第二十節 騎士の誓い


 禁域の森のほど近い場所に設営された騎士団の野営地は、今や混沌の坩堝と化していた。

 今や傀儡となって破壊の権能を撒き散らす存在となったライアと、彼女を支配する《世界移動者》たる魔術師。

 フェリミア達が両者の前から無事に逃げ果せた後も、地獄は終わらなかった。

 遠く離れた森の外側からも観測できる滅びの光。

 それはさながら翼のように空へと広がり、幾重もの極光のヴェールで太陽を覆い隠しつつある。

 いっそ穏やかとも言える頭上の風景に対して、地には騒乱が満ち溢れていた。

 禁域である森を中心に、王国全土において無数の魔物達の暴走スタンピードが発生していたのだ。

 終末の風景に招き寄せられたのか、あるいは恐るべき神威に触れて発狂したのか。

 今は各地の騎士達や都市の防衛戦力で被害をギリギリ水際で塞き止めている状態だが、破綻に至るのは時間の問題だ。

 終わりだ。これは正に世界の終わりに他ならない。

 その中心を目の前にして、王国騎士団長であるフェリミア=アーサタイルは決断を迫られていた。


「王都の《遠見師》達からの報告はどうなっている」

「禁域の中心、《廃棄都市》に神格の反応は留まっていると。そしてそこから次元の境界面が急速に破壊されつつあると」

「………何をするつもりか知らんが、人の庭で好き放題やってくれるものだな」


 太陽ならざる光の下、フェリミアは部下の報告を受けながら不快げに吐き捨てた。

 視線の先にあるのはライア―――いや、破壊神が放つ破滅の極光。その輝きに形作られる巨大な翼。

 何か攻撃を仕掛けてくるわけではない。ただ不気味な光で空を覆い、神威に当てられた魔物が次々と暴走を連鎖させているのみ。

 それだけでも十分に一大事ではあるが、“降臨”した神格が引き起こす災厄がこの程度で終わるはずもない。

 遠からず、決定的な破滅が引き起こされる。それは間違いない。

 故に、フェリミアは決断しなければならなかった。

 この辺り一帯の土地を切り捨て、より確実な戦力で神格の討伐に臨むかどうかを。


「………団長殿」


 周りの騎士達も、それを察しているのだろう。

 声にはこの先の未来に対する不安と、自分達を率いる騎士団長への信頼が綯交ぜとなって込められていた。

 フェリミアは両の眼を閉じ、頭の中で思考を加速させる。悩む時間さえ惜しいというのに、選ぶべき答えが見つからない。

 当初の予定は根元から消し飛んでしまった。

 仮に相手がライアだけならば、フェリミアは現状の戦力だけで挑む事を選んだかもしれない。

 最善は不意を打っての電撃作戦だったが、それが不可能になった後も半数を犠牲に神格を討ち滅ぼす事は可能だと考えていた。

 しかし、本当の敵はあの少女ではなかった。全てを嘲笑うように現れた魔道の到達者。

 強大な権能を有する神さえも、あの怪物は容易く傀儡にしてのけた。

 荒ぶる神格と《世界移動者》たる魔導師。正面からまともに挑めば、恐らくは全滅も十分に有り得る。

 死は恐れていない。恐るべきは何も為す事なく討ち死にしてしまう事だ。

 そうなれば、誰がこの災厄を止めるのか。如何にして神が引き起こす破局を阻むのか。

 ―――この場は、退くしかない。

 確実に勝利する算段がない以上、出すべき答えは一つしかない。

 破滅は起こるだろう。かつてこの地に銀色の月が現れた時か、あるいはそれ以上の取り返しのつかない災厄が。

 この周辺一帯が灰燼に帰する程度ならばマシな部類で、下手をすれば世界が削れ落ちて“虚空の断崖”が広がる可能性もある。

 それでも、この《既知領域》の全てが失われるよりかは軽い。軽いと、考えるしかない。


「………騎士団、各員に伝達。一度王都へと帰還し、対神討伐の為の再編成を………」


 フェリミアが部下にその命令を伝えようとした、その時。


「いけません、そのようなお身体で動かれては………!」


 野営地中に響く程の声。振り向けば、そこにはこの場の誰よりも大柄な姿があった。

 アルディオスだ。奥にある医療用のテントに運び込まれたはずの男が、傷ついた身体もそのままに表へ出てきたのだ。

 魔術による治療が施されたとはいえ、傷の深さからして完治には程遠い。

 着込んだ鎧の端々からは、滲んだ血で赤く染まった包帯が見え隠れしていた。


「なっ………アルディオス様っ!」


 信じられないという思いで、フェリミアは男の名を叫んだ。

 戦う事を選び、実際のその傷を付けたのも自分だというのに、何と無様な事か。

 それでも脳裏に浮かんだ光景が、フェリミアを叫ばせずにはいられない。

 死の影を濃く背負って立ち向かうその姿。十年前のあの夜、月へ向かう男を見送った時と重なる。

 鎧を纏って剣を背負い、傷だらけの身体を引きずってまで、アルディオスが何処へ向かおうとしているのか。

 問うまでもなく分かっている。彼はいつだってそういう男だと、フェリミアはよく知っているから。


「………フェリミアか」

「駄目です、アルディオス様! 行ってはいけません!」

「まだ、何も言ってないんだがな」


 道を塞ぐように立つ女騎士を見下ろしながら、アルディオスは苦笑いを溢す。

 アルディオスも分かっている。先ほどとは違い、この先の戦いに挑めばほぼ確実に自分は死ぬ事になるだろうと。

 治療によって戦う力は幾らか取り戻せたが、当たり前のように万全とは程遠い。

 この有様で、果たして何処まで戦えるのか。一瞬で力尽きる可能性も否定は出来ない。

 それでも、アルディオスの心は既に決まっていた。


「………どいてくれ、フェリミア」

「どきません。私は、貴方を死なせるつもりは………!」

「分かってる。行けば、俺は死ぬ。それは俺自身がよく分かっている」

「っ…………」


 己の死を語る男の言葉に、フェリミアは小さく息を呑む。

 周りに立つ騎士達は、口を挟む事なく二人の様子を見守っている。

「だが、それでも俺は行かなくちゃならない」


「………何故、ですか? やはり、貴方は死ぬ事を………」

「違う。……それは違う」


 今にも泣き出してしまいそうな言葉を遮って、アルディオスはそれを否定する。

 そう考えた事が、無いとは言わない。だが、今その胸にある思いとは異なっている。

 大きな手を伸ばして、アルディオスは目の前の騎士の頬に触れた。

 遠慮がちに、何処か臆病に。人とは異なるものになってしまった指で涙に濡れた眦を拭う。


「約束したからだ。ライアと」

「ライアと………?」

「あぁ。お前と、仲直りするとな」


 言われた言葉が意外過ぎて、フェリミアは何の冗談かと思った。

 仲直り。それが意味するところを、遅れて理解する。


「………あの子は、私とアルディオス様が喧嘩をしてる、と………?」

「まぁ、そうとしか思えなかったんだろうな」

「そんな………いや、でも、あの子からしてみればそうとしか見えない、のか………?」

「兎も角、アイツとそう約束していてな」


 指を離して、アルディオスは自身に確かめるように一つ頷く。

 今この場には、二人が争いを続ける理由はない。

 まだ完全とは言い難いが、こうして向かい合って言葉を交わせるのであれば、仲直りしたと言っても過言ではないだろう。

 しかし約束を果たすためには、約束をした当人がいなければ不可能だ。

 だから。


「俺は、ライアを迎えに行かなきゃならない」


 あの闇の如き男に囚われ、涙を流しているだろう少女。

 彼女を助ける為には今向かうしかない。それがどれほど無謀な試みであっても。

 アルディオスの中に、此処で退くという選択肢はなかった。

 十年前と同じ後悔を拒絶し、英雄になり損なった男は戦う事を選んだ。

 今度こそ、この刃が望む場所へと届く事を信じて。


「………だから、フェリミア。頼む。そこをどいてくれ」

「………………」


 アルディオスの言葉に、フェリミアは答えられなかった。

 答えられず、けれど彼の思いは理解出来たから、その通りにした。

 顔は男に見られないよう僅かに伏せたまま、一歩、二歩と。彼が行く為の道を開ける。

 アルディオスは迷う事なくその道を進んだ。振り向かず、真っ直ぐに。

 十年前の月の夜。去る背中を見送った少女の時とは異なり、フェリミアは背を向けたまま立ち尽くす。

 死地へと向かう男。あの時、アルディオスは見送る者達に何も言う事はしなかった。

 十中八九死ぬと覚悟していたからこそ、未練を残さぬようにと言葉の一つも残さなかった。

 けれど、今は違う。振り返らず、真っ直ぐに歩きながらも、一つの言葉をかつて少女だった騎士へと残す。


「必ず、帰ってくる」

「ッ…………!」


 それは約束であり、決して違える事なき騎士の誓いでもあった。

 さながら雷にでも撃たれたかのように、フェリミアはその身を大きく震わせていた。

 堪えきれずに振り向く。駆け出した背は一瞬で小さくなってしまい、森の中に入って直ぐに見えなくなる。

 フェリミアはその場に立ち尽くす。

 どうすれば良かったのか。あの人の言葉に、何と応えるのが正しかったのか。

 これでは十年前と同じではないか。暗い後悔が、また胸の内をじわじわと蝕みつつある。


「………いや、違う」


 今は、あの銀の月が上った夜ではない。

 死に向かう事を選んだ男も、力及ばずに見送るしかなかった少女もいない。

 違う。違うはずだ。今は決して、十年前のあの時ではない。

 ならばどうする。王国騎士団長として選ぶべきと考えていた正しい答えも、今は遠く彼方にある。

 心は決まった。騎士の長としてあるまじき事とは知りながらも、フェリミアにはそれ以外の道などなかった。

 しかし、それを選べば自分を信頼してくれている部下達を裏切る事になる。

 その事実にのみ胸を痛めつつも、己の決意を言葉にするためにフェリミアは再び部下達の方を振り返った。

 振り返り、フェリミアは驚くべき光景を目にする。


「お前達………」


 いつの間に集まっていたのか、配下の騎士達は整然と並び立っていた。

 彼らは将の憂いを払おうとするように、一様に胸元に手を当てる誓いの形を取る。

 決して違えること無き騎士の誓い。今、騎士達の心は一つ。


「貴女の言う通り、我らはもう十年前とは違うのです。団長殿」

「行かれるのでしょう、あの方と共に」

「ならば我らもお供致しましょう。まさかついて来るなとは言いますまい」

「祖国を守る為の大一番。我々は、この時のために研鑽を続けてきたのです」


 戦う意志を、決意を、覚悟を、誰もが例外なく滾らせている。

 かつてのフェリミアと同じく勇者達を見送った者達と、その後に騎士を志した若い者達。

 前者は届かなかった過去の無念を思い、後者は守るべき未来の価値を思った。

 思いは違えども、望むところは一つだ。

 フェリミアは居並ぶ騎士達の心を受け止めた。迷う事は、真摯な彼らの思いを侮辱する事になる。

 拳を握り、胸甲を叩く。瞳に意志の炎を、心に騎士たる者の魂を燃やしながら、フェリミアは声高に叫んだ。


「十年! この場には、十年前の月の夜を知る者達と、知らない者達がいる。私はあの日の無念を忘れず、それを過去とする為に戦ってきた!」


 去っていく背中。勇者達の多くは、あの月夜の底へと散っていった。

 たった一人戻ってきた英雄であるはずの男もまた、自らを孤独の淵へと隠してしまった。


「多くの泥と多くの血に塗れ、十年という長くも短い時間を走り抜けて、我らは今この場所に立っている。

 ―――けれど私は、過去を乗り越えたいと望む余りに、大事な事を忘れてしまっていた。

 あの人が、あの月の墜ちた夜にただ一人で帰ってきたあの人が、何を思って孤独となったのか。何を思って、我々の元を去ったのか」


 それを知る者も、知らない者もいるだろう。しかしどちらも例外なく、男の名を偉大な英雄として記憶している。

 月を墜とした大英雄。封神の領域に至った王国最強の大剣士。

 けれどそれは、アルディオス=バラントという男の上澄みでしかない。


「あの人は………アルディオス様は、ごく普通の方だ。優しく、不器用で、何でも背負い込んでしまう。その上口下手と来ている」


 似た者同士だ、なんて笑い声が聞こえたが、それは一先ず無視した。


「私は―――私達は、あの人を“英雄”にしてしまった。“英雄”だと思い込み、“英雄”の役に押し込んでしまった。

 あの月の夜、置いて行かれたのは私達じゃない。あの勇者達を見送った私達こそが………あの十年前の夜に、あの人を置き去りにしてしまったんだ」


 仲間であるなら、支えてやるべきだった。

 友人であるのなら、その背負った重さを慮るべきだった。

 けれど誰も、それをしなかった。それをしようとはしなかった。

 あの月が墜ちた夜、余人には分からぬ罪と後悔を抱えた男を、彼らは偉業を成し遂げた英雄であると誤解した。

 ただの哀れな男に過ぎない彼を、月が墜ちた夜にたった一人置き去りにしてしまった。

 故にこそ、今すべき選択とは何か。


「私はもう、あの時と同じ後悔はしたくはない。何もせず、己の無力を嘆く事などしたくはない。

 私は行く。置き去りにしてしまったあの人の背に追いつく。轡を並べ、共に危難を駆け抜ける未来こそを求める。

 諸君らはどうだ! 諸君らもまた誇りと誓いを胸に抱いた騎士ならば、私は強く命ずる事はしない!

 ただその剣の輝きに恥じぬ選択が何であるかを、己と世界に問うが良い! ―――今、我らが為すべき事は何か!」


 フェリミアは叫ぶ。己の誇りと誓いを高らかに。


『戦う友の背を守り、戦う術無き民を守る! 我らは王国の剣! 我らは騎士たる誇りを胸に、決して違える事なき誓いと共に在る!』


 その声に、騎士達もまた応じる。高く、天の彼方へ届かせるように叫んだ。

 フェリミアは笑った。迷いも憂いも、もう心の何処にも見当たらない。

 剣を抜き、《白霊騎士団》を起動させる。動甲冑達も、心なしか胸を張っているような気がする。

 誇り高き騎士達は行く。勝機が如何程あるかも分からぬ死地へ。

 後悔はない。恐怖もない。あるとすれば、ただ一つ。

 随分と先へ行ってしまった男を、英雄という孤独に置いて行ってなるものかという意志。

 その誓いを胸に抱いて、騎士達は共に走り出した。

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