第三節 壊せないもの
その一撃を防ぐ事ができたのは、幸運以外の何者でもない。
たまたま剣を構えたところに正面から打ち込まれたので、ギリギリ反応が間に合った。
弾き散らされた虹色の輝きが、太陽の下をくぐるように空を斜めに貫く。
少女は――少女の姿をした神格は、目の前の結果に驚いた様子で目を丸くしている。
その隙をアルディオスは見逃さなかった。
駆ける。大剣を肩に担ぐように構えて、両者を隔てる空間を一気に潰す。
一瞬も無駄にできない。「戦争」を司る類の軍神であればそう容易くはないが、先ほどの攻撃は明らかに戯れによるものだ。
相手が戯れ事だと思っている間に、一撃で仕留める。
「わ」
渡り鳥よりも速いアルディオスの踏み込みを、しかし少女の紅い瞳は捉えていた。
驚きのままに愛らしい声を上げて、可憐に微笑む。
その周囲の空間に幾つもの波紋が広がるのと同時に、アルディオスは大きく地面を蹴り飛ばした。
アルディオスは大きく横に飛んだ。その脇腹の辺りを掠めるようにして白いものが貫いていく。一体それは何か。
腕だ。白い腕。少女のものとそっくりな、細く美しい腕。
無論、それは少女自身の腕ではない。アルディオスの眼はその異形を見ていた。
少女の周りの空間から突き出す白い腕。肘などの関節が存在せず、軽く十メートル以上は伸長している。
それが五本、まるで蛇のような動きを見せながらアルディオスに襲いかかったのだ。
「 」
歌う。少女は歌っている。
人ならざる歌を。まるで空を楽器としているように、歌声は高らかに響く。
その歌に合わせて、異形の腕が踊る。大きく開かれた繊細な指が、廃墟の一つに接触した。
音もなく、腕は廃墟の壁をすり抜けた。違う。すり抜けたのではない。
さらりと砂のようなものがこぼれ落ち、腕が触れた部分だけが綺麗に抉れていた。
自然にはあり得ない破壊痕に、アルディオスは小さく唸る。
どういう原理かは分からないが、あの腕に触れたものは問答無用で塵に変えられてしまうらしい。
そんな恐ろしい大蛇が五つ、地面や建物を抉りながら背後から迫ってくる。
走りながら、アルディオスは少女の様子を見た。
相変わらず花畑の前で、極光のヴェールを纏いながら歌声を響かせている。
少女もまた、アルディオスのことを見ていた。両者の視線が絡み合い、すぐに離れる。
「ふっ……!」
アルディオスは地を蹴り、大きく跳躍した。
突然の行動に進路を変えられず、勢い良く通り過ぎていく異形の腕。
それは一顧だにせず、手にした剣の切っ先を下に向けながら着地に備えた。
眼下にあるのは一軒の家屋。元々人が住んでいたはずの屋根を、剣で突き破りながら落下する。
床を踏み抜き、手近な壁をすぐさまぶち抜いて外へと飛び出す。
その直後、家屋が一気にバラバラに砕け散った。アルディオスを追って、あの腕が突撃したのだろう。
しかし家を砕くばかりで、腕はアルディオスの後を追っては来ない。見失ったようだ。
道を走りながら、アルディオスは己の予想が当たっていた事を確信する。
あの少女に似た神格は、ほぼ人間と変わらないその肉体の通り、五感によってこちらを知覚している。
五感に頼る必要がないのであれば、あの異形の腕もすぐさま追ってくるはずだ。
不意打ちや奇襲が通じる。そう判断し、アルディオスは走った。
如何なる神が、如何なる理由でこの地に降臨したのかは分からない。
だがこれは紛れもない神威災害だ。物質として降り立った神の恐ろしさを知らない者はいない。
――神とは、世界を司る者。あらゆる事象には神が宿っており、各々が持つ権能によって世界を回している。
風には風の神が。火には火の神が。神々は形を持たず、世界に宿る魂そのもの。
それが最初に形を成してしまったのが、千年ほど前に起こった始まりの神威災害《天墜》。
人と竜、そして神。世界に生きる全ての者達を巻き込んだ《
その終わらない戦いを終わらせるために、当時は霊体としてしか現れなかった神に肉体を与えようという試みがあった。
それが“降臨”。神の力を借りるだけの人や竜同士では争いは泥沼になるばかり。
神が己の持つ権能を直接振るうことで、《長すぎる大戦》に終止符を打つ。
そのために“境界の神”が招かれた。あらゆる境界を司るその力で、争い合う者同士を隔てる憎悪や怨恨を取り払う。
そう望まれたはずの神格が最初に行ったのは――皮肉にも、世界を滅ぼしてしまう事だった。
神は荒れ狂った。肉体を持つはずのないものが、突然肉体を得ればどうなるか。
誰も、“降臨”を行った術師や、“降臨”した神自身もそれを分かってはいなかった。
そうして《天墜》が起こり、世界には《既知領域》と呼ばれる僅かな生存圏しか残らなかった。
境界の神が残した爪痕は深く、世界を隔てる壁は大きく歪んだ。
魔物の出現を始め、何処かより現れた神威が“降臨”するという事態も何度か起こった。
その度に世界は大きな破局を迎え、神威災害は《厳冬の時代》における災厄の象徴として人々の心に刻み込まれた。
そう、降り立った神とは人類にとって滅びそのもの。それを望まぬのであれば、抗うしかない。
神は強大ではあるが、物質としての身体を持つ以上、物質としての欠点にも縛られる。
五感に関してもそうだ。神とて完璧ではないと知る事が、その偉業へと到達するための第一歩となる。
故にアルディオスは走った。かつて月の神を堕とした英雄。《封神到達者》。
家屋に飛び込んでから殆ど間を置かず、アルディオスは再び中央の広場へと飛び込んだ。
少女の姿をした神は、その場に動かないまま視線を巡らせている。アルディオスのことを探しているのだ。
その瞳が自分を写すよりも早く、神殺しの英雄は駆け抜けた。
不意に、少女が纏っていた虹色のヴェールが膨らむように大きく広がった。
それは少女が持つ権能の一つ。触れるものを白い灰へと焼却する破滅の極光。
本体である神格自身が気付かずとも、それは向けられた敵意に反応して自動的に襲いかかる。
自らの力が発動したことで、少女もまたアルディオスの存在に気付いた。
弾かれるように、その眼を向ける。紅い瞳を見開いて、少女はその光景を見た。
触れるものを焼却するはずの極光を、剣のひと振りで突き破る。二重、三重と、さらに輝きが重なる。
神速で振るわれる剣はそれをものともしない。光の飛沫を散らせて、有角の剣士は走る。
「あ」
その姿に、少女は歌を忘れていた。聴く者に死をもたらす歌は聞こえない。
大いなる賢人の手で鍛えられ、月の神を斬ったことで条理の外の存在となったアルディオスの巨剣。
決して曲がらず、折れず、欠けない。そして外界からの干渉を寄せ付けぬ神殺しの剣。
その剣が持つ特質とアルディオスの技量によって、破滅の極光を切り破るという奇跡が実現する。
「わ、ぁ」
紅い瞳。歌を忘れた声。まるで年相応の少女であるかのように。
アルディオスは踏み込む。極光の守りを超えて、神威たる少女の眼前へと。
後は最速、最短でこの刃を打ち込むだけ。物質として“降臨”している以上は、神であっても物理的に死ぬ。
迷う必要などありはしない。地に降りた神は、殺さなければならない。
「おおおおぉぉぉぉぉぉぉッ!」
吼える。己を鼓舞するように、過去という傷の痛みを押し殺すように。
アルディオスは叫び、剣を振り下ろす。少女は、少女にしか見えない神は、それを見ていた。
見上げて、抵抗する素振りすら見せずに。
「す、ごい」
幼子のように、そんな言葉を口にしたのだ。
「ッ…………!」
その言葉に、呼び起こされる過去の痛みに、アルディオスの心は貫かれた。
忘れようとして、忘れることなどできない後悔の爪痕。
善悪などという物差しとは無関係な、ただ無垢な光を宿した瞳。
それをアルディオスは知っていた。あの時、あの夜、手にした刃が月の神を切り裂いた瞬間。
彼は見たのだ。無貌であったはずの神の素顔を。狂気を司るが故に、人の目には見えなかったその表情を。
枯れることのない涙を流し続ける、銀色の女神。その断末魔の微笑み。
泣きながら、笑いながら、“望み”が叶った事への歓喜に打ち震えて、あの神はアルディオスに微笑んだのだ。
『 』
そして告げられた、あの言葉。二度と忘れられない最後の声。
それが英雄の魂を引き裂き、解けることのない呪いとなって縛り上げた。
誰もがそれを名誉だと讃えた。誰もがそれを伝説だと歌った。それを成し遂げた者以外は、例外なく。
アルディオスは何も言えなかった。何も言えずに、その声から背を向けた。
そうして全ての犠牲と後悔を胸に隠し、神の死により呪われた身体を隠すように、一人この《廃棄都市》に残った。
名も無き犠牲者――街の住人や、共に戦った仲間。そしてあの月の神を弔いながら。
自分は正しい事をしたのだと、そう信じられる日が来ることを祈りながら。
そして今、己の過去を突きつけられるように、少女の姿に月の面影が重なっていた。
「っ……あ、あぁぁああああっ!」
叫ぶ。訳も分からず、ただ獣のように慟哭する。あの夜のように。
剣は、振り下ろせなかった。同じ後悔を胸に刻むことなど、彼には耐えられなかった。
アルディオスは動けない。少女もまた動かない。
ただ不思議そうに、剣を中途半端に構えたままの男を見上げている。
「…………」
「…………」
無言。極光はいつも間にか消えていた。アルディオスを追い回していた白い腕も。
少女はそっと手を伸ばす。触れたものを塵に変える手ではなく、自身の細い指でアルディオスの鎧に触れる。
ぺたり。ぺたり。遠慮はないが、少し躊躇いがちに。
「ど……して?」
「…………?」
まだ言葉を話すことに慣れていない幼子のように、少女の声は聞き取りづらい。
何を伝えようとしているのか。視線を向けるアルディオスに、少女は自らの言葉を重ねた。
「ど、して……こわれ、ないの?」
「…………」
壊れる。壊す。恐らくはそれが、彼女が有する権能。
破壊神。すべてを塵に変える手も、すべてを灰に帰す極光も、どちらも万物を破壊するための権能。
アルディオスは理解した。少女が何故、そんな言葉を口にしたのか。
「………不思議か?」
「?」
「俺が、壊れないことが」
「! う、ん」
壊せない。壊れない。彼女はただ、“降臨”した神として自身の権能を振り回していただけ。
破壊の神であるのなら、ただ破壊することだけが役割。そこに善も悪もない。
少女はただ自身の本分を果たそうとし――そこに、彼女でも“壊せない”ものが現れた。
何故、壊せないのか。何故、壊れないのか。少女は純粋な好奇心を込めて、アルディオスを見上げている。
「こわせ、ない。どうして?」
「…………」
神の疑問に、果たして人間はどう答えることが正しいのか。
アルディオスには分からない。元より、言葉で何かを伝えるのはあまり得意ではない。
「………さて、な」
だから一先ず、それは置いておいた。
曖昧な言葉を返しながら、剣から離した手をそっと少女の方へと向けてみる。
向けられた手を、少女は見つめる。そうしてから、大きな手のひらの上に小さな手を重ねた。
触れ合う感触。血の通う肉を持つのなら、人と神にどれほどの違いがあるだろう。
少なくとも今、アルディオスは剣ではなく己の手で、神であるはずの少女と確かに触れ合っている。
少女はアルディオスの手に触れながら、不思議そうに見ていた。
アルディオスは少女の体温を感じながら、胸の奥の痛みが少しだけ和らいだような気がした。
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