第二節 邂逅
魔物と一口に言っても、その種類は非常に多岐に渡っている。
境界の神によって世界を隔てる壁を壊され、“無間の闇”と呼ばれる虚空の彼方より現れる怪物。
例えば、
彼らの祖先は最も古くにこの地に出現した魔物であり、数百年という歳月を経て種族として根付いてしまっている。
どれも数が多く、基本的に群れで行動する。その上、決して知能が低いわけでもない。
人間は《闇の血族》の巣穴や集落を見つければそれを焼き払い、《闇の血族》達は隙あらば人間の領域で略奪を繰り返す。
それもまた終わらない魔物との戦いの一つだが、アルディオス達が立ち向かうのはまた別の戦いだ。
言ってしまえば、それは災害に等しい。本来、魔物とはこの世界の外側から現れるもの。
既に種族として世界に根付いた《闇の血族》とは異なった未知なる怪物。
それが《巨獣》。暴れられたら街一つが容易く壊滅してしまうような、その名が示す通りの巨大な魔物。
討伐には最低でも複数の正騎士が動員される。成体の竜かそれ以上の強さを持つ個体も決して珍しくはない。
隊長にせよ、その部下の騎士達にせよ、《巨獣》討伐に参加した経験はあった。
事前に聞いていた空間異常の規模からも、相当に強力な《巨獣》が出現すると覚悟していた。
「……それにしたって、これは」
幾度も《巨獣》討伐に参加してきた歴戦の隊長ですら、その魔物の威容には言葉を濁さざるを得なかった。
一言で表すなら、それは巨大な“目玉”だ。直径十メートルはあろうかという、蛇に似た目玉。
その目玉を黒い汚泥の如き闇が纏わりつき、無数の黒い蛇のような形になって蠢いている。
汚泥の蛇はそれこそ百にも届く数が鎌首をもたげており、一つ一つが子供ぐらいは丸呑みできそうな大蛇だ。
目玉の怪物は森の上を浮かびながら移動し、蛇の首を四方八方へと伸ばしている。
赤い眼を光らせながらうねる蛇は、何かを探しているようにも見えるが……。
「…………」
怪物の警戒網に掛からぬよう、アルディオスと騎士達は距離を開けて身を潜めていた。
鎧で音を立てぬよう細心の注意を払い、蛇の眼に留まることのないよう太い木にその姿を隠す。
「どう攻めますか?……率直に言って、まともに落とすならもう一部隊は必要だと思いますが」
「同感だ。あのサイズに、纏ってる瘴気。恐らく成竜クラスの化け物だ」
部下の戦力評価に隊長も肯定を返す。本来であるなら、複数の部隊を動員した上で確実に葬るべき相手だ。
付近の都市まであの怪物がたどり着いてしまったなら、それこそ大惨事は避けられない。
もし遭遇したのが自分達のみであるなら、増援を要請した上で決死の覚悟で挑む必要があったろう。
しかし、今はその心配をする必要はない。
「……援護は任せる」
そう言って、英雄が動き出す。背に負っていた剣をその手に掴む。
騎士達は改めてその剣を見た。長さ二メートルにも及ぶ、幅広の刀身を持った両刃の剣。
長らく使い込まれている様子だが、表面には小さな刃毀れ一つ存在しない。
柄の部分には盾状の
アルディオスはその大剣を、片手で軽々と持ち上げた。
騎士達でも両手で振り回す事さえ難儀しそうなものを、まるで棒きれのようにだ。
「お任せ下さい。各自、アルディオス様の援護に徹底しろ。無理に踏み込む必要はない」
「了解。アルディオス様の援護に徹します」
隊長の命令を、若き騎士達は復唱する。同時に、巨体が動いた。
大剣を片手にぶら下げ、音もなくアルディオスは地を蹴る。まるで風のように木々の合間を駆け抜ける。
遅れて騎士達も動いた。散開し、それぞれ遮蔽を取りながら目玉の怪物へと近付く。
敵の反応もまた迅速だった。鋭く耳障りな警戒音が、無数に蠢く蛇の数だけ奏でられる。
そしてその何割かは、次の瞬間には強制的に黙らされていた。
三人の騎士達は、それぞれ中型の
隊長はその場で隠していた
突然の痛みと、それを行った敵の存在。怪物の意識は四方の騎士達に向けられる。
追撃は行わずに、すぐさま退く騎士達。その気配を、怪物は憤怒と共に追おうとする、が―――。
『ッ―――――!?』
発声器官を持たない怪物の、声ならざる絶叫。
何が起こったのか、それを理解するよりも早く更なる衝撃が怪物の巨体を揺さぶる。
アルディオスだ。彼は騎士達が蛇の頭を叩くのに合わせて、他の蛇を足場にして上空に浮かぶ本体へと肉薄していた。
そして一撃。二撃。三撃。まるでナイフか何かを振り回すように、分厚い刃が何度も打ち付けられる。
目玉のような身体が脈動し、怪物は苦痛に暴れ狂う。
足元が激しく揺さぶられているにも関わらず、アルディオスの動きに淀みはない。
巨躯には似合わぬ軽やか足さばきで細かく位置を変えながら、怪物をあっという間に切り刻んでいく。
「……とんでもないな、ありゃ」
再び距離を離した騎士達は、その凄まじい光景に見入ってしまっていた。
結局、援護らしい援護は最初の一撃のみで、後は下手に手を出さない事が最善だと騎士達は判断した。
怪物も必死に抵抗しているようだが、アルディオスはそれをまったく問題にしていない。
のたうつ蛇は敵を咬み殺さんと襲いかかるが、アルディオスは見もせずにその全てを叩き切る。
速い。暴れる巨体を足場に、一切のバランスを崩さない体術も驚異的ではあるが、何より驚くべきはその剣速。
鍛え上げたはずの騎士達の眼ですら、剣の動きが殆ど見えない。
まるで陽炎のように刃が揺らめくと、次の瞬間には怪物の身体が切り裂かれている。
それが一度や二度ではない。アルディオスは戦いながら、常にその状態を維持しているのだ。
「あれが、“神殺し”の領域だ。……よく見ておけとは言ったが、凄すぎて参考にはならんだろうな」
隊長の言葉に、騎士達は頷く。頷く以外になかった。
「……騎士団長と、一体どっちが強いんでしょうね」
「分からん。分からんが、あの二人が刃を交えるような事はないだろうしな」
部下が漏らした独り言に近い言葉にも、隊長は律儀に答える。彼自身も、同じ疑問を抱いていたからだ。
しかし、その疑問に答えを出すのは難しい。十年。あの日から十年もの間、両者は互いに会おうとさえしていないのだから。
そうしている間にも、アルディオスの戦いは続いている。
「…………」
アルディオスは猛ることなく、冷徹に刃を振り下ろす。
自分を狙っている蛇を削り、本体である目玉も刻みながら確実に怪物を消耗させていく。
それなりに高い再生能力を持っているのか、刻まれた傷が音と煙を立てて少しずつ塞がりつつある。
だがそれ以上に、アルディオスがダメージを入れる方が早い。
時には塞がりかけの傷をより深く抉り、あえて怪物へと苦痛を与える。
怪物は身を揺らし、飛び跳ねる敵を何とかその視界に収めようと身体をぐるりと回す。
恐らくは魔眼の類だろう。呪いか、直接的に破壊を引き起こすかは分からないが、大人しく食らう理由もない。
それが地上や都市の方へと向かないよう、意図して大きく怪物の頭上(?)を飛び続ける。
「…………」
既に勝敗そのものは決していた。目玉の怪物は滑稽な踊りのように空中でのたうちながら、徐々にその高度を下げていく。
浮遊状態すら維持する事ができなくなり、動き自体も弱まっていた。アルディオスは攻撃の手を緩めない。
完全に息の根が止まるまでは終わりではない。《巨獣》討伐における鉄則だ。
そう、終わりではない。怪物は、完全にその生命が終わるまで怪物なのだ。
『ッッッッ―――――!?』
音を伴わない咆哮。それに合わせて、怪物の身体が今までにないほど激しく鳴動した。
まさに狂乱と呼ぶに相応しい。死に瀕したことで、死を恐れぬはずの怪物がただ闇雲に身体を振り回す。
「しぶとい」
そう呟きながら、重力を無視した動きに振り落とされる。
敵が落ちたことを感じ取った怪物は、すぐに上空へと逃げようと身体を持ち上げた。
今は兎に角、この脅威から距離を取らねば――怪物自身がそう考えたかどうかは分からない。
ただ、その逃走は成功しなかった。残された力で浮き上がろうとした怪物の巨体が、突如として停止する。
異変に驚き、身をよじる怪物。巨大な瞳を地上へ向けて、それを見た。
アルディオスだ。森へと落ちた有角の英雄は、その右腕から伸びる何かを強く掴んでいる。
それは鎖だった。歳経た竜の鱗と最上の鉄を合わせて鍛えられた、《竜鉄鋼》で造られた大鉄鎖。
落ちる瞬間、その鎖を目玉から伸びる蛇の根元に絡ませていたのだ。
「ふ、んっ……!」
全身の筋肉を駆動させ、渾身の力で逃げようとする怪物をその場に引き止める。
いや、引き止めるだけに留まらない。少しずつ、だが確実に、怪物の巨体がその高度を落とし始めていた。
『ッ…………!?』
怪物は混乱した。自分よりちっぽけなはずのその男に恐怖した。
恐れ慄き、半ば錯乱しながらも、怪物は本能のままに動く。先ほどまでとは違い、敵の姿はその視界に収まっている。
魔眼。その眼に写した全ての生物を、石塊に変えて打ち砕く怪物の異能。
死に掛けている事も構わずに、怪物は渾身の魔力を眼に収束させる。次の一瞬で、全てが砕け散る。
砕け散る、はずだった。その眼に幾つもの矢と、投剣の刃が突き刺さらなければ。
『ッ!?』
激しい痛みが収束しようとしていた魔力を阻害し、流れた血が視界を曇らせる。
矢を放ったのは距離を置いた騎士達。一度に複数の矢を放ちながらも、その鏃は正確に怪物の瞳を貫いていた。
投剣の主はアルディオス。右手で鎖を引きながら、左手で抜いた投剣を魔眼が解放されようとするその瞬間を狙って投げ放った。
切り札を封じられ、怪物が上げるのは無音の断末魔。地へと引き摺り下ろさんとする力に抗う術はない。
巨大な怪物は森へと墜落する。そして一撃。瞳の中心を、今度は分厚い刃が刺し貫いた。
根元まで一息に貫かれて、怪物の瞳孔が一気に拡大する。最後に激しく鼓動が一打ちすると、ドス黒く濁った血が溢れ出した。
その感触を確かめるように、アルディオスは貫いたままの姿勢で動きを止めた。
溢れ出す血を浴びながら、その鼓動が完全に止まったことを確認する。
「……終わりだ」
そして一言呟いてから、アルディオスは剣を抜く。
流れた自らの血に染まった怪物の瞳は、何も写してはいなかった。
○
「ご協力に感謝します、アルディオス様。貴方の御力がなければ、どれほどの被害が出ていたか」
「…………」
無上の感謝と共に敬礼を向ける騎士達に、アルディオスもまた敬礼を返した。
目玉の怪物を討ち取った後、念の為に周囲の探索も重ねてみたがこれといった異常は見当たらなかった。
怪物の屍は時間と共に急速な風化が起こり、程なくして黒い塵へと変わっていた。
それによる異変等もなく、《遠見師》が観測した空間異常は収束したものと判断された。
役目を終えた騎士達はそれを報告に戻るため、最大の功労者である《廃棄都市》の英雄に別れを告げていた。
「勲章の授与や褒賞金など、本当に御辞退なされるのですか?」
「…………」
重ねて問う隊長の言葉に、アルディオスはただ首を横に振るのみ。
望まない。英雄は名誉も金銭も望んでいない。隊長自身も、それは分かっていたことだ。
若い騎士達は、それを清貧の在り方と受け取っただろうか。
間違ってはいないが、正しくはない。隊長にしろ、アルディオスにしろ、それをあえて訂正することはしなかった。
「……騎士団長殿には、良く伝えておきます」
「……あぁ」
騎士団長。その呼び名に、隊長はほんの少しだけ英雄の感情が揺れるのを見た気がした。
無言。暫し逡巡するように視線を宙に彷徨わせてから、一言。
「彼女は、壮健か?」
「ええ、勿論。騎士団の誰よりも忙しく働かれていますよ」
「そうか」
隊長の返す言葉に、果たして男は何を思っただろう。
それだけ聞いて満足したのか、アルディオスは踵を返して騎士達に背を向けた。
その背中が完全に見えなくなるまで、騎士達は敬礼の姿勢を取り続けた。
何処より現れたかも知れぬ怪物は死に、王国を守る騎士達はその任務を終えて帰途につく。
彼らはこれで終わりだと思っていた。あれほどの《巨獣》を討ち取った以上、そう考えるのも無理はない。
―――アルディオス自身、それは僅かな違和感に過ぎなかった。わざわざ口に出す程でもない、ほんの少しの疑念。
聞かされていた空間異常の予兆。その範囲の広さに比べて、あの《巨獣》は少しばかり弱かったような気がしたのだ。
本命が他にいるのではないかと、討ち取った後も探索を続けた。
しかしそれらしいものは見つからず、怪物の亡骸も塵に還るだけで何も異常はなかった。
単なる杞憂であったかと、アルディオスは結論づけた。もし仮に何かあったとしても、自分が対処すればいい。
そう考えながら、《廃棄都市》へと戻ってきた。誰もいない空虚な街に、アルディオスは人知れず吐息を漏らした。
騎士団のこと、騎士団長のこと。十年の歳月を、英雄は改めて思う。
自分がいた頃よりも、騎士の練度は上がっているようだった。古参は経験の厚みを増し、若い才能は練磨を怠っていない。
あの日、思い出の中で別れた少女が騎士団長になったと聞いたのも、それなりに前の話だ。
彼女は立派に己の務めを果たしているのだろう。その事を、アルディオスは先達として誇らしく感じた。
こんな男がいなくとも、彼らに何の問題もありはしない。そんな自罰的な認識も深めながら。
「…………?」
街に入ったところで、不意にアルディオスはその足を止めた。
常人なら――いや、仮に歴戦の兵士であろうとも、気付くかどうか分からない微かな差異。
空気に混じる静けさ。まるで嵐を前に、世界のすべてが押し黙ったかのような静寂。
知っていた。アルディオスは他の誰よりもこの感覚に覚えがあった。
「……まさか」
全身が総毛立つ。自らを突き動かす直感に従い、アルディオスは走った。
根拠などない。根拠などなかったが、アルディオスは真っ直ぐにその場所へと向かう。
この《廃棄都市》の中心。名も無き死者達の墓標。かつてその上空に、狂った銀の月を迎えた場所。
――果たして、「ソレ」は確かにそこにいた。
銀。記憶の中の痛みを掘り起こすような、美しい銀色。
石碑に咲く白い花、その中に佇む少女の姿もまた白く。まるで花の妖精が降り立ったかのようで。
「っ………!」
アルディオスは剣を抜いた。その柄を片手ではなく、両手でしかと握り締める。
持てる力の全てを十全に出し切らねば、次の瞬間の生存すら確かではない。彼はそれを良く理解していた。
風が吹く。音もなく、押し黙ったままで。花びらがヒラリと宙を舞い、白い少女が振り向いた。
美しい少女だった。背丈はアルディオスの半分にも満たないほど小柄で、その肢体は白樺の枝のように細く儚い。
陽の光を受けて、長い髪は銀色に煌めいている。紅い瞳は血のように鮮烈で、月のない夜の如くに深い。
舞い散る花にも似た白いドレスを身に纏ったその姿は、物語の妖精そのものだ。
しかしアルディオスは、それが妖精などではないと知っていた。
目を細め、愛らしく微笑んでみせたその表情に秘められた、無垢であるが故の暴虐も。
「……まさか、“二度目”に出くわすとはな」
苦い声で呟く。そこに笑みが混じっているのは、笑うしかないという自棄に似た感情から。
ゆっくりと、少女が花畑から歩み出る。その足元が僅かに浮いていることを、アルディオスは見逃さなかった。
光が揺らめく。虹色の光だ。それが薄いカーテンのように、幾重にも少女の周りで揺らめいている。
それが何であるのか、アルディオスが思考するよりも早く。
「 」
少女が歌った。人の言葉では聞き取れない、鳥のような歌声。
同時に解き放たれるのは、破滅の極光。虹の光が収束し、一条の矢となって少女の指先から弾かれる。
触れたもの全てを等しく焼却する、それは目を奪われるほどに美しい死の輝き。
極光は真っ直ぐに剣を構えた英雄へと襲い掛かると、光の飛沫を散らせた。
“降臨”した神威が奏でる歌声が響く中、万物を灰燼と帰す滅びの光が天を貫いた。
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