●山科会長のうんちく
皆様、お久しぶりです。
お元気でお過ごしでしょうか。
今回は義朝の姫たちについて語りたいと思います。
平治元年<1159>平治の乱を起こした源義朝の敗北が決定的になった時、姫たちの多くが侍女たちと胸を差し合い、あるいは川に飛び込んだりして命を絶っています。年齢は11歳から14歳ぐらいで、捕縛された後の不幸を儚(はかな)んでのことだと思います。
『平治物語』には何人か姫について記述されてますが、鎌田次郎に預けてた姫についての記述を紹介します。
『……義朝落ちのび給ひしかば、鎌田を召して「汝に預けし姫はいかに」との給へば、
「私の女に申し置きまいらせて候」と申せば、「戦に負て落つると聞き、いかばかりの事か思らん。なかなか殺して帰れ」との給へば……<中略>……持仏堂の中に人音しければ、行きて見るに姫君仏前に経うち読みておはしけるが、
「さては我らも只今敵にさがし出され、是(これ)こそ義朝の娘よなど沙汰せられ、恥を見んこそ心憂けれ。あはれ、高きも卑しきも、女の身ほどかなしかりける事はなし。
兵衛佐殿は十三になれども、男なれば戦に出て、御供申給ふぞかし。わらは十四になれども、女の身とて残し置かれ、我身の恥を見るのみならず、父の骸を汚さん事こそかなしけれ。
兵衛、先ず我を殺して頭殿の見参にいれよ」と、くどき給へば「頭殿も此仰(そのおおせ)にて候」と申せば「さてはうれしき事かな」とて、御経を巻き収め、仏に向かひ手をあはせ、念仏申させ給へば、政家つと参り殺し奉(たてまつ)らんとすれども、御産屋のうちよりいだきとり奉りし養君にて、今まで生(お)ふし立て参らせたれば、いかでか哀になかるべき。
涙にくれて刀の立所(たちどころ)も覚えずして、泣きゐたりければ姫君、「敵や近づくらん、急(と)く」と進め給へば、力なく三刀刺して御首を取り、御死骸(むくろ)をば深く納めて馳(は)かへり……』
とにかく戦国を生きる女子にとって、家の盛衰と運命共同体だったのだわ。
その中で、頼朝の近習である後藤実基(ごとうさねもと)に預けられた、頼朝の同母妹『坊門姫』は、都で密かに匿(かくま)われてます。後に徳大寺公能の娘を母に持つ一条能保の妻となります。
平家政権下、京都では戒厳令が敷かれ、源氏一門はもちろん縁がある者がどんどん捕縛されてる状況で見事に匿い、さらに摂関家にまで所縁(ゆかり)を付けることが出来るのは、そうとうに身分が高い存在、そして密かに平家と敵対してる勢力となります。
これ以降、この一条家から摂関家の九条兼実、道家と繋がり、鎌倉幕府を開く礎となるのです。