第十六節 前夜


 王都オリンピアの中心《不夜の城塞》は、その名が示す通り夜が訪れても決して眠る事はない。

 神が死した後、数々の災厄が降りかかる禁域となった地の防人として、その城は常に絶えることのない火を掲げている。

 そしてそれは決して形だけのものではない。

 第六代国王であるバイバルス王もまた、城の絶えぬ火と同じく一日の大半を眠らずに過ごす。

 既に歳は五十近いが、鍛えられた肉体からは未だ精強さは失せてはいない。

 壮年を過ぎて初老に入っているにも関わらず、彼は王であると同時に国を守護する戦士の一人でもあった。

 眠らぬ城塞に在り、王都守護を担う近衛達と並ぶ最強戦力の一角。

 常ならば、王は揺るぎない絶対者として玉座に着き、何事にも動じない鋼の精神で己の役目に徹し続けている。

 しかし、この夜だけは僅かに異なっていた。

 王の身体からは疲労に近いものが滲み出て、その視線は深い憂いを帯びている。

 華美さは殆どない、質素な謁見の間にて。その場にいるのは眠らぬ王と、その両脇を固める近衛の戦士。

 そして王の前に跪き、頭を垂れる王国騎士団の長、フェリミア=アーサタイル。

 緊急時以外の使用は禁じられている転送陣を用いて、彼女が真夜中の王城へと駆け込んできた理由。

 それは王であっても容易くは受け止めきれない、衝撃の事態であった。


「………フェリミアよ」

「はっ」

「もう一度、確認するが。………お前は本当に、アルディオスを討とうと言うのだな?」

「王に向ける言葉に、私は偽りを含めません。全ては事実、後は王の許しさえ頂ければ」

「………そうか」


 我知らず、ため息が溢れる。

 国を預かる王が弱気を見せるなど、本来あってはならない事だ。

 あってはならない事だが、そんな簡単な自制も出来ない程に王は強く動揺していた。


「新たな神が、降り立ったと言うのだな」

「はい」

「そしてそれを、アルディオスが秘匿し、あまつさえ討ち取る事を拒否した、と」

「はい。当人から直接確かめた故、間違いはないかと」

「………あのアルディオスが、か。救国の英雄にして、あの銀の月を墜とした男がそのような………」


 十年前、彼が月から戻り、そして最果ての地へと姿を隠してしまってからの事を、王は詳しくは知らない。

 王にとってアルディオスは戦友であり、掛け替えのない友の一人だった。

 そんな男が騎士団を離れて《廃棄都市》で番人の役を請け負う事を決めた時、王は黙って見送る事しか出来なかった。

 彼があの月夜に何を思い、何を失ったのか。それは当の本人にしか分からない。

 その傷は他者が軽々しく触れるべきものではない。そう考えたから、王は何も言わずに彼を見送った。

 あれから、十年。あの男は英雄として、何も変わる事なく国を守る為に剣を振るっていると信じていた。

 いや今この時も、それは揺るぎない事実だと王は確信していた。

 アルディオスはそういう男だ。十年という歳月で、容易く変わる事など有り得ない。

 しかし、フェリミアが語る言葉が嘘とも思えない。

 彼女もまた、王にとっては最も信頼すべき騎士の一人であり、言葉にはしないが娘のように大事に思っている。

 覚悟で固めた刃の如き表情と、稲妻のように鮮烈な決意を込めた声。

 フェリミアは本気だ。本気で、恩師であり想いを寄せている男を討つと決めていた。


「勝てるのか、あの王国最強の大剣士に」

「勝ちます。勝たねばなりません」

「この《既知領域》でも五人しかいない、《封神到達者》の一人でもある」

「彼を討つ事は、あくまで障害の排除でしかありません」


 跪いたまま、フェリミアは淡々と王の言葉に応じる。

 感情を削り落とし、自己を削り落とし、ただただ無心に「王国騎士団長」としての自分を研ぎ澄ましていく。

 この身は今や一振りの剣。王国を、この《既知領域》に住まう民を守る為に、全てを削ぎ落とした冷徹なる刃。


「彼を―――アルディオスを討ち取った後、そのまま我が騎士団の総力を結集し、彼の神を滅ぼします」

「………封神に至る事を目指すか、フェリミア」

「あの神の力は凄まじい。月神の時のように無差別に被害を広げる事はありませんが、破壊力だけで言えば桁違いです」


 直接この目で見たからこそ断言できる。

 強大無比なエルダー級のドラゴンでさえ、抵抗の余地なく一撃で葬り去ったあの光。

 あれがもし、街の方へと向けられていたらどうなっていたか。

 数百―――いや数千という生命が、ただの真っ白い灰となって消えていく。

 それが出来るのが神だ。それが出来てしまうのが、物質としてこの地に降り立った神という存在なのだ。

 討たなければならない。例えこの身が呪われる事になろうとも、封神に至る必要がある。

 迷いはない。フェリミアは断言した。


「どうか、ご裁可を。陛下の許しさえ頂ければ、私は私が持てる全能力を用いて、封神の領域へと至ってみせます」

「…………」


 フェリミアの言葉に、王は即座に答える事は出来なかった。

 瞼を閉じ、祈るように手指を絡める。事実、王は祈っていたのかもしれない。

 物質化した神に引き裂かれたこの《断片世界フラグメント》で、果たしてその祈りにどれほど意味があるのかは知れないが。

 沈黙はどれほど続いただろう。祈る時間も、悩む時間もそう多くはない。

 決断が必要だった。騎士が既に決めている通り、王たる身もまた選ばねばならない。


「………どのように行う?」

「アルディオス様………いえ、アルディオスの討伐は、私一人で行います。その後に、騎士団の精鋭で以て神に決戦を挑むつもりです」


 王国最強の大剣士。銀の月を墜とした大英雄に、たった一人で挑む。

 それは無謀な行いであるのか。フェリミアもまた、王国最強の名を頂く者の一人。

 僅か六名しかその称号を与えられない王都守護達と並ぶ、オリンピア王国の武の頂点に立つ者の一角。

 その実力に疑う余地はない。あるいは、王自身やその両脇に立つ近衛戦士の二人よりも、フェリミアは強いかもしれない。

 かつての師を乗り越えるという偉業も、彼女であれば成し遂げる可能性は十分にある。

 故に王も、一つの決断を下す。はっきりとは口にせず、フェリミアの言葉に小さく頷く事で答えた。


「ならば、お前の好きにせよ。我が騎士フェリミア=アーサタイル」

「ありがとう御座います、陛下」

「良い。騎士団が健在である限りは、王国の武とは即ちお前達の事だ。我らは王都の守護、国を守る為に“切り捨てる”事を選ぶ側」


 王都守護とは、如何なる災厄が起きようとも国の中枢だけは守り通す為の最大戦力。

 座して動かぬのではなく、座したままでいる事に意味がある。

 だが騎士団は違う。彼らは取り零さぬ為に戦う者達。犠牲を最小限に留める為に、己が生命を刃に戦う。

 眠らぬ王は、全幅の信頼を寄せる若き騎士団の長に、その役目を十全に行う為の言葉を与えた。


「オリンピア王国六代国王、バイバルスの名において命じよう。フェリミア、騎士団の長として思う様に戦うが良い」

「はい。必ずや、王の御期待に応えてみせます」


 もう一度深々と礼をしてから、フェリミアはその場から立ち上がる。

 王の決定は下された。必要な儀式を通過した事を確認し、フェリミアは踵を返す。

 それ以上何も言うことはなく、王は立ち去る騎士団長の背を見送った。

 かつての友と、娘のように思う相手が刃を交える事に、王がどれほど胸を痛めているのか。

 分からないフェリミアではない。それでも、退くわけにはいかなかった。

 分厚い扉を押し開き、謁見の間の外へ出る。

 暫く廊下を進んだ先に、見知った顔が幾つか待ち構えていた。

 フェリミアが信を置く、古参の騎士隊長達だった。


「………団長殿、王は何と」

「許しは得た。好きにせよと」

「ならば、本当に………?」

「あぁ、アルディオス様………いや、アルディオスを排除し、あの恐るべき神を討ち取る」


 ざわりと、抑えがたい動揺が騎士達の間で広がった。

 無理もない。彼らの多くもまた、十年より前から騎士として戦い続けてきた者達。

 誰もがアルディオスという男を知り、彼に信頼を寄せてきた。

 鉄心で知られる王でさえああだったのだ。動揺するなと言う方が難しい。


「………分かりました。しかし、お一人では無理です」

「何度も言っただろう。我らの最終的な目標は、降り立った神を滅ぼす事。その前に戦力を削る愚は避けたい」


 フェリミアが一人でアルディオスに挑む。

 それは他の騎士達も、予めフェリミア本人から聞かされていた事だ。

 聞かされた騎士の大半が、そんな騎士団長の決定に反発した。

 一人では無理だ。あの大英雄相手に、単独で挑むなど無謀に過ぎると。

 しかしフェリミアは頑としてその諫言を聞き入れなかった。


「私なら勝てる。アルディオス様は………いや、アルディオスは、私が一人で討ち取る」

「…………」


 固い決意は揺るぎそうもない。

 そう悟った騎士達は、それ以上は何も言う事が出来なかった。

 リンベルでの現場に立ち会った者も、そうでない者も、一様に同じ思いを共有していた。

 フェリミアにとって、アルディオスはある意味では家族以上の存在だ。

 そんな相手を自分の手で討ち取ると決めるまで、どれだけの葛藤があったか。

 何も言えない。言えるはずもない。

 騎士達は団長の決定に無言のまま肯定の意を返した。


「………すまないな、皆。だが、これは必要な事だ。私一人で彼を討ち取る事が出来れば、封神もより容易となる」

「勝算はあるのですか?」

「ある。………あの神は恐るべき破壊力を秘めているが、肉体的には恐らく人間とそう変わらない」

「つまり、攻撃が届きさえすれば………」

「滅ぼせる。神であろうと、生命として身を結んだ以上は物理的に死ぬ」


 ならば討ち取れる。仕留め損なえばどれほどの被害が出るかも分からないが、それでもやる他ない。


「英雄殺しの罪と、神殺しの罪。叶うなら、それは双方とも私が背負うつもりであるが………」

「団長殿」


 若き騎士団長の硬い声に対し、言葉を被せるように騎士隊長達が言う。


「団長は責任感が強く、それでいてなかなか我が儘な御仁である事は、我ら一同よく知っています」

「ですが―――いえ、だからこそ、頼れる時は我らを頼って下さい」

「あぁ、団長殿が決めたのならその通りになされば良い。我らは騎士として、その決定に従いましょう」

「背負われるなら結構。しかし、どうにも背負いきれそうにないのであれば、我々がお節介を焼く事もお許し下さい」


 丁寧に言いながらも、笑って肩を叩く者。親指を立ててみせる者。反応は実に様々だ。

 フェリミアは少し呆気に取られてから、滲むように微笑みを浮かべた。


「どうにも、苦労ばかり掛けてしまっているようだな。本当にすまない」

「いやいや何の。我らが麗しき騎士団長殿の為ならば、例え火の中水の中!」

「年寄りが無茶な事を言っておるなぁ。ギックリ腰になっても知らんぞ? ん?」

「侮辱するか貴様………! 決闘か、決闘だな!?」

「お前ら、明日にはもう大一番だから無茶な事するなよ………」

「まったくだ。それに此処は王城だぞ? 余り騎士団長の私に恥を掻かせてくれるな」


 本気なのか場を和ませる冗談なのか、イマイチ判断のつかない騎士達のやり取りにフェリミアは苦笑する。

 ただ少なくとも、重苦しかった胸の内が少しだけ軽くなった気はした。

 明日。夜空に漂う銀月の欠片が見えなくなり、太陽が空に昇る頃には戦いが始まる。

 アルディオス。あの人と戦わねばならないという現実は、決意で固めたはずの心でも軋みそうになる。

 それでも、自分で決めた事だ。王の許しも得て、支えてくれる部下達もいる。

 剣は鞘から抜き放たれた。騎士団の長として、後は無心にその役目を果たすのみ。


「…………」


 ふと、フェリミアは足を止めた。

 王城の窓から見える夜空。そこに浮かんでいるのは、銀の欠片を纏う月。

 淡い光には十年前のような狂気はなく、ただ穏やかな優しさだけが感じられる。

 彼も、同じ月を見ているのだろうか。彼と共にいる少女も、同じ月を見ているのだろうか。

 ―――もしかしたら自分も、同じ場所で、同じ月を見ていたのではないだろうかと。


「………いや」

 それはもう、有り得ない未来だ。彼女自身が捨ててしまった温もりの残滓に過ぎない。

 過去の面影を振り払って、フェリミアは再び歩き出す。

 この夜が明ければ、何もかも終わる。

 それが良い事であるのか、悪い事であるのかは分からない。

 分からないままに、時だけは過ぎる。二人の刃が交わる、その瞬間まで。

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