第二十四節 あの夜を越えて



 永劫にも等しい深淵に沈みながら、ライアはその光景を見ていた。

 騎士団によって数は減らされ、結界の効力で動きの鈍った《巨獣》達はそれでも恐るべき脅威だ。

 動くだけで都市を瓦礫に変える巨人、岩をも溶かす炎を吐く魔竜に、怪しげな光を放つ大きな目玉の化物。

 それらが如何なる怪物であるのかをライアは知らない。

 知らないが、弱っても尚その全てが災厄と同じ意味を持つ怪物である事は理解できた。

 ―――そして、そんな怪物の群れをまるで枯れ木のように薙ぎ払い、進み続ける一人の男の勇姿をライアは見ていた。

 巨人が投げる岩の礫も、魔竜が吐く炎熱の吐息も、目玉が撃ち放つ謎の光も。

 その剣が振るわれる度に吹き散らされる。分厚い刃が、踊るような軌跡を宙に描く。

 凄い、という言葉すらも出てこない。

 大柄という表現では足りないような体躯に似合わず、アルディオスの動きは何処までも繊細だった。

 要所要所では大きな動作を見せる事もある。

 深い踏み込みから放たれる大上段の一撃に、地を蹴り空高く跳躍する事も少なくない。

 だがそれらは全て、「そうする必要があったから」行っているに過ぎない。

 どのタイミングで剣を振るい、どう動けば敵の攻撃を避けて自身の攻撃に繋げる事が出来るのか。

 流れ続ける水のように、アルディオスの動きは澱みがない。

 一歩、また一歩と。己の積み上げた全てを費やしながら、男は少女の元へと近づいて行く。

 その光景に、ライアは抑えがたい喜びを感じていた。

 彼は約束を守ろうとしてくれている。自分の為に、アルディオスは全力で戦い続けてくれている。

 嬉しい。けれど同時に、胸を引き裂く思いがある。

 深い闇に囚われた身で、ライアは届かぬはずの声を上げていた。


「ダメっ………アル、ダメよ、それ以上は………!」


 強い輝きが視界を焼く。その光が何であるのかは、ライア自身が誰よりもよく知っていた。

 魔導師の支配に縛られて、世界を焼き滅ぼす為に破壊の権能を振り回す自らの器。

 抗おうとはしている。手足に絡みついた鎖を引っ張り、ライアは今も必死に抵抗を続けている。

 けれど、それは水面に波紋を起こす程度で、根本的な解決には至らない。


「やめて、お願い………! お願いだから、もうやめて………!」


 無数の光が羽のように舞い散る。一つ一つが滅びの光を宿す、極光の風花。

 風で揺らめくように不規則な軌道を描きながら、それは全方位からアルディオスを押し包もうとする。

 剣で切り払うには数が多すぎる。

 完全に逃げ道を塞がれてしまう前に、舞う羽の一角を剣で切り裂いてそのまま駆け抜けた。

 纏った鎧は薄衣程度の役にしか立たず、破滅の極光は重傷の肉体を容赦なく焼き焦がしていく。

 もう骨にまで達している傷も少なくはない。

 動けているどころか、未だに息が続いている事さえ不思議な状態で、それでもアルディオスは進む足を止めようとはしなかった。

 一歩。また一歩と。その意志は確実に前へと進み、両者の距離を狭める。

 ライアはそれを見ていた。半ば砕けた兜の奥、決して消えぬ光を宿す男の両眼を。

 ――――必ず、助ける。

 言葉にせずとも伝わってくる。その思いに、ライアは涙を浮かべる。

 喜びと悲しみ。相反する二つの感情の狭間に立ちながら、人の心を持った神は嘆きを叫ぶ。

 壊したくない人、最初にこの手を取ってくれた誰よりも大切なはずの人が、自分のせいでボロボロになってしまっている。

 嫌だ。こんなのはもう嫌だと、どれほど声を上げても目の前の現実は変わらない。

 触れたものを塵に変える白い手が、雪崩のようにアルディオスへと迫る。

 剣が閃く度にそれらは切り飛ばされていくが、神の力は人間と比すれば無限と変わらない。

 どれほど斬っても虚空から伸びる手の数は減る様子はなく、破壊の極光はそうしている間にも頭上から落ちてくる。

 斬って、斬って、何度でも斬り続けて。生命だけは守る代償として、肉体はどんどんと削られていく。


「アル………ッ!」


 これ以上は本当にアルディオスが死んでしまう。

 目の前が暗くなりそうな絶望は、もうすぐそこまで迫ってきている。

 避けようのない未来を予感し、ライアの膝が折れかけた。

 折れて、再び意識を闇の底へと沈めてしまえば、悲しみに心裂かれる事はないのだろうかと。

 弱い考えに囚われかけたところで、少女は男の眼に宿った光を思い出していた。

 諦めていないのだ、彼は。きっと最後の瞬間が訪れるその時まで、彼は何も諦めない。

 後悔も諦観も、全て置き捨ててただ前だけを見続ける。

 そんな男のささやかな強さが、少女の心が絶望の淵に落ちる寸前で救い出した。


「………そうよ、ダメ。あたしがどうしようもないって思ったら、アルの頑張りが無駄になる」


 闇に囚われた無力な身で、一体何が出来るだろう。

 考えて、ライアは虚空に浮かぶ自分自身の魂へと意識を向けた。

 魂の根深いところまで絡みついているのは、自由を奪う支配という名の枷と鎖。

 その冷たく重苦しい感触とは別に、か細い糸にも似た温もりをライアは感じ取った。

 本来は何も見えないはずの少女の眼に、外の光景を映している微かな繋がり。

 アルディオスがライアの名を呼んだ事で生まれた小さな亀裂。


「――――これだ」


 それは余りにも細く、僅かな力でも途切れてしまいそうな蜘蛛の糸に近い。

 だがそれだけが唯一の突破口であると信じて、ライアはその繋がりを必死に手繰り寄せた。

 無我夢中で暴れるだけだった先ほどまでとは違い、より強く外へ向ける影響を意識する。

 操られた器が振り回す破壊の権能が、少しでも勢いを弱めるように。

 確実に近づきつつある終末の刻限を、一秒でも長く遅らせられるように。


「お願い、アル………っ」


 たったそれだけの事でも、ライアが感じる負担は絶大なものだった。

 例えるならば、その行為は身体に杭を打ち込まれた状態で足掻いているのに等しい。

 骨肉が引きちぎられるのと変わらず、ザルガウムが施した支配の枷に魂が悲鳴を上げている。

 痛い。苦しい。けど、それは彼だって同じはずだ。

 だから耐えられた。耐えて、耐えて、必死で耐えて、今にも折れてしまいそうな心を繋ぎ止めた。

 こんな抗いに大した意味はなかったとしても、暗黒の男が嘲笑っていたように何の価値もなかったとしても。

 構わない。何を言われたって。ライアはただ、その手に掴んだ一筋の光だけを信じた。

 信じて、叫ぶ。その光を与えてくれた、ただ一人の名前を。


「アル………アル、アルディオスッ――――!」


 届かぬはずの声。それは大気を震わせているわけでもなく、本来であれば音として伝わる事などない。

 物理的に有り得ない事象だ。けれど、男の耳には確かに届いていた。

 故に応える。とっくの昔に限界を迎えたはずの身体に、これまで以上の力が漲るのをアルディオスは感じた。

 相変わらず支配されたままのライアは、破壊の権能を嵐のように振り回している。

 しかしほんの僅かではあるが、その荒れ狂う破滅の中に亀裂が生じている事を見て取った。

 それを勝機と呼ぶには余りに儚い。けれどその隙間こそが、ライアが全霊を賭して掴み取った唯一の好機。

 ならば超えられる。眼前に迫った白い手を一刀で斬り払い、アルディオスは地を蹴った。

 先ほどまでとは比較にならない無謀とも取れる突進。

 踏みしめた大地を砕きながら、人に倍する巨体が一気に加速する。

 如何に隙を見出したとは言っても、未だに破壊の神の権能は苛烈に振るわれている。

 放たれる破滅の極光。さながら横薙ぎに走る雷のように、触れる全てを焼き払いながら襲いかかる。


「ふっ…………!」


 それを走りながら剣のひと振りで切り払うが、余波までは消しきれない。

 砕けた光の断片が腕や足を焼く。そうしている間にも、極光は更にアルディオスへ叩き込まれる。

 二度、三度。刃の輝きが破滅の光を打ち砕く。

 四度、五度、六度、七度。宙に散る光は、まるで雪のように瓦礫の上に降り注いだ。

 歩みは止めない。一瞬でも立ち止まれば、それだけで力尽きてしまうから。

 永劫のように遠かったはずの距離も、今は大分近づいている。

 そう、近づいている。それは間違いない。

 現に、光の翼を背負って空に浮かんでいたはずのライアの身体が、いつの間にか地表近くに――――。


「………拙いな」


 気付く。気付いてしまった。

 少女の抵抗が原因か、あるいは魔導師の悪意であるかまでは分からない。

 はっきり分かる事は一つ。地に降り立ったライアが掲げる右手。

 そのか細い少女の右手に、今まで放ったものがまったく問題にならない程の極光が収束しつつあった。

 この世界を微塵に砕く為に、破壊の神が振るわんとしていた究極の一撃。

 まだ不完全であるにも関わらず、ライアはその刃を大地に叩きつけようとしていた。

 世界を滅ぼすには足らずとも、現時点の威力でも《既知領域》を消し飛ばすには十分過ぎるだろう。

 あの右手が振り下ろされれば全てが終わる。

 恐らくは誰も助かるまい。あの全てを嘲笑う暗黒の男以外には。


「………………」


 決断が必要だった。記憶の中で、あの月が墜ちた夜の事が思い出される。

 全てを狂わす銀色の月。ただ、誰かと繋がる温もりを求めていただけの哀れな魂。

 選択の自由とその意志は、アルディオスの手に握られていた。

 剣の柄を握り直す。「この剣を握った事を、お前は必ず後悔する」、その言葉と共に放浪の賢人より授かった無二の剣。

 この距離ならば、まだ間に合う。最大規模の権能の行使に入った事で、破壊の勢いは明らかに弱まった。

 後はただ最短を走り抜けて――――手にした刃を、振り下ろすだけで良い。

 それだけで、この世界は救われる。あの月が墜ちた夜と同じように。


「………………」


 見ていた。アルディオスの眼は、確かに見ていた。

 色のない表情。神は感情のない虚ろな表情のまま、右手に掲げた極光で空を焼き焦がす。

 支配という枷に繋がれた今、ライアは無慈悲な破壊を体現する神格そのもの。

 けれど、嗚呼けれど――――アルディオスの眼は、それを見ていた。

 頬を流れる、一雫の涙。闇に沈んだ少女の魂が掴んだ、か細い糸にも似た温もり。

 そこから伝わってくる声を、アルディオスは聞いた。

 ――――良いよ。

 ライアはいっそ穏やかに、数秒先に訪れる自らの運命を受け入れる。

 このまま何もかもを壊してしまうよりも、きっとそれはずっと良い事だからと。

 受け入れて、少女の魂は穏やかに笑っていた。

 ――――アルになら、壊されても良い。

 大切な人の手で壊されてしまうのなら、それは望まぬ破壊を強いられるよりもずっと良い。

 だからライアは、そこで自らの眼を閉じる事にした。

 最後の最後で、自分はアルディオスの事を悲しませてしまう。

 彼の悲しむ顔を、終わりの光景にはしたくなかった。酷いワガママだとは知りながらも、少女はその瞳を閉じる。

 それから、たった一つの事を祈った。自分を壊してしまう彼が、それ以上に悲しむ事のないように。

 喧嘩してしまったフェリミアと、また仲良く手を取り合う事が出来るように。

 ライアは己の運命を抱きしめながら祈り――――アルディオスは、全てを見ていた。

 走る。五体がバラバラになってしまいそうな苦痛も構わずに、真っ直ぐに走る。

 脳裏を過るのは、あの夜の後悔。泣きながら笑っていた、名前もない月。

 それからの十年と、少女との出会い。押し掛けてきた女騎士と、それから始まった不器用な三人の歩み。

 全ての過去を背にして、アルディオスは現在という刹那を駆け抜けた。

 ライアとの距離はあと数歩。それを踏み越えてしまえばもう目前。

 男は剣の柄を強く握る。少女の涙が頬を伝い、小さな雫となって地へと落ちる。

 真っ直ぐに振り上げた刃。例え神であろうとも、その一刀をまともに受けたならば滅ぶ他ない。

 その時間は永遠にも思えたが、実際には一瞬。運命の時は訪れる。


「ッ――――――!」


 アルディオスは叫んだ。その声は、目の前に立つライアにだけ届いた。

 神殺しの刃が、音もなく地に落ちる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る