第十四節 決裂


「………ふむ?」


 深い闇の底に身を沈めていた男は目を覚ました。

 無数の星々が煌く夜の天蓋。しかしそれは自然の光景ではない。

 男―――ザルガウムが所有する不可思議なる宝物の一つ、この世ならざる夜天に浮かぶ虚空の玉座。

 かつてとある国の王が魔術師に命じて造らせた古代遺物アーティファクト

 座る者を物質世界とは隔離された夜の異界に誘い、内からの干渉も外からの干渉も同時に遮断する。

 政敵からの暗殺を恐れた王は安堵と共にこの宝物に座り、そして二度と出られぬ夜の中で発狂しながら朽ち果てたという。

 その玉座に平然と身を委ねながら、干渉を遮断するはずの夜の天幕越しに、ザルガウムは全てを把握していた。


「犬の首輪に繋げておいた鎖が断ち切られた。………いや、“消滅”したか」


 右手を刺す僅かな痺れ。真名の契約が無理やり吹き飛ばされた事の反動が、術者にまで影響を及ぼしているのだ。

 仮に術で縛っている対象が死んだとしても、このような事は本来なら起こりえない。

 魔道の頂点、《世界移動者》たるザルガウムの術式を塵も残さず消し去るような存在は決して多くはない。

 その事実と、夜天を震わせるような神威の波動。

 以上の事柄が示す結論など、一つしかない。


「………麗しき銀よ、愛しき赤よ。我が手に染まる事を待つ、清らかなる白よ」


 歌う。黒き旅人は己の愛を歌う。

 歪んで、歪んで、歪み切った情動を己の愛と断じて、恐るべき魔人は笑う。

 玉座から立ち上がると、おもむろに夜空へと踏み出す。

 地面も重力もないはずの虚空をその足で捉えて、ザルガウムは歩を進める。

 求めるものは一つだけ。この手で呼び出した、常世にあらざる可憐なる花一輪。

 それさえあれば良い。それさえ手に入れば、他に何を代償にしようと構う事はない。


「今、迎えに行こう。名も無き私の花よ」


 虚空に浮かぶ玉座だけを残して、ザルガウムは夜の天蓋を潜り抜ける。

 歩み出た先は、境界を壊された世界の空。黄昏に染まり、少しずつ夜の藍色が迫りつつある。

 方角と、大体の位置は既に把握できている。物理的な距離など、ザルガウムの前では何の意味もなさない。

 しかし目的のものを目の前にし、我を忘れて飛び付くというのも品のない話だ。

 永生者にとって、精神的な余裕というのは意外な程に大事な要素だ。

 余裕を無くせば魂の均衡を失い、有り余る力は暴れる獣のように制御を失ってしまう。

 故にザルガウムは、《無間の闇》を渡った時と同じように己の足で求める場所へと向かう事にした。

 不自由さを愉しむのも悪くはない。ザルガウムは超越者の視点から、崩れかけた世界を見下ろす。

 その儚さを、ザルガウムは笑った。その脆さを、ザルガウムは嘲笑った。

 夕闇の帳の中を、夜の魔人は星の光を足場に渡っていく。

 ただ一つ、心奪われた銀の輝きを求めて。



 街の混乱は、騎士団の尽力により速やかに収まりつつあった。

 突然のエルダードラゴンの来襲。多くの人々がそれを目撃し、実際に都市の一区画が焼き払われた。

 慌てて街の外へと逃げ出そうとする者。自分が竜に挑んで手柄を上げようと勇む者。

 その全てが等しく、「暴れ竜は騎士団長フェリミア=アーサタイルの手で討ち取られた」という報せに落ち着きを取り戻した。

 王国でも五指に入る彼の英雄ならば、例え凶暴化した古竜でも敵ではない。

 誰もが疑う事なくそう信じ、まだ多少の混乱はあれども危険は去ったと大半の人々が認識した。

 騎士達はパニックが起こった際の被害を調べ、怪我人等がいれば速やかに治療を施した。

 最早全て終わったのだ。街の人達はそう信じ、騎士達もそれを否定しなかった。

 竜が降り立った区画は閉鎖され、騎士団の関係者以外はそこで何が起こっているのかを知らない。

 炎の傷跡も生々しい瓦礫の山。その上で対峙する者達。

 何が起こっているのか理解出来ず、ただ不思議そうに様子を見ている少女―――いや、少女の姿をした破壊の神と。

 そんな少女を背に庇うようにして佇む、怪物の如き巨躯の戦士。

 その二人と向かい合う形で、背には総勢二十人にも及ぶ精強な配下を従えた女騎士。

 ほんの少し前までは穏やかに笑い合っていた者達が、今決定的に袂を分かとうとしていた。


「………アルディオス様」


 最初に沈黙を破ったのは、女騎士―――フェリミアだった。

 その声は剣のように硬い。相手を貫き、臓腑の底まで抉り出すような鋭さを剥き出しにしている。


「そこをおどきになって下さい」

「何故だ」

「彼女を、ライアをこちらに引き渡して下さい」

「断る」


 鋭い言葉を断ち切るのも、やはり一刀を振り下ろすような言葉だった。

 それだけは認める事は出来ない。硬い、鉄のような意志。

 アルディオスもまた一歩も退く気はなかった。そう決めたからこそ、彼はこの場に立ち塞がっている。

 控える騎士達の間に、僅かにどよめきが生まれた。

 彼らは既に知っている。この男が、かつて国を救った大英雄である事を。

 そしてその男が背に守ろうとしている者が、“降臨”してしまった恐るべき神威である事を。


「正気ですか」

「俺なりに考えた結果だ。………黙っていた事は、すまないと思っている」

「………謝罪など、今更結構です」


 何故、自分に打ち明けてはくれなかったのか。

 アルディオス自身の口から言われて、フェリミアはようやく自分がその事実に傷ついている事を知った。

 だが、教えられたからと言って何になる。ライアを守るつもりであれば、彼の判断は正しい。

 この国を守る王国騎士団の長として、彼女は一つの選択以外に選ぶ余地などない。


「ライアを、引き渡して下さい。彼女が“降臨”した神格であるなら、やるべき事は一つのはず」

「………駄目だ。それだけは受け入れられない」

「何故ですか」


 理解出来ない。怒りが、悲しみが、胸の奥から溢れ出してくる。

 信じられない。信じたくはない。

 目の前の人が、十年前に帰ってきたただ一人の勇者が、そんな事を言うなんて。

 しかし、どれほど否定したところで現実は変わらない。

 表情を他者から隠したまま、アルディオスは自らで決めた事を譲ろうとはしなかった。


「ライアは、何もしていない。何もしていない者を、殺して良い理由はない」

「ッ…………!」


 奥歯を噛み締めると、鈍い音が頭の中で響いた気がした。

 十年。言葉にしてしまえば短く、人が変わってしまうには十分過ぎる程に長い。

 ならば彼も、英雄であったはずの男もまた、変わってしまったのか。


「貴方も見たはずでしょう………! 竜を、一撃で灰に変えてしまったあの光を!」

「ライアは街を守ろうとした」

「あの光が、街の内側に向けられていたらどうなっていたか!」

「…………」

「そんな事はしないと、貴方に断言出来るのですか!?」


 出来ない。出来るはずがない。

 それは嵐と同じだ。嵐自身はただ通り過ぎただけだとしても、後に残るのは蹂躙された瓦礫の山だ。

 物質として降り立った神とはそういうものだ。

 ただそうする力があるというだけでも、人は神を恐怖する。

 かつて境界の神が世界を引き裂き、狂える月の神がこの地に災いを為したように。

 人は嵐のように神を恐れるからこそ、それを排除せずにはいられない。


「………アルディオス様」


 どうか理解して欲しい。そう縋るような声で、フェリミアは言う。


「貴方は私達の希望だ。十年前、あの月を墜として戻ってきた貴方の事を、我々はどれだけ誇りに思ったか」

「…………」

「貴方は神を討った英雄だ。狂った神を討ち取り、この国に平和をもたらしてくれた」

「…………」

「アルディオス様」


 卑怯な言葉を使っている。フェリミアにも自覚はあった。

 これはこの人を追い詰めるためだけの言葉だ。分かっていても、言葉は止まってくれない。

 必死だった。フェリミアもまた必死なだけだった。

 アルディオスに退けない理由があるように、彼女もここで退く事は選べなかった。

 十年という歳月を、ようやく埋められた気がしたのに。

 今また離れてしまいそうな男を繋ぎ止めようと必死で、彼女は卑劣な言葉を選んでしまう。


「どうか………お願いです。その神を討つ事を、お認めになって下さい」

「…………」


 沈黙。騎士達はただ押し黙り、ライアは悲しみだけを察して口を閉ざしていた。

 アルディオスもまた無言。無言のまま、フェリミアへと視線を向ける。

 分かる。分かっている。かつての少女だった騎士が、どれほどの想いで言葉をぶつけて来ているのか。

 十年。言葉にしてしまえば短く、人が変わってしまうには十分過ぎる程に長い。

 これは自分の罪だ。アルディオスはそれを受け入れる。

 月が墜ちたあの夜から、十年も逃げる事を選んでしまった己の罪だと。

 認めて、アルディオスはその言葉を口にした。


「………俺は、英雄などではない」

「っ………アルディオス様?」

「英雄じゃない。お前達が思うような、英雄などではないんだ。俺は」


 あの死んだ街に逃げ込んだ理由。彼が最も恐れた自らの呼び名を今こそ否定する。

 呆然と、あるいは困惑を隠しきれない騎士達に向けて、アルディオスは言葉を続けた。


「俺はたまたま生き残って、たまたま最後の始末を付けただけだ。英雄と呼ぶべき者がいるとしたら、それは死んだアイツらの方だ」


 今でも鮮明に思い出せる、あの地獄の情景。

 死んだ。誰もが死んだ。誰もが生還を誓い、しかし生きては戻れなかった。

 彼らは自らに課した役目に殉じた。神を討ち滅ぼす為の一太刀、それを担うアルディオスへ繋げる為に。

 英雄だ。その在り方こそ英雄と呼ぶに相応しい。

 死した彼らは一人の例外もなく英雄であったと、胸を張って誇る事が出来る。

 だが。


「………俺は、アイツらの屍の山を越えただけだ。分かっていた、そういう役割だと、最初から分かって受け入れていた」

「アルディオス様、それは………!」

「あぁ、俺はその十字架を最初から背負うつもりだった。その覚悟は、出来ていたはずだった」


 共に死ねれば良かった。あの場で死ぬ事が出来たのなら、思い煩う事もなかった。

 あるいは生き残ったとしても、仲間達の犠牲の上で英雄と呼ばれる運命を受け入れるつもりではあった。

 しかし、その覚悟は砕けてしまった。月の顔ばせを見てしまったあの瞬間から。

 そして逃げた。逃げてしまった。英雄と呼ばれる事を厭い、何もかもから背を向けて。


「十年、後悔しながら生きてきた。あの月が墜ちた夜から、俺は一つも前に進む事が出来ないでいた」


 答えのない祈りと、赦しのない贖いの日々。

 それが永遠に続くと思っていた。

 それが永遠に続くのなら、それでも構わないと思っていた。


「………だが、今は違う。俺にも出来る事があるんだと、少しは信じられそうなんだ」

「………やめて下さい」

「俺は英雄じゃないんだ、フェリミア。俺はただ、弱く臆病なだけの男だ」

「違う、貴方は………!」

「だから俺は、ライアを殺せない。俺が英雄ではないのと同じで、コイツもまた壊すだけの神様じゃない」

「―――アルディオス様ッ!」


 感情が弾けた。その動きに反応出来た者は多くはない。

 電光石火の早業で剣を抜き放ったフェリミアは、それをそのままアルディオスへ向けて叩き込んだのだ。

 急所を過たず貫く神速の刺突。鋼の如き男の皮膚さえ容易く切り裂き、刀身は半ば以上も胴体に埋まっている。

 致命傷だ。疑いようもなく致命的な一撃。

 騎士達は驚き、しかし当の二人はそのままの状態で微動だにしない。

 貫いた方も、貫かれた方も。


「………死にたいのでは、ないんですか?」


 ぽつりと、何かに耐えるようにしながらフェリミアが小さく呟く。

 刃を流れる血にその手を染めながら、血反吐をぶち撒けるように騎士は叫ぶ。


「死にたいから、死んでしまいたいから、貴方はライアを守ろうとしてるのではないんですかっ!?」

「…………」

「貴方は神に呪われてる! 銀の月を墜としたあの日から、貴方は真っ当な手段では死ねない身体になってしまったから………!」

「………それも無い、とは言い切れんな」


 考えなかったわけではない事を言い当てられて、アルディオスは素直にそれを認めた。

 神を殺し、神の呪いを受けた者は、半ば不死の存在と成り果てる。

 少なくとも老いて衰え死ぬ事はないし、病や怪我も死ぬ前に治ってしまう。

 そんな不死の異形と成り果ててしまった身体も、絶大な権能を持つ破壊の神であれば塵も残さず殺す事が出来るだろう。


「もし、コイツが何もかも壊す神様のままなら………最後は、一緒に死ぬつもりだった。だから、お前の言う事もそう的外れな話ではないな」

「………どうして、そこまで」

「大層な理由じゃない。全部、俺の我が儘だ」


 ゆっくりと、二人は離れる。貫いていた剣も抜け落ちて、真っ赤な血が溢れた。

 赤い血溜りは、両者の距離を隔てるように流れる。


「………本当に、ライアが無害のままでいられると?」

「難しいかもしれないが、だからといって諦めるつもりはない」

「突然頻発するようになった《巨獣》の発生原因が、彼女でないと言い切れますか?」

「分からん。が、直接の原因ではないと俺は思ってる」

「根拠があると?」

「………無いな。正直、ただの勘に近い」


 全部が全部、希望的観測から来る結論。何一つ保証するものはない。

 我ながら話にならないなとアルディオスは呆れ、けれど決してこの場を譲る気はなく。

 フェリミアもまた、王国騎士団の長としてそんな不確かな話を受け入れるわけにはいかなかった。

 一歩、二歩と。二人の距離が開く。もう止まる事は出来ない。


「私の言葉を、聞いては下さらないのですね」

「決めた事なんだ」

「………分かりました」

「お前も、俺の言葉に頷いてはくれないんだな」

「ええ、出来ません」

「………そうか」


 それで最後だった。血に濡れた剣を手にしたままで、フェリミアは踵を返す。

 アルディオスとライアから背を向けて、配下の騎士達の元に向かう。

 これ以上、言葉で語る事に意味はない。お互いに退けないなら、やるべき事は一つしかない。

 故に去り行く背中を、アルディオスは何も言わずに見送った。


「―――フェリ?」


 けれどその背に、一人だけ声を掛ける者がいた。

 ライアだ。今まで黙って様子を見ていた少女は、離れようとする騎士に向けて言葉を投げかけた。

 フェリミアの足が止まる。振り向いてしまいそうになる弱さを、必死に押さえつける。


「一緒に、帰らないの?」


 帰る。一体何処へ。分かっている、あの穏やかな日常へと。

 ほんの僅かな時間でしかなかったが、あの日々に感じた暖かさに偽りはない。

 分かっている。そんな事は、誰に言われずとも分かっている。

 だからこそ振り向けない。振り向いてしまったら、自分の弱さに負けてしまうから。

 フェリミアにそれは選べない。王国を守る騎士として剣を捧げた身に、そんな惰弱は許されない。

 降り立った神は、必ず討ち滅ぼさなければならないのだから。


「………さようなら」


 それが本当に、最後の言葉だった。

 一度も振り返る事なく、逃げるように去った騎士の背中をライアは見つめ続けていた。

 理由は分からない。どうして彼女は自分から離れていってしまったのか。

 理由は分からないまま、ただ無性に悲しくなってしまって。

 足元の赤い血溜りに、一雫の波紋がこぼれ落ちた。

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