第八節 とある竜の結末
雲の海を行く巨影が一つ。
雄々しき翼を堂々と広げ、風を従え宙を舞う。
それは一頭の竜だった。地に降り立てば二十メートル以上の巨体を持つだろう古き竜。
《混沌の時代》、大いなる《始まりの巨人》がまだ何もなかった世界に血肉を与えた事が生命の起源と伝えられている。
その血肉から最初に生まれた最も古き生命。それこそが竜と呼ばれる種族だった。
死ぬことも成長することもなく、ただ永遠に“在り続ける”だけの存在。
それがかつての竜だった。転機となったのは、《長すぎる大戦》と呼ばれる戦い。
神々の力を利用することで増長を続けた人間同士の大戦争。
《既知領域》よりも遥かに広い当時の世界全てを巻き込んだその争いに、竜族もまた無関係ではいられなかった。
戦いの列に加わる見返りとして、始祖たる竜達は神が持つ力の一端を手に入れた。
世界に変化をもたらした神々の力。それは不変なる竜達にも変化という力を与えた。
こうして不変たる竜は、自らの《眷属》を増やす術を得た。
死ぬことも成長することもない始祖たる竜は、「生命を増やす」ことが出来なかった。
生まれ落ちた時は弱く、しかし年月を経る事で成長する竜の《眷属》。
残された記録では、無数の《眷属》を従えた始祖たる竜達は《長すぎる大戦》をより凄惨なものに変えたと伝えられている。
空を行く竜も、その大戦の頃に生まれ落ちた《眷属》の一頭。
始祖には及ばぬものの、
時には風に乗り、時には風を裂いて、竜は自侭に大空を飛ぶ。
特に目的があるわけではない。人間で言うところの「散歩」のようなものだ。
雲の切れ間からは、時折人間の街が見える。魔物が跋扈する《既知領域》を生きる人類の生存圏。
人と関わることの少ない古老は、それをどこか懐かしむように眺めた。
若く、血気盛んな竜であれば、魔物のように人里を襲うのも別に珍しい事ではない。
事実、この竜も過去には人間の集落を幾つか焼き払った事もある。
竜は始祖に近づけば近づく程に不変となり、食事の類は殆ど必要としなくなる。
故に若い竜ほど生命として貪欲で、より多くの「食料」を求めて人間を襲うのが常だ。
竜の多くはこう考える。人間は弱く、しかも大抵は大きな群れを作って生活している。
彼らは食料や富を溜め込む術に長けている。それを力で奪い取るのは、竜にとって酷く楽な仕事であると。
街の上空を占拠し、咆哮を轟かせ、脅しつけるように吐息を浴びせかける。
それだけで良い。抵抗するなら焼き潰して奪えば良いし、屈服すれば向こうから供物を運んでくる。
―――そのように容易く考える竜の多くが短命である事実を、古老たる竜はよく知っていた。
人間は弱い。だが、彼らは何よりも変化する種族でもある。
鍛えられた戦士の集団であれば、空を飛ぶ竜を地に引き摺り下ろして殺す事が出来る。
あるいは竜の巣穴に単騎で乗り込み、その首を果実のようにもぎ取って生還する英雄も存在する。
竜は強い。だが無敵ではない。人は弱い。だが弱いままではない。
そのため老いた竜ほど人を侮ったりはせず、関係性を断つように秘境へと隠れ棲む。
中には《既知領域》の外側に出て行く竜もいるぐらいだ。
流石にそこまでするのは竜の中でもかなり偏屈な部類だが、変わり者が珍しくないのも竜の特徴だ。
古老たる竜は、人には分からない笑い声を漏らす。
巣穴に篭ることを厭い、ただ延々と空を飛び続けることを好む自分も、他の竜からすれば相当な変わり者であろうと。
白い雲の海と、時折すれ違う渡り鳥。竜が飛ぶ空には、それだけしかない。
広大な空のすべてを、自分一人で独占しているような感覚。錯覚だとは分かっていてもなかなか心地いい。
暗い穴蔵の底で、金銀財宝を積み上げているだけでは味わえない。
空を独り占めにしようなど、自分もまた強欲な竜であると古老は笑った。
笑って、竜は「ソレ」を見つけた。
まだかなりの距離があるため、黒い点のようにしか見えなかったが。
最初は見間違いだと思った。空を飛ぶでもなく、ただ浮かんでいるだけのものがあるのかと。
少しずつ距離が縮まり、遠くを見通す竜の眼にその姿がはっきりと見えてきた。
人。いや、人であるはずがない。人間はこんな高度を、生身で浮遊したりはしない。
中にはそれを可能とする技術を持つ者もいるかもしれないが、少なくともこの相手は人間ではない――竜はそう判断した。
黒い男だった。身に着けた衣服は雲と同じように白かったが、その身体は漆黒に染まっている。
夜の闇がたまたま人間の形を取っているかのような。それでいて、その眼は炎のように紅く燃え上がっている。
一体何者であるのか。竜も長い時を生きているが、こんな奇妙な相手は見た事がない。
――強いて言えば、あの《天墜》を引き起こした恐るべき神威と似ている。
だが竜の胸の内に芽生えるのは、神に対する畏怖ではなく得体の知れないモノに対する嫌悪感のみ。
危険だ。この相手は危険だ、関わるべきではない。長く生きた竜の本能が警鐘を鳴らしている。
古老たる竜はそれに従った。従おうとした。紅く燃え上がる瞳が、自分を捉えていることに気付くまでは。
『――――ッッッ!』
竜は咆哮した。怖気を誘う視線に悪意を感じ、即座に戦いの構えを取った。
胸腔を膨らませ、喉の奥に溜まった熱い力の塊を勢い良く吐き出す。
開いた竜の口から放たれたのは、一条の爆炎。竜が纏う赤い鱗を象徴するかのような炎の奔流。
始祖に連なる血を持つ竜の身体は、《始まりの巨人》から直接分かれた最も根源的な生命を宿している。
神がその権能で持って世界を動かすように、竜は神に非ずとも自然現象に等しい力を生み出す。
古老が放った炎の吐息は風などの影響を受けず、真っ直ぐに黒い男へ向かっていく。
直撃。炎は渦巻き、雲を蹴散らしながら破裂する。
岩をも溶かすと自負する古竜の一撃。しかしこれで死んだとは思えない。
竜は翼を広げて、油断なく周囲に気を巡らした。長い時を生きた竜ほど慢心を抱かない。
故に、大気を裂いて向かってくる「攻撃」に対しても、即座の反応を見せた。
翼を打ち鳴らし、巨体が風を巻いて飛ぶ。先ほどまで竜の首があった辺りを、何本かの細い鎖が貫いていく。
「エルダードラゴンか。見たところ、千年級だな。なかなかに上質だ」
闇が笑っている。抑揚のない声とは裏腹に、顔らしき部分には三日月型の裂け目が広がっている。
まったくの無傷。黒い男は不動のまま、竜の炎を焦げ目一つなく受け切っていた。
『―――何者か』
音としてではなく、直接相手の魂に対して訴えかける声。
竜は人の言葉を解するが、自身では人のように言葉を発する事はない。
口を開くことなく、念話に近い形で発せられる音無き言葉。
それは《
「見ての通りだ、古き竜よ。私は私でしかなく、私を知らぬのであればそれは君の無知に他ならない」
『魔術師か。お前達はいつも戯言を弄する』
見下す様子を隠しもしない男―――ザルガウムに対し、竜は不快げに唸った。
『たった一人で竜に挑むつもりか』
「挑む? 妙なことを言う」
笑う。恐るべき魔人は、遥かな高みから強大なる竜を嘲笑っている。
「私が君と遭遇したのはたまたまだ。この空に美しい光の痕跡を見つけた。それを確かめるために、たまたま私は此処にいた」
『………何を言っている?』
「理解する必要はない。すべては偶然であり、同時に必然でもある。運命は鼠の回す滑車に等しい」
『狂人か』
「人の理から外れた者を「狂っている」と評するのであれば、成る程。私もまた哀れな狂人に過ぎんのだろうな」
じゃらりと、ザルガウムの右手から幾つもの細い鎖が垂れ下がる。
先ほど竜の身に襲いかかったのと同じ鎖だ。そこから立ち上る嫌な気配に、竜は鱗を逆立たせる。
何であるかは分からないが、アレは良くないものだ。触れることすら避けるべきだ。
竜の警戒を感じ取り、ザルガウムは邪悪な喜悦を隠そうともせず笑う。
「賢いな。本能的に危険を理解したか」
驕り高ぶる竜は容易いが、そうでないなら竜は厄介な難敵だ。
それが千年を生きるような古老であるなら尚更に。
だというのに、暗闇の男の表情から嘲笑の色が消える事はない。
『――――ッッッ!』
再び竜が咆哮する。だがそれは威嚇を目的としたものではない。
風が渦巻く。突風から暴風に、何の前触れもなく激しい嵐となって荒れ狂う。
「《竜声》による魔術行使か。素晴らしい」
嵐の檻に囚われ、五体を引き裂かれそうになりながらもザルガウムはその余裕を崩さない。
万象に通じる声によって、ただ命ずるだけで自然現象を意のままにする。
古い竜ほど干渉する力は強く、古老ともなればただの一声で天候さえも支配する。
人間が扱う魔術の規模に換算するなら、高位の魔術師が専門の儀式を用いた上でようやく発動できる大魔術に等しい。
それを一声。たったの一声で操るのが古老の竜。始祖には及ばぬものの、生命としては頂点に位置する。
「刻む」
しかし、ザルガウムはそんなこの世の条理を容易く踏破する。
「風よ、凪げ」
一言。竜が一声で嵐を呼んだように、ザルガウムはたった一言でその嵐をかき消した。
明らかに魔術による業だが、竜の眼にもその原理を読み取ることができない。
人間が扱う魔術とは、神が持つ権能を代理行使する技術を指す。
風の神が持つ権能を行使すれば風を、火の神が持つ権能を行使すれば火を操る。
高位の術師になるほど力の規模は大きくなり、より複雑な現象を扱う事が可能となる。
しかし、そこには必ず法が存在する。人が神の力を利用し、世界を動かすために必要なルールだ。
多くは体系化され、誰でも学べば何らかの魔術は習得できる。
より高みへと踏み込む魔術師は、そこから更に自分独自の法則を発見し、強力な魔術を操れるようになる。
敵は疑いようもなく最高位の魔術師。だからこそ、竜はその力の在り処を見極めんと全神経を集中していた。
相手が如何なる法則で世界を動かしているのか。それが分かれば、何が可能で何が不可能かを判別できる。
魔術師と戦う上で、それは最も重要な事柄だ。
だが古老たる竜の眼から見ても、ザルガウムが何をしたのか読み取れない。
「そんなに、私が何をしたのか不思議かね」
竜の焦りを見透かすかのように、魔人の声が滑り込んできた。
それに対し、竜は言葉を返さない。胸腔を膨らませて、もう一度炎の吐息を吐きかける。
有効打にならない事は分かっているが、目くらまし程度には使えるだろう。
兎も角、相手の力は得体が知れない。その本質を見極めねば。
「炎よ、失せろ」
ザルガウムは、その一言だけで炎を跡形もなく消滅させた。
目くらましにすらなっていない。焦燥に駆られた竜は、一先ず距離を置こうと大きく翼を広げる。
笑う。闇に染まった魔人は笑う。竜の動きも何もかも、ただ絶望的に遅すぎると。
「――空よ、繋がれ」
その一言は、死刑の宣告にも等しかった。
高度を上げようとした竜の身体が、まったく唐突に動きを止める。
何事が起こったのか。古老の竜は全力で足掻こうとするが、全てが徒労に終わった。
動けない。何かが身体に絡みついている。一体、何が―――。
『ッ………これ、は………!?』
鎖。ザルガウムが弄んでいた、あの細い鎖。
それが何もない虚空から生えていた。
竜の背後の空間から、そうある事が当然であるように鎖が伸び、竜の身体を縛り付けている。
「動けぬだろう?」
いつの間にか、拘束された竜の眼前に黒い男が浮かんでいた。
『貴様………!』
「動けなくて当然だ。それは始祖たる竜の骨から鍛えた縛竜の鎖。より上位の竜に、下位たる竜は逆らえない」
笑う。竜の警戒は正しかったが、こうなってしまえば何の意味もない。
不変であり、巨人から別れた最も偉大な生命である始祖竜。
骸になっても変わらぬその力が、古竜から抵抗する意志さえ削ぎ落としていく。
それでも尚、竜は激しい怒りに震えていた。卑劣な手段で誇りを貶める魔術師を、渾身の力で睨みつける。
「素晴らしいな。この状況でもまだ折れないとは」
その意志さえも、邪悪な魔術師は高みから嘲笑うのみ。
「好きなだけ抗いたまえ。無意味ではあるが、君にはそうする自由がある」
『おのれ……っ、何をする気だ……!?』
「支配だよ。幾度となく繰り返してきたことだ」
ざわりと、闇が蠢く。身動きを封じられた竜の頭に、ザルガウムの指が触れる。
指先はゆっくりとほつれて、赤黒い糸のようなものへと変わっていく。
それは竜の身体に触れ、更に細かい粒子となって浸透する。
まるで一滴ずつ垂らされた毒が水源を穢していくように、忌まわしき「何か」が竜の魂を呪い始める。
「万物には“名”がある。それが世界にとってどのような意味を持つのか、ありとあらゆるものが己の名に縛られている」
ザルガウムは淡々と言葉を続ける。竜は吼えるが、最早抵抗には何の意味もない。
「私は名を刻む。刻みつけられた名は支配という枷となり、すべてが私に隷属する」
荒れ狂う嵐に“風”の名を刻みつけ、凪という沈黙を与える。
燃え盛る竜の吐息に“炎”の名を刻みつけ、疾く失せろと命じる。
何もない空間に“空”の名を刻みつけ、遠く離れた場所同士を繋げる。
それこそがザルガウムの
「君を支配してやろう、名も知らぬ竜よ。その魂に刻まれた本来の名を奪い取り、私が用意した首輪を与えよう」
『外道、が………!』
「言われ慣れているよ」
侵して、冒して、犯し尽くす。千年を数える誇りを、尊厳を。
そんなものにザルガウムは価値を見出さない。そんなものは、支配と隷属の前では何の意味もないからだ。
「丁度、手持ちの札が減っていたところだ。君ぐらいの竜は稀少でね。実に運が良い」
道端で金貨を拾ったのと何ら変わらな調子で、ザルガウムは古老たる竜の魂を支配下に置く。
自我も全て塗り潰されて、竜は刻まれた名前通りの存在に成り果てた。
「宜しい。お前は今から私の“犬”だ。私の言葉にだけ従い、私の望む通りに尾を振るだけの卑しい飼い犬だ」
何処へ行ったかも分からない失せ物を探すなら、やはり犬を使うのが一番だろう。
ザルガウムは笑った。主人の言葉通り、無様に尾を振る竜の姿を滑稽だと嘲笑っていた。
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