月墜つ街の神と人
駄天使
序章 ある男の後悔
それは、天から月が墜ちた夜のこと。
英雄達は《
目指すは虚空に浮かぶ銀色の月。その冒涜的な輝きは、狂える神の嘲笑か。
各国から召集された精鋭百名。誰もが名の知れた騎士であり、傭兵であり、魔術師であり、英雄であった。
誰もが死を覚悟し、誰もが生還を望み、そして誰もが必ずこの手で神を討ち滅ぼすと決意していた。
そう、誰一人の例外もなく。男もまた、共に戦う仲間達と同じ志を持っていた。
……先ずその場所に辿り着くまでに、半数の仲間が生命を落とした。
月の中に潜む不定形な怪物達は恐るべき脅威となって襲い掛かり、多様に捻くれた空間は目には見えない死の罠と化していた。
仲間を先へ進ませるために、あえて怪物の群れに飛び込んだ者。己の死を悟り、自らを犠牲にして道を切り開いた者。
挫ける者はいなかった。臆病風に吹かれる者も。誰一人としていなかった。
ただ勝利の二文字だけを求めた。犠牲を無駄なものに貶めないため、あえて仲間の屍を踏み越えた。
そうして月に潜むものへと挑み――屍は、更に積み上がった。
彼の者が持っていたのは、“狂わせる”という権能のみ。あらゆるものを狂わせて、歪ませる、ただそれだけの権利。
摂理を狂わされ、悪夢に出てくる怪物の姿で立ち上がる結晶の大群。
物理法則も、自然現象も、空間の構造までもが歪み狂う。立ち向かった騎士の一人が無惨に砕け散るのを、男は間近で見ていた。
戦った。超越者にとっては戯れに過ぎないやもしれないが、誰もが決死の覚悟で戦った。
一人、また一人。怪物に引き裂かれ、狂った世界に押し潰され、櫛の歯が抜け落ちるように誰かが死ぬ。
その地獄の中で、男も必死に戦い続けた。そして、今。
「ッ………」
自身の吐く息の音で、飛びかけていた意識が引き戻される。
剣の柄を握り直す。「この剣を握った事を、お前は必ず後悔する」、その言葉と共に放浪の賢人より授かった無二の剣。
血と汗で滲む視界の向こう。変わらず神は其処に在った。
銀の月の中枢。同じ銀の光を宿す無数の結晶に覆われた大伽藍。端から端まで、どのぐらいの広さがあるのか。
突き出す尖塔の如き結晶の群れ。それらの中心に佇む白銀の女神、“狂える月の神”。
少しばかり背の高い女性にしか見えない身体は、等しく金属質な「何か」でのみ構成されている。
波打ちながら揺らめく長い髪も、豊満な胸元や細くくびれた腰周りも。しなやかな足に、優しく広げられた腕も長い指も。
人と同じ姿でありながらも、そのすべてが銀。さながら、水銀がそのまま女神の形を成したかのような。
子を愛おしむ慈母を彷彿とさせる姿。けれどただ一つ、「表情」だけは欠落している。
正確に言えば、目や鼻、口などと言ったあるべきパーツが見当たらない。丸みを帯びた鏡をはめ込んだかのような無貌。
それは相対する者の表情を写す湖面の月か。あるいは、人間の眼では女神の顔を見る事は適わないだけか。
月の神は敵意も殺気も向けはしなかった。その生命を狙う者が自らの御座に辿り着いても、それは変わらない。
「……これで、終わりだ」
誰に対して向けた言葉なのか。自然と唇から声が溢れた。
一歩踏み出す。仲間の屍を越えて、砕けた結晶の山を踏み潰して。
最早、生きている者は誰もいない。たった一人の戦士と、たった一柱の神だけがそこに在る。
月神を見る。その顔を、目には見えないその無貌を。鏡の如き無表情は、ただ相対する者の表情のみを映し出す。
表情。男は、月神の顔に自分の顔を見た。笑っているのか、泣いているのか。視界は滲み、よく見えない。
距離は少しずつ縮まっていく。月神は動かない。
既にその場は、神の力を抑えるための術式が無数に施されている。
範囲と持続時間を絞る代わりに、効果そのものを増大化させた特殊な術式。月神を堕とすための切り札。
これを全員が所持し、月神に対して直接打ち込む。例え最後の一人になろうとも、確実に神殺しを成功させるために。
無数の犠牲を対価にして、狂える神の力は完全に封じられていた。時間は少ないが、十分だ。
残された力を振り絞り、男は神の前に立った。鏡の表情を真っ直ぐ見据え、手にした剣を振り上げる。
「…………」
何かを口にしようとしたが、今度は言葉にならなかった。
死んでいった仲間達。親しい間柄の者もいたし、顔と名前を知っている程度の者もいた。
そのすべてを胸に刻みつけ、神殺しという偉業にその手を掛ける。
積み重ねられた犠牲が無駄ではなかったのだと、この一太刀で証明する。それこそが己の義務だ。
月の神は動かない。ただ静かに佇むのみ。まるで何かを心待ちにしているような。
「…………?」
何故、と。微かな疑問が脳裏を過ぎった。
この一太刀は、必ず神を殺す。この世界で最も偉大な賢者が、神を殺すために用意した一振り。
どれほど強大な権能を持つ神であれ、物質として“降臨”している以上は物理的に殺害することができる。
力を封じられ、抗う術もない。確実な死を前にして、この月神の落ち着きようは何だ。
嫌な汗が頬を伝う。剣を託した賢者の言葉が酷く気に掛かる。
月の神は動かない。鏡の表情には、これから自分を殺す者の顔だけが浮かんでいる。
時間がない。封神の術式は強力であるが、効力は短い。
疑念や予感を噛み潰し、ただ一人の戦士となった男は剣の柄を握り締める。
「おおおおぉぉぉぉぉぉぉッ!」
自らを鼓舞する咆哮。そして動かぬ月神へと、神殺しの刃を振り下ろした。
手応えらしいものは殆どなく、剣は真っ直ぐに月神を断ち切る。
何かが砕けるような感触。それは神の精髄を、人の手が確かに砕いたことの証明。
終わった。今まさに、戦士は封神という偉業に到達した。神威がもたらす災厄も、これですべて終わる。
安堵と達成感。死した仲間達への悲哀。戦士の胸中を複雑な感情が渦巻く。
―――そこに、触れるものがあった。終わったと、そう思っていた男の身体に触れる手。
それは月神の手だった。剣で切り裂かれ、まもなく滅びを迎えるはずの神が、自らを殺した戦士へと手を伸ばす。
驚く暇さえなく、狂える月の神は最後の瞬間に男を抱擁する。
『 』
胸の内に、弾けるように広がった最後の言葉。
男はその意味を理解した。理解したが故に、男は叫んだ。
無貌であるはずの月神の表情を、男はその瞬間のみ確かに見たのだ。
墜落する銀の月。狂気に満たされた偽りの夜は、太陽の光によって燃え尽きていく。
封神が成し遂げられたのだと、人々は歓喜した。何も知らない者達は、その夜明けを喜びと共に迎えた。
死せる月神の真実と、それに触れた男の慟哭。
誰も何も知らぬままに、月は天から落ちていった。
○
目覚めがいつも唐突であるように、夢の終わりもまた唐突だった。
月が堕ちた夜の夢。今も忘れられず、決して色褪せることのない後悔の記憶。
くすんだ廃墟の壁から背を離し、ゆっくりと立ち上がる。着込んだ鎧が擦れ合い、軽く音を立てた。
見上げれば、朝焼けに染まった空の色が映る。
屋根のない廃墟は雨の時は不便だが、頭をぶつける心配がないので助かる。
傍らに立てかけておいた剣を手に取って、元々は玄関であったろう崩れた場所から外へ出る。
元々、この家には誰が住んでいたのか。それは誰にも分からない。
今は《廃棄都市》とだけ呼ばれる名を失った街。そこにあるのは、もう誰も覚えていない思い出の残骸だけ。
「…………」
かつては賑わっていただろう大通りを歩き、居並ぶ廃墟の間を抜けていく。
その一つ一つに刻まれた記憶をなぞるように。先ほど見た夢の続きを手繰り寄せるように。
やがて見えてくるのは、都市の中心にある大きな広場。そこに立つ一枚の石碑。
魔物が跋扈する禁域の開拓、その完成を祝福するための石碑は、今は名も無き犠牲者達のための墓標でもあった。
草木の生えない不毛の地と化した《廃棄都市》において、この場所にだけは小さな白い花が幾つも咲いている。
この地にしか咲かない、名前のない花。その小さな花畑の前で足を止める。
剣を支えにするように地面に突き立てながら、その場に跪く。そして胸に手を当て、眠る死者へと静かに祈りを捧げた。
毎日欠かさず行ってきた朝の決まり事であり、それが一日の始まりでもある。
変わらない。銀の月が地に堕ちた夜から長い年月が過ぎたが、今まで変わらず行い続けてきた悔恨の儀式。
あの災厄を人々が過去の出来事に変え、《廃棄都市》もまた過去の遺物となった。
未だ残り続ける傷跡。その痛みを忘れようとするように。
ただ一人、忘れることのできない男だけが。
この日もまた、訪れる者のいない廃墟の街で祈りを捧げていた。
―――訪れる者など、いないはずだった。
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