終章 御伽噺の終わりに
王都オリンピアは、昼夜を問わない宴の真っ只中にあった。
長らく王国全体を脅かしていた魔物の異常発生と、《不夜の城塞》から王が直々に下した戒厳令。
それらの事態から、多くの国民が十年前に銀色の月が上った夜を想起していた。
新たな神威災害が発生したのだと誰もが理解し、そして恐怖に震えた。
はっきりとしない情報は様々な憶測を呼び、混乱の渦中で《既知領域》の終焉を叫ぶ者まで出る始末。
遥か西の空を覆う眩い極光を目にした人々は、それが真実ではないかと信じかけた。
しかし、それは程なく弾けて消え、あまり時間を置かずに暴走する魔物の被害も聞かれなくなった。
そのタイミングで再び王は姿を見せ、そして高らかにその言葉を告げたのだ。
「災厄は打ち払われた。我らが騎士団長、フェリミア=アーサタイルと彼女に従う忠勇なる王国の騎士達。
そして十年前、偽りの夜空から銀の月を墜とした英雄―――アルディオス=バランドの手によって。最早何も案ずる事はない」
二人の英雄と、彼らと共に戦った勇ましき騎士達の名によって、人々にとっての災いは終止符を打たれた。
当然のように都市全体は大きく盛り上がり、英雄らの偉業を讃えながらの大騒ぎが始まった。
既に数えて三日、王都の住人らは自発的な祝祭を楽しんでいる。
その様子を、《不夜の城塞》にてバイバルス王は座したまま眺めていた。
眠らずの王には騒音が少々耳に痛いが、臣民らに生の活力が満ちているのは喜ぶべき事だ。
「………それもこれも、お前が全霊を賭して事態の解決に力を尽くした賜物よな。フェリミアよ」
「いいえ、陛下。私一人の力では、僅かな事も成せなかったでしょう」
笑みと共に向けられた王の言葉を、フェリミアは跪いたままで静かに否定した。
「最後まで諦めず、共に戦い抜いてくれた配下の者達。それにあの方が居てくれたからこそ、我々は勝利を得られたのです」
「分かっている。しかし、お前が諦めなかったからこそ騎士達は最後まで戦う事が出来たのだ。その事実は胸を張って誇ると良い」
「勿体無きお言葉です」
街の喧騒からは少し遠い謁見の間にて。王と騎士は、どちらからともなく笑みをこぼした。
「………失礼ながら、お尋ねしたき事が御座います」
「遠慮はするな、我とお前の仲であろう」
「では―――陛下は、最初からこうなる事を予期なされていたのですか?」
あの恐るべき《世界移動者》との戦いが終わった後、フェリミアは直ぐに王都へと戻り、顛末を含めた全てを王に報告していた。
異常事態の原因であった魔導師を討ち取った事。破壊の神は、未だアルディオスと共にある事。
前者は良いが、問題は後者だ。フェリミアは封神の大義を掲げた上で、王から戦の許しを得て来た身だ。
その言を翻すばかりか、あまつさえ降臨した神の助命を嘆願しようなどと。
アルディオスは何も知らない。
知られてしまう前に、全て一人で背負い込むつもりでいの一番に玉座の下へと馳せ参じた。
しかし王は、その事を何も咎める事はなかった。
ただ全てを聞き届けた後、王都の者達の不安を拭い去る為に災厄の終息を宣言したのみ。
まるで最初からこうなる流れを読んでいたかのようにだ。
「別に何もかもお見通しであった、などと言うつもりはないぞ。我はあくまで一人の王であって、神ではないのだ」
片腕とも言うべき騎士が口にした疑念に、王は涼やかな笑みで答える。
「王たる身である以上は、この座から容易には動けぬ。動けぬからこそ、信頼すべき者に全てを委ねたのだ。
フェリミア、お前は王の言葉を何一つ違えてはいないぞ。―――何せ、「好きにせよ」としか命じてはおらんからな」
「………成る程、確かにそうとしか言われていませんでしたね」
心底愉快そうに呵呵大笑する王に、フェリミアは苦笑いしか出てこなかった。
「何にせよ、今回の件はなかなか肝が冷えた。事態の規模に比して被害を最小限に抑えられたのは、正に偉業と讃えられるべきものだ」
「是非、そのお言葉は騎士達にも直接頂ければありがたく」
「無論だ。褒美を与える必要もある。近々、街の騒ぎとは別に勝利を祝う宴を開かねばなるまいな」
「………………」
褒美、という言葉にフェリミアは少しだけ沈黙した。
思い悩むように唇を引き結び、それから意を決して顔を上げる、が。
「まぁ待て、フェリミア。我が騎士よ」
そう言って、王は騎士が口にしようとしていた言葉を先に制した。
彼女が何を言わんとしていたのかは概ね見当が付いている。
王は事情の全てを知っているわけではないが、だからこそフェリミアにそれを言わせなかった。
「国を守る為に力を尽くした功労者であるなら、王として相応の褒美で報いねばならん。それは分かるな?」
「勿論です、陛下」
「ならばその望みとは、受け取る当人の口から聞かねば意味はない。お前が下手に気を回しすぎても、それは単なるお節介に過ぎんぞ?」
「………そう、思われますか。陛下」
「あぁ思うとも。大体、お前は師匠にそっくりで何もかも抱え込み過ぎだ。それで誰よりも有能であるから始末に負えん」
そう言われては言葉もない。
恥じ入るように俯いてしまった騎士に、王は声を出して笑ってみせた。
「まぁとはいえ、褒美を与えようにも本人がこの場にいなくてはどうしようもないのだがな」
さてどうしたものかと、王はわざとらしい視線をフェリミアに向けてみる。
それに対し、フェリミアは大きく頷いてみせた。
「問題ありません、陛下」
「ほう。この十年、一度も王都まで顔を出しては来なかった男だぞ?」
「………今は少々、人を待っていますが。その約束が無事に済めば、必ずあの人は来て下さいます」
確信に満ちたフェリミアの言葉に、王は小さく頷く。
十年という歳月を引き摺り続けた後悔を、彼女もまた振り払う事が出来たようだ。
「そこまで言うのなら、お前の言葉を信じよう。ついては、西の地に残るあの男に、お前が王の言葉を伝えに向かうと良い」
「は?………私が、ですか?」
「お前以上の適任など他におらんだろう」
「いえ、それはそうかもしれませんが………」
「災厄の源が絶たれたとはいえ、騎士団としてするべき仕事は多くあろう。だがそれは一先ず、他の者達に任せておけ」
生真面目過ぎる騎士団長に、王は私人としての思いを込めてささやかな褒美を与えた。
「お前が迎えに行ってやれ。どの道、街のお祭り騒ぎは暫く続くだろう。王の名で開かれる宴が多少遅れたところで、誰も気にはすまい」
「………ありがとう御座います、陛下」
「どうということもない王命と受け取れ。さぁ、分かったら行くと良い」
「はい。陛下の御命令、確と承りました」
フェリミアは深々と一礼をすると、やや急いた様子で謁見の間を後にした。
先ず何を言うべきか、どんな顔をすれば良いのか。
色々な事が怒涛のように過ぎたせいで、正直考えは纏まっていない。
刃を向けてしまった。酷い事も口にした。思い返せば、それだけで後悔の余り首を括りたくなる。
そんな事では駄目だと、フェリミアは自分自身を叱咤する。
あの人に言わねばならない言葉があり、あの子に謝らねばならない事があった。
その為にも、彼女は今新たな一歩を踏み出していく。それは十年前の夜を超えていく歩み。
気付けば、フェリミアは駆け出していた。まだ遠い明日を、自ら迎えに行くように。
「………やれやれ」
王は咎める事なく、去っていく背中を静かに見送った。
十年、止まっていた時間の針が動き出すのを感じながら、眠らずの王は小さく欠伸をした。
このまま少しばかり眠るのも悪くはないかと、安堵と共に考えながら。
○
かつて《廃棄都市》と呼ばれた街の亡骸は、今は完全に瓦礫の山と化していた。
戦いが残した爪痕は深く、無事な建造物は殆ど残っていない。
唯一形を保っているのは、以前は街の中心であった場所。
名も無き者達を弔う石碑と、その周りに広がる小さな白い花畑。
ここだけ無事に残っているのは、恐らく偶然ではないだろう。
自我を剥奪され、破壊を振り撒く人形として操られている状態でも、この場所だけはライアは無意識に守ろうとしたのだ。
夜の闇に舞う、白い輝きの断片。この地に墜ちた銀色の月の名残。
夜空へ上っていくその光は、まるで死者の魂が天へと還っていく様にも見えて。
少女の姿をした神をその膝に抱きながら、アルディオスは夜空に舞う光を見送っていた。
ライアは眠っていた。戦いが終わってから、もう三日ほどが過ぎていた。
「………………」
アルディオスは、その柔らかな頬を指でなぞる。
体温は低く、呼吸も少ない。弱ってはいるが、そこには確かに生命の温もりがある。
深い眠りだ。それを仕方がないと思える程に、ライアは相当な無茶をしていた。
どちらも似たようなものだったとはいえ、アルディオスとは肉体的な強さが違いすぎる。
完全でないとはいえ、傷の殆どが塞がりつつあるアルディオスに対し、ライアは今も眠り続けている。
一人である事の静寂を、男は久しく味わっていた。
「………思えば、お前が落ちてきてからずっとドタバタしっぱなしだったからな」
少女と出会ってから、およそ一ヶ月程。
十年という時間に比べればあまりに短く、けれど濃密な日々だった。
胸の内に残り続けていた後悔も、気付けば消え失せてしまう程に。
「………ライア」
眠り続けている少女の名を、アルディオスは口にした。
少女はそれに答えない。眠りの淵は何処までも深く、そもそも声すら届いていないのかもしれない。
いや、と。その可能性を即座に否定する。
届いている。この声は、必ず眠っている少女へ届いているはずだ。
彼女が闇の底に囚われていた時も、この名前は確かに届いていたのだから。
「ライア」
もう一度、その名前を呼んだ。
目を覚ます時まで傍にいると、男は約束していた。
約束を果たす為なら、少女が起きるのをいつまでも待ち続けるつもりではある。
けれど、久々に一人でいると夜風が思ったよりも骨身に沁みた。
第一、三日というのは幾ら何でも寝すぎだろう。
「ライア。そろそろ起きろ」
呼びかける。その声が届いていると信じて、眠れる少女の名を唱える。
指先でそっと髪を撫ぜる。決して孤独ではないと、自分の温もりを伝える為に。
すると、ほんの僅かにだが小さな唇が震えたような気がした。
「………ライア」
「………っ………ぁ………」
声。名前を呼ぶ声に応じるように、少女の唇から漏れる音。
小さな身体が身動ぎをした。アルディオスの手に、細い指が重なる。
お互いの温もりを確かめ合おうと、ライアは男の指先をぎゅっと握り締めた。
「………アル………?」
「あぁ。………おはよう、ライア」
兜に隠されていない口元に笑みを浮かべながら、アルディオスは応えた。
男の膝の上に横たわったまま、ライアは周囲に視線を向ける。
それから安心した様子で吐息を漏らしてから、嬉しそうに微笑んだ。
「約束、守ってくれたんだね」
「お前が寝ぼすけなものだから、少々無理やり気味にだがな」
「ひどーい、あたし凄い頑張ったから、凄い疲れちゃってたのに」
「あぁ、分かってる」
ライアの頭をわしゃりと撫でつつ、アルディオスは頷いた。
「お前が頑張ったから、何とかなった。ありがとうな、ライア」
「……ううん。あたしも、アルがいてくれたから頑張れた。だから、お互い様?」
「そうだな。お互い様だ」
穏やかに笑い合う二人を、夜の風が静かに吹き抜ける。
一人で浴びるには冷たい風も、一人でないなら気にはならない。
誰かと共に過ごす夜は、月明かりだけでも十分に明るい。
ふと、小さな音が響いた。虫の鳴き声かと思ったが、どうやら違うらしい。
男の膝の上で、ライアは頬を染めながらお腹の辺りを抑えていた。
「………腹が減ったか?」
「………だって、随分食べてないと思うの」
「そうだな。言われてみればその通りだ」
アルディオス自身も、ずっと眠る少女の傍にいた為にロクに食事は取っていない。
今から用意するのは良いが、少し時間が掛かってしまうな。
そんな事をアルディオスが考えていると、ライアが小さな手で膝を軽く叩いてきた。
「ね、アル」
「ン、どうした?」
「声、聞こえる。呼んでるよ」
言われて、改めて耳を澄ましてみる。
まだ距離は遠い。積み上がった瓦礫の向こうから、呼びかけてくる声。
それは二人の名を唱えている。アルディオスとライア。
「…………あぁ」
少なくとも、その名前を合わせて呼ぶ相手は一人しか知らない。
近づいてくる事で、声はだんだんと大きくなっていく。
また少し騒がしくなるなと、アルディオスは温かい気持ちで笑みをこぼす。
「一人で騒がせるのも不憫だ。迎えに行くか」
「あ、い、行っても、大丈夫?」
「? 何でだ?」
抱き上げながら立ち上がると、何故かライアは慌てた様子でそんな事を言ってきた。
迷うように視線を宙に彷徨わせてから、ぽつりと。
「フェリ、大丈夫? もう怒ってない?」
「………そんな事か。大丈夫だ。アイツならもう怒っちゃいないさ」
「本当に?」
「本当だ。約束する」
そう言って、アルディオスはライアを抱き上げたまま有無を言わさず歩き出す。
少女はまだ少し慌てた様子だったが、程なくして男の腕に身を寄せる。
「良かった………また、一緒にいられるね」
安堵の吐息と共に、ライアは小さくそう呟いた。
「………あぁ、そうだな」
その他愛もない、けれど何よりも尊い祈りをアルディオスは肯定する。
十年分の後悔が無くなった足取りは驚く程に軽い。
瓦礫の向こう、声を上げている女騎士の方へと向かう。
「ライア――――! アルディオス様ぁ――――!」
そんな必死にならずとも良いだろうにと、そう言ってしまいたくなるような様子だ。
駆け寄ってくるフェリミアに対し、アルディオスはあくまでゆっくりと歩を進める事にした。
お互い焦って正面衝突など、間抜けな事態は避けたい。
「ね、フェリには先ずなんて言ったら良いと思う?」
「お前の場合、ずっと寝てたからな。おはようで良いんじゃないのか?」
「良いのかなぁそれで」
何か違う気がする、とライアは真面目に首をひねる。
「二人ともー! 気付いているなら返事ぐらいしてくださーいっ!」
のんびりとした相手の雰囲気を察したのか、フェリミアは思わず抗議の声を上げた。
「悪かった。足場が悪いからな、焦って転ぶなよ」
「いえ、大丈夫ですよ! 流石にそんな事では――――っ!?」
案の定と言うべきか、それとも狙ってやっているのか、アルディオスの目の前で思い切り蹴躓く女騎士。
男は片手でフェリミアを受け止めてから、笑いながらため息を吐いてみせた。
「そそっかしいところは、いつまで経っても変わらないな」
「い、いや、そんな事は………いえ、すいません。ありがとう御座いました」
大人しく身を任せたままで、フェリミアは少しだけ頬を赤らめた。
そんなやり取りが可笑しかったのか、ライアも楽しそうに笑ってみせた。
「えっと、おはよう。フェリ。貴女って、昔っからそんな感じなのね?」
「あー………うん。おはよう、ライア。しかし、その認識に関しては幾らか誤解を含むと私は思うのだが」
「フェリはフェリよ? あたし、フェリの事も大好き」
くすりと微笑み、フェリミアの言う事とは少しピントのずれた言葉を返す。
それから、手を伸ばした。まだ力の入りきらない、細い少女の腕。
全てを壊す権能を秘めたその手に、フェリミアは躊躇うことなく自らの手を重ね合わせた。
どんな言葉を費やすよりも、それだけの繋がりで二人には十分だった。
「………仲直りが出来たのは良いが、何か用事があって来たんじゃないのか?」
「あっ――――そ、そうでした。失礼を。実は王からの言伝がありまして………」
「かなり大事な用だろう、それは」
それを忘れるのは流石にどうなんだと、アルディオスは苦笑しながらフェリミアの言葉に耳を傾ける。
月が墜ちた十年前の夜。あの時から止まっていた時間が、動き出すのを感じながら。
―――かつて、一人の男が己の後悔を弔い続けた街。
そして幼き神が最果てより墜ちてきた瓦礫の都市。
今はもう何もないその場所に、銀の月の名残だけがただ穏やかに咲き誇っていた。
【月墜つ街の神と人/了】
月墜つ街の神と人 駄天使 @Aiwaz15
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