もやをそそいでくれる者はここにはいない。

【それでも街を去るというのなら止めはしない。貴様の人生だ。だが背中が見えなくなるその瞬間まではロックンローラーであり続けろ】

 往来を見やりシドは言う。なんだ、今日は歌わないのか──幾多の人々の目はそういう色をしていた。そこにもはや軽蔑はなく、ただ無関心のみがあった。

 もうこの街に、Jジェイという歌うたいはいてもいなくても同じだった。

「……未練ったらしいんだよ」

【後を濁すなと言ってるんだ。貴様だってそうあろうとしたはずだ】

「どうでもいい。もう終わったんだ。そういう去り方もある」

【だから、やさぐれるな。誰がそれを片すと思っとるんだ】

「知るか。そんなことは明日の俺に任せればいい」

【明日の貴様に殴られるぞ】

「それが日課だ」

 シドが溜息で会話を終わらせた。ジョークの次は大体これと相場が決まっていた。

 五分、十分、十五分。待てど暮らせど無為無策。並べた吸殻とコンクリの汚れ、それから路地の向こうの大通りを往く人影だけが増えていく。

【……弾かないのか】

 三〇分を過ぎたあたりでシドが言う。

【〝マシンガン・トーク〟のキメがまだ甘かったぞ。練習しておけ】

「……気分じゃない」

 女の言い草で話を終わらせて、シュティードはマンホールの上に寝転がった。


 町の音がどうにも物足りない。そこには誰の音楽もないから。いつもなら自分が埋めていた隙間だ。アンプの前に立つとうるさく感じてくるのに、離れすぎると迫力に欠ける。エレクトリック・ギターの奏でる音というのは大体そういうものだった。

 ゆっくりと流れるマキネシアの空。監獄に似た絶海の孤島、その頭上にあるあの雲は、きっと世界の隅々を渡り、海の向こうのロックンロールを、未だ誰も知らぬ音楽をさえ耳にしてきたに違いない。

 自分が奏でてきた音楽は、あの雲にはどう聴こえたのだろう。肌には合わなかっただろうか。速く過ぎるのはそのせいだろうか。だから今日の雲は遅いのだろうか。ここでギターを掻き鳴らしたら、あいつは一目散に北極圏へと逃げ出すだろうか。

 楽しかった。楽しかったはずだ。いつからか苦悩にすり替わった。弦を張り替えることすら憂鬱で、腕が鉛のように重くなっていった。どんなに弾いても満足できず、演奏の物足りなさに腹が立ち、その差を埋めようと焦るものだから更に上手くいかなくなる。

 昨日の自分に追い越されぬよう、追われた分だけ逃げ続けた。音を楽しめなくなってしまっていた。そんな余裕はどこにもなかったんだ。

 わからない。わからくなってしまった。音楽はどんな風に人の心を昂ぶらせていただろう。この心臓はどんな風に高鳴っていただろう。どんな風に……。

【シュティード。貴様に一つ話しておかなければならないことがある】

 ハードケースから一人でに飛び出て、シドがヘッドを軽く揺らす。

【この、オレ様に積まれている粒子管……こいつは〝フリップブラック〟という。積まれているのは少々小振りなものだが、濃度六〇パーセント級の粒子管だ】

 シドの言葉はシュティードの耳を通り抜ける。市街のニュースでも聞いているような気分だった。

【こいつには時を巻き戻す力がある】

「与太話だ、そんなもん」

【与太話じゃない。六〇パーセント級以上の粒子管二つをフルドライブさせて、臨界状態になったイザクト粒子同士をぶつけると、粒子領域の扉が開く。イザクト事変も恐らくはそれが原因だ。貴様も見たはずだ、常磐色ときわいろの輝きを】

「だからなんだ? 今それ関係あんのかよ?」

【イザクト粒子は世界の挙動を記録している。全宇宙に散らばる膨大なストレージだ。言わばその中に世界を宿していて、これこそが世界を世界たらしめている。極めてミクロなマクロだよ。この粒が、万物を万物たらしめる】

 自我をさえ────またシュティードの腸が煮え立った。

字引じびきかてめえは。さっさと要件を言え」

【望むなら過去に戻れる。きっと、ロックンロールが滅びる前の時代にさえ……】

「人生にやり直しがあってたまるか」

 シュティードはそう切り捨てた。これ以上惨めな言い訳を重ねたくなかった。

「言ったろ、形のないものは信じねえ。オカルトも、スピリチュアルなら尚更だ」

【オカルトじゃない。内部地球アルザルもきちんと存在は証明されて……】

「大体、時が巻き戻るなんて保証はどこにもねえ。仮にそいつが事実だとして、イザクト事変で何がどう巻き戻った? ええ? 島の外側一回しがアナログ時代に逆戻りしたのを、時が巻き戻ったとでも言うつもりか。寝言ほざくのも大概にしろ」

 シドは閉口する。復興途中にあるこの町の奥の奥、粒子汚染が溶けきらぬ麦畑……黄金色こがねいろの稲穂が残らず真鍮しんちゅうに変わり果てた姿を一目見れば、それがロマンチックだとは寝言でも言えなかった。

 積み上げたものを更地に変えることが許されるのは、破壊ののちに創造があるからだ。イザクト事変は創造の余地を残さず、ただそれまでの全てを鋼鉄に変え、そして人々の生活を奪い去っただけに過ぎない。それによって粒子開発が進歩したところで、恩恵に与るのは市街の住民だけであり──掃き溜めに落ちた者達は、壊れたものの破片を繋ぎ合わせて生きるしかないのだ。

 そこに希望など欠片もないし、第一、自分の願望のために世の中を丸ごと巻き戻すなんて思想は、馬鹿馬鹿しすぎてシュティードの手にあまる。

「……犯した過ちを白紙には戻せない」

 とつとつと言葉をつむぐシュティード。

「こうなる運命だったんだ。ロックンロールも、俺達も」

【……運命なんて言葉を使うな。貴様の嫌いな言葉だったハズだ】

「……ならただの結果だ」

 どっちだっていいのだ。彼の顔にはまたそう書かれていた。

【オレ様を捨てろ、シュティード。でなければ売ってここを去れ】

 シドはきっぱりと言った。きっと、こうしなければこの男は未練を断てない。

 当たるかもわからないの切れ端を抱えたままくすぶり続ける人生なんて──あんまりに残酷だ。

【粒子管はZACTザクトが取り締まっている。オレ様といる限り貴様に安息はない】

 それに、とシドは続ける。

【弾かないなら、貴様がオレ様を持っていても意味はない】

「……安息がないのはロックンロールをやってる限り同じことだ」

【だから、やめるのなら貴様はただの……】

「黙れ。自分のことは自分で決める。進むも戻るも自分で決めるんだ」

【……】

「そうしてきたんだ……」

 アメリカン・スピリットの煙がか細く消える。火がフィルターまで上りきったのだ。風の一吹きで消し飛んでしまいそうな灰の巨塔を口に咥えたまま、シュティードは微動だにすることなく、同じく微動だにしない雲を眺め続けた。

 なーう、と耳元で鳴き声がした。スクラップの野良猫だ。来たぞと言わんばかりに礼儀正しく座っている。黄金のボディを眼の端に捉え、シュティードはまた眼を閉じて一言だけ呟いた。

「揺らすなよ」

 理解したのかしていないのか、なう、と小さく返事をして、野良猫はシュティードの腹の上に寝そべった。注文通り、揺らさぬようにそっとだ。

「俺も一つ話さなきゃいけねえことがある」

【なんだ】

「お前に言うのは、あてつけみたいであんまりいい気は……」

【いいから言え】

「俺は……」

 最後まで言うまいと決めていた言葉だ。彼にとっては今がその時だった。シュティードにその決意を固めさせるほどに、そびえた壁は厚く、高く、長く……無窮むきゅうにすら思えた。

「俺の正体は……」

 シュティードはそこで口をつぐんだ。

 言葉が浮かばぬわけではない。ただ、耳を凝らすと小さく聞こえてくる音が耳障りなのだ。野良猫の鳴き声だろうか。いや違う。もっと遠くから聞こえる音だ。

【……なんだ、気になるとこで止めるな】

「静かにしろ」

 右へ左へ視線を動かす。足音。誰かの足音だ。続いて声が聞こえる。


『あれっ、開かない。おかしいな』


 大通りの方ではない。なんだかくぐもった感じがする。風呂場か、それとも土管の中。反響しながら迫ってきている。まるでマンホールの下から──

「あん?」

 背中に強烈な一撃。ぶにゃあと野良猫が鳴く。マンホールの蓋と灰、それから野良猫と一緒くたになってシュティードが宙を舞った。

【はん!?】

 ブーツを履いた小柄な脚が丸穴から覗いている。がん、と音を立ててシュティードがゴミ箱に落下すると同時、引っ込んだ足の代わりに少年がひょこりと顔を出した。

 まばゆい銀の髪と紫の瞳。昨日、雨と共にやってきた少年──シオンだ。

「おはよう、おじさん」

 素知らぬ顔でシオンはそう言う。

「殺すぞクソガキャあ!」

「だってまさかマンホールの上にいるとは思わないじゃん!」

「マンホールから人が出てくるとは思わねえだろうが!」

 人差し指を左右に振るシオン。なんとも憎たらしげだ。

「仕事に予想外はつきものだよ」

「そっくり返すぜクソガキが。そもそもてめえと会うのは仕事でもなんでも……」

 シオンはシュティードの話など聴こうともしない。どころかとことん彼の神経を逆撫でする。マンホールに両手を突っ込んだかと思うと、取り出したのは牛革製のギグ・バッグではないか。

「……」

 エレクトリック・ギターである。シュティードは頭を抱えた。よりにもよって今一番見たくないものだ。ストラトキャスター・タイプのシングルコイル。ロゴは削れていてメーカーは判別できないが、ボディの彫刻エングレイヴの精緻さからして、相当な値打ちものであるらしい。

 シオンはそいつのチューニング・ペグを回し、全ての弦を半音下げにして、微笑みながらシュティードへと差し出した。

「……なんだ?」

「はい、約束だよ。弾いて」

 核弾頭の発射ボタンを押せと言われた気分だった。

「俺は守れない約束はしねえ」

「じゃあ約束じゃなくてお願い。ね、弾いてよ」

「失せろ。弾かねえったら弾かねえ」

 ざらついたメイプルの指板。鈍色にびいろの弦。シュティードはフレットに目を落として呟く。

「……俺はもうやめたんだ。ロックンローラーでもなんでもねえんだよ」

 取り付くしまもなかった。ここは島なのに。シオンは首を傾げる。

「昨日は弾いてたのに? 変なの。じゃあ今日だけ復活してよ。昔のバンドはよくやってたんでしょ、再結成っていうのかな、そういうやつ」

「しつけえうるせえくたばれ失せろ」

「なにさその言い草!」

 頬を膨らませるシオン。そののち彼はギターを引っ込める。

「……あっそ。もういい。じゃあ僕が弾くから教えてよ」

「なに?」

 シオンはストラップを首からかけるなり、ゴミ箱に飛び乗って人差し指を立てる。ドル箱スターかショウマンか。シャッフル調の軽快なリズムに合わせて展開されるペンタトニック・スケールのリフが、またシュティードをじめじめした気分にさせた。

 〝シスター・ビーツ〟だ。歌詞はいまいち知らないのか、それとも覚えていないのか、シオンはふにゃふにゃと曖昧な音韻おんいんで歌ってみせる。

「どう? 闇サイトに落っこちてた音源、真似してみたの。やるもんでしょ」

 どこで覚えたかもわからぬメロイック・サインを掲げ、シオンはぴょんとゴミ箱から降り立つ。初々しい銀の髪が大きく揺れた。

【……おいシュティード】

「なんだ」

 輝くシドの瞳。こころなしか血管らしき装飾線もどくどくと脈打っている。

【……少年ってやつは……まったく最高だな……】

 どんな小言より真剣にシドは言った。

「……俺は時々お前がわからなくなるよ」

【どストレートだ。こういう輝きこそ後世に伝えるべき財産だね】

「少なくともてめえの血は途絶えて正解だったな……」

 シオンがシドの目を覗き込んだ。

「このギター、喋るの?」

【よくぞ聞いてくれた。何を隠そうオレ様は超ド級のヴィンテージ……一流のギターともなれば喋るぐらいわけはない。名前? 生憎オレ様に名前はない。全ての道はローマに通じるというが、ここマキネシアでは全ての道は……】

喋る遺産ゴシップだよね。ぼくそれ知ってる。図書館のアーカイブで見たよ」

【……可愛げのないクソガキだ】

 言って、シドがぐるぐると宙を回る。

【だぁがそこがいい! どストライクど真ん中直行バンザイ空振り三振だ! いいぞ、実にいいな、うむ。やはり子供というのはこうでなくてはならない】

「……」

【シド。オレ様の名はシドだ】

 ふふん、と得意げな笑みを漏らすシド。まるでたちの悪い引っかけ師だ。

【破滅的だろう? だがヴィシャスから取ったわけじゃない】

「破滅的? よくわかんない」

【小僧、貴様いくつだ】

「……十二さ」

【フゥー!】綺麗な裏声で吼えるシド。【ダディーブラザーリトルボーイ!】

「……」

 誰にでも心の闇はある。シドの場合はこれがそうだった。それはもう、シュティードでさえ掘り下げるのをはばかられるほどの闇だ。人の性癖なんてものは深く触れないに限るし、思想は自由なのだ。咎める権利はない。ただ軽蔑する自由があるだけで。

 少年趣味のギターに出会ったのは初めてなものだから、シオンはどんな顔をしていいやらわからない。興奮しながらぐるぐる回るシドを眺め、棒立ちでその場に立ち尽くす。

「気にするな」シュティードはようやく口を開いた。「こいつは病気なんだ」

【なんだと貴様! わかっちゃいないな。いいか、少年というのは一つの概念なんだ。反抗心と小生意気さを抱え、それでいて肉体にはあどけなさを秘めている! 大人になろうとするその精神とそれに追いつかぬ肉体のミスマッチ、先走る若さ! あふれる神聖性! 素直な方が絶対かわいいが男は誰でもかっこよくありたい! そういう心構えが少年を少年たらしめているんだ! 子供から大人の領域へ自ら一歩踏み出さんとするその】

「この人やばいよ」やっとのことでシオンは言った。「変態じゃん」

【あっ! いいぞ! もっと言ってくれ!】

「……」

 しかめっ面で一歩下がるシオン。逃すまいとシドが更に詰め寄る。

【どうした! もっと来いよ! そんなものか! さあ罵ってみろ! 言っとくがオレ様はこんなものじゃないぞ! ほらほらどうした! 早くしろ! さあ! さあ!!】

 業を煮やしたシュティードがシールドを握る。プラグがシドのジャックに勢い良く突き立てられ、あふん、と妙な声が漏れた。尻に傘を突っ込まれるようなものだ。

「ちょっと黙ってろ」

【き、貴様はお呼びじゃない……】

「お呼びじゃないのはテメーだよ」

 痙攣するシドをよそ目に溜息をつき、シュティードはシオンに向き直る。

「シスター・ビーツ……自分で採譜したのか」

「ううん。採譜はしてないよ。授業では習うんだけど、よくわかんないし、うちには楽譜作るソフトがないから。学校のパソコンで打ち込むわけにもいかないでしょ」

 クレイジー・ジョーの楽曲に譜面は存在しない。消されたわけではなく元々存在しないのだ。一説によれば、悪魔との契約によってその感性を授かったクレイジー・ジョーは、音の姿──つまり〝波〟の形を視覚的にとらえることが出来たため、頭の中だけで楽曲を完成させることが出来たのだという。

 それに関してはただの伝説の域を出ない。だが彼の楽曲をコピーする際、耳で聴き取る以外の方法が存在しないのは事実だ。これは今も昔も変わらないし、譜面を演奏することよりそちらの方が圧倒的に難しいのも同じことだった。

 シオンぐらいの歳の子供がそれをやってのけたものだから、鋼鉄のふたりは形無しだ。かつて一流と呼ばれていたミュージシャン達でさえ、耳だけを頼りに音源を再現するのは困難を極める。第一に正確無比な音感が必要であるし、第二に楽器と奏法に対する深い理解が必要だ。そして第三にニュアンスの違いを理解する耳を持っていなければならない。

 チューナーもなしに調弦したことから、どうやら彼の場合、耳に関しては一流をも凌ぐ代物らしい。あくまで耳に関しては。

【おい小僧】痙攣から脱したシドが問う。【いつからギターを弾いている】

「二ヶ月前だよ。拾ってからずっと弾いてる」

【なんだと!】

 シドの目玉が大きく飛び出る。そののち膨れ上がって弾けて、またにょっきりと目が浮かんできた。

【二ヶ月。なんてことだ。死にたくなってきた】

「もう死んだだろ」

【そうだった。いや全く子供というのは素晴らしいな。二ヶ月でそれは大したものだ】

 シオンは得意げに胸を張る。背伸びのおまけつきだった。またシドがやかましくなりそうなので、シュティードは先に殴っておく。

【だが何故シスター・ビートを? そいつはクレイジー・ジョーの中でもかなり難しい曲だぞ。もっと簡単なのがあっただろう】

「え? だってこれ弾きたかったし」

 シオンは間の抜けた顔でそう答える。単純な理由だ。だがそれで良かった。世代の継承なんて大層な言葉を使うよりはよっぽどいい。

「ねえ、どう。どうよおじさん。おじさんもなんとか言ってよ。意外とやるでしょ」

「黙れクソガキ。いい気になるなよ。俺の方がうまい」

 嫌味ったらしく口角を下げて凄むシュティード。

「ひがまないでよ」

「ひがみじゃねえよ!」

「じゃあ弾いてみてよ」

「誰がそんな手に乗るか。子供相手にみっともない……」

「へぇー」

 わざとらしく言ってにやつき、シオンは石ころを蹴っ飛ばす。

「あっそう。へぇー。弾けないんだ。そうだよね。僕より下手なのがバレちゃうもんね。弾けないんなら僕の勝ちでいいよね。僕の勝ちだからね」

「そうじゃなくて俺は」

「根性なし」

 ぶちん。シュティードの中で何かが切れた。

【……おい、ムキになるなシュティード】

「てめぇクソガキ後悔すんなよ」

【あぁもう】

 そこからは早かった。開くケースと握られるピック。半音下げの跳ねたリズム。赤毛の歌うたいは以前の調子で──どころかよりキレた勢いでリフをかます。よりにもよってシスター・ビートという悪意まみれの選曲だ。シュティードはそういう奴だった。

 お手本を示すように一頻り鳴らした後、最後にコードを短く切り、シュティードはシオンを鼻で笑ってやった。とても大人の表情とは思えない、猥褻さがとっ散らかった顔つきで。

「……」

「おらどうだ、なんとか言ってみろクソガキ。降参か? 降参だな?」

「……降参じゃないし。負けてないし」

「なんだ終わりか。根性なし」

「うるさいなあ!」

 言ってはみるが演奏に関してはシオンの完敗であった。苛立ちに沿ってその瞳が細まり、表情が曇ってゆく。悔しさと怒りがぐちゃぐちゃに入り混じっていた。目の端がほんのりと充血していて、ちょいとつつけば涙がこぼれて来そうだ。

【恥を知れシュティード】シドが呆れるのも当然だった。【積み重ねてきたものが違いすぎる。勝負になるならないじゃなく、勝負すること自体が馬鹿馬鹿しい】

「俺は売られた喧嘩を買っただけだ」

【安物買いが……】

「金は失ってねえだろ」

【どっちにしろ一文なしだ】

 シオンはまた石ころを蹴っ飛ばす。今度は膨れっ面と無言のランチセットだった。

「すねてんじゃねえよ」

「すねてないもん!」

「子供扱いすんなって言うからお望み通りそうしてやったんだ。今更そいつを言い訳にはさせねえぜ」

「調子に乗んないでよ! 大人なんだから上手いのは当たり前じゃん!」

「その当たり前に喧嘩を売ったのはお前だ。大人をなめんなよクソガキ」

 どちらかというと貴様の方が大人の在り方をなめているのでは──シドはそう思うが口には出さない。

「ばっかじゃないの。子供相手に本気出しちゃって……」

「褒めて欲しかったのか?」

 見透かされたような気がしてシオンは顔をそむけた。

「そうじゃない! そうじゃないけど……」

「悪いが音楽をやる奴相手に手抜きはしねえ。そう決めてる」

「……子供でも?」

「礼儀だからな」シュティードは譲らなかった。「相手に合わせてレベルを下げるなんて人をなめ腐ったクズのやることだ」

「じゃおじさんはよくやるんだ」

「しばくぞクソガキ」

 クロスで弦と指板を拭き上げ、シドをケースに戻すシュティード。そののちちょっと言い過ぎたかなどと内省してみたりもして、少し言い辛そうにシオンへ声をかける。

「……急ぐな。二ヶ月でそれなら充分だ」

 八つ当たり気味に野良猫の頭を引っぱたくシオン。にゃあごと悲鳴が上がった。

「やめてよ。そんな言い訳じみた言葉使いたくない」

「だったらストレートに言うぜ。ミュートが甘い。ピッキングも弱い。リズムもよろけてる。力を入れすぎだ」

 要するに、とシュティード。

「基礎練習がなってない」

「はぁー。大人はみんなそう言う」

 ゴミ箱にひょいと尻を預け、シオンは口先を尖らせた。

「僕、練習嫌いなんだよね」

 揺れるシュティードの眉。こつこつ、こつこつとゴミ箱を打つシオンのブーツの踵がシスター・ビーツを思わせるBPMテンポを刻んだ。やはりこれも少しよれている。

「楽譜が嫌いなの。運命が決まっちゃってるから」

「バカ。ギターだって楽譜は重要だ。読譜も採譜もせずに音楽やろうなんてなぁ元々虫が良すぎる話なんだよ。そんなふざけた真似が許されるのはクレイジー・ジョーみてえな」

「だから、僕はそういう風になりたいんだって!」

「世の中なめるのも大概にしとけよ」

 シュティードは真摯な声色で言う。好きでそうしたわけではなかった。大体、世の中をなめていたのは自分の方だ。

「練習が嫌いだと言ったな。クレイジー・ジョーが何の練習もせずに才能だけで成り上がったと思ってんのか? そんなムカつく奴がこの世にいたら俺が真っ先に殺してるね」

「……そうは言ってないじゃん」

「好きで歌うたいを目指してんだろ。好きでもないことをやるのが嫌だから好きなことで飯を食ってこう、なんて厚かましいこと言ってんだぜ。そのうえ好きなことまで努力できなくなっちまったら、ほんとに人生おしまいだ」

 説教臭いとシュティードは思った。自分が吐いた台詞なのに。

 シオンへ向けた言葉のはずが、自分の胸糞まで悪くなってくる。

「負けたらどんな言い訳も通じなくなる。結果が全てだ。それで落ちぶれたあかつきにゃ末路は二つに一つ。酒びたりで廃品を漁る能無しになるか、暴力で全てを解決する無法者になるか……」

 なにくそとシオンは腕組みしてみる。けれど気持ちと裏腹に、忙しなく動いていた足は随分と大人しくなっていた。言葉が絡み付いているみたいだ。

「……そもそも」歌うたいの表情は曇った。「努力したって博打にゃ違いねえんだ。保証があるわけじゃない。ただ期待値を一〇〇に近づけるだけなんだよ」

「……」

漸近ぜんきんなんだ。どれだけ近付いたって、一〇〇にはならない……」

「……期待値ってなに」

「あぁおい嘘だろ。ここまで馬鹿だなんて」

「漸近ってなに!」

 こめかみを押さえるシュティード。もやもやを晴らせぬままシオンは顔をしかめた。

「ふんだ。まあいいや。基礎練習ね。やるよ。やればいいんでしょ。ロックンローラーになるためだもん、そのぐらい出来なきゃね」

 これまた馬鹿な話だ。シュティードの狼狽はまだまだ終わらない。

「馬鹿も休み休み言え。お前、市街育ちだろ」

「分かるんだね」

「当たり前だ。だってのに、なんでロックンローラーなんだよ」

「夢があるじゃん。ロックンロールってかっこいいし」

 シオンは笑った。

「学校でさ、将来の夢を発表する時間があったんだけど、みんな教師とか、サラリーマンとか、作業員とか、そういうのばっかりなんだよ。信じられる? 絶対テキトーに言ってるよ。いくら大人になる頃には適職診断シャングリラが教えてくれるようになるからって、僕らの歳からそんなこと言ってちゃ人生おしまいだよ」

「……そう悪いことでもねえだろ。作業員なんか夢がある」

 言ってみただけだ。ぼけた顔にそう書かれていた。

「そんなことないよ。だって、そんなの機械で出来ちゃうじゃん。実際、工業用のロボットが普及してから、色んな人が仕事をなくしてるし……管理するだけの仕事なんてつまんないよ。そういうのにはなりたくないんだ。夢がないもん」

 野良猫を撫でてシオンは続けた。横顔は少し寂しげにも見える。

「みんな普通だ。人と同じことばっかり言うし、人と同じことばっかりやろうとする。少し人と違うこと言うだけでけなしてくる。機械みたいでつまんない」

「……機械?」

「機械だよ、あんなの。夢がない奴なんて駄目だ」

 クレイジー・ジョーみたいなことを言う奴だ。失笑とともにシドのターンが始まる。

【まともな仕事に就くことをオススメするぞ、小僧】

 シオンは勢いよくゴミ箱から飛び降りた。

「なんでそんなこというの?」

【未来を選ぶには若すぎるからだ。貴様には他の生き方が残されている。あらゆる可能性がこれから育まれる以上、安直に音楽で生きていくなどと掲げるものじゃあない。大体、ロックンローラーは職業じゃない。自称すれば誰でもなれる。ZACTけいさつがロックンロールをどう思っているか知らないわけじゃないだろう】

 シオンは不愉快そうに目を細めた。そんなことぐらいは彼にだって分かっているのだ。

「僕は駄目なのにおじさんはいいの? そんなのおかしいよ」

【こいつにはそれしかなかったからだ】

 ひどい言われようだ。シュティードは大げさに顎を上げた。

【それしか能がないようなどうしようもない連中こそが音楽をやるべきなんだ。そういう奴らが歌うからこそ音楽は美しい。学があって、知恵もあって、やろうと思えばどこからでもやり直しがきいて……そんな奴らがロカビリーを歌ったってただのお遊びだ】

「卑怯だよ、そんな言い草」

 声を荒げるシオン。首の筋が強張っている。野良猫がとたりと地に降りた。

「自分が食べていけなくなるから、賢い人に入ってきてほしくないんでしょ。だって賢い人は上手くやっちゃうもん。一つしかやり方を知らない人より、色んなやり方知ってる人の方がうまくやるに決まってる」

 シュティードには耳が痛い話だ。逃げるように煙草に火を点けた。

「不器用に生きてる人が歌う方が美しいだなんて、それはシドがそうあってほしいと思ってるだけじゃないか」

【……】

 シドは腹の底がぐっと重くなるのを感じる。彼なりに思うところがあって言ったつもりだった。しかし、この言い方で汲み取れというほうが無理な話だし、きっとそれはシドにしかわからない気持ちだ。

【……なんとか言ってやれ、シュティード】

 シュティードは煙と共に前髪を吹き上げる。気分はピンチヒッターだ。

「悪いが俺はクソガキと同感だ。そもそも、天文学だの数学だのと密接な関わりを持つように、音楽は学問の一つから発展した。リベラル・アーツって言うだろ。賢い連中がいなきゃ今の音楽はなかったんだぜ」

【むぅ……】

「だいたいお前、ちょっと考えてもみろよ。賢い奴らがいないと馬鹿が目立たねえだろ。うまいこと釣り合い取れるようになってんだよ」

 それに、とシュティードは続けた。

「それしかなかったなんて理由で音楽を選ぶ奴より、他の選択肢もあるのにあえて音楽を選んだ──そういう連中のほうがクールだと思うが」

【……オレ様にはそれしかなかったんだ】

「お前の事情は知らねえよ。やりたい奴がやればいい。そういうもんだろ」

【……ああいや、すまない。こんなことを言いたかったわけじゃない。オレ様は……】

 右へ左へシドの眼が移ろい、そして真ん中に返ってきた。

【オレ様はただ……夢に飲まれて死んでいくやつを、これ以上見たくないんだ】

 シュティードは地面の皹に視線を落とした。他にどこを見ていいかわからなかった。

【いや……忘れてくれ。おこがましい話だったな。そもそも他人の生き方に文句をつけられる立場でもなかった】

 目線を上げるシド。シオンの瞳の輝きが損なわれることはなかった。

【夢を持っていない奴なんて駄目だ……そう言ったな、小僧】

「うん」

【オレ様は、夢を追うことは決して下らなくなんてないと思っている。大きかろうが小さかろうが夢は平等だ。だが、夢を持たなきゃ駄目だんてことはないんだ。夢を追いかけてる人間が必ずしもえらいわけじゃない。やりたいことと出来ることを秤にかけた上で、生きていくために〝出来ること〟を選択することも、同様に尊ばれるべきなんだ。

 生前、オレ様はそれに気付けなかった。夢を持っていない人間なんてクソ以下の日和見ひよりみ害虫野郎だと思っていたし、その考えで多くの人間を傷つけてきた】

 本音は暴言の部分ではないのかと思いつつ、シオンは黙り込む。

【間違っていたんだ。人間は機械じゃない。進むも戻るも右も左も、人は自由に決めていい。こうあるべきだなどという形は存在しないんだ。だから……】

「だから?」

 ためらっているのか、それとも言葉を整理しているのか、シドは一端言葉を区切り、やがてシオンの瞳を覗いて続ける。

【……夢に囚われすぎるな。夢中にいれば人の視界は狭まる。片目が見えなくなる。ここじゃない、まだ足りない、もっとやれるはずだ……いつの間にかそう信じ切って引き際を見失う。そして多くの物を失う。友も、家族も、未来も、命も……】

 シオンはじっとシドの言葉に耳を傾ける。戒律のようにも聞こえた。普段ならこんな説法は耳を突き抜けて行くのだが、言葉の端々に自分の未来が隠されているような気がして、自然と首も傾きがちになる。

 わかっている。シドはシオンに昔の自分を見ている。だから、言葉の波に時間が宿っているように思えるのだ。

【夢を追うなら止めはしない。人はみなその権利を持つ。だが盲目には気をつけろ】

「……うん」

【進むには覚悟が必要だ。全てのケツは自分で拭くことになる。過ちも、後悔も、努力の欠如も、孤独さえ……選んだ結果、それが自分の運命を閉ざしてしまうことになろうとも……なにもかも自分で背負うことになるんだ】

「……」

【それだけは、覚えておいてくれ】

 シュティードがアメリカン・スピリットの火をにじり消した。半分ほどしか吸っていない。今は半分で充分だった。欲求から口づけたわけではなかった。

「シドは真面目なんだね」

 茶化すような声色でそう返すシオン。だが笑みはない。口元をきゅっと一文字に結んで左手を心臓に当てている。苛立ちと葛藤とばつの悪さがない交ぜになって、少年の頭はパンクしそうだった。

 ばちん。頬を思い切り叩くことでシオンは頭を一度パンクさせ、ふうっと息を吐き出して目を開けた。背伸びがしたいお年頃なりに腹を括ったつもりだった。

【……】

「わかった。肝に銘じておくよ。練習が嫌いなんてもう言わない。でも、ごめんね。僕はそれでもやりたいんだ」

【ああ】シドは目を伏せた。【昔のオレ様でも、きっとそう答えた】

 ギグバッグにギターをしまいながら、ぽつりぽつりとシオンは呟き始める。

「僕の家、お金持ちだからクラシックとかやらされるの。コントラバスって知ってる? オーケストラに使われる、大きい低音楽器なんだけど……でも僕、あんまり興味ないんだよね。嫌いってわけじゃないんだよ。練習を強制されるのが嫌なの。それに、なんていうのかな、クラシックの雰囲気がとっつきにくいんだ。格調高いっていうか、気取ってるっていうか、楽しみ方を知ってる人じゃないと、楽しんじゃいけないみたいでさ」

「あぁ、そりゃ同感だ」と、シュティード。「俺もクラシックは趣味じゃない」

「だから、ギターがやりたいって父さんに言ったんだ。そしたら反対された。このご時勢にそんな反社会的な楽器をやらせられるかーって」

「当たり前だろ、市街でギターだなんて。持ってるだけで罰点食らっちまう」

「……それでもやりたかったのっ」

 シオンの手が止まった。なんだか少し俯きがちだ。

「教室に通って練習してるんだけど、コントラバスはあんまりうまくならないんだ。だから褒めてもらえない。うまくならないから、そのうち嫌いになっちゃって……ううん、逆なのかな。嫌いだからうまくならないのかも」

 マイナスの連鎖だ。シュティードにも覚えがあった。もやを払うようにギグバッグのジッパーを上げ、シオンは勢いを取り戻して続ける。

「でも、ギターは好きなんだ。最初に触れた時に、この楽器だって思った。なんだか、練習してるはずなのに、練習してるって感じがしない。きっと、好きで触ってるからなんだと思う。コントラバスを触ってる時と違って、時間が経つのがすごく早くて」

「……」

「大人の言いなりになるのは嫌だ。だから僕は、自分で選んだこの楽器で、この音楽で、ちゃんと父さんを説得したい。納得させられるだけの力が欲しい」

 立ち上がって膝の砂を払うシオン。目線の先に広がる砂漠、見据えたものは市街のシェルター。少年は拳をぎゅっと握る。

「……ロックンローラーになりたいんだ。なってやる。上手くなって、有名になって、父さんをぎゃふんと言わせてやるんだ。それで時代を逆巻いて、ロックンロールを市街に取り戻して、夢を追うことは下らなくなんてないんだってことを証明したい」

「……」

「だから……だからおじさん、力を貸して」

「……」

「僕に、ギターを教えてよ」

 凛とした表情でシオンは言った。

 暮れがかるマキネシアの空、スクラップの海鳥がぎゃあぎゃあと鳴き、野良猫達も夜の淵へ。潮を乗せた風が東の方から流れてきて、頬を撫でては去ってゆく。

 シュティードは少年の目を見た。瞳には自分の姿がある。輝きで輪郭がぼやけている。違う。見ているものはもっと先にある。この少年は自分ではなく、その遥か彼方を見つめている。真っ直ぐに未来だけを見ている。

 いい目だ。濁りはない。ゆずれないもの一つを抱えている。

 自分もこんな目をしていただろうか。そうであったなら、勝てていただろうか。

「亡霊かって」

「え?」

「つまりてめえは」立ち上がるシュティード。「親父に認めてもらうために歌うたいを目指すってぇのか?」

「違う」

 シオンは言い切る。眼光が明るみを増した。

「認めてもらうんじゃない。僕が父さんを認めさせるんだ」

 強い語気だった。ジョークを許さないほどに。

「プライドか」

「悪い?」

「最悪だね」シュティードは歪に笑った。「だが俺もそうだ」

 むかしむかしあるところに──そんな調子でシュティードは続ける。

「クラシックをやらされてた」

「誰に? お父さん?」

「……まぁそんなもんだ。わけあってロックンロールに趣旨替えした。ところが市街じゃ上手くいかなかったし、魂がこもってねえだとか言われるし……そういうゴタゴタが積もり積もって、何もかも嫌になっちまって……晴れて掃き溜めの仲間入りだ」

「仕事やめたの?」

「ばっくれた」

「ヒュウ」前髪を吹き上げるシオン。「いいね。憧れる。研究職? 建設業……は、ほとんどロボットか。わかった、役所。それか教師なんて……」

「警察だ」

 シドの目玉が破裂する。追い討ちをかけるようにシュティードは言い直した。

ZACTザクトだよ」

【ちょっと待て!】

「待つのは趣味じゃない」

【貴ッ様そんな大事なことを今更……】

 シオンはさほど驚いていないようだった。彼にとっては珍しくもないのだ。

「だからネクタイしてるの?」

「さぁ。どうだかな。首をねられそこねちまったのさ」

 いつも通りのジョークを挟んで、シュティードは気持ちを切り替えた。

「見返してやりてえんだな、父親を」

「父さんだけじゃないよ」

「他に誰を?」

 シオンは夕暮れに中指を立てた。

「僕をなめくさった奴らみんなを」

 シュティードは笑う。綺麗な笑みではないが腹の底から出たものに違いはなかった。

 中々どうして言うものじゃないか。ああそうだ。こういう子供だ。こういう腐れたクソガキをこそ、待ち望んでいたんじゃあないか。

 吐き気が鋼鉄のふたりを襲う。ただの錯覚だ。だが、それほど少年の眩しさが過ぎた。

 シドはシュティードをちらと見上げた。口角が少し吊りあがっている。もう何度となく見てきた、悪巧みを思いついた時の表情だ。

 望んでいた再起の形とは少し違う。それでも上々と言えた。腐ってしまうよりはよほどいいのだ。シュティードの顔を見れば明らかだった。

【……気骨だけは充分】

「だが基礎は最低だ」

【託すのか】

「賭ける価値はある」

【駄目だったら?】

「選球眼を恨め」

 どういうことかは理解している。自分が味わった挫折と絶望がこの少年にも降りかかると知っていながら、それでも彼のワガママを選ぶということだ。

 あいにくシュティードは他人の人生にまで責任を持つ気などないし、選んだのは少年自身だ。ロックンローラーとして生き、そして敗北した一人の男は、決して少年のためなどではなく、まさしく彼自身がロックンローラーとしてステージを去る為に、そのワガママを叶えてやるに過ぎない。

 そうしてロックンロールの継承が果たされたなら、おまけとしてそれ以上の形はあるまい。ものはついでというやつだ。

「よく聞けクソガキ。俺はもうステージには立たねえ。そう決めた」

 少年のプライドを前に引くわけにはいかなかった。シュティードに残された、歌うたいとしての最後のプライドがそうさせた。

「どうして?」

「夢に飲まれたからだ」

「……」

「俺のようにはなるな」

「なにそれ、心配してるつもり? 僕はおじさんじゃないんだよ」

 ならないよ、とシオン。

「僕は僕だし、おじさんの夢を背負うつもりなんかないよ。誰かの為じゃ、つまらない。僕は、僕自身の夢を叶える為にロックンローラーになるんだ。進むも戻るも自分で決める。他人のことなんて関係ないよ。関係ないんだ、いつだって」

 誰かの夢を背負ったつもりでいたシュティードには、大層こたえる言葉だった。

「言っとくけど、これは勝負だからね。ステージに立たないからって練習サボっちゃ駄目だよ。僕はギターを教えてもらうけど、いつかおじさんを追い抜くつもりでいるから」

「……追い抜く……」

 シュティードは呟く。まじないに似ていた。少年はただ望む。歩幅を合わせることではなく、自分の歩幅で追い越すことを。

「……そうか」

 ありかたの話だ。これを魂と呼ぶかは未だわからない。しかし、浮き彫りになったその敗因は間違いなく彼の探し物の一つであったし、形なき苛立ちの正体でもあった。

「……追いつくだけじゃ、駄目だったんだ」

【……】

「駄目だったんだな、シド……」

 シュティード=Jジェイ=アーノンクール。愚かなる男。自らその視野を狭めた男。自らが自らに課した鋳型いがたに雁字搦めにされた男。お前はどうして、こんなにも簡単なことに気付かぬまま敗れたのか。

 シュティードはシオンを見下ろした。見下ろせている気がしなかった。

「お前が本気なら手を貸してやる。二度は聞かねえ。一度で決めろ」

「やるよ。諦めたりしない」

 シオンは屈託なく微笑んだ。

「今がへたくそだってことは、もっと上手くなれるってことだと思うから」

 自信に溢れている。慢心もあるだろう。自分こそはと思っているに違いない。いつかはその驕りを打ち砕かれ、大いなる挫折にうちのめされることもあろう。

 だがそれでいい。それを承知で少年は選んだのだ。シュティードに止める権利はないし、それ以上に我欲が訴える。知りたいのはその先だ。蹉跌さてつを超えた、その先なのだ。

 ああ。シド。お前もこういう気持ちだったのか。

 それとも────今もまだ、こういう気持ちでいるのか。

「レッスンは一回一時間。授業料は一コマにつき換金できそうな廃品一つ。場所はここだ。時間はお前が決めろ」

 あいさ、とシオンは姿勢を正し、透き通るような手で敬礼してみせる。

「持ち物は?」

「予備の弦。フィンガーイーズ。言っとくが耳を過信するな。お前は機械じゃないんだ、チューナーもちゃんと持って来い。あとは……」

「あとは?」

 やる気。違う。覚悟。違う。向上心、リスペクト、諦めの悪さ、どれもこれも違う。

 もっとだ。もっと単純なものでいい。いつしか忘れていた大事なもの。

 音楽をはじめるにあたり、誰もが持っていなくてはならないもの。

「楽しむ気持ちだ」

「もう持ってる」

 にっと満面の笑みをたたえ、シオンは白い歯を覗かせた。




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