第二十三節 恐るべき暗黒
過去に例を見ない危機的な状況に陥っても、ザルガウムの精神には欠片の動揺もなかった。
眼前に迫る敵を侮っているわけではない。いや、彼は自分以外の生命を本質的に侮っているが、過小評価をしているわけではない。
成る程、この騎士とやらは実によく戦っている。
扱う装備の殆どに竜の鱗や牙などを用い、魔術を効率的に使用して間断なく攻め立てる。
恐らくはザルガウムに結界の破壊を行わせないためだろう。
神に施した支配を維持しつつ、《巨獣》達の使役と召喚も行い続けている現状では、確かにそれは難易度の高い作業だ。
あくまで「片手間で行うには」という但し書きはつくが、不可能という事実に変わりはない。
「ふむ」
故に結界からは意識を外し、ザルガウムは目の前の対処に専念する事にした。
今、ザルガウムを直接狙っている騎士は十人程。騎士団全体の半数が周囲の《巨獣》達を蹴散らす事に専念している。
目視できる距離にはいないが、建物の上には何人もの弓を構えた騎士達が身を潜めており、戦場の要所に鋭い矢を放ち続けている。
ザルガウムは軽く指に力を込めて、自分を捕らえようとしていた重力の枷を粉砕した。
頭上から押さえつける気流は軽く指で消し飛ばし、そのまま上空へと距離を取ろうとする。
接近を恐れているわけではないが、余り近くに寄られても煩わしい。
その程度でしか考えていなかったが、騎士達とてそれを容易く許したりはしない。
「む―――――?」
空に上がろうとしたところで、幾つもの投槍が四方から飛来した。
ザルガウムは虚空から浮遊する盾を取り出すと、それをあっさりと弾き落とす。
所有者に迫る危機を自動的に防ぐ
その強度は、例え竜牙で鍛えた切っ先だろうとも弾き返す。
しかし防御の意識を割いた一瞬の隙を突き、複数の影が宙に飛び上がった。
それは青白い輝きを帯びた全身甲冑の騎士達。正確には中身を持たない動甲冑の群れ。
展開された盾を視界を塞ぐ遮蔽に使い、手にした刃を鋭く突き出す。
大盾は主に向けられた攻撃に反応し、当然のようにそれらを防ごうと動いた。
動甲冑が繰り出した刺突はあっさりと弾かれてしまうが、本命はこの攻撃ではない。
宙に浮かぶ盾を陰にして迫った動甲冑達――――を、さらに陰にして地上の騎士達が一斉に術式を発動させる。
「“炎よ、大気を喰らいて我が敵を粉砕せしめよ!”」
詠唱と同時に発生した爆発と炎が、動甲冑達とザルガウムを纏めて包み込む。
《
先ほどまでの戦いで、敵は能動的に知覚した魔術を消去出来ると騎士達は悟っていた。
故に仕掛けられた知覚外からの攻撃。しかし、ザルガウムもそうしてくる事は予見していた。
結界により安定化した空間であろうとも、短距離の転移ならば何ら問題はない。
爆発の檻が圧殺するよりも早く虚空を渡っていた魔導師は、術式を発動したばかりの騎士達の背後に現れた。
「ッ、後ろだ!」
「鈍いな」
即座の反応も、ザルガウムの前では遅すぎる。
手には新たな《巨獣》を封じた札。呼び出されるのは巨人も殺す猛毒を秘めた《
解放には一秒も掛からない。この至近距離で出現した大蛇に、騎士達は為すすべもなく蹂躙される。
そう、解放されたならば、だが。
「―――あぁ、全く鈍いな」
その声がザルガウムの耳に届いた時には、既に攻撃は完了していた。
伸ばした右手が、呼び出した札ごと断ち割られている。
痛みはない。肉体的な苦痛は単なる情報として処理している為、ザルガウムは痛みに行動を阻害させる事はない。
しかし暗黒たる男が考えた以上に、背後を取った騎士―――フェリミアの動きは速かった。
右手を断ち切ると同時に、周囲に展開した動甲冑らが短剣を投じる。
身を守る要塞の大盾は、先ほどの騎士達の連携により破壊されてしまっていた。
防ぐ術なく、刃は次々とザルガウムの身体に突き刺さり、その刃に等しく刻まれた拘束の為の術式が発動する。
「無駄な事だ」
発動した直後に、それらは僅かな影響も及ぼすことなく打ち砕かれた。
物理的な破壊力を伴う魔術ならばいざ知らず、魔術的な効力として「縛り付ける」術式ではザルガウムは捕らえられない。
術式が触れた事を意識するだけで術そのものを破棄する事が可能だ。
そしてフェリミアも、相手がその程度の芸当が可能である事は十分に理解していた。
必要なのは一瞬。足止めにはならずとも、一瞬でも相手の行動の流れを阻む事が出来れば問題ない。
その一瞬があれば、鍛え上げた王国騎士達は体勢を整えられる。
不意を打たれかけた騎士はザルガウムを中心に円陣を組み直し、それぞれ武器と術式を構え終えている。
動甲冑らもその列に加わり、どのような動きにも対応出来るように控えていた。
「《天眼》を持つ者か。成る程、その見通す眼により空を渡った私の位置を見抜いたか」
自らの右手を断ち、今目の前にて刃を突き付けている女騎士に対して、ザルガウムは淡々と言葉を向けた。
転移を行ってこの包囲から逃れる事は出来るが、女騎士―――フェリミアは即座に対応するだろう。
虚空を渡るまでの短い間に致命の一撃を加え、その上で移動した空間をその眼で割り出して追撃を仕掛ける。
危機的状況だ。仮に切り抜けられたとしても、受ける傷は思いの外大きいに違いない。
ザルガウムはそれを認めながらも、自らの窮地に何の感慨も抱いてはいなかった。
揺るがぬ闇を、フェリミアは油断なく睨みつける。
「………喉元に刃を突きつけられているというのに、余裕そうだな」
「そう見えるのであればそうなのだろうな。事実として、私はこの状況に何ら焦燥を抱いていない」
「自分は死なぬと思っているのか、
「死なぬ者、滅びぬ者など在りはしない。神すら死ぬこの世界では、真に永遠なものなど存在しはしないよ」
まるで勇者に助言する賢人であるかのように、ザルガウムは穏やかに語った。
あるいは、本当にその言葉は愚者へと向ける助言のつもりであるのかもしれない。
「君達では私を殺せない。君達では私を滅ぼせない。確かに私は追い詰められているのだろう。
告白すれば、今の私には然程余力があるわけでもない。このまま戦いを続ければ、あるいはこの首も落ちてしまうかもしれない」
「………………」
目の前の魔導師が、恐るべき《世界移動者》たる男が何を言いたいのか。
語られずとも、フェリミアには分かる。分かり切っている事実を、無感情にザルガウムは続けた。
「―――しかし私を討ち取ったとしても、あの美しい神はこの地に破滅という名の花を咲かせる。
死なぬ者などない、滅びぬ者などいない。諸君らの抵抗には何の意味もない。諸君らの生命には何の価値もない」
高まり続けている力は、もう間もなく臨界に到達する。
このツギハギだらけの《断片世界》を、今度こそ粉々に打ち砕くだけの力。
神罰の執行は、仮にザルガウムが死したとしても止まる事はない。
鎖を握る手が失せようとも、支配の枷は既に命令を下し終えた後だ。
「全てが滅び、虚空の闇へと沈むのだ。何もかもが塵に失せた暗黒の淵に、あの銀の花だけが美しく咲き誇る。
それで良い。仮にこの身が滅びたとしても、その純粋なる神の在り方が完成するのであれば、私はそれで構わない」
「………狂っているぞ、貴様」
「狂気と正気の境界線など、それこそ何の意味もない。それを線引く必要があるのは、いつだって愚かな人間の都合に過ぎない」
暗黒の男は嘲笑う。自らを打ち倒すという奇跡を成し遂げたとしても、荒ぶる神威がそれを直ぐに打ち砕いてしまうと。
希望はないと、その生命は無価値でしかないのだと、ザルガウムは嘲笑っている。
その悪意に正対しながらも――――フェリミアもまた、決してその心を揺らさなかった。
「全て無意味だと、無価値だと笑うか」
「事実だ。真理の頂きにたどり着けば誰もが理解する他ない」
「あの人なら―――アルディオス様なら、必ずライアを止めてみせる」
「止める? 止めるだと?」
何を戯言を口にしているのか。不動であったはずの闇の表情が、亀裂めいた笑みの形に歪んだ。
「流れる星を遮れる人間などいない。逆巻く波を受け止められる人間などいない。無意味だ、その抵抗に価値はない」
「それはお前の理屈だ。全てを悟った気になって、自分が捨て去ってしまったものを知った顔で砂をかけてるだけではないのか?」
「ほう」
暗黒はその口元を嘲笑に歪めたままで、興味深そうに目を細める。
「たかだか百年の尺度も持てない身でありながら、私の事を語ろうと言うのかね」
「お前がどれだけ長い時間を無為に過ごしてきたかなど、私にはまるで興味はないがな」
氷点下の殺意を真っ向から受け止めて、フェリミアは柄を握る手に力を込めた。
敵の挙動を寸毫足りとて見落とさぬよう、集中力を極限まで研ぎ澄ませる。
「あの人は―――アルディオス様は負けない。必ずライアを連れ戻す。そして私も、お前如きに遅れを取りはしない」
「その言葉が実現すると、本当に信じているのなら哀れに過ぎるな」
ザルガウムが嘲りの言葉を発すると同時に、フェリミアの剣が一条の銀光となって閃いた。
何をしようとしたかは分からないが、確かに魔導師は「動き」を見せた。
それを脈の一打ちよりも早く《天眼》で察知した騎士の剣は、何の抵抗もなく男の首を断ち切った。
断ち切ったように見えた。少なくとも、周りの騎士達には。
「―――――ッ、下がれ!」
しかし、フェリミアには違うモノが見えていた。
即座に剣を引きながら、自分もまた目の前の「ソレ」から距離を取る。
騎士達も疑問を抱くよりも先に団長の命令で身体を動かし―――そして僅かに遅れて、その異形を目の当たりにした。
「迎えに来た? 連れ戻す? お前達は何も理解していない。あの美しき神威が宿すのは破壊の権能。今の姿こそが神としての正しい在り方だ。
そこに塵埃の如き人間性を探し当てようなど、魚の溜息を聞き取ろうとする愚か者に等しい」
歌うように侮蔑の言葉を並べ立てながら、醜悪な闇が蠢いている。
切り落とされた首だけはそのままに、肉体の方は人の形とはかけ離れた何かへと変貌を遂げていた。
言葉では言い表しようがない。あらゆる冒涜とあらゆる悪逆、そしてあらゆる腐敗を詰め込んだ闇の具現。
何重にも施した防御術式すら超えて、身体と魂を汚染しようとする邪念が伝わってくる。
生身のままそれを浴びれば、それだけで生物として破綻してしまうだろう。
「その醜い様が、貴様の本当の姿というわけか」
「いいや、違うな。そのような陳腐なものではない。これは全て、私を恐れた者達が思い描いた姿だ」
ザルガウム―――既に人としての名を呼ばれなくなって久しい魔導師は、唯一形を変えていない首から上を使って応える。
「私の固有魔術は“名”という概念を支配する。しかし他者の名を奪うという行為には、それなりの手間が掛かる。
故、この状況下で君らの名を剥奪し意のままにするというのはなかなか難しいが………“私自身の名”であるならば、話は別だ」
曰く、《黒き旅人》。
曰く、《夜と契約の支配者》。
曰く、《ヴィッテリアの隷属王》。
曰く、《冥界暴き》。
曰く、《魂喰いのサトゥルヌス》。
曰く、曰く、曰く、曰く、曰く――――人々が恐怖と共に無数の名を刻み、それを己が意志で血肉と変えた魔人は笑う。
それらの名前が持つ意味を余さず力に変えて、自らの肉体を恐るべき闇そのものへと新生させたのだ。
最早その業は人間の領域にはなく、神にも等しい階梯にあった。
「魔獣など使い捨ての駒に過ぎないが、それでも私が有する資産であり、徒に減らし続けるのも面白い話ではない。
我が秘儀の一端を用いて、諸君らを残らず蹂躙しよう。完成された滅びを迎える前の、ちょっとした余興の一つとなれば良いが」
「………どうにも、最初に出くわした時から感じてはいたが」
闇が語る無意味な言葉を聞き流しながら、フェリミアは剣を構えた。
改めて命令をするまでもなく、配下の騎士達は攻勢の為の準備を終えている。
それらを《天眼》で把握しながら、騎士団長は蠢き続ける暗黒へ向けて笑いかけた。
「思ったよりもお喋りだな、お前は。口が過ぎるのは結構だが、その分だけ他が疎かになってしまっているのではないか?」
「面白くもない挑発だ」
「あぁ、お前の語りが面白くない程度にはな」
人の殻を破り、神にも等しい業を自在に操る魔導師に、フェリミアは恐れず立ち向かう。
あの夜の後悔に比べれば、あの夜の絶望に比べれば、この程度の相手など恐れるに値しない。
今この胸には、託された信頼がある。今この背には、同じ覚悟を抱いた仲間がいる。
ならば恐怖ごときで、この刃が曇る事など絶対に有り得ない。
「―――総員、当初の目標とは異なるが、我らが成すべき事は何も変わらん!」
『応ッ!』
敵が神に等しい魔道の頂点だと言うのなら、この地に集ったのは神殺しの偉業を成し遂げんとする騎士達。
かつては勇者達を見送った者達は、過去より未来へ決意を持って挑む。
「王国の剣に勝利あれ! 騎士の勇戦に栄光あれ!」
『栄光あれッ! 勝利あれッ! 我ら、かけがえなき友の為に未来を掴まんッ!』
騎士達は声を張り上げる。それを引き金にして、フェリミアが施した固有魔術が発動する。
幾つもの光の線が騎士達の鎧の上を走り、頭上には眼の形を模した陣がそれぞれに浮かび上がる。
味方全体に《天眼》と同等の知覚能力と、それを生かす反射速度を一時的に付与する《
術者の負担が激しく、持続時間は数分程度。だがその効力は絶大であり、鍛え上げた騎士達は超人の軍勢へと変貌する。
「抵抗に意味はなく、その生命に価値もない。どうやら、どこまでも理解出来ん愚か者であるらしい」
「勝手にほざいていろよ………!」
嵐のように吹き荒ぶ闇の奔流を全て打ち払いながら、フェリミアは叫んだ。
術式を維持するだけでも、全身が引き裂かれるような苦痛が絶えず襲ってくる。
その痛みを噛み潰し、騎士団長は全霊で以て闇を切り裂いた。
「そんなにも全てが無意味だと嘲るのなら、そのくだらない考えこそ意味がないと教えてやる!」
「君が、私にかね?」
「いいや、違うな」
嘲弄する暗黒の言葉を、フェリミアは一言で切って捨てる。
そして揺るぎない確信を込めて、高らかに宣言した。
「私だけではない―――私達が、だ!」
一人の意志ではなく、この月の墜ちた街で戦う全ての者達の志。
それが必ず闇を打ち砕く光になると信じて、騎士達は一丸となって絶望へと挑む。
破壊の神が掲げる極光の翼は未だ衰えを見せず、世界の崩壊はもう間近まで迫っていた。
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