第二十六節 月夜の決着


「………そうだな」


 フェリミアの言葉を、ザルガウムは静かに認めた。

 分かっていれば防ぎようもあった。しかし、防ぐ事の出来ない一瞬を狙い打たれた。

 彼らは言葉通りに待ち続けていたのだ。アルディオスが起こす奇跡と、その時に生じる絶対の勝機を。

 奇跡。神すら死ぬこの世界で、人が信じる奇跡など起こるはずもない。

 だが、実際に奇跡は起きた。神による偶然ではなく、人の手によって成し遂げられた必然。

 これは起こるべくして起こった事であると、ザルガウムは静かに認めた。


「私の負けか」


 その結果は、もう揺らぐ事はない。

 フェリミアの放つ刃は、間もなくこの闇を形作る精髄を断ち切るだろう。

 そこに絶望はない。ただつまらない事に足元を掬われてしまったとしか、頂きに立った男は思わなかった。

 思わなかった。思わなかったはずだ。

 刃が落ちる。速度を失った世界でその切っ先を見据えながら、ザルガウムは呟く。


「………あぁ、そうか」


 全ては無意味だと、あらゆるものは無価値だと、そう嘲笑ってきた男は気付いた。

 渇いた荒野の如き胸の内に湧き上がる感情。

 最後の瞬間を目前にしながら消える事のない熾り火を。

 口惜しいのだ。あの奇跡を目にしながら滅びようとしている、その事実に酷く執着を感じている。

 刃が突き立った。封印によって力を縛られた闇は、薄紙のように切り裂かれた。

 魂とも呼ぶべき存在維持を担う核を破壊され、ザルガウムは自らの敗北を確信する。

 確信し、それを受け入れ――――それでも、認めがたい屈辱があった。


「敗北など、もうどうでも良い」


 その屈辱に比べるなら、その程度の事は全くの些事だ。

 終わりを前に響く魔導師の声に、フェリミアはどうしようもない悪寒を感じた。


「滅びるのならそれも一興。だが」

「ッ………! 総員、術の拘束を強めろ!」


 勝利の確信を手にしながらも、配下の騎士達へ声を張り上げる。

 ここから状況が逆転する事は有り得ない。だが、目の前の敵はもうこの戦いの結果など見てはいなかった。


「―――あれは、あの花は、私だけのものだ」


 振り下ろされた剣はザルガウムの身体を切り裂き―――そして、闇が砕けた。

 まるで脆い硝子細工のように砕けながらも、魔道の頂点に立つ男は力を失ってはいなかった。

 全能力の八割を消失する事を引き換えに、ザルガウムは自らを縛っていた封印の隙間を掻い潜る。

 宙に散った闇の断片はそのまま黒い蛇のような姿へと変わり、風の素早さで駆け抜ける。

 向かう先は一つ。その渇き果てた魂が求める、麗しい銀の花の元へ。


「しまった………!」


 騎士達に油断はなかった。

 しかし、目の前の相手がこれほどまでに形振り構わぬ動きを見せるのは想定の外だった。


「アルディオス様ッ!」


 暗黒の残滓は、警告を発する女騎士などもう目もくれない。

 迫る狂気を感じ取ったアルディオスは、ライアを腕に抱いたままで地に突き立った剣の柄を握る。

 一瞬で地面から刃を抜き放つと、闇を払おうと構える―――が。


「返せ」


 黒い蛇が絡まり合い、人間に似た形となった闇が、無数に集った蟲の鳴き声で言葉を発した。

 同時に、虚空から這い出した稲妻の如き光が神殺しの剣を縛り上げる。


「ッ………これは………!?」


 ギシリと、軋む音を立てるそれをアルディオスは見た。

 鎖だ。アルディオスが愛用しているような太いものではなく、何処にでもあるように見える細長い鎖。

 しかしそれは、この世で最も不変である始祖竜の骨から鍛え上げた逸品。

 如何に神を切り裂いた刃であっても、使い手が万全でない以上は断ち切る事は難しい。


「返せ、アルディオス。神の美を損なう者よ」


 吐息を感じる程の距離で、底冷えするような憎悪の気配を感じる。

 煮え滾る溶岩にも等しい悪意を込めて、ザルガウムであった者は憎い男の名を口にした。


「その花は、私のものだ」

「いい加減、お前もしつこい男だな………!」


 剣を振るおうと力を込めるが、鎖が縛り付けてそれを阻む。

 闇は笑った。誤魔化しようのない歓喜に震えながら、今心の底から笑っていた。

 己が求めるものを、踏破し難い困難に見舞われながらも奪い取る。

 未だかつて感じた事のない生の充足。だが、それだけではまだ不十分だ。

 あの美しい花を、二つとない銀の輝きをこの手で摘み取る。望む事はただそれだけ。


「くっ………!」


 アルディオスは残された力をどうにか振り絞るが、鎖による拘束を解くにはまるで届かない。

 そうしている間にも、妄執の塊と化した闇がその手を伸ばしてくる。

 させてなるものかと意志は強く持てども、肝心な肉体の方が力尽きかけていた。

 歯を食いしばり、剣を握る手に力を込める。鎖は微動だにしない。

 腕の骨がへし折れて、肘から千切れる事になっても良い。アルディオスは抗い続けた。

 届かないという絶望を振り払いながら、ようやくここまでたどり着いたのだ。

 諦めも後悔も今は不要だ。その苦さはもう、この十年の間に嫌というほど味わっているのだから。


「大人しく明け渡せ! その花は、その輝きは、私が欲したものだ! 私が手に入れるべきものなのだ………!」

「くたばり損なってもお喋りとは、本当に大概な野郎だな………ッ!」


 一瞬で流れるはずの時間を、せめぎ合う二人は永遠にも等しい長さで共有していた。

 奪おうとする者と、守ろうとする者。決して相容れない両者の決戦。

 実際にはほんの数秒にも満たない戦いの明暗を分けたのは、たった一つの大きな差異。

 抗うアルディオスの腕に、小さな手が触れていた。

 ライアだ。彼女の目は、自分を奪おうとするザルガウムの手は見ていなかった。

 恐れはなく、信頼と喜びだけを込めて幼い女神は微笑みかける。


「大丈夫。今度は、あたしがアルを助ける番」


 光が舞う。全てを焼き尽くすはずの極光は、世界を焼く事なく羽を広げた。

 歌う。破壊の神は、広がる空を楽器にして尊い祈りを奏でる。

 大切なものを守りたい。悪意がもたらす恐怖を振り払い、戦う為の勇気を少女は歌い上げた。

 生命を賭して支配の軛から救ってくれた彼を、今度は自分が救う番だと。

 戒めを破る光が、その指先から溢れ出した。


「………あぁ、そうだな」


 一人で背負い込む必要などない。無理を遠そうとする余り、そんな事も忘れそうになってしまっていた。

 ライアを救う事が出来たのも、フェリミアや騎士団の助けがあったからこそだ。

 そうして今、救ったはずの少女の手で窮地を救われようとしている。

 つくづく、自分は英雄には成り切れない男であるらしい。

 だが、それで良いのだろう。一人の完全性を誇るよりも、不完全であっても誰かと支え合いながら生きて行きたい。

 今こうやって、二人の手で困難を打ち砕こうとしているように。


「悪いな、ライア。俺一人じゃ無理そうなんだ。少し、助けてくれ」

「………うん、任せて」


 素直な弱さを見せる男の言葉に、少女は微笑みながら頷いた。

 重ねられた手に、アルディオスは力を感じた。

 鎖で戒められた神殺しの刃に、女神の祝福である光が宿る。


「――――――」


 ザルガウムはそれを見ていた。正確に言うなら、完全に目を奪われていた。

 眩い極光を宿した刃が、不変なる竜の束縛を断ち切ろうとする瞬間でも見入ったままで。

 美しい。余りにも単純な―――けれど、他の言葉では言い表しようのない輝き。

 あるいは、その光の事を「奇跡」と人は呼ぶのかもしれない。

 奇跡。神すら死ぬこの世界で、人が信じる奇跡にどれだけの価値があるのか。

 ザルガウムはそう嘲笑い続けてきた。奇跡の不在に絶望する愚か者達を、それこそ星の数ほど見下しながら。

 その考えは今この瞬間も変わらない。変わらないが、同時に一つの事実も認めていた。


「成る程―――奇跡とは、人の手で起こす必然の名でもあるわけか」


 全てのものに意味はなく、故にあらゆるものに価値はない。

 絶対だと確信していた己の真理が、有り得ないはずの敗北と心奪われた銀の光に揺るがされた。

 それこそ正に奇跡と呼ぶべきものだろう。屈辱と共にザルガウムは認めた。

 刃が落ちる刹那にも、笑いながらその事実を受け入れる。


「私の、負けだな」

「あぁ、俺達の勝ちだ」


 極光を纏ったアルディオスの剣が、真っ直ぐにザルガウムを切り裂いた。

 今度こそ無数の恐るべき名に彩られた男は、ライアの光を宿した刃を受けて塵となって消え失せた。

 後には何も残らず、ザルガウムが呼び出した《巨獣》もまた虚空の闇へと戻っていく。

 全てが幻のように去れば、後には戦いの傷跡深い瓦礫の都市だけが残された。



 騎士達はその光景を前に、暫し無言で佇んでいた。


「………終わった、のか?」


 一人が、そう声を出して呟いた。

 言葉にする事で、少しずつ目の前の現実に対する実感が芽生えてくる。

 終わった。終わったのだ。あの神にも等しい《世界移動者》を、自分達は討ち果たしたのだと。

 歓呼の声は一つ、また一つと数を増やし、やがて大きな歓声となって街に響き渡った。

 互いの肩を叩いて健闘を讃え合う者、達成感に思わず涙を流す者、緊張の糸が途切れてその場に倒れてしまう者。

 様々な反応を見せる騎士達に、フェリミアは思わず苦笑いをこぼした。


「あまりはしゃぎ過ぎるなよ。それで弱った者がポックリ逝ってしまったとか、泣くに泣けなくなってしまうだろう」


 違いない、と多くの笑い声が上がる。絶望を乗り越えた喜びを、騎士達は例外なく共有していた。

 その様子を、アルディオスは離れた場所から見ていた。

 名も知れぬ暗黒の男は消え、腕の中には取り返した温もり一つがある。

 かつて後に残していった騎士達は、月が墜ちた夜にも等しい大きな困難を乗り越えた。

 今や彼らは、十年前に散った勇者達と比して何ら遜色はないだろう。

 その事を嬉しく思いながら、アルディオスは小さく息を吐いた。

 気付けば、胸に引っかかっていた後悔は随分と軽くなっている気がする。


「………終わった、の?」

「あぁ、終わった」


 腕の中に抱いた少女の声に、アルディオスは小さく頷いた。

 見下ろせば、安心して力を抜いた微笑みが目に映る。

 酷く疲れている様子で、ライアは男の腕に完全に身を預けていた。


「よか、った………フェリミアも、大丈夫?」

「あっちで部下の連中と盛り上がってるな。もう少しすれば、こっちにも気付くだろう」

「そっか、大丈夫なら、良いの」

「………こっちは、お互いあまり大丈夫とは言い難いな」


 そう言ってから、アルディオスはそのまま瓦礫の上に座り込んだ。

 羽のように軽いライアの身体に重みを感じてしまう程度には、アルディオスも消耗していた。

 腕の中で横たわる少女も同様。どちらも全霊を尽くした上での戦いだった。

 どちらかが諦めてしまっていたなら、この結末には辿り着けなかっただろう。


「よく、頑張ったな」

「ん。………アルも、お疲れ様」


 微笑みながら、ライアはそっと手を伸ばす。

 伸ばした先はアルディオスの顔。常に表情を隠していた兜も、激しい戦いの末に壊れてしまっていた。

 始めて晒される男の素顔を、ライアは真っ直ぐと見上げる。

 自分と同じ赤を宿す獣の瞳と、人では有り得ない発達した鋭い牙。そして頭に生えた二本の角。

 精悍な顔立ちに獣の相が入り混じったその顔に、伸ばした指先を触れさせる。

 ぴくりと、アルディオスの身体が小さく震えた。


「………怖くないか?」

「………どっちかって言うと、可愛いと思う」


 予想していなかった反応に、言われた方は完全に戸惑ってしまう。

 そんな様子が可笑しかったのか、ライアは楽しそうに笑った。

 それから小さく欠伸をする少女の髪を、アルディオスは大きな手のひらで優しく撫でた。


「疲れたんなら、もう眠ってしまって構わないぞ」

「でも、まだフェリに………」

「起きてからでも大丈夫だ。アイツも、そんな事で怒ったりはしない」

「………ん、そっか。そうだよね」


 一つ頷いてから、ライアは言われた通りに瞼を閉じる。

 鍛えているアルディオスとは違い、肉体的には少女に過ぎないライアは直ぐに眠りの中へと落ちてく。

 それが闇に落ちる感覚にも似ていて、心が少しだけ恐怖に揺らぐ。

 怯え竦んだその心を、しっかりと握られた手の暖かさが和らげてくれた。


「大丈夫だ、ライア」


 名を呼ばれると共に、安心させようと優しい声が響く。


「お前が目を覚ます時まで、俺がずっと傍で見てる。だから、ゆっくり休むと良い」

「………うん、約束ね」

「あぁ、約束だ」


 手指を絡めながら、アルディオスは頷いた。

 新たな誓いを交わしながら、ライアは安堵に包まれながら眠りに落ちていく。

 今度は恐ろしくはない。信じた人は、きっと約束を守ってくれると分かっているから。

 眠る少女を腕に抱いたままで、アルディオスは空を見上げた。

 気付けば日は傾き出しており、空には月の影が見える。銀色に煌く、墜ちた月の欠片もまた。


「………おやすみ、ライア」


 それは祈りであり、誓いの言葉でもあった。

 神と人。浮かぶ月はただ、墜ちた都市の二人を穏やかに見下ろしていた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る