●灼のうんちく
今回は以仁王の首についてお話ししたいと思います。
『平家物語巻四・宮御最期』によると、
宇治の平等院にて仲綱・兼綱、八条院蔵人仲家が次々を討死していきます。源頼政は
埋もれ木の花咲くことも無かりしにみのなる果てぞ悲しかりける
という歌を残して郎党の渡辺長七唱に介錯させて果てます。
以仁王は平等院を抜け、興福寺を目指しますが光明山寺(こうみょうせんじ)の鳥居の前で平家方に追いつかれ、首を取られます。
これがお二人の最期なのですが。。。。やはり『物語』と『史実』は若干異なるようです。
『玉葉・五月二十六日条:……<平等院>殿内廊内、自殺之者三人相残、其中具有無首之者一人、疑者宮歟云々、王化猶不堕地……』
『山槐記・五月二十六日条:……平等院廊自害者有三人、其人一人着|浄衣(じょうえ)無|頸(くび)、有疑、頼政男伊豆守仲綱死生不詳……』
どうやら頼政軍が崩壊した後、平家の軍勢が平等院に押し寄せた時は既に三人の遺体があり、うち一つ首無し遺体が以仁王ではないかという疑惑があったことが分かる記述です。ちなみに仲綱も行方不明です。
さらに『玉葉・五月二十七日条』によると、
高倉院御所にて、戦後処理と今後について、九条兼実と藤原隆季が謀反を起こした園城寺・興福寺に対する措置を議論していた最中に、正式に以仁王斬首の報告が入ります。
また『山槐記』には詳細な記述があり、議論中に藤原行隆が奏聞した内容が、
……以仁王を加幡河原にて討ち取りました。藍摺の水干に小袴姿で変装しておりましたが、<以仁王が>元服の折、見知った人がいたので判明したのです……
元服の折、と言う事は二代の后・多子の大宮御所を出入りしていた人なのでしょうか。。。小侍従が絡んでいるのか。。。。この記述はとても怖いです。。。。
『愚管抄』によると、
『……ヤガテ仲綱ハ平等院ノ殿上ノ廊ニ入テ自害シテケリ。……追ツキテ宮ヲバ打トリマイラセテケリ。頼政モウタレヌ。宮ノ御事ハタシカナラズトテ御頸ヲ萬ノ人ニ見セケル。御学問ノ御師ニテ宗業アリケレバ。召テ見セラレナンドシテ一定ナリケレバ。』
宇治の平等院で自害した三人のうち、一人が仲綱ということになるわ。でも仲綱を見知った人は沢山いると思うから、首のない一人が仲綱で以仁王の身代わりになった可能性があるわね。
以仁王は仮にも皇族なので、ご尊顔を拝する人はそんなにいないはずです。首は『萬ノ人』である高倉院が見て、学問の師匠だった宗業が確認したと言うけれど。。。。現在でも未だに闇の中なのです。。。。