第四節 闇を渡る影
闇。今は何もなく、かつてはこの世のすべてが在った場所。
神話と呼ばれる時代よりも遥か昔、《
万象の起源である混沌が渦巻いていた《無間の闇》。その深淵の底には《
幾つもの光が、闇の中を流れている。その一つ一つが世界であり、巨人から別れた神々の魂が宿っている。
広大な闇と、その上に浮かぶ微かな世界の光。それが《無間の闇》と呼ばれる場所のすべて。
混沌は幾つもの世界の礎となり、その血肉を生命に、大いなる魂を神々へと与えた古き巨人も今は無い。
何もない。何も在ることはできない。
それのみが唯一の理であるはずの《無間の闇》、そこに動く人影があった。
人。世界から漏れるほのかな輝きを足場に、深淵を悠々と渡っていく者を、果たして人と呼んで良いものか。
少なくとも、外見の上では「それ」は人の近い形をしていた。
背は高く、手足はすらりと長い。痩せ過ぎとは感じない程度の細い男性的なシルエット。
それを染み一つない真っ白い紳士服で包み、首元にだけ真っ赤なタイを巻いている。
洗練された動作で歩を進める度に、何もないはずの闇で最高級の革靴が軽い足音を響かせた。
格好だけは何処にでもいるような洒落者の貴族。しかしそんな手合いが、この《無間の闇》にいるはずがない。
世界の殻に守られなければ存在できず、神の庇護がなければ生きられない脆弱な人間とは違う。
事実、男の容姿は人間とは大きくかけ離れていた。
黒い。まるで夜が人の形を取ったかのように、ただ黒い。
浅黒い肌とか、そんな生易しいものではない。光を吸い込むかのような無明の漆黒。
服で隠されていない部分は、すべて黒で染まっている。人間では決してありえない闇色の身体。
それでいて、顔の造形はまるで名工の手からなる彫刻のように整っている。
開いた眼には白目がなく、燃えるような紅蓮の光が揺れていた。
「……ふむ」
唇から漏れる声だけは、人間のものと何も変わらない。
時間も距離も存在しない闇を闊歩していた男は、何かに気付いたように足を止めた。
そして自分の懐に手を入れて、何かを取り出す。
それは一枚の
大きな目玉に無数の蛇が生えている怪物が、今にも動き出しそうなほど精密に。
「…………」
男が取り出した札に視線を落とすと、唐突にそれが燃え上がった。
音もなく青白い炎を上げて、あっという間に燃え尽きる。男の手は焼けた様子もなく、白い灰だけがこぼれ落ちた。
「……《ゴルゴンの大怪球》が死んだか」
予め放っておいた使い魔の一つ。死の魔眼と凶暴な大蛇の鬣を持つ恐るべき魔獣。
それが死んだ。相手の魂を支配する術式、その触媒である札が燃えたことがそれを示している。
男は手に残った灰を《無間の闇》に払い落とした。
使い捨てる前提で放った使い魔が死んだ。それ自体は何の問題もない。
問題とするべきは、男が支払ったコストに対して、得られたリターンが明らかに釣り合っていないということだ。
「正確な位置は分からず、か。思ったよりも役に立たんな」
支配下にある使い魔の魂は、男の所有する札と繋がっている。
使い魔が得た情報は札の方でも蓄積され、仮に使い魔自身が死んでもその情報は所有者に還元される。
目的のものがどの世界に降り立ったのか。そして使い魔が落ちた場所の周辺にいるはず。
それだけ。稀少な魔獣一匹を失って、得られた情報はたったそれだけだ。
しかし男は、そんな魔獣を失ったことよりも、その札が思ったより役に立たなかったことへの失望を感じていた。
「まぁ良い。大体の居場所が分かったのなら次の手を打てばいい」
その感情にも拘らず、男は軽く指を鳴らす。
すると男の周りに、先ほどと同じような札が何枚も浮かび上がった。
札の表にはやはり怪物が描かれており、その一つ一つがまったく異なる姿をしていた。
鋭い爪と牙を持つ恐るべき獣に、土塊で出来た巨大な人形。雷雲を従えた鳥の翼を持つ大蛇。
取り出された札は軽く十枚以上。それらすべてが成体の竜と同等か、それ以上の力を持った怪物だ。
この場に召喚術師や使役術師がいたなら、あまりのショックに気を失っただろう。
恐ろしい怪物達の存在に――ではない。
そんな怪物を易々と支配し、かつそれを惜しみなく使い捨てる男の存在に。
「一先ずは、二十ほどか」
切りの良い数だけ札を出し終えると、男は一つ頷いた。
その動作を合図に、すべての札が音もなく虚空へと消え去る。
先に放った《ゴルゴンの大怪球》、それが残した空間の痕跡を媒介にまとめて転移を行ったのだ。
空間転移の魔術だ。目的とする場所の座標と時間流の密度、影響する神格の要素など、様々な知識と計算が必要となる最高位の術式。
男はそれを呪文や儀式もなしに、まるで散歩にでも行くような気軽さで発動させた。
それ以前に、距離や時間の概念が存在しない《無間の闇》で転移の術式を発動させるなど如何なる離れ業か。
「今度は成果を挙げられると良いのだが、さて」
使い魔達を送り出したのを確認すると、男はまた歩みを進める。
自分も転移を使えば一瞬で目的地に辿り着けるのだが、それではあまりに趣に欠ける。
男は自らが追うものの姿に思いを馳せながら、《無間の闇》を渡っていく。
今まで多くのものを支配してきた。それは人であったり、他の魔術師であったり、あるいは魔獣や誇り高い竜でもあった。
時には国を支配することもあったし、小さな世界を丸ごと自分で支配したことさえある。
だが、そのどれもが凍てついた男の魂を震わせるには足りなかった。
男は魔術師だった。何処かの世界に生まれ、人々にその才覚を称賛されながら魔道を究めた。
誰も気付かなかった。男が生まれた時より既に「完成」された存在だったと。
男は当たり前のように魔道の深淵へと足を踏み入れ、当たり前のようにあらゆる術式をその手に収めた。
生まれたのは天才ではなく怪物だった。賢しき者がその答えにたどり着いた時には、もう何もかもが手遅れだった。
男は当たり前のように人の領域を逸脱し、《
本来は超えることのできない世界の壁を突破し、自身の力のみで《無間の闇》を渡る者。
あらゆる世界における魔術師としての頂点。
男はその頂きに立ち、隔絶した力量差にひれ伏す他の魔術師達をただ冷然と見下ろした。
それからすぐ、男は故郷であった世界を離れた。小さな世界という殻一つでは、彼の渇きを満たすことはできなかった。
そう、渇き。渇きだ。何かが足りない、自身の内に何処かが欠落している。
いつだってその感覚が付き纏う。それを埋めるための探求。魔道だけではまるで足りない。
「支配」という行為も、男にとっては実験の一つに過ぎなかった。
他者を支配し、そのすべてを余さず掌握することで観察を行う。魂を、人生を、一滴残らず鑑賞する。
そのどこかに、自分の渇きを癒すに足るものがあるかもしれない。
男は世界を渡り歩きながら、様々なものを支配した。
魔獣の多くは強大な魂を持つが、彼らはただ凶暴で本能に忠実なだけだ。
自身の手を汚さぬための手駒としては有用だが、観察対象としては不適切だった。
竜は古いものほど強い魂を持ち、その在り方も実にユニークだ。
しかし彼らは変化に乏しい。元々古き神の手で“変化”という事象がもたらされる前の、不変であったはずの生命だからだ。
人間は実に多様だが、それ故に当たり外れも大きい。
興味深い生涯を送る愚者がいれば、味のない人生しか知らない賢者もいる。
ただどれもこれも、男の渇きを癒すには足らない。一時の興は得られても、飽きればすぐに冷めてしまう。
足りない。足りないのだ。何もかもが足りない。
気が付けば男の身体は、この虚ろな《無間の闇》と同じ色に染まってしまった。
何もない。何もないから満たされない。それは嘆きか諦めか、男自身にもよく分からない。
あらゆる災禍とあらゆる成果を幾つもの世界に残しながら、支配という名の探求を続けてきた。
そして、見つけた。男はとうとうそれに出会った。
男の渇きを癒すに足るかもしれない、その美しきものに。
「……あぁ」
思い出して、男は笑った。笑うことなど、一体何時ぶりだろう。
「素晴らしい。素晴らしいな、アレは」
自らの作品を誇る芸術家のように、男は笑った。
「素晴らしい。私は何に惑っていたのか」
数えるのも馬鹿らしいほどの年月。無価値となった探求の日々を、男は笑った。
「アレこそが、私の求めたものだ。アレこそが、私の欲した真実だ」
果てしない熱砂で、冷たく湧き出る清水を見つけた放浪者のように、男は笑った。
「私のものだ。アレは、私が所有すべきものだ」
男は笑う。《無間の闇》を王の如く歩みながら、飛び去ってしまった青い鳥の姿に思いを馳せる。
美しい銀を宿した無垢なる魂。この手で地に落とした幼き神威。
その輝きを捕らえて、闇で黒く濁るまで支配したのならば、この渇きも癒されるだろう。
男は笑う。《黒き旅人》《夜と契約の支配者》《ヴィッテリアの隷属王》《冥界暴き》《魂喰いのサトゥルヌス》。
様々な世界を渡り歩き、様々な異名で呼ばれてきた大魔導師。
かつて、人だった頃の名――そしてもう呼ぶ者もいない名はザルガウム=ギア=ゲティアス。
「この手で再びお前に鎖を繋ぎ、その呼ばれるべき名を刻みつけよう。支配は私の手によって完成される」
ザルガウムは笑う。それは氷の亀裂のようであり、熱い溶岩が流れる地割れのような笑みだった。
支配下に置いた無数の魔獣達を従えて、魔術師は《無間の闇》を進んでいく。
一歩一歩、確実に。月が堕ちた世界を目指して。
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