第五章 月墜つ街の神と人

第二十一節 その名を呼んで


 揺らめく闇の中に、ライアの魂は沈みつつあった。

 光はない。音もない。この世の全てであって、この世の何処でもない闇。

 その場所は何であるのか。かつて、ライアが生命として降り立つ前にいたはずの場所。

 名前は知らない。誰かは《無間の闇》と呼んだ何処か。

 かつて全てが生まれて、いずれ全てが消えていく最果ての地。

 その淵に、ライアの魂はあった。

 動こうとするが、それは叶わない。手足を縛る鎖がそれを許してはくれない。

 鎖。あの影に似た男が、自分を拘束する為に施した鎖。

 声を上げようとしても、それは叶わない。術式による束縛は、あらゆる自由をライアから奪い去っている。

 沈む。沈んでいく。あの男―――ザルガウムの魔力が、少女の魂を侵していく。

 たった一つの尊い光を奪おうと。その穢れた指を伸ばす。


「もう手遅れだ。君の抵抗には何ら意味はない」


 声。冷たい声。この何もない《無間の闇》の底と同じく、どこまでも凍てついた声。

 今や破壊神の器を我が物にした暗闇の男は、一片の慈悲もなく術式の強度を高めていく。

 無力な魂。けれど、その中心に輝く光だけは、如何にザルガウムでも容易く握り潰す事は出来なかった。


「まさかこんな場所で己が名を得ているとは………驚愕すべき事態ではあるし、少なからず煩わしさも感じている」


 名前。アルディオスから貰った、ライアというたった一つの名。

 神とは、本来ならば世界という大きな器を満たす高次のエネルギー体に過ぎない。

 彼らは世界を運営するための機構システムであり、常に世界と繋がりながらも他の存在とは決して結びつかない。

 物質としての肉体を持たぬが故に、物理的な繋がりを持つ事は出来ない。

 形を持たない以上、個を識別する為の名も必要ない。伝承に現れる神々の大半も特定の名は持っていない。

 それだけに、“神に名を与える”という行為には一際大きな意味があった。

 物質化した肉体を得た上で、名前という楔をも得ればそれは独立した一つの生命に他ならない。

 世界を動かす概念たる神であると同時に、人間を含めた世界を生きる者達と何ら変わらない生命となる。

 アルディオスにそんな知識はなかったし、ライアも当然知らなかった。

 けれどあの日、あの夜。二人が交わした契約は、一柱の破壊神を生まれ変わらせていた。

 ザルガウムにとっても、それは全く予想していない事態であった。


「私が君を支配する上で、唯一施し損ねた命名の儀。それを行えなかった以上、私の君に対する支配力は完璧とは言い難い」


 己が固有魔術《刻名の秘儀》による真名の剥奪は、既に何度となく試みていた。

 これに関しては予想通り、上手くは行っていない。

 神が自身で認め、受け入れた名だ。それはもう魂の芯にまで刻み込まれてしまっている。

 古竜の名さえも奪い取るザルガウムであるが、流石に存在として格上の神格が持つ名を奪い去るのは困難極まる。

 無論、やって出来ない事ではない。しかしそれを行うには、膨大な時間と労力が必要となってしまう。

 ザルガウムはそれを好まなかった。彼にとって、この事態は路傍の石に少し足を取られた程度に過ぎない。

 たかだか石を払うのに、自分が払うコストが余りに見合わない。

 それは合理的ではない。故にザルガウムは、彼が考える「合理的な手段」を選ぶ。


「神の名を奪う事は難しい。しかし名とは魂の楔、物質としての存在を世界と繋げる為のもの。

 今、君の魂に刻み込まれている名は、この世界が存在するからこそ意味がある。この崩れかけた、不安定な土台の上でのみ価値がある」


 ならば、どうするか。醜悪なる暗黒は、嘲笑と共に宣言した。


「故に―――私は、君の破壊神たる権能を用いて、この世界を虚空の塵へと変えてしまおうと思う」


 恐ろしい。余りにも恐ろしいその言葉に、ライアの魂が怖気と共に震えた。

 本気だ。この男は、ライア自身が持つ破壊の権能を使ってこの《断片世界》を粉微塵に吹き飛ばそうというのだ。

 嫌、嫌、嫌嫌嫌嫌嫌―――――!

 拒絶を意志に表そうとも、器である肉体との接続をほぼ完全に断ち切られている以上は何の意味もない。

 ザルガウムの術式に縛られた魂は、ただ《無間の闇》と呼ばれる世界の裏側を無力に漂う他ない。

 光は見えない。声は聞こえない。自分がどうなってしまうかも定かではない。

 ただ、色のない暗黒の嘲笑だけがライアの自我を苛む。

 このままでは、本当に全てが壊されてしまう。

 破壊という権能を持つ神格であるが故に、ライアには理解出来てしまった。

 あの男によって操られたライアの肉体は、神として扱える力を限界まで引き出そうとしている。

 ただ力の放出だけで脆くなった次元の境界を撓ませる程のエネルギー。

 それが完全な破滅の刃となって振り下ろされれば、この《断片世界》は文字通りバラバラに砕け散るだろう。

 どれだけライアがそれを拒否しようとしても、ザルガウムはその手を緩めない。

 むしろ彼女自身の嘆きを糧とするように、破壊の力だけが際限なく膨れ上がっていく。


「………素晴らしい。何という美しさだろうか。この光の前では森羅万象がただの塵芥に過ぎない」


 その光景に、ザルガウムは狂喜していた。

 自らの手で世界より摘み取った花が美しく咲き誇ろうとするその様に。

 無限に続く荒野の如き己が魂に、歓喜という潤いが注ぎ込まれていく事を実感する。

 美しい。それは完全であり、唯一である美に他ならなかった。

 ザルガウムは嘲笑う。万象を破壊する極光の輝き。その光の前に消えていく全ての生命を嘲笑った。

 この世界と繋がった彼の神の名も、世界という土台そのものが消え去れば意味を失う。

 そうして完成する。ザルガウムの手に、この世に二つとない美しい花が咲く。

 亀裂の如き笑みを浮かべて、暗黒の男は笑っていた。

 狂気と共に嘲笑う男に対して、ライアは抗う術を持ち合わせてはいなかった。

 嘆きも、叫びも、全て届かない。闇の中で足掻いたところで、深淵には小さな波一つ立つ事はない。

 それでもライアは叫んだ。嫌だ、と。壊したくはないのだと涙を流して。

 どれほど自由を奪われても、彼女の中で消える事のない光。

 初めて出会った壊れない人。壊れなくて、壊したくなくて。優しさと温もりを、一番最初に与えてくれた相手。

 アルディオス。彼と出会わなければ、ライアは今もザルガウムが望む冷たい破壊神のままだったろう。

 次に出会った女性も、ライアが知らなかった事を教えてくれた。

 たった二人しかいなかった廃墟の街、そこから外の世界に出るきっかけを与えてくれた。

 フェリミア。お互いに譲れない事はあっても、大切な友人だと信じている。

 彼らだけではない。《廃棄都市》の外で見たもの。触れたもの。

 全て、全て、壊したくない大事な世界だ。

 分かっている。ライアは破壊の権能を持つ神格。形ある物はいずれ壊れる、その事象の全てを司る神。

 壊れるのだ、何もかも。どんな生命も、この儚い世界も全て。

 故に抵抗に意味はないのだと、暗黒の具現たる男は少女の抵抗を嘲弄する。

 森羅万象、その全てが塵となって深淵に沈むというのに、神たる身が何を無価値なものに拘っているのか。

 ならば今、ツギハギだらけのこの世界を砕く事もまた、自然の摂理に過ぎないと。

 そんな嘲笑う男の悪意を、ライアは否定する。

 この儚い抵抗に意味はなく、この世界に何の価値も無かったとしても。

 ライアはそれを認めなかった。壊したくないと、心からそう感じた世界の在り方を思う。

 その世界と繋がりを得るきっかけとなった、たった一つの名を思う。

 ザルガウムが消し去ろうとしている、破壊の神がその魂に刻んだ唯一の名。

 それを、今。


「――――ライア!」


 呼ぶ者がいた。光は無く、音も届かないはずの闇の底で。

 その名を呼ぶ声だけは、ライアの耳に届いていた。

 何もなかったはずの深淵に、確かに亀裂が刻まれた事を感じる。

 見える。外界との繋がりを断たれて、《無間の闇》に揺蕩うだけだったライアの眼にその姿が映る。

 無数の極光のヴェールに覆われた《廃棄都市》。今にも破裂しそうな破壊の力が荒れ狂う災禍の中心点。

 余人であれば近付くだけで灰へと変わるその地獄に、躊躇なく立ち向かう男がいた。

 半ば壊れかけの甲冑で傷だらけの身体を覆い、その手にはひと振りの大剣のみが握られている。

 兜に隠された表情を伺う事は出来ずとも、鋭い視線は真っ直ぐに目の前の敵を射抜いていた。

 巨大な光の翼に磔刑の如く縛られたライアの肉体―――その傍らにある、邪悪なる魔導師ザルガウムを。

 色のないはずの闇の表情が、僅かに歪む。表している感情は、不快感。

 アルディオスが“ライア”という名で呼びかけた事で、再びザルガウムの施した支配が揺らいだ。

 その感触に、魔導師は強い嫌悪の情を満身創痍の戦士へと向けた。


「理解出来んな、意味も無ければ価値も無い。半死人も同然の身体で這いずって、一体何をしに来たつもりだ」

「生憎と、お前にはそこまで用はない」


 そうアルディオスはハッキリと言ってのけた。

 分厚い刃にも似た戦意をぶつけながらも、あくまで“倒すべき障害”でしかない魔導師へと。

 彼が、アルディオスが此処まで来た用向きなど一つしかない。

 だからもう一度、その名前で呼びかける。


「ライア。―――迎えに来た。フェリミアの奴も待ってる」


 昨夜交わした約束を、守るための言葉。

 ライアの魂が、再び大きく震えた。それはザルガウムの方にも伝わっていた。

 呼びかけられる度に、封じているはずの少女の魂が闇の底から浮かび上がろうとする。

 無論、その程度の事ではザルガウムの施した支配の鎖は砕けない。

 この程度で激的な変化など起こるはずもないが―――それでも、不愉快である事に変わりはない。

 美しい花を無遠慮に手折ろうとするその行為に、ザルガウムは久しく“怒り”を覚えていた。


「………嗚呼。実に、実に実に実に、実にこれは稀有な事だ。人が地を這う蟻に怒りを感じぬように、私は他者に怒りを感じた事などない」


 しかし今、影に似た男の臓腑の底で暗い感情の炎が燃え滾っている。

 その恐るべき熱量を感じ取り、アルディオスは即座に両手で剣を構えた。

 合わせて、ザルガウムは右手を軽く横に払う。その動作に合わせて、幾つもの札が宙に浮かび上がった。

 札。札。札。今現在、手持ちとして展開出来る限界の数の使役獣。

 その一つ一つがアルディオス達が言うところの《巨獣》であり、都市一つを軽々と砕く破壊力を持つ怪物ばかり。

 自らが施した支配の鎖に手を掛けながら、ザルガウムは笑う。黒い溶岩が吹き出すような笑い声を上げて。


「私は怒っている。光栄に思うが良い」

「そうかい」


 何もかもが異なる両者の意志が、此処で初めて正面からぶつかり合う。


「消え去るが良い。愚かな、名も知らぬ男よ。彼女は私の花だ、私だけの花なのだ。それを穢した罪は万死に値するぞ」

「お前の感情なぞ知ったこっちゃないし、俺にはアルディオスという名もある」


 札から怪物の群れが解き放たれようとしているのに、アルディオスの調子はいつもと変わらない。

 万全とは程遠い身体で、それでも何事も無かったかのように剣を構える。


「そして、そいつの名はライアだ。………お前が何と言おうと、俺が名付けて、彼女が認めた名前だ。文句を言われる筋合いはない」


 空に歌う娘。ライア。あの美しい歌声から、アルディオスはそう名前を決めた。

 ザルガウムは、自分の内にある怒りの度合いに驚き、その上で笑っていた。

 本来なら自らが施すはずであった命名の儀式を、いつの間にやら他人の手に奪われてしまっていた事実。

 怒っていた。ザルガウム自身が思っていた以上に、怒りの炎は黒く焼け焦げながら流れ出してきた。

 アルディオスの言葉を宣戦布告と受け取り、呼びかけに答えようと抗うライアの魂を縛り上げながら、ザルガウムは応える。


「良いだろう。アルディオス、神を穢す者よ。―――その死も、生命の一欠片さえも、何の価値もない事を私の手で刻みつけてやろう」


 闇が蠢く。余りにも莫大な魔力の奔流に、空間そのものが悲鳴を上げた。

 溢れ出すは狂気の群れ。ザルガウムの手で己が名を奪われ、支配という枷を嵌められてしまった哀れな怪物達。

 その数は数十か、あるいは数百を超えているのか。正確な数は推し量れない。

 無尽蔵とも言うべき獣の軍勢を前にしても、アルディオスは揺るがない。

 どれほどの敵が相手であろうと、やる事は変わらない。ならば恐れる必要はないと、分厚い刃を構えた。

 ザルガウムが解き放った《巨獣》の群れが押し寄せるより早く、大地を蹴る。

 咆哮は、果たしてどちらのものだったか。

 たった一人が怪物の軍勢と激突し、最後の戦いが始まった。

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