第二十五節 奇跡の価値


 戦いが始まってから、僅かに数分程度。

 たったそれだけの時間で、騎士達は圧倒的な劣勢に立たされていた。

 いやむしろ、敵の強大さを考えるのならその程度の事さえ偉業と讃えるべきかもしれない。

 先陣を切るフェリミアを初め、未だに誰一人脱落せずに戦い続けているのは奇跡にも等しかった。

 とはいえ、騎士達が追い詰められているという事実に変わりはない。

 相対するだけで心を潰し、触れるだけで万物を冒涜する。

 それは暗黒の具現であり、窮極たる闇そのもの。

 ザルガウム=ギア=ゲティアス。

 彼は無力な刃を握り締めて健気に抗う者達を、冷たく嘲笑い続けていた。


「限界は近いな。あと一分か、それとも二分か。その生命を代価とすれば三分程度は保てるやもしれんが」

「なら、その限界も踏み越えるまでだ………!」


 ザルガウムの嘲笑に血を吐くように叫び返して、フェリミアは向かってくる闇を切り払う。

 それは質量を持たず、如何なる熱量も有していない。

 ただ接触するだけで何もかもを穢す。

 無機物ならばその意味を失ったが如くに朽ち果てて、生命ならば枯れ果てるか腐り落ちる。

 仮に直撃しなくとも、闇に触れた風を受けるだけでも体力を削られる。

 幸いと言うべきか、ザルガウムの放つ闇は直接触れない限りは致命傷にはならない。

 じわじわと追い込まれる事に変わりはないが、少なくとも気力を繋ぐ限りは戦う事が出来る。

 共に戦う騎士達も、フェリミアの固有魔術の恩恵によって未だギリギリのところで戦列を保ち続けていた。


「奈落に落ちると分かっていながら、走ることを止めない。それは勇気ではなくただの愚行だ」


 渦巻く闇の中心、首だけは以前の形を保ったままでザルガウムは語る。

 思ったよりも手こずってしまっている事実に驚嘆はするが、訪れる結果は何も変わらない。


「そう、変わらない。何も変わらない。お前達の抵抗は無意味だ、お前達の生命は無価値だ。今も、一体何が変わったと言う?

 君らは私に挑んだ事で死ぬ。どの道、こんな事をせずとも破壊の神の手で虚空の塵になったというのに、自ら望んで猶予を振り捨てた」

「ッ…………!」


 嘲りの言葉が唱和する。風のように吹き荒れる闇の全てが、ザルガウムの声で嘲っている。


「お前達は死ぬ。あの男も死ぬ。この世界も、全てが死に果てる。――――変わらない。その結果は、最初から決まっていた」


 一人、また一人と。ザルガウムの闇から逃れようとしていた騎士が地に伏していく。

 まだ無事な仲間が闇に呑まれるより早く引き上げはするが、彼らもまた生命力を奪われていく。

 最早それは戦いではない。生存の時間を少しでも伸ばそうとする逃避に過ぎない。

 その無様な姿も、ザルガウムは嘲笑した。


「どうした、私の結論を愚かだと言ったのは君だ。私の嘲りこそ無意味だと言ったのは君のはずだ」

「意外と、根に持つ男だな………!」


 最前線で最も闇を深く浴びているにも関わらず、フェリミアの動きは未だに衰えていない。

 それどころか騎士達に与えた加護を強めて、倒れそうな者を支える事までしている。

 健気ではあるが、やはり無意味な行為だ。自身の余力を削って他者に与えれば、それだけ限界の訪れは早まる事になる。

 ――――だというのに、何故この騎士は諦めないのか。


「前言を翻すつもりはないが………確かに、私達ではお前を討つには力及ばんかもしれんな………!」

「正しい理解だ。だというのに、何故?」

「何故? 何故と聞くか、魔道の極致に至っただろう者が!」


 動甲冑らを盾に、押し寄せる闇の奔流をどうにか防ぐ。

 フェリミアが誇る《白霊騎士団》も残り僅か、残っている動甲冑も殆ど余力はない。

 それでも、彼女は足を止めない。いや彼女達は、決して足を止めなかった。

 理解出来ない。彼らが手にした原始的な武器では、闇と化したザルガウムを討つにはまるで足らない。

 あのアルディオスとかいう男の剣であれば違っただろうが、アレは間もなく破壊の神の前に平伏す事になる。

 騎士達もそれは分かっているはずだ。だというのに、彼らは逃げを打つ事なく只管耐え続けている。

 分からない。勝機など欠片もないというのに、一体何をそこまで…………。


「………分からないか?」


 するりと、その言葉は冷たい刃のようにザルガウムの耳に滑り込んだ。

 フェリミアは笑っていた。固有魔術の反動で今にも死にそうな状態にありながら、涼やかに笑っていた。

 何が可笑しいのか。浮かんだ疑問に騎士は答える。


「私はただ、待っているだけだ」

「待っている?」


 この危機的な状況で何を待つと。こちらを攪乱するための戯言であるのかと、ザルガウムは邪推する。

 しかし、その言葉はそんな小細工ではない。フェリミアはただ確信しているに過ぎない。

 一体何を確信しているのか。そんなものは一つしかない。


「奇跡さ。――――私はただ、起こるべき奇跡を待っている」


 まるで尊い祈りを捧げるかのように、フェリミアはその言葉を口にした。


「………は」


 対するザルガウムは変わらぬ嘲笑で応える。


「奇跡、奇跡だと? 言うに事欠いて奇跡とは――――愚かに過ぎる。そんなものは起こらない。奇跡など、弱者が抱く妄想の最たるものだ」


 笑う。笑う。心底可笑しいと暗黒の男は嘲笑う。

 神すら死ぬこの世界で、人が信じる奇跡にどれだけの価値があるのか。

 意味はない。彼らの抵抗はどこへ辿り着く事もない。全てが無意味に虚空へと散る運命だ。

 だというのに。


「さぁ、お前達! 団長殿一人に無理をさせる気か!」


 一人の騎士が叫んだ。《巨獣》との戦いで傷つき、今も相対する闇によって生命を削られ続けている名も無き騎士。

 崩れ落ちそうな身体を、折れぬ誇りと意志のみで支え続ける。


「なんの、こっちはまだまだ戦えるぞ………!」

「無理して死ぬなよ、骨は拾ってやらんからな!」


 その声に応えて、地に伏したはずの騎士もまた息を吹き返す。

 一人や二人ではない。肩を借りねば立っていられないような者まで、再び剣を持って前へ出る。

 死の淵を前に、かろうじて持ち堪えているだけの生命。

 退けば僅かにでも長らえるというのに、騎士達は躊躇いなく一歩踏み出す。

 狂人の類かともザルガウムは考えた。彼らは狂信を胸に戦う動く屍の集団であるのかと。

 しかし、違う。彼らの目に宿る光がそれを否定している。

 誰も死ぬ事など考えてはいない。同時に、死を恐れてもいない。

 起こるべき奇跡を待っている――――まさか、そんな戯言を本気で信じているのか。


「………狂人ではないにしても、愚者である事に変わりはない」


 闇の内に生じた奇妙な感覚。ザルガウムはその“揺らぎ”をあえて言葉にする事で否定する。


「愚か者で上等だ………!」

「此処で尻尾を巻くのが賢い選択だって言うなら、俺は大馬鹿野郎で十分だ!」


 死に体の騎士達は、それを軽く笑い飛ばした。

 己が生命の在り処を示すようにどうでも良い事を叫び合い、そして大声で笑った。


「無駄口は良いが手と足は動かせよ! 寝たらそのまま死ぬと思え!」

「分かっています! それにさっき一秒ぐらいは寝てたんで問題ありません!」

「それは寝てたんじゃなくて気絶してたんだろ………?」


 一秒後には死んでいるかも分からない地獄の渦中で、騎士達は笑っていた。

 単なる強がりである事は誰もが分かっていた。フェリミアも分かっているからこそ、共に笑っていた。

 笑いながら、未だに健在な暗黒の具現へと挑む。


「………不愉快だ」


 あらゆる角度から打ち込まれる刃や魔術を、実体のない闇で受け止めながらザルガウムは呟く。

 無意味であるはずの抵抗を続ける者達に、あるいは無価値であるはずの奇跡を待ち続ける者達に、魔導師は不快感を露にした。

 長い年月で枯れ果てたと思っていた感情が俄かにざわついている。

 あの男も、この騎士達も、誰も彼もが耐え難い程に愚かだ。

 最早余力を残そうなどとは考えない。自らの全能力を駆使して、眼前の愚か者達を鏖殺する。

 余興などと口にした事が間違いであったとザルガウムは認め、この茶番を終わらせようと――――。


「…………何?」


 そう、終わらせようとしたところで、有り得ない事が起こった。

 有り得ない、有り得ないはずだ。今まで繋がっていたはずのものが、途切れてしまった感覚。

 馬鹿な。そんな事が起こるはずがない。頂点たる魔導師の胸中を、意味を成さない否定の言葉が埋め尽くした。

 何が起こったのか。事実を確かめようと、ザルガウムは視線を彷徨わせる。

 途切れる瞬間までは、その位置を把握していた。故にその光景はすぐに目にする事が出来た。

 都市の中心。先ほどまでは破壊神の権能が吹き荒れていた場所。

 この世界が破滅を迎えるはずのその地に、二人の姿はあった。

 たった一人で恐るべき神威へと挑んだ男、アルディオス。

 かつて銀の月を落としたその刃は、二度目の“神殺し”を成し遂げてはいなかった。

 剣はただ地面に力なく突き立つのみで、破壊神の身体を断ち切ってはいない。

 男はその身が焼かれるのも構わずに―――目の前の少女を、ただ抱き締めていた。

 小さな身体を押し潰してしまわぬよう気を付けながら、互いの繋がりを確かめるようにただ無心に抱き締める。

 馬鹿げた事だと、その光景を目にしたザルガウムだけでなく、アルディオス自身も感じていた。

 それでも、彼にとってこれが刃を振り下ろす以外に出来る唯一の事で。


「ライア――――ッ!」


 届いてくれと祈りながら神殺しの剣を手放し、荒ぶる神である少女の名を叫んでいた。

 その想いは、その心は、闇に沈んだはずの少女の元へと確かに届いた。

 ザルガウムが無意味だと嘲笑った抗いが、無価値だと蔑んだ輝きが、必然たる奇跡を起こす。

 砕ける。祈りと共にその名を呼ばれた神は、自らを縛り付ける枷を音もなく砕いた。

 ほんの亀裂でしかなかった光をその手で引き寄せ、暗黒の海を一気に切り開く。

 自由を取り戻した腕で、大きすぎる腕を抱き返す。

 自由を取り戻した脚は、少し宙に浮いてるせいで不格好にばたつかせてしまう。

 自由を取り戻した声で、少女は何度も自分に呼びかけていた声にようやく言葉を返せた。


「アル…………! アル、アル…………ッ!」


 目の前の男の名を、ライアは何度も繰り返した。

 その周りには、もう破滅の極光など何処にも浮かんでいなかった。

 自由になった少女の身体を、アルディオスはボロボロの身体で強く抱き締める。

 ―――その二人の姿を、ザルガウムは見ていた。

 支配の鎖を打ち砕かれた事実に、絶対であったはずの暗黒に致命的な隙が生じた。

 その一瞬。有り得ないと確信していた事態が起こった事への動揺を、フェリミアは見逃さなかった。


「放てェ!」


 団長が鋭く命令を発するのと同時に、全ての騎士達が動いていた。

 どれだけ追い詰められていても決して出す事のなかった切り札を、躊躇う事なくザルガウムへと叩き込む。

 それは術式だった。込められた触媒は様々で、放たれた短剣や投槍が次々と闇の中心へと突き立つ。

 無駄な事だと、ザルガウムは断じていた。魔力で直接束縛する類の術式は、真理に到達したこの身体には届かない。

 既に一度その事実を見せつけているはずなのに、愚かな事を。

 そう考えたところで、先ほどとは明らかに異なる事実にザルガウムは気付いた。


「さっき動甲冑らに打ち込ませたものとは違う。―――十年前、月に挑んだ勇者達が使った“神封じ”の結界だ」


 幾重にも施された結界に今度こそ縛られながら、ザルガウムはフェリミアの声を聞いた。

 力を封じられ、人の形に再び圧縮されつつある闇の中心。その目の前まで一気に迫り、フェリミアは剣を振りかぶった。

 刃に光るのは同じく神封じの結界術。その一刀は、今度こそ魔導師の生命まで届くだろう。


「これで、私達の勝ちだ」


 勝利を告げる言葉と共に、戦いの終わりを刻む白刃が閃いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る