第一章 月の墜ちた街で

第一節 廃棄都市の騎士達

 

……星の光を呑み、太陽の輝きを塗り潰しながら、その神は姿を現した。

 誰もがそれを見ていたが、次の瞬間にまだ見続ける事が出来た者は殆どいなかった。

 遥か遠く“無間の闇”の果てから来る者。その者に呼び名は無く、後の人々はただ“狂える月の神”とだけ称した。

 人間の生存が許された僅かな《既知領域テラ・コグニタ》、その西端。“虚空の断崖”から、その月は静かに天へと上った。

 自然にはあり得ない銀色の月。すべてを狂わす権能を持った月神。

 降り注ぐのは、同じく銀色を宿した淡い月光。それを浴びた者は人も魔物も例外なく狂った。

 都市一つが容易く壊滅し、狂気に蝕まれた魔物達の暴走によって、更に甚大な被害がもたらされた。

 その狂乱の宴の中心にて、月の神はただ静かに輝き続ける。生き物の心も、自然の摂理さえも捻じ曲げながら。

 すぐさま、《既知領域》に版図を持つ五つの国家は手を結んだ。

 世界に《厳冬の時代アイスエイジ》が訪れて八百年。“降臨”した神格がどれほどの災厄を招くか、知らない者はいない。

 月神に対抗するための手段は幾重にも編まれ、人類が用意できる最大の戦力がそこに集った。

 時が立つ程に深刻さを増していく神威災害を前に、僅かばかりの猶予もなかった。

 災禍の元凶である“狂える月の神”。銀色に輝く月へと彼らは乗り込んだ。


 それが、今から十年前の事。



 まだ入団して日の浅い若き騎士達にとって、十年前の《月堕ムーンフォール》は半ば伝説と化していた。

 数多の勇者を犠牲として積み上げた戦い。夜天の幕は焼け落ちて、銀の月は地に墜ちて砕けた。

 王国中の名のある詩人達はこぞってその奇跡を歌い上げ、今も多くの人々がその御伽噺を耳にしている。

 そう、御伽噺。直接それを知らない者達にとって、その偉業は御伽噺の類だ。

 今、西方の禁域に広がる深い森を疾走する騎士達とて、その辺りの認識に大きな差はない。

 知識としては知っている。この魔物が跋扈する森林を越えた先に、“狂える月の神”が死した廃墟の街があると。

 本来の名も忘れ去られた《廃棄都市》。神の降臨と死、それによる深刻な空間異常を抱えた禁断の地。

 全身に纏った甲冑、その胸元に《オリンピア王国》を示す剣の紋章を掲げる騎士達。彼らが目指している目的地でもあった。

 かつての伝説が生まれた場所、そこへ自ら足を踏み入れる事に高揚はしている―――が。


「正直に言って半信半疑……と言った様子だな」


 四人一組。騎士小隊を率いる小隊長は、振り向きもせずに若き騎士達の胸中を読み取った。

 カチャリと、やや遅れた位置につく騎士の鎧が微かに音を立てる。上司に本音を言い当てられ、思わず動揺してしまったのだ。

 余計な雑音は魔物を招き寄せる原因となる。迅速な行動が求められる現状、それは任務遂行の妨げになりかねない。

 故に完全な身体制御により、身に帯びた鎧は無音を保てと命じられていた。

 それをたった一言で破らされてしまった。若き騎士は己の未熟を深く恥じ入った。


「申し訳ありません、隊長。罰は如何様にも」

「良い。私も意地悪を言ったという自覚はある」


 木々の隙間を抜け、魔物が通ったであろう場所を事前に察知し、それを迂回して避けていく。


「十年。言葉にすればそんなものだが、実際には長い年月だ。当時を知らない子供もいるし、若い連中では記憶も曖昧だろう」

「隊長は、その時は?」

「今のお前達と同じぐらいだ。二十歳そこそこの、駆け出しの騎士だった」

「俺たちと同じように、隊長にどやされたりしていましたか?」

「あぁそうだ。当時はムカッ腹を立てていたが、この歳になるとあの時の隊長の気持ちがよく分かってくる」


 部下の軽口に乗っかる形で、隊長は笑いながらそんなことを言った。

 釣られて他の部下達も笑っている。だが隊長は、すぐに笑みを消して重い事実を口にした。


「その隊長も、あの月の戦いに参加して、そのまま帰ってこなかったがな」

「…………」


 伝説。御伽噺。あるいは胸躍る英雄譚。当時を知らない若い騎士達にとって、それはその程度の事だ。

 自分には無関係な、ただ通り過ぎてしまっただけの過去。

 当事者であった隊長は、知る者にしか出せない重みを込めて言葉を続ける。


「隊長だけじゃない。いや、月の戦いに直接行った人達以外にも、山ほど死んだ。俺の同僚もそうだ。何人も、あの月の神のせいでくたばった」

「……そんなに、酷かったんですか?」

「少なくとも、詩や本じゃ全部は伝えられない程には酷かったな。言葉でも、文字でも足りない。

 俺たちが今向かっているのは、その地獄の窯の底だった場所だ。一万人いた住民が、一人残らず死んだ都市の残骸だ」


 記録は色褪せる。けれど、地獄を垣間見た者の記憶が消えることはない。

 当事者にとってはもう十年ではない。まだ十年なのだ。そんな僅かな時では、刻みつけられた傷は癒えない。


「今から行くのは、そういう場所だ。お前達まで重く受け止めろとは言わないが、その事だけは忘れないでくれ」

『了解しました、隊長』


 声を揃えて応答する部下達に、隊長は大きく頷いた。


「よし。《空間針》に異常は?」

「今はまだ正常値の範囲内です。今回の《遠見師ウォッチャー》の予測は正確なようですね」


 騎士達はそれぞれ、懐に入れてある懐中時計に似た機具に目を落とす。

 最初の神威災害、境界の神によって引き起こされた《天墜ヘブンズフォール》から、この世界の空間は酷く不安定となってしまった。

 あらゆる事象の境界線を司っていた神。彼の神格は、世界を保つ枠組みを大きく引き裂いたのだ。

 以来、かつては存在しなかった“魔物”と呼ばれる怪物が虚空の彼方より現れ、人々を脅かすようになった。

 大きな空間異常の前兆を察知する《遠見師》や、周辺の空間に何かしらの異常が起こってないかを確かめる《空間針》。

 どちらも過酷な《厳冬の時代》において、人間が生存を続けるために編み上げてきた努力と叡智の結晶であった。


「生命を預けるものに信頼を置けるというのは大事なことだが、例外はいつだって落とし穴になる。

 間もなく《廃棄都市》が見えてくる。事が起こってしまう前に、可及的速やかに“あの方”とのコンタクトを済ませるぞ」


 隊長の言葉に、騎士達は思い思いに頷く。

 幸い、魔物との偶発的遭遇もなく、彼らは森林を抜けて目的の場所へと至る。

 眼下に広がるのは、横たわる死骸の群れ。かつては一万人の人間が生活していたはずの大都市、その残骸。

 以前は境界の神が現れた始まりの地であり、今は月の神が墜落した終わりの地。《廃棄都市》。

 人間が住むには困難なレベルの空間異常が頻発し、強力な魔物が多数発生する《既知領域》中で最も危険な場所の一つ。

 過去の記録とは違う。今現在起こっている災厄として、若き騎士達もそれを認識している。

 故に半信半疑だった。伝説であり、御伽噺の類としか思えない。


「……この場所で、たった一人で十年。十年間、魔物を殺し続けてる防人がいる、なんてな」



 そうして、都市に入った騎士達は、すぐにその「伝説」と遭遇する事になる。

 最初は魔物の類かと誤認し、戦闘体勢に入ろうとした若い部下達を、隊長である騎士は片手で制した。

 街の中心部から現れた者の姿は、確かに異形のそれだった。隊長が知る頃とも、大きくかけ離れてしまっている。

 けれども見間違うはずもない。かつて夜の空に見送った英雄、その最後の生き残りの姿を。


「突然の訪問、お騒がせする事を平にご容赦願います」


 鎧の胸元に刻まれた紋章。心臓の位置でもあるそこに手を当てて、隊長は最敬礼の姿勢を取る。


「…………」


 それに対し、“彼”もまた同じように己の胸に手を当てて敬礼を返した。

 身に纏う鎧に紋章は刻まれていなかったが、誇りをその手に掴む者への礼儀までは忘れていなかったから。

 両者の空気にやや気圧されながらも、若き騎士達は彼の姿をもう一度確認した。

 大きい。人間ではありえないような巨躯。恐らくは三メートル近くはあるだろうか。

 全身を分厚い鎧で固めているが、その下にある身体はそれにも負けない筋肉の鎧で覆われている事が容易に想像できる。

 驚くべき事は、重厚な鎧を身に付けているにも関わらず、動いてもまったく音を鳴らしていないことだ。

 背には二メートルはあろうかという大剣も背負い、腰のベルトには無数の投剣。左腕には太い鎖まで巻きつけてある。

 それなのに、金属が擦れあう音すらない。自らの動作、姿勢を常から完全に制御している証だ。

 もう一つ、大きく目を引くものがある。男の顔―――正確には、その頭。

 顔は兜で完全に覆い隠してしまっているため、表情も伺えない。そして隠そうにも隠しきれない明確な異形。

 角だ。一対の角。赤黒い色をした、明らかに兜の飾りとは異なる太く曲がった角。

 勇壮な雄牛が持つような立派な角。しかしそんなものは、人間の頭から生えるはずのないものだ。

 その姿はさながら《迷宮の魔人ミノタウロス》。廃墟の都市を闊歩する様は、人ならざる怪物を思わせる。


「…………」


 視線に気付いたのか、角の男は僅かに顔を動かして若い騎士達の方を見た。


「っ、し、失礼しました!」


 慌てて、騎士達も隊長と同じ敬礼の姿勢を取る。

 怪物じみているのは、その異様な外見だけではない。ただの一瞥だけで、彼らは等しく理解していた。

 年若く、まだ十分に経験を積んでいないとはいえ、騎士団に正騎士としての席を持つ彼らは紛れもないエリートだ。

 有事の際は誰よりも先に敵の前に立ち、例え生命が尽き果てようとも戦い抜く。

 それだけの覚悟があり、その生命を無為な犠牲にしないだけの研鑽を重ねてきている。

 だからこそ一目で理解する事ができた。目の前に立つ男こそ、彼らも知る「伝説」そのものなのだと。

 圧倒的なまでの力量差は、見上げた空の高さを目算で図るに等しい行いだった。


「…………」


 少しの間、若い騎士達を眺めるように見てから、角の男は軽くその手を挙げてみせた。

 一瞬の空白。どういう意味の動作であるのか、騎士達は考える。

 恐らくは「楽にしていい」とか、そういうニュアンスのように思えるが、言葉に出していないので判断しかねた。

 助けを求めるような視線を受けて、隊長は苦笑しながらその推測が正しい事を肯定する。


「どうにも、まだ日が浅く不慣れなもので。お見苦しいところをお見せして申し訳なく思います、アルディオス様」


 隊長の言葉に、角の男―――アルディオスは小さく首を横に振った。

 気にしていない、ということだろう。話したい事は幾らでもあったが、隊長はそのまま本題に入る。


「今朝方、騎士団の《遠見師》がこの《廃棄都市》近辺にて、大規模な空間異常が発生する前兆を捉えました」

「……予測は?」

「最低でも《巨獣グレータービースト》、都市破壊級の災害が起こるだろうと」

「そうか」


 アルディオスはそれだけで用件の主旨を理解したようだが、隊長は己の義務として言葉を続ける。


「本来であれば、この《廃棄都市》周辺はアルディオス様が管理する領域。騎士団長殿も、全幅の信頼で以て貴方に任せておられます。

 ただ、今回の予測範囲は禁域の外側も入っており、無礼は承知ながらも、担当する我々が判断を仰ぎに来た次第です」

「…………」


 隊長の言葉に、アルディオスは無言。果たしてその兜の下では、如何なる感情が秘められているのか。

 答えは返さぬままに、有角の騎士は動く。隊長やその部下達の脇を抜けて歩き出したのだ。

 驚き、戸惑う騎士達の気配を察してか、またすぐに足を止めて振り向く。

 そして一言。


「行くぞ」

「……承知しました。ご協力に感謝を」


 都市一つを破壊するだけの力を持つ魔物、《巨獣》。そのレベルの怪物が出現したなら、騎士達だけでは心許ない。

 仮に討ち取る事はできたとしても、四人全員の生命を代価にする必要が出てくる。

 アルディオスもまたそう判断した。故に、自分も討伐のために同行すると。


「(相変わらず、言葉の少ない方だ)」


 話す事が嫌いなわけではない。ただ、言葉を長く語るのが苦手なのだ。

 隊長はその事を知っていたし、それが原因で目の前の英雄が誤解されやすい事も知っていた。


「位置は」

「ここに来るまでの道中、怪しい場所について幾つか目星を付けています」

「十分だ」

「案内はお任せ下さい。――お前達も行くぞ!」


 隊長の一喝に、三人の部下達も動き出す。アルディオスの隣に隊長が並び、部下の騎士達はその後に続く。


「こんな機会は滅多にない。余所見をしないように注意しておけ」


 誇るように、隊長は騎士達に言う。いや、ようにではない。心の底から誇っているのだ。

 彼が知る限りの最高の英雄。狂い月の神を墜落させた、世界でも五人しか存在しない《封神到達者ゴッドスレイヤー》の一人。


「我が国最強の大剣士、アルディオス=バラントの戦いを間近で見られる機会など、そうはない。見逃さぬよう、よく目を開いておくんだ」


 この《オリンピア王国》に生きる者であれば、誰もが知っている伝説の名。

 御伽噺の中だけの話ではなく、確かに現実として目の前にいる。アルディオス=バラント。

 それに憧れたからこそ、騎士の道を志した者も多い。抱いた思いは違えども、三人の騎士達も例外ではなかった。


「共に戦える事、何よりの名誉と致します」

「無様なところは見せられないな!」

「それはいつもだろう。隊長に後で説教されるんだ」


 違いない、と騎士達は笑い合う。これから死地へ向かうと理解しながらも、熱い感情に胸が躍る。

 最初はその異形に驚きながらも、目の前の相手が伝説そのものであると知り、無邪気にその思いを言葉にした。

 隊長はそれを、安堵と共に見ていた。彼らは若く、その感性は柔軟だ。

 それから傍らに立つアルディオス本人を見た。自然と見上げる形となり、兜に覆われた表情を伺おうとする。


「…………」


 アルディオスは、何も言わなかった。向けられる憧憬の念を、不快に思っているわけではない。

 それだけしか、隊長でも読み取る事はできなかった。

 兜に隠されている表情までは、推し量ることはできなかった。


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