Track01.BOY MEETS YOUTH




   ●



 ハロー、マキネシアDブロック。俺の名はシュティード。Dブロックの気温は本日も異常なし。ノーザネッテルのアホどものせいで、蒸気と熱気がここら一帯を蒸し風呂にしてる。こんな日にネクタイは締めちゃいられない。いや、別に今日に限った話じゃねえか。そういやいつも緩めてた。

 突然だが一つ問いたい。何かから逃げたことはあるか? そう、お前だ。お前に聞いてる。一度目を閉じろ。十秒くれてやる。

 十、九、八、七、六、五、四、三、二、一。

 そこまでだ。どうだ? なにか思い当たったか? あまりいい気分はしない? それとも、そんなこともあったなと笑い飛ばせる? 後者なら順風満帆だ。きっとお前の人生はこれからも上手くいく。だが前者の奴は気をつけろ。きっと俺と同じ道を辿る。

 マキネシアの女神様いわく、重要なのは〝これから〟だそうだ。どいつもこいつも簡単に言ってくれやがる。やれ過去を振り返るなだとか、逃げちゃ駄目だとか、前を向いて胸を張って生きろだとか。うんざりだね。吐き気がする。そんなものはある種の宗教だ。

 だってそうだろ? 過去を振り返るのが駄目だなんて、一体どこのどいつが決めやがったんだ? 督促状は届いてないぜ。つまるところ、そんな物は自分の美学を押し売りする連中が産み出した勝手な言い分なのさ。それ以上でも以下でもない。


 話を戻そう。俺は逃げたことがある。今もその最中だ。数え切れないほど逃げてきた。面倒なことから、嫌なことから、あるいはどうしようもないことから。けれども線引きはあるつもりだ。自分の中で何か一つ、これだけはゆずれないって状況に直面した時、そこでこそ二十一グラムの真価は計られると思ってる。それ以外のことはまあ、状況次第でなんとでもなっちまうものなのさ。

 こだわりは大事だ。だがこだわる場所は選ぶべきだ。俺はそうしてきた。そしてこれからもそうしようと思っている。そうしていけると思っていた。


 シンキング・タイムだ。頭を回せよミスター・ノーバディー。

 大事な何かをお前が捨てたとしよう。その時は必要じゃないと思っていた。勢いでそう思っただけかもしれない。何にせよ、後からそいつが自分にとってなくてはならないものの一つだったと気付く。

 どうだ? そんな時お前ならどうする? 逃げて、逃げて、逃げ続けて、挙句の果てに自分が捨てた相棒を、どの面下げて拾いに行けばいい? プライドの壁を越え、自分を恥じて、抱えた罪悪感の解決を傷つけた相手に委ねられるか? そいつは本当に正解か?

 俺にはわからない。わからないのさ、いつだって。だから今も逃げている。



 

 ハロー、マキネシアDブロック。俺の名はシュティード。食いはぐれた一匹の野良猫。

 今日も今日とて回る世界をどうぞよろしく。




   ◆




 空き缶を踏み潰しシュティードが走る。その後ろを数多の足が追い、スクラップの野良猫がひらりと路地裏に逃げた。

「いたぞ請負人だ! 逃がすなァ!」

「野郎ぶっ殺してやる!」

「左だ! 三番の路地抜けて左から回れ!」

 鋼鉄の香りを乗せたぬるい風。蒸気と工場の廃熱。日差しが脳味噌をショートさせに来ている。マーケットの人ごみを駆け抜けざま、シュティードは軒先に詰まれている黄金色の林檎を拝借した。

 酒に関していえば彼の嗅覚はずば抜けて冴えていた。林檎からはアルコールの香りが漂っている。ウイスキーで漬けたものらしい。

「泥棒ぉ!」

「請負人でツケとけ!」

 出掛けに置き忘れた家の鍵を取るような手つきだった。芯だけになって返ってきた林檎に狼狽する店主。その前を作業着の一団が駆け抜ける。

 工場ノーザネッテルの連中だ。どいつも筋骨隆々。右手にはスパナ、レンチに金槌。コメディと呼ぶには少し愛嬌が足りない。手元の凶器が棒つきキャンディーに変わったところで同じことだ。砂漠の炎天下で見るにはむさ苦しい。

「チッ」

 舌打ち交じりに螺旋階段を上りきるシュティード。煤けた廃ビルの屋上だ。柱もアンテナもない完全に開けた視界。袋の鼠を演出するのにはもってこいだった。パイプから立ち上る蒸気と錆びた歯車が、置き去りにされた理想の未来を思わせる。

「……」

 フェンスは無い。はしごも無い。いよいよ手詰まりだ。シュティードは急ぎ足で屋上の淵へ。数十メートル下の蒸気式トレーラーに突破口を見出した。

「……マキネシアンジョークは過激だな」

 身体が吸い込まれそうになる。この馬鹿げた掃き溜めにおいてなお馬鹿げた距離感だ。追ってくる連中も一人残らず馬鹿だというのだから笑えない。

 背中から落ちる分にはまだいい。問題は頭だ。馬鹿にとっての問題はいつだって頭なのだ。心配するほどの中身でもないが生死には関わる。

 蟻が群がるように男達が追いつく。ザイールが一際大きなレンチを片手に前に出た。

「もう逃げられんぞ」

「……いい歳こいてえらく熱心じゃねえか。趣味はアイドルの追っかけか」

「てめえのようなアングラなアイドルがいるか」

 言って、レンチを突きつけるザイール。

「よく聞けシュティード、このクソ野郎。お前がどこの組織に喧嘩売ろうがそいつはお前の勝手だ。そういう商売だからな。恨みを買うのも分かる」

「ならなんでお前はレンチ持ってんだ?」

「てめえが俺の仕事を白紙に戻してくれやがったからだ。逃げてる時はこの辺を通るなと何回言わせるんだ。予定じゃ今頃納品準備に取り掛かってるはずだったのに」

「盛りすぎだ。六割も完成してなかったろ」

「いいや四割も出来てなかった。割合は問題じゃない。分かるか?」

 それが問題でないのならただの逆恨みだ。シュティードは失笑する。

「仕事に予想外はつきものだ。見越して進めなかったお前が悪い」

「予想外だと? ロケットランチャーで木っ端微塵にされるなんて誰が予想できる? 疫病神やくびょうがみも大概にしろ。大口だ、市街の依頼だったんだぞ。十四時着の特急便に引き渡す予定だった。あと二時間しかない。俺の人生はおしまいだ」

「だったらこんな事してる場合じゃねえな。なにせ人生最後の二時間だ、もっと有意義に過ごしたほうがいい。バカンスのチケットは取ったか? イズカラグアは海が綺麗だぜ」

「水着のねーちゃんも?」

「美人ばかりだ」

「最高だな。言うことなしだ。お前の死体はそこに沈めてやる」

 ザイールが義手のレバーを引く。応じてパイプが歯車式特有の蒸気を吐き、内臓されたモーターが唸りを上げた。蒸気兵装スチームガジェットの一種だ。

「時間がねえんだ。大人しく捕まれ」

「時間がねえのはこっちも同じだ。追ってくるならマジで人生最後の日にするぜ」

「そうか。足場を見る限り人生最後の日に近いのはてめえの方だがな」

「どうかな」シュティードはお構いなしに一歩下がる。「今日の俺はツイてる」

 この高さでツキもクソもあったものか。これにはザイールも頭を抱えた。

「ああ、とうとう頭までやられたか。あれほど酒はやめろって」

「るせーな、頭がやられてんのは元から……何言わしてんだコラァ!」

「てめえで言ったんじゃねえか! 冷静に考えろ、そっから飛び降りて無事で済むわけねえだろ? 両足骨折がいいオチだ。諦めて捕まれ。今なら半殺しで勘弁してやる。後は市街に引き渡しておしまいだ」

「市街なんざ二度とゴメンだバァカ。世の中大概のことは試してみなけりゃ──」

 がろ、とシュティードの足場が崩れる。いいツキだった。

「あら?」

「そら見ろ」

「うぅおおおわぁあああああああ」

 身を裂く突風、ぶっ飛ぶ視界。赤いネクタイがばたばたと風に尾を引く。いいツキだ。シュティードは人ならざる速度で真っ逆さまに落ちてゆく。

「下に落ちたぞ、急げ! ひっ捕らえて半殺しにしろ!」

 そんなザイールの声を遠くに聞く。なるほどシュティードのことをよく理解しているらしい。この程度では死なないと踏んだのだ。

 実際その通りだ。このくらいの修羅場は何度も潜ってきた。その日々あっての今のシュティードなのだ。ベビー・ブランチの銃撃戦、はたまたブラストゲートの決闘。ああ、あの時はローダーを忘れてえらい目にあったっけ……記憶のパネルがシュティードの中をぐるぐるとめぐる。あれでもない、これでもねえな、好みじゃない、チェンジ……そういう具合にして彼は次々とページをめくった。どれも魅力的に見えるがパネルにマジックはつきものだ。それは何もマキネシアに限った話ではない。

 はて。これはたしか──走馬灯という名前ではなかったか。

「……クソったれ」

 俺は機械。俺は機械だ。酒と煙草の為に産まれた機械。だから走馬灯なんてものはない。つまり俺は死なない。俺はツイてる。背中からだ。絶対に背中から落ちる。虚実はともかくシュティードはそう言い聞かせた。言い聞かせるほかに手立てはない。

 ツキは引き寄せるものなのだ。それがシュティードの美学の一つだった。




   ◆




 カラー・チャートで言えばそこはスチールグレイとカーキの街。冷えた感触を連想させる金属の数々も、日差しと廃熱の余波でいやにギラついている。ここはそういうところだ。砂と、機械。この錆びた鋼鉄の色こそが人々の有様を象徴している。去り往く時代に忘れ去られた、スクラップ同然の遺物であると。

 Dブロック珍道中、砂漠の片隅ジャンクヤードの一角。時を同じくして少年ナオンは鼻歌まじりにスキップをかましていた。それもバレエの名手を思わせる軽快な足取りで。

 ロレム・イプサムがびっしりと書き込まれた紙袋が小柄な体に抱えられており、バゲットの頭と炭酸水の瓶が顔を覗かせている。買うものはいつもと同じだ。掃き溜めに嗜好品の年齢制限がないとはいえ、ナオンは酒を嗜んだりはしない。煙草には少し興味があるが、そもそも手に入る値段でもない。

 遠い目つきであの世とこの世の間を見据えているくたびれた大人達は、あの苦ったらしい金色の液体を女神の泉から汲み出した物のようにありがたがるが、ナオンの舌はそこまで年老いてはいなかった。要するに子供だった。別にそれがえらいかえらくないかという話ではない。単に苦味が彼の性に合わなかったのだ。 

「らん、たらったんたん。たんららたらららたらたん」

 少年ナオンはビールを飲まない。だが喉を突く痛烈な刺激には覚えがあった。それはたとえば炭酸水とライチ・ジュースを一対一の比率で混ぜた、〝ラッキー・ライド〟と呼ばれるドリンクによってもたらされるものだ。バニラソーダを思わせる澄んだ色合いはこの熱砂の掃き溜めにこそ相応しい。きっとマキネシアの神が創りたもうたのだ。

 経緯を話そう。要するに少年ナオンは、壊れかけの冷蔵庫の中にあるライチ・ジュースのストックが切れかけていたことを思い出し、近場のサンクレール・マーケットまで──トレーラーで進入できる場所でないものだから──炎天下を歩いて向かったのだ。今はその帰りだった。

 気温は四〇度を軽く上回る。それでも足を運ばないわけにはいかなかった。なにせ少年ナオンにとってラッキー・ライドという嗜好品の存在は、いわばスレた大人達で言うところのアルコールやシガレットのようなもので……そう、燃料と言っても差し支えない、とにかく掃き溜めでの生活には欠かせないものだったから。

「ただいまー」

 自身の蒸気式トレーラー・ハウスの後部……持ち家に該当する部分の扉を空け、ナオンは雛鳥のような声色で言った。片隅には壊れかけの冷蔵庫。イザクト事変当時の廃品だ。そこは問わない。冷えたラッキー・ライドが飲めれば年式も様式美もどうでもいいのだ。真ん中に据えられている拾い物のソファもそうだ。眠れればなんだっていい。

 やっとこさ日陰だ、燃料を補給できる、魂を動かす為の燃料を──ナオンはそんな気分で紙袋を下ろす。

 ずどん。ちょうど炭酸水の瓶の底が地面に着くのと同じくして、馬鹿げた衝撃と破裂音を引き連れた何かが天井に大穴を開けた。

「えっ!?」

 え? なに? ロケット? 隕石? ナオンは目を見開く。土煙の中、続いて目線を上へ。ぽっかりと開いた大穴から太陽が覗いている。天井も流石に呆れたか開いた口が塞がらないらしい。金輪際二度とだ。修繕費はしめて炭酸水八ダース分といったところか。

 なんたる理不尽。こんな暴挙があってたまるものか。ナオンは眉をひそめて大口をあけた。あんぐりと、それでいてアングリーな様相で。

 煙が晴れる。お気に入りのソファの上に男が横たわっていた。それもご丁寧に両脚を伸ばして、ソファ借りてるぜとでも言わんばかりの表情で。

「ソファ借りてるぜ」

 その男は──シュティード=Jジェイ=アーノンクールは実際にそう言う。

 これが、鋼鉄のふたりの邂逅であった。

「誰!?」

「ラッキー、背中からだ……やっぱツイてる」

「だから誰!」

 ナオンは問うが返事はない。シュティードは暗いグレーのシャツに積もった砂と埃を払い、辺りを見回すやいなや不遜な態度で言った。

「ワイルドターキー八年。シングルだ。氷は二つ」

「わいる……?」ナオンには縁のない言葉だった。「なに? オイル? オイル飲むの?」

「バーボンだ。ボケてんのか? さっさと出せ」

 ボケてるのはお前だ。ナオンはそう言いかけて口をつぐむ。

「お酒なんかないよ。ぼく未成年だし。ていうか、ここ酒場じゃないし!」

「ない? 酒がないだと? ありえねえ。冷蔵庫の身にもなってみろ」

 好き放題に言い散らかし、不満げに冷蔵庫を覗くシュティード。

「勝手に開けんな!」

「壊れてるぞ、全然冷えてねえ。買い換えろ」

「壊れてない! まだ使えるもん!」

 余計なお世話だ。ナオンは八つ当たり気味に足元の空き缶を蹴っ飛ばした。

「じゃあな」

「ストーップ! なに勝手に出て行こうとしてんのさ! まだ何も解決してないし!」

 両手を広げて出口を塞ぐナオン。小柄の少年の目をシュティードが見下ろした。その身長差がどうにもナオンを苛立たせる。シュティードの目つきの悪さもあるだろうが。

「あんた誰なの。ていうか何なの! なんで空から降ってくんの!」

「天国から落とされた」

「くっさ……」

「んだコラ小娘」

「僕、男だし!」

 必死の訴えにシュティードは失笑した。どう見ても女だ。せいぜいカーゴパンツぐらいにしか男らしさは見出せない。彼は続いて周囲を見回し、右手の方にある扉の小窓から覗く運転席に目をやった。

「はん。なるほど、コンテナハウスか」

「そーだよコンテナだよ僕の家だったんだよ! 弁償してよ!」

「請負人でツケとけ」

「ツケとかないし!」

 話にならない。お互いにそう思う。少年には少年なりの、暴君には暴君なりの生き方があるのだ。シュティードが先手を切ってナオンに詰め寄った。

「おい小娘。鍵、寄越せ」

「はぁ? 馬鹿じゃん無理じゃん渡すわけないじゃん。ていうか小娘じゃないし」

「じゃあクソガキだ、クソガキ。お前、見ねえ顔だな。どこ出身だ?」

「……Bブロックだよ。ブラストゲート」

「旅でもしてんのか?」

 痛いところを突く奴だ。ナオンは表情を曇らせた。

「……そうだけど……」

「なんで旅してる? なんか探してんのか? なんでDブロックに?」

「あんたに関係ないじゃん」

「関係ねえさ。ここまではな。問題はいつだって〝これから〟だ」

 溜息混じりに運転席から降りてきて、シュティードはナオンの胸倉を掴んだ。

「俺を途中まで乗せていけ」

「はぁ? 頭おかしいんじゃないの。絶対ヤだし」

 業を煮やしたシュティードがホルスターから銃を抜き、ナオンの顎に突きつける。そうとも、こうした方がよほどこの地の在り方らしい。頭を下げるタチでもない。

「いいか、二度は言わねえ。ここはスクラップフィールドで、俺もお前も野良猫だ。こいつは新手のヒッチハイクさ。ちょっとガソリン使うだけでいい」

「……」

「でないと、お前をお人よしに育ててくれなかった馬鹿な母親に中指立てるハメになるぜ。分かったらさっさと運転しな」

 青黒いロングバレルに中折れ式の回転式拳銃リボルバー──かつての保安官愛用のバントライン・スペシャルだ。首筋に宛がわれた死の穴を前に、しかし少年は動じない。正しく彼の台詞通り、この請負人も、またこの少年も、間違いなく掃溜めの住人なのだ。

 しばしシュティードを睨み上げ、ナオンは唐突に呟いた。

「……エックス・ワイ・ズィー」

「あ? なに──」

 暴君の瞳がズボンに逸れる。ここだ。ナオンは右足を思い切り蹴り上げた。

「んなっふ」

 金的。同じ男だからこそ熟知している弱点に見事な蹴りが決まる。シュティードは痛みに鈍い方だがここばかりは鍛えようがない。妙な声を出してうずくまった彼に、今度はナオンが座席から銃を取り出して突きつけた。

「て……てめぇクソガキ……」

 してやられた。八億の恥だ。シュティードは真っ直ぐにナオンを睨んだ。

 その手に握られているのもまた回転式拳銃だ。それも五発しか装填できない旧時代の遺物──その錆びたボディの色と銃を握る少年の目つきが、どちらも掃溜めでそれなりの月日を経た物である事を物語っている。

 後を引く痛みに耐えながら、シュティードも遅れて銃を構える。お互いに向けられた死の穴を前に二人は暫し沈黙し、やがてナオンが口を開いた。

「あんた何なの?」

「死に損ないだ。おまけになり損なった。仕方ねーから生きてる」

「……」

「いいか、次はねえぞ。俺を乗せていけ。すぐ近くにレッド・テラスって大衆レストランがある。二〇分もありゃ到着だ。今なら昼飯をおまけしてやってもいい。どうする。決めるのはお前だ。答えによっちゃ今日の朝飯が最後の晩餐になるぞ」

「……」

「だんまりか。そうかい」

 共に銃口は下げない。シュティードが先に撃鉄を上げた。

生憎あいにく俺はロックンロールとクソガキ、それと野良猫がこの世で一等嫌いなんだ」

「そう。僕はあんたみたいな人間が一番嫌いだ。やれるもんならやってみろ」

 ナオンもまた撃鉄を上げる。鋼鉄に似つかわしくない幼げなその指で。大した根性だ。これには流石のシュティードも目を見張った。勇気と無謀を履き違えた若さを鼻で笑う。

「青いな。ほんとに撃つぜ」

「ファックオフ」

「あばよクソガキ」

 シュティードの指が引き金にかかった矢先、ぬ、と巨大な影が入り口を跨ぐ。レザー・ジャケットを纏った巨漢の男だ。その後ろにはシュティードより一回り小柄な男がいた。どちらも目が据わっている。掃き溜め由来の成分でハイになった凹凸コンビというところか。笑えない冗談だった。

「うぇひひ。なんだよ兄貴、話が違うじゃねぇか」小柄な男が呂律の回っていない舌でそう言った。「子供一人じゃなかったのか」

「らひひ。男の方はお前にやるぞ弟。俺にそういう趣味はねえからな」

「ざけんなよ兄貴。調和を考えろよ。サイズ的に兄貴の方が合ってる」

 馬鹿の踊り食いだ。ナオンは眉間に皺を寄せる。シュティードは我関せずといった様子で呆れ気味にそれを眺めていた。

「……どちら様?」一歩後ずさるナオン。「僕になんか用?」

「ヒョォアー! 僕! 僕だってよ、聞いたか弟!」巨漢の男が歓喜した。「なんともなんともマニッシュ・ボーイなお嬢ちゃんじゃねえかぁ、らっひっひっひっ」

「ふざけんな! 僕、男だし!」

「はぁんそうかよ。些細な問題だな。穴はある。タイヤじゃなきゃなんだっていい」

「最ッ悪……」

 またこの手のやからか。ナオンは顔をしかめた。のたちだ。掃き溜め中に生息するこの世で最も愚かな生き物。ナオンはこの手の下等動物に絡まれやすい。単に子供だということもあるし──少女然とした見た目が引きつける部分もあるのだろう。生憎、実際に女であるかどうかはその手の輩には関係ないが。

「おうおう。お楽しみの時間だぜ、いつまでそこで眺めてんだよ、兄ちゃんよぉ」

 巨漢の男がシュティードに詰め寄る。手元には廃材。ザイールのレンチよりは一回り小さいが掃き溜めを肥やすには充分だ。シュティードは表情を崩さぬまま、無用とばかりに銃を収めて男を見た。

「その薄汚えチリ毛を俺の視界に入れるんじゃねえ」と、巨漢の男。「十秒くれてやる。財布を置いて失せろ。お前だって汚ねえ男のケツは見たくねえだろ? 十──」

「長すぎる」

「あん?」

 シュティードが床を踏む。打ち出される右拳。巨漢の男が胸元を抑えて膝をついた。

「兄貴ィ!」

「こ……お……あぁ……はいっ……肺がっ……」

「五秒だ。てめえが失せろ」紙袋から転がった瓶を拾い上げて吐き捨てるシュティード。「でねえとその汚ねえケツの中をソーダで綺麗にしてやる」

「てめえ……」

「ほら急げ。五。四。三」

 拳を振りかぶる巨漢の男。それより早くシュティードが踏み込む。額へ一撃。瓶の破片と炭酸水が男の血を纏って飛散した。巨漢は力なく崩れる。

「兄貴ぃー!」

「二秒あまった」

 呟いて瓶を捨てるシュティード。ナオンが呆気にとられる。休む暇もなく小柄な男がシュティードに詰め寄った。

「てめぇ、どういうつもりだ! 死ぬ覚悟は出来てんだろうな、あぁん!?」

「おいおい待てよ、邪魔しようってわけじゃねえんだ。好きにやってくれ。俺はただ見学したかっただけなんだ」

「好きにだと!? 俺の兄貴をツブしといて何が……」

 肩をすくめるシュティード。

「ものは考えようだぜ。これでお前はそこのガキを独り占めできる。このザマじゃいつも相棒に足引っ張られてんだろ。今日ぐらいご褒美もらったって罰は当たらねえさ」

「……」

「そうだろ?」

 しばし黙考し、倒れた相棒に目をやり、小柄な男は爬虫類のようにぺろりと舌を出す。

「……うぇひひ。話の分かる奴だなぁ、お前」

「よく言われる」

 こともなげに答えてシュティードは煙草に火をつける。アークロイヤルの芳醇ほうじゅんな香りが狭苦しい密室に立ち込めた。いや、密室ではないか。ちょうど彼奴が天井に穴を開けたところだ。

「寄るな!」

 ナオンは叫ぶ。呆れたのは彼の方だった。助けてくれたのかと思いきや見学をご所望ときた。汚い男のケツを見るのが嫌だからでも言うのか。笑えない。

「ちょっと、なんとかしてよ!」

「うぇっひっひっひぃ、久々の初モノだぜぇ、見てろよ兄貴ぃ!」

 男に組み伏せられるナオン。シュティードは目線も移さずに答える。

「俺を乗せるなら考えてやってもいい」

「なんで上から目線なんだよ! 天井ブチ抜いたくせに!」

「穴の一つや二つでガタガタぬかすな」にべもなく言うシュティード。「俺ぁ帰ったっていいんだ。次ファックされんのは天井じゃねえぞ。お前の穴もあれぐらい寛容だといいな」

「助けてー!」

 ナオンは思い切り声を上げた。誰が助けに来るわけでもないと知っていたのに声を上げた。天井に穴が開いているかどうかは問題ではない。ここはそういう場所なのだ。返ってくるのは空しい工場の排気音だけ。

 分水嶺だ。男の手がナオンのベルトにかかる。少年ナオンは大事なものを失うかどうかの瀬戸際に立たされていた。このままでは本当に──突貫工事されかねない。

「オラどうすんだクソガキ、さっさと決めろ」

「んぐぐぐ……」

 差し迫る窮地と貧相なドリル。さよならヴァージンロード。それだけはゴメンだ。前も後ろもまだなのに。

 もう知るか。どうにでもなれ。ナオンは半ばやけくそのように叫んだ。

「あぁーもう! 分かったよ、運転するから! 運転するからなんとかしてー!」

 契約成立だ。そうとなれば話は早い。シュティードは重い腰を上げるやいなや、男の頭を引っ掴んで半開きの冷蔵庫へぶち込む。二度、三度、四度、五度──一際大きい六度目の一撃で全てが終わった。当分冷えた飲み物は飲めそうにない。

「……」

「買い換えろ。たった今壊れた」

 散々だ。ナオンは眉間に皺を寄せた。他にどうしていいやら分からなかったので、とりあえずズボンと一緒に下着を引き上げる。ポンコツの冷蔵庫はスクラップへ、コンテナハウスは吹き抜けのゴミ捨て場へ……三分足らずで全てが滅茶苦茶だ。まるで嵐だ。

「……んでクソガキ。お前は結局なんでDブロックに……」

「シュティードォこのクソったれぇ!」怒号がシュティードの質問を遮った。廃棄されたビルの入り口からザイールを先頭にして、ぞろぞろと男達が走ってくる。

「さっさと出せ」と、シュティード。「捕まったらケツの穴までスクラップにされっぞ」

「なんなのさもう次から次へと!」

「いいから出せクソガキ!」

「クソガキじゃないし!」

 言うが早いかナオンは運転席に飛び乗って鍵を挿し込み、トラックのアクセルを眼一杯踏んだ。エンジンが唸りを上げ、追ってきたザイール達が度肝を抜かれる。

「待てぇこのクソったれがぁああああ」

「誰が待つかバァーカ!」

 加速するトレーラー。追いすがる蛮族達が一人、また一人と脱落してゆき、最後にはザイールただ一人が残った。

「クソ! 馬鹿な! 猿以下の知能しかもってないあのアホが運転!? 運転だと!? そもそも鍵を差し込めた!? あいつが!? なんてこった、進化論は正しかった!」

「誰がミッシングリンクだ! スピードあげろクソガキ!」

「だから!」ナオンがアクセルを踏み込む。「クソガキじゃないし!」

 ミラーに映るザイールの執念。何処吹く風といった様子のシュティードが不意に何かを思い出したような顔をして運転席を立つ。

「お酒はないって言ってんじゃん!」

「粗大ゴミの処理だ」

「粗大ゴミ? ちょっと待ってまさか……」

 悪寒は大体当たるものだ。特にマキネシアでは。シュティードは最初に巨漢の男を、続いて細身の男を、最後にスクラップと化した冷蔵庫を後方めがけて放り投げる。言葉を挟む隙も無い。冷蔵庫がザイールの頭に直撃した。これで完全にスクラップだ。

「ハッハァー、バァカ! ストライクバッターアウトォ! また会おうぜぇザイール!」

「僕の冷蔵庫ー!」

 血も涙もあったものではない。ざまあみやがれとばかりに身を乗り出し、中指を立てるシュティード。盗賊もびっくりの悪人面に苦笑し、少年は更にアクセルを踏み込む。哀れなザイールのシルエットがバックミラーの彼方に消えていった。

「……さっき」ナオンが恐る恐る問う。「ザイールって言った?」

「言った。興味あるか?」

「ああもう最悪」

 ハンドルに顔を預けて言うナオン。

「艦長さんだ……絶対怒られるよぉ……」

「なんだ、知ってんのか?」

「知ってるもなにも」項垂うなだれるナオン。「僕あの人のところで働いてるもん」

 なるほどな、と積まれた工具に目をやって言うシュティード。

機械工メカニックか。まぁ、時代が進んでも機械をメンテする人間ってのは絶対になくならねえからな。いい選択だ。シンギュラリティに奪われることはない」

「……」

「面白みはねえがな」

 馬鹿を言え。職に貴賎などあったものか。ナオンは口を尖らせながらハンドルを切る。

 ウインドウは全開にも関わらず入ってくる風はどこか生ぬるい。今日はことさらに。蒸し風呂にいるような不快感だ。気温だけが原因ではないだろうが。

 頬杖をついて外を眺めるシュティードを一瞥し、ナオンは再び前を向いた。

「さっき言った通りだぞ。レッド・テラスを目指せ。そこでヤボ用を済ませる。その次はレストレンジアだ」

 さも当然のようにシュティードは矢継ぎ早に言う。運賃にしたらいかほどだろうか。ナオンは不機嫌そうに唇を噛んで言った。

「……注文の多い料理店」

「なんだ?」

「なにも……」

 この後悔は後を引きそうだ。ナオンはそう思う。

 そもそもこの男は何様のつもりなのか。空から降ってきたかと思えばソファを占領し、人様の家の冷蔵庫を躊躇いなくスクラップに。更には炭酸水を拝借し、とどめにタクシー扱いときた。暴君だ。なんだこいつは。前世は世界で一番偉い職業か?

 ナオンの中にイライラがつのる。空腹でもないのに胃袋がムカついている。胃袋でさえこのざまなのだから当人の怒りは計り知れない。なによりクソほどムカつくのは──人に名前を聞いておいて自分は名乗りもしないというところだ。

 反抗だ。反抗してやる。向こうが自分から名乗り出るまで名乗ってなるものか。小さな、しかし彼にとっては男の意地に関わる誓いを立て、ナオンは乱暴にハンドルを切った。

「……いいけどね、別に」

「なんか言ったか?」

「なんでもない!」

 半ばぶった切るようにして放たれた台詞。それを最後に暫しの沈黙が続いた。どうにも落ち着かない空気だが、不毛に言い争うよりはよほどいい。

「……」

 シュティードはクズだが人の機敏に疎くはない。ただそれを汲まないだけだ。ナオンの心持ちを察するぐらいわけはなかった。なんとも少女然とした、それでいて少年の瞳のちぐはぐなしかめ面には、とんだ厄介を拾っちまったと、そう書いてあるのだ。

 だからシュティードは苦笑した。馬鹿め、そいつはお互い様だとでも言いたげに。

どうぞよろしくダリ・ラリ・ラ・ライ

「……? なんか言った?」

「なんでもねえ」

 シュティードはサイドミラーに目をやった。車三台分ほどの距離を空け、砂漠に似つかわしくない純白の車両が追走してきている。こいつが〝厄介〟の正体だった。

 国家警察ZACTザクト専用車〝パトリオット〟だ。水色の電飾がその白いボディによく映えている。粒子エンジン搭載は言わずもがなオートドライブにも対応しており、緊急時の最高速度は実に二四〇キロ。天井に穴の開いたポンコツトレーラーでは振り切れまい。

 妙だ。何故市街の連中がこの街に? シュティードは眉を潜めた。ただでさえ無愛想な面構えがますます近寄りがたさを増す。

 懸念材料は二つ。一つは背後のパトリオット。そしてもう一つはトレーラーハウスの片隅に佇む身の丈ほどの鉄の箱だ。電動ドリルやアコースティックギターのケースにまじって乱雑に置かれている。中央には巨大な歯車が刻印されており、開けるな危険とばかりに鎖で雁字搦めにされていた。

 取っ手とベルトこそついているが、とても少年の体躯で持ち運べる物だとは思いがたい。ざらついた鋼鉄の表面がどことなく死を思わせる。掃き溜めにはおあつらえ向きだ。

 そう、まるで──棺桶のように。

「……おいクソガキ」

「いい加減にして」

「あの箱はなんだ」

「……」ナオンは顔をしかめて唇を噛んだ。「関係ないでしょ」

 ああ、こっちも〝厄介〟か。シュティードは心中で毒づいた。

 砂漠で拾ったスクラップにしてはえらく値が張りそうな金属だ。どことなく見覚えのある色だが思い出せない。種類も判別できないほどの劣化具合からして相当の年月を経ており、この掃き溜めを生んだ大惨事、イザクト事変当時の遺物であることが伺える。

 俺が尾けられるようなヘマを犯すわけがない、後ろの連中の狙いはこれだ……シュティードはそう確信する。追われているのだ、この少年は。少年趣味のゴロツキよりももっと厄介な連中に。

「ならあのギターは?」シュティードは問うた。「お前のか?」

「……」

「……どうせ馬鹿にするんでしょ」

 ナオンはいじけ気味に答えた。

「……僕のじゃないよ。ブラストゲートで拾ったの」

「……」

「説教ならきかないし」

「する気もねーよ。その柄でもねえ。けど、どうせならもうちょっと丁寧に扱ってやれ。ギターが泣いてる」

「子供扱いしないでよ。ギターが泣くわけないじゃん」

「泣くのさ」

 シュティードは皮肉げに頬を歪めた。

「ギターも泣くんだよ」

「……冷蔵庫も泣くと思うけど」

「アホぬかせ。機械は機械だ」

「ギターだって機械じゃん」

「黙って運転しろ」

「あんたコミニュケーションなめてるの?」

「コミニュケーションが俺をなめてるんだ」

「……」

「黙って運転しろ」

「ファックオフ」

「殺すぞクソガキ」

 外を眺め続けるシュティードを一瞥し、沈黙に耐えかねたナオンが無言でカーステレオに手を伸ばす。歯車状の部品が五つほど噛み合わさった、ギア・レコードと呼ばれる音楽再生機器へと。

 合金への癒着性・分解性、ならびに粒子でありながら記憶容量を持つ未知の物質──言うなれば粒子状の記録媒体──通称イザクト粒子は、いまや新・禁酒法時代を支える大きな要素となった。その恩恵は多岐に及ぶ。

 代表的なもので言えば、シュティードがバグジーから奪い取った〝粒子管〟と呼ばれるガジェットだ。砂時計を思わせる容器の中を真空状態にし、そこに粒子を閉じ込めてエネルギーとして活用する。アンプリファイヤーから自動車、はては兵器と用途は様々だが、イザクト粒子がもたらしたものはこれだけではない。

 市民権ことIDアイディーメモリによる人民全体の情報管理、生活ツールとしての利用、金属の瞬間的分解と再構成、敷居の下がった機械化、ひいては全ての人体に魂として存在する二十一グラムの粒子を吸い出し、そのデータから生成したクローンに魂を移行する擬似的な生まれ変わり……言うなれば事実上の死の領域の突破。主に市街に見られるこれらは、全て粒子技術の賜物だ。

 このギア・レコードも粒子技術の恩恵を受けた物の一つだ。イザクト粒子を吸収する性質を持つ金属──ガンドレオン合金で歯車を生成し、オーディオデータを書き込んだ粒子を吸収させ、そこに電流を流すことで音楽を再生する。

 新・禁酒法厳格化以降、ロックンロールはCDとしてもデータとしても存在を許されない。厳密に言えば〝ギター・サウンドを含む音源〟が存在しえないのだ。見つかればZACTによって処分される。それを恐れたかつてのロックンローラー達は、目につきやすいCDではなく、アンティークにしか見えないこの歯車に楽曲を書き込む方法を選んだ。

 それも一つの楽曲としてではなく、独立した楽器毎のパラ・データとして。

 歯車の種類は全部で三つだ。一つ目は楽器毎のソロ・セクション・ギア。ギターだけの歯車、ベースだけの歯車、ドラムだけの歯車、歌だけの歯車、必要ならバイオリンやトランペットも……とにかく個々の楽器の演奏が独立して収録されたもの。楽曲のパートが増えるほどに、最終的な歯車の噛み合わせは複雑さを増してゆく。

 二つ目はミキシング・ギア。イコライザーやコンプレッサー、はたまたコーラスやリバーブといった要素が記録されていて、この歯車がそれぞれの歯車の音量バランスや配置を決める。それゆえ通常は全ての歯車と噛み合うように配置される、最も重要なギアだ。

 最後はマスタリング・ギア。これは全体の音圧を上げるものだ。倍音を付加するエキサイターや微調整の為のイコライザーの情報がかまされている。これがあって初めて適正音量を得られるというわけだ。これ自体は楽曲のタイム・ラインに影響するわけではないので、なくても聴けないわけではないし、他楽曲のマスタリング・ギアで代用できないわけでもないが──やはり一つの音楽として捉えるならば揃えるに越したことはない。

 一つ一つは単純なトラックだ。だがこれら全てが精巧に噛み合い、レコードを回すようにして歯車が回った瞬間、初めてギア・レコードは音楽を奏でることが出来る。

 この歯車が使われるようになった背景からも、これらは当然ヴィンテージ扱いだ。劣化したものやZACTに回収された物も多く、集めることはそう容易ではない。たった一曲を成す為のギア・レコードが、掃き溜め中に散らばっているのだから。

「……大したもんだ」シュティードは舌を巻いた。「集めたのか?」

「そうだよ。あちこちにあったの。今も集めてる途中」

 ナオンがマスタリング・ギアをはめる。ちょうどザイールのところで拾ったばかりのものだ。ダイヤルを回すと歯車は回転し始めたが、やはりポンコツなもので砂嵐のようなノイズしか聞こえない。ナオンが苛立ち気味に叩くと、ようやく歯車は刻まれた音楽を奏ではじめた。




「────……」




 それは電流だった。流れ出したイントロダクションは、旧時代に取り残された半音下げのエレクトリック・ギターの歪んだ音。一〇〇ワットの出力を誇る一九六八年製、マーシャル・プレキシの粘りあるサウンドだ。条件反射のようにシュティードが目を見開く。

 聞き覚えのあるフレーズだ。鼓膜の内側にこびり付いて離れない過去の爪痕。ロックンロールというほどツイストを求めてはいないが、どことなくその面影を感じさせる。

 シュティードは遠い目で旋律に耳を傾けていたが、暫くしてギア・レコードのダイヤルに手を伸ばし、拒むように音楽を止めた。

「……ちょっと」

「言ったろ。嫌いなんだよ、ロックは」シュティードは言った。「ただうるせえだけだ」

「……アンタほんと性格悪いよね」

「〝クレイジー・ジョー〟だな」

 遠い目で呟くシュティード。ナオンが思わず彼の方を見る。

「……そうだけど」

「知ってんのか」

「え……うん。僕、好きでよく聞いてたから。ていうか、そっちこそなんで知ってんの。ロックは嫌いなんでしょ」

「……若気の至りだ。昔、聴いてたのさ」

 興味なさげな涼しい顔でシュティードは言った。

「……若気って……あんた何歳なの」

二十七にじゅうななだ」シュティードは答える。「死ぬまでな」

「? ふーん。僕のちょうど二倍ぐらいだね。僕、十二歳だし」

「シュティードだ。シュティード……アーノンクール。母親をなじったのは謝る」

 呆気にとられてナオンは思わず言葉に詰まる。謝るというよりはへそを曲げた子供の口調に近いが、それでもこんな横柄な男の口から謝罪の言葉が出ただけでも奇跡だ。慌てて視線を前に戻し、ハンドルを切りながらナオンは名乗り返した。

「ナオン」

「ナオン?」

「うん、ただのナオン。フルネームは嫌いだから言わない」

 捨てたしね、とアクセルを踏む。後部座席のギターを再び一瞥し、シュティードは両足をダッシュボードの上へと伸ばした。

「お人よしだぜ、お前」

「よく言われる。足乗せないでよ」

「でもって女みたいな名前だ」

「……それもよく言われる。足乗せないでってば」

「ほんとは女だろ、お前」

「男だよ……ていうか足乗せないで!」

「そりゃお前ん家に鏡がなかったからだろ。どう見ても女だ」

「……変なこと考えないでよ」

「俺にそっちの趣味はねえ」

「どうだか」

「本当だっつうの」

「だからぁ足乗せんなって言ってるでしょ!」

 レッド・テラスの駐車場が見えた。駐車場とは名ばかりの砂場だ。トレーラーが失速し、蒸気を吹き上げてその巨躯を白線の上へ収める。

「それよりお昼おごってね、僕お金ないから」

「ざけんなクソガキ。なんで俺がお前の……」


 〝今なら昼飯をおまけしてやってもいい。どうする。決めるのはお前だ。〟


「言ったじゃん」

「……あぁクソ、言ったよ。言ったかもしれねえ」

 溜息をついてうなだれるシュティード。背骨が少し痛んだ気がした。

「……ツキすぎるのも考えモンだぜ、バグジー」

「? なんか言った?」

 なんでもねえ、といつもの口癖を吐き捨ててシュティードは静かに眼を伏せた。

 ここまでは問題ない。問題はいつだってこれからなのだ。請負人の経験則は警鐘を鳴らしている。

 店に入るやいなや彼は席取りに頭を巡らせた。やってくるこれからに備えるために。




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