第六節 女騎士の苦悩


 空を引き裂くように、雷鳴が轟く。

 稲光が走る暗雲の中を、翼を持つ長大な蛇が蠢いていた。

 その羽ばたきは稲妻を呼び、その鳴き声は暴風を招く。怒れる自然の化身であり、理不尽な災厄の象徴。

 とある世界においては《天を裂く大蛇ケツアルコアトル》の名で呼ばれた怪物。

 それが今、断末魔の叫びを上げていた。

 空を泳いでいた巨体がぐらりと揺れて、ゆっくりと力を失う。

 幾つもの槍に強靭な鱗ごと急所を貫かれては、如何に強大な魔物であろうと生きていられる道理はない。

 街を囲う城壁の上。地に落ちる怪物の最後を見届けながら、一人の騎士は小さく吐息を漏らす。

 美しく、何よりも凛々しい女性の騎士だった。背丈は百七十センチほどで、性別を考えればかなりの長身だ。

 豊かな胸元を使い込まれた胸甲鎧ブレストプレートで隠し、長い手足には不思議な紋様の刻まれた籠手と脚甲を帯びている。


「団長殿」


 見知った声。黒髪のポニーテールを揺らしながら、団長と呼ばれた女騎士は振り向く。

 眼帯で覆われた右眼ではなく、琥珀色の瞳を持つ左眼で声の主を見た。

 古馴染であり、周辺に出没した魔物の掃討を命じておいた騎士隊長の一人だ。


「こちらは粗方片付きました。後は取り逃がした魔物がいないか、付近を捜索中です」

「ご苦労。こちらも丁度終わったところだ」


 そう言って、騎士団長――フェリミア=アーサタイルは横たわる大蛇の骸を示した。

 強大な力を持った恐るべき《巨獣》。それをこの若き女騎士団長は、ほぼ一人で仕留めてのけた。

 改めてその力量を目の当たりにし、隊長は感嘆の声を漏らした。


「流石ですな、団長殿。貴女に敵う者など、王国は愚か《既知領域》全体を見渡してもそうはいないでしょう」

「……いや、そんな事はない。私はまだまだ未熟だ」


 偽りなき部下からの称賛を、しかしフェリミアは自ら否定した。


「私など、まだまだだ。あの程度の怪物、アルディオス様ならもっと容易く屠ってみせるだろう」


 この程度では、まったく足りない。多分に自重を含むフェリミアの言葉に、隊長は何も言わなかった。

 王国騎士団を束ねる騎士団長と、かつて神殺しを成し遂げた王国最強の大剣士。

 両者よりも大きく劣る隊長に、どちらが強いかなど答えようもない。

 何よりも客観的な評価をフェリミアが求めていないことを、長い付き合いからよく知っていた。


「………しかし、最近は特に多いですな」


 流れを変えようと、隊長は別の話題を向けることにした。


「《巨獣》の発生件数か?」

「ええ、ここは神々が死した魔境の地。我らは人界を守る盾と心得ていますが………」

「流石に多すぎる、か。《遠見師》達は何と?」

「大きな災厄が近づいている、とだけ。そんな事は、誰の目にも明白でしょうに」


 皮肉げに言いながら肩を竦める隊長の言葉に、フェリミアも頷かざるを得なかった。

 最初に異常が観測されてから十日。その間に騎士団は十頭近くの《巨獣》の発生を確認し、これを討伐していた。

 魔物の発生そのものは、別段珍しいことではない。

 いつ如何なる時でも、虚空より這い出した魔物や群れを成した《闇の血族》を撃退出来るよう、騎士団は常に備え続けている。

 しかし西の果てでもないのに《巨獣》が頻繁に現れる事は流石に稀だ。

 ましてそれが都市の近く。空間を安定させるための術式が何重にも施されているにも関わらずだ。

 この国で何かが起こりつつある。それは間違いない。


「今のところは死者や大きな被害もなく、発生した《巨獣》は仕留められていますが」

「連日の討伐に、部下達も疲弊している。状況が変わらぬままでは、士気にも関わってくるな」

「仰る通りです」


 何が問題なのかは分かっている。しかし解決のための糸口さえ見出せない。

 どうするべきかを思案していたフェリミアだが――ふと顔を上げる。


「そういえば、お前は十日前に《遠見師》達が読み取った空間異常に対処するため、西の森へ向かったのだったか」

「ええ、報告した通り。その際に現れた《巨獣》は、ほぼアルディオス様一人で討ち取られました」

「そ、そうか」


 アルディオス。十年が過ぎた今でも、他者からその名を聞くだけで心が揺れてしまう。

 咳払いを一つ。今は騎士団長として自らの務めに徹しなければ。


「その時、他に何か異常は? 今の事態に何か切欠があるとするなら、その時以外には無いと思うのだが」

「他の異常――ですか」


 問われて、隊長は自分の記憶を探っていく。

 あの時、彼は報告に戻るため《廃棄都市》とは背を向ける形で移動していた。

 そのため、空に打ち上がる虹色の光を見てはいなかった。


「残念ながら、特に思い当たることは」

「そうか………まぁ、それなら仕方がない。ただ、そう外れた予想ではないと考えている」

「ええ、それは間違いないかと」


 フェリミアの言葉を隊長も肯定する。手掛かりと言うには曖昧だが、それが藁であろうと手繰り寄せていくしかない。


「主だった部隊長達の中から三名、そして副長以下の騎士達の中から十二名。調査のための人員を選抜しろ。人選はお前に任せる」

「調査隊を、西に派遣されると?」

「そうだ。どんな危険があるかも分からん。騎士団の精鋭達であれば、選ぶ人員には困らんだろう」

「それは当然ですな」


 我ら騎士団の精強さを誇るフェリミアに、隊長も小さく頷く。


「しかし、宜しいので?」

「? 何がだ。問題でもあるのか?」

「いいえ、私も団長殿の意見には賛成です。十日前の空間異常、あれが現在の状況の切欠であるのは間違いないと」

「あぁ、今のところ手掛かりはそれだけなんだ。そこから調べていくのは当然だろう?」

「勿論。ただ調査隊の派遣に関しては、一つ意見が」

「聞こう」


 十年来の付き合いがある騎士隊長の進言を、フェリミアは素直に促した。

 自分としては最善な判断のつもりでも、所詮は経験も浅い二十歳そこそこの小娘だ。

 フェリミアの倍以上の場数を踏み、多くの死線を生き延びてきた部下の言葉は文字通り価千金だ。

 最終的な判断は騎士団長であるフェリミア自身がするにしろ、聞いておいて損することはない。


「団長殿自身が向かわれる――というのは如何でしょう?」


 そうしたら、予想もしていないような言葉が飛び出してきた。


「………なに?」

「いえですから、団長自身が調査に向かわれては、と」

「………理由は」

「アルディオス殿です」


 予想はしていても、受け止めきれない剛速球。

 ぐらりと揺れる乙女心をサラッと無視して、隊長はあくまで事務的な態度で言葉を続ける。


「我々はこの十日、都市近辺に出現した《巨獣》の対処に終始していました」

「あ、あぁ。そうだな」

「ですからその間、仮に西の森や《廃棄都市》で何か起こったのなら、アルディオス様が把握されておられる可能性は高い」

「う、うむ。尤もな理屈だ」

「なので、ここは騎士団長お一人でアルディオス様を訪ねられるのが宜しいかと」

「待て待て、何か話が飛んでないかっ!?」


 部下の前で狼狽するなど、誇りあるオリンピア王国の騎士団長としてあるまじきこと。

 それは重々承知しているのだが、そんな余裕はあっさりとはげ落ちてしまう。

 隊長はというと、動揺するフェリミアに何を言ってるんだと言わんばかりの態度でため息を吐く。


「良いですか、団長殿。もし仮に《廃棄都市》を含めた禁域で何か起こったのなら、アルディオス様の協力は不可欠です」

「そ、それは確かにそうだな」

「これ程の異常事態ですからな。我が国最高の英雄に助力を願う事は、何もおかしくはありません」

「あぁ、あの方ならば我らの助けとなってくれるだろう」

「だからこそ、団長殿が行くべきです」

「だから、何故そうなるっ」

「我らの中で、アルディオス様と釣り合う騎士は貴女以外にはおりません」


 ぐいぐいと押し込んでくる隊長に、フェリミアは強く否定を返す。


「私はこの国を守る騎士団の長だ。《巨獣》が次々と現れるこの異常な事態に、一人で果ての地に向かうなど……」

「《巨獣》の対処は我々にお任せ下されば宜しい。それは団長殿でなく、我々にも出来ることです」

「いや、確かにそれはそうかもしれんが……」

「団長殿」


 だんだんと子供の駄々に近くなってきたフェリミアに、騎士は少しだけ語気を強めた。


「十年前のことを、まだお引き摺りですか」

「…………」

「貴女は若く、未熟だった。私も同様に、月に向かった勇者達の列に加わるには力不足だった」

「…………」

「あの方は一人だけ生き残り、そして我々の前から去った」

「………もういい、分かっている」

「分かっているのなら、貴女が行くべき道理も分かるでしょう」


 十年。言葉にすればそれだけの事。まだ十年か、もう十年なのかは、その年月を刻んだ当事者にしか分からない。

 その両方を等しく感じながら、隊長は言葉を続ける。


「貴女も、アルディオス様も、どちらも国を守る大切な要だ。それが十年、言葉を交わす事すらせずにいるのは正常とは言い難い」

「………国のためか」

「国のためであり、貴女自身のためでもある」


 そう言われて、フェリミアはその場で少し俯いた。

 覚えている。忘れるはずもない。まだ従騎士スクワイアに過ぎず、弱く愚かだった頃の自分。

 あの狂った銀の月に向かう勇者達の中、最も慕っていた男の背を見送った過去を。

 討ち取った神に呪われ、異形となった肉体を隠すように騎士団から離れた彼を、引き止める事さえ出来なかった。

 自ら禁域の防人になることを選び、《廃棄都市》で一人孤独に生きる英雄。

 それを労うどころか、一度も顔を合わすことさえ出来なかったのは、紛れもなくフェリミア自身の弱さだ。

 分かっている。目を背けたくなるほど分かっている。

 分かっているのであれば、どうするべきなのか。それもまた明白だった。


「………今更、どの面を下げてあの人に会いに行けば良いのか」

「恐らく、向こうも同じ事を思っているでしょうな」


 どちらも相手が傷つくことと、自分が傷つくこと、その両方を同じぐらいに恐れている。

 本質的に、他人に対して臆病なのだ。それは同時に優しさとも呼べるものだが、過ぎてしまえば厄介の種だ。

 故にここは一歩も引かず、隊長は迷いを抱く騎士団長の背中を強く押してやる。


「国の守りは我らにお任せ下さい、団長殿。貴女はアルディオス様と共に、この事態の解決に尽力して頂きたい」

「………本当に、任せて大丈夫なんだな?」

「貴女は共に戦う我らの実力をお疑いになられますか?」

「いや、この世の何よりも信頼している」

「アルディオス様よりも?」

「ぐっ。………同じぐらいだ、同じぐらい!」

「光栄の至りですな」


 からかうように笑う隊長に、フェリミアは赤く染まった顔を抑えながら呻いた。

 あの人に、アルディオスに会える。そう考えるだけで浮かれてしまう自分が恥ずかしかった。

 十年。もう十年だ。十年も、あの人の声を聴いていない。あの人の手に触れていない。

 自分は強くなれただろうか。あの夜のように、あの人の背を見送らずに済むぐらい強くなれただろうか。

 ぐるぐると、十年分の複雑な感情が頭の中を回っている。

 今まで意識して抑えていた分、一度吹き出してしまえば後は止まらない。


「………な、なぁ」

「なんでしょうか」

「本当に、行っても大丈夫だと思うか?」

「こちらはお任せ下さい」

「いや、アルディオス様のご迷惑にならないかと………」

「団長殿で迷惑なら、我らが行ってもただの足手纏いでしょうに」

「いやこう、戦力的な意味ではなく、唐突に若い女が男の住まいを訪ねるのは、一般的にあまり良くないのではないかと………」

「団長殿」

「そうだ! ここはやはり書面に認めた上で、先ず正式な書簡を送って知らせた上でだな………!」

「落ち着きなさい」


 普段は誰よりも強く、如何なる怪物が相手でも先陣を切って戦う勇ましき騎士団長、フェリミア=アーサタイル。

 しかしその素顔は、まだ年若い一人の乙女に過ぎないのだ。

 停滞してるフェリミアとアルディオスの関係を慮り、良い切欠だと押してみたのだが………。


「そ、そもそも、アルディオス様は私のことなど覚えていてくださるかどうか………いやいやそんなことは、まさか………流石に………」


 弱気の虫に振り回され、普段では考えられないような奇態を見せる団長に、隊長はそっと周囲の様子を伺う。

 幸い、城壁に立つ見張りもこちらを見てはいないようだ。見て見ぬフリをしてるだけかもしれないが。

 ――今日この事は、自分の胸にしまっておこう。

 そして何もかもが上手く行った後に、酒の席での肴にでもしてしまおう。

 黙って団長が落ち着くのを待ちながら、隊長はそんな未来が得られることを、心から願っていた。


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